薄幸幼女と街のヒーロー
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祖父はお仕事、祖母はご用事。いつきはその日、当たり前のように留守番をするつもりでいた。母と暮らしていた頃には、よくあることだったし、パディントンもいるから1人じゃない。そう思って。
「おはよう、いつき! 迎えに来たぞー!」
でもその日の朝、梅宮が太陽を背負って現れた。いつものように高い高いをして、くるりと回ってから下ろしてくれる。
「おはよー、はじめおにいちゃん」
「おはよう、梅くん。ありがたいけど、本当にお願いしていいの?」
「もちろん! いつきの面倒はしっかり見るからな!」
申し訳なさそうに、頬に手を当てる祖母。それに対して梅宮は、ドンと拳で胸を叩いた。2人を交互に見ながら、いつきはこてんと首をかしげる。
「いつき。今日はおばあちゃん、用事があるから、梅くんと一緒に過ごしてね。いい子にしてるのよ」
「うん。いつき、できる」
「お弁当とお茶はリュックに入れたから、お昼になったらちゃんと食べるのよ」
祖母が小さなリュックを渡してくれる。それを受け取って大事に抱えながら、いつきはふと思う。
――おかあさん、こんなふうにしてくれなかったな。
夜になっても帰ってこない日があった。お腹が空いたら冷蔵庫や戸棚を覗いて、食パン等すぐに食べられそうなものをかじっていた。ぎゅうっと大切に、落とさないように、リュックを抱きしめる。
「おばあちゃん、くらくなったらかえってくる?」
「時計の長い針が、4のところに来たら帰るわ。大丈夫よ」
そっと頭を撫でられる。温かくて優しい手つきに、いつきはふにゃりと頬を緩めた。祖母がちゃんと帰ってくるなら。梅宮が一緒にいてくれるなら。何だか今日は平気な気がした。
「いってきます、おばあちゃん!」
「行ってらっしゃい、いつき。梅くん、よろしくね」
「任せろ! 行ってきます!」
リュックにお絵かきセットと絵本も入れて、いつきは梅宮と手を繋いだ。片方の手にはパディントンをしっかり抱いている。爽やかな朝日の中で、商店街は開店の準備を始めていた。
「おはよう、梅! りんご持っていかないかい?」
「おはよう。焼きたてのパンあるぜ! 梅の好きな、あんぱんも!」
八百屋さん、パン屋さん、精肉店の人。馴染みのある人たちが梅宮に話しかけていく。いつきにも笑顔で声をかけてくれて、いつきは小さな手を振った。
「はじめおにいちゃん、どこいくの?」
「オレが通ってる学校だ!」
「がっこう?」
「勉強したり皆と交流したりするところだな。オレたちボウフウリンの本拠地だ。今日は特別だぞ」
「ヒーローの、ほんきょち……!」
何だかかっこいい響きだ。目を輝かせると、梅宮は太陽のような笑顔を返してくれる。話しながら歩いていると、やがてたくさんの絵が描かれた門が見えてきた。大きな建物の壁にも絵がいっぱいで、緑色の旗が揺れている。カラスの鳴き声がして、いつきは少し梅宮にくっついた。
「おえかき、いっぱい」
「なかなかカッコイイだろ」
梅宮が上着を脱いで、いつきに被せる。長い裾が地面につかないように、抱き上げてから、梅宮は門を通り抜けた。制服ですっぽりくるまれながら、いつきはきょろきょろと辺りを見回す。
梅宮の鼓動が微かに聞こえる。温かくてしっかりした腕に抱かれると、何だか安心した。力を抜いて体を預けながら、ドキドキする胸を押さえる。何度も階段を登って、梅宮がドアを開けた。
「わぁ……!」
涼しい風が顔を撫でる。そこは屋上で、広々とした景色が見渡せた。緑がいっぱいで、パラソルやビーチベッド、遠くに卓球台もある。大きな木が根を張っていて、さわさわと枝葉を揺らしていた。
「ここ、ゆめのくに……!?」
「そこまで気に入ってくれたか! 嬉しいなあ」
地面に下ろしてもらい、平らなコンクリートに足をつける。梅宮が案内してくれたのは、緑がいっぱいの場所だった。レンガで区分けされた所に、色んな植物が規則正しく並んでいる。
「はたけ?」
「正解! オレが育ててるんだ」
食卓やお店じゃない所で、野菜――それも育つ前のもの――を見るのは、ほぼ初めてだ。祖父母の家にも家庭菜園や花壇はあるけど、ここまで広くはなかったと思う。梅宮はしゃがみ込んで、1つ1つ指さして教えてくれた。
「こっちがピーマン、こっちはナス。これがキュウリで、隣がオクラだ。いつきは、好きな野菜あるか?」
「とまと!」
「トマトならこっちだな! みんな個性があってかわいいだろ」
いつきはこくこくと頷く。同じように見えるけど、よく見たら、色も形も少しずつ違う。
「そういや、知ってるか? 苺とかスイカは、野菜に分類されるんだぞ」
「いちごが、やさい……!?」
「いい反応するなあ」
目をまん丸に見開き、口をぽかんと開けたいつきを、梅宮は楽しげに眺める。あんなに甘酸っぱいのに野菜だなんて、驚くだろう。本で読んだ知識を、梅宮はすらすらと教えてくれた。
「木じゃなくて草の植物だからな。"果実的野菜"って扱いになってるんだ」
「かじつてきやさい。はじめおにいちゃん、ものしり」
初めて覚えた言葉を、口の中で転がす。リュックを東屋に置いて、いつきは梅宮について歩く。じょうろで水をやったり、生えてきた雑草を抜いたりと、彼は楽しそうに仕事をしていた。
「これぜんぶ、はじめおにいちゃんがたべるの?」
「オレだけじゃなくて、みんなで食べるんだ。ことはの店にも届けてるんだぞ」
「ことはおねえちゃんのとこにも?」
「そうだ。毎日少しずつ大きくなってくのを見るのは楽しいし、美味い実がいっぱいついたら嬉しい。それをみんなが、喜んで食べてくれたら、もっと嬉しくなるんだ」
そう語る梅宮の顔は、キラキラと輝いて見えた。目は優しく細められて、野菜たちに向けられている。
食べるものを育てる。水をあげて、草むしりをして、毎日成長を眺める。そうして出来上がったものを、独り占めするんじゃなくて、皆で分け合う。それは何だか、素敵なことだと感じた。
「すてき」
「だろ?」
軍手を外した大きな手が、いつきの頭をわしゃわしゃと撫でる。見守るような温もりにあふれた目が、いつきを真っ直ぐに見つめてくれた。
「いつきも、いっぱい食って大きくなれよ」
「はじめおにいちゃんくらいおおきくなる!」
「いいぞ、その意気だ!」
作業を終えて立ち上がった彼は、ビニールを被せた場所へ手招きした。そこには緑の苗や、黒いポットがいくつか並んでいる。小さな袋を差し出して、梅宮はかがみ込んだ。
「いつきも種まきしてみるか?」
「いいの?」
「おう。ちなみにこれはトウモロコシだけど、他の野菜がいいとかあるか?」
「とうもろこしにする」
梅宮が教えてくれる通りに、ポットに土を入れる。指を差し込んで1センチくらいの穴を開けて、そこに種を3粒置いた。土を被せて平らにすれば、完成だ。
「ねんねしてるみたい」
「これから種は、起きる準備をするんだぞ」
不思議で、待ち遠しい。指先でつまめる小さな種が、あの黄色いトウモロコシになる。そう考えるとそわそわして、うきうきしてくる。
「あとちょっとしたら、めがでる?」
「まだ早いなあ。上手く育ったら、一番にいつきに届けるからな」
「ほんと? やくそくだよ!」
「おう、指切りげんまんだ」
小指を絡めて2人で歌う。舌足らずなあどけない声と、朗らかな青年の声が響いた。指が離れてくすくす笑い合って、2人は立ち上がる。
並べられるポットを見て思い出したのは、祖母と見たアニメ映画。農村へ引っ越してきた姉妹が、大中小の不思議な生き物と出会う物語。確かその中に、植物の芽を生やすシーンがあったはず。
「んしょ、んしょ」
「どうした? いつき」
「めがでるおまじない」
「トトロみたいだな。オレもやるか!」
両手を合わせてしゃがんで、伸びをするように立ち上がる。何度も、何度も。土の中から、緑の若葉がぽんっと伸びてくるように。元気な芽が、無事に出てくるように。
「……お前ら、何で畑の前でスクワットしてんだ?」
「おお柊! お前もやるか?」
「やらねえよ」
「とうまおにいちゃん!」
いつきがとことこ駆け寄ると、呆れたような柊の顔が和らぐ。目線を合わせるようにしゃがんでくれる優しさは、梅宮たちと同じだ。
「よう、いつきちゃん。元気そうだな」
「げんき! ぱでぃんとんもいるよ」
腕に抱いたパディントンを見せると、一緒に頭を撫でられる。ぽんぽんと穏やかな手つきに、くふくふと笑みがこぼれた。
「梅宮、お前本当に連れてきたのか」
「せっかくだから食育してたんだよ。なー、いつき」
「とうもろこし、うえた!」
「だから午前中いなかったのか……。そろそろ昼飯食えよ。いつきちゃんも腹減ったろ」
「そうだな! せっかくばあちゃんが、弁当作ってくれたもんな」
水道で手を洗ってから、3人で東屋へ向かう。梅宮と柊はパン屋『さぼてん』の紙袋を、いつきはお弁当の包みを開いた。ピンクの花模様のお弁当箱には、色とりどりのおかずが見える。
黄色い玉子焼き。赤色のたこさんウィンナー。花の形に型を抜いた、オレンジ色の人参。具材を混ぜ込んだおにぎり。うさぎの形に切ったりんご。愛情が込もっていることが一目で分かる。
「美味そうだな」
「よかったな、いつき」
全員で「いただきます」と手を合わせる。うさぎ模様のフォークで人参を刺して、口に入れると、柔らかくてまろやかな甘さが広がった。バターと砂糖で煮たグラッセだ。
「おいしい!」
玉子焼きも、ウインナーも、おにぎりも、夢中になるくらい美味しかった。急いで詰め込むことはないけれど、つい頬張ってしまう。ハムスターみたいな姿を、梅宮たちには優しく笑われた。
「いつき、食後のデザートにどうだ? 冷めても美味いぞ。ここのパン」
「いいの? ありがとう、はじめおにいちゃん」
あんぱんを半分にちぎって、梅宮が差し出す。茶色の焼き色がついてて、ゴマが少し乗ってるそれは、断面のあんこが見えて美味しそうだ。いつきは受け取りながら、自分のお弁当箱を差し出す。
「うさちゃんりんご、いっこあげるね」
「いいのか? ありがとなあ」
パクッと1口かじると、ふんわりした生地と素朴な甘みのあんこが溶け合う。『さぼてん』では食パンやメロンパンをよく買ってもらっていたけど、今度あんぱんを買ってもらおうかな。そう思うくらい美味しかった。
「おいしいねえ」
「何度食っても美味いんだよな」
半分こは、嬉しくて、楽しくて、美味しい。甘酸っぱいりんごも食べ終えると、お腹がいっぱいになった。ほう、と息をついてお腹を撫でる。体がぽかぽかと温かい。食べたものがエネルギーになる感覚が、小さな体を巡っていく。
「やりたいこととか、遊びたいことはあるか?」
「おえかきしたい」
お弁当箱をリュックにしまい、いつきはお絵かき帳とクレヨンを取り出す。この素敵な場所を覚えておきたくて、緑のクレヨンを握った。
はじめおにいちゃんの畑。大きな木。とうまおにいちゃんと、はじめおにいちゃんが座ってる場所。いつきがトウモロコシの種をまいた所。真っ白な紙一面に色を乗せていると、ドアが開く音がした。
「梅くん、柊くん。ここにいたんですね」
「おう桃瀬。またスケッチか?」
「はい」
歩いてきたのは、ぶかぶかの学ランを羽織った少年だった。フードを深く被っているので、顔はよく見えない。スケッチブックを抱えた彼は、いつきに気づくと、ふわりと口角を上げた。
「こんにちは。梅くんが話してた子ですか?」
「いつき、5さい。こっちは、ぱでぃんとん」
「初めまして。桃瀬 匠です」
「たくみおにいちゃん」
どんな顔かは分からないけど、雰囲気が柔らかいから怖くない。隣に座る彼に合わせて、ぺこりとおじぎをする。少し嬉しそうな穏やかな声で、彼は話しかけてくれた。
「いつきちゃんも、絵を描くのが好きですか?」
「すき。あのね、ここがはじめおにいちゃんのはたけ」
「元気な緑ですね」
指をさして何を描いたか伝えると、ニコニコしながら話を聞いてくれる。桃瀬も自分のスケッチブックを開いて見せてくれた。本物みたいで生き生きとした絵が、いくつも並んでいる。
「たくみおにいちゃん、じょうずだねえ」
「ありがとうございます」
ぱちぱちと拍手をしながら眺める。それから並んで一緒に絵を描く様子を、梅宮と柊はしばらく和やかな気持ちで見守っていた。
「いつき! 来てる?」
「つばきおねえちゃん!」
「久しぶり〜! 今日もかわいいわね! あら、それアタシが作ったブレスレット?」
「うん。だいじだから、おでかけのとき、つけてるの。ぱでぃんとんも」
「やーん嬉しい!」
赤いマニキュアを塗った指先で、ふにふにと頬に触れられる。嬉しさとくすぐったさで笑うと、椿野もふわりと頬をとろけさせた。
「はぁ〜、癒されるわあ。スキンケアしてないのに、このもち肌。すべすべ感。羨ましいわ」
「どれどれ……。ほんとに柔らかいな。大福みたいだ!」
「ひゃあー」
反対側から梅宮も、ほっぺたをつついてくる。両側から顔を撫でられて、いつきは笑いながら首を横に振った。パディントンをかかげてガードすると、2人は手を引いてくれる。
楽しい時間はあっという間で。皆と話したり、遊んでもらったりするうちに、帰る時間が近づいていた。荷物をまとめて、名残惜しさに辺りをじっと見回す。そんないつきを、梅宮は上着でばふっと包み込んだ。
「帰りは肩車にするか?」
「かたぐるま?」
「やったことないか? ほら」
梅宮がしゃがんで、いつきを肩に座らせる。そのまま彼女を支えて立ち上がると、一気に視界が高くなった。梅宮の頭に掴まりながら、いつきは目を輝かせる。さっきまでの寂しさは、吹き飛んでしまったようだ。
「すごーい! たかい!」
「絶対落とさないから安心しろよ。梅宮号、発進!」
「おい止めろ。その状態でここ出たら悪目立ちするだろ」
後ろから見ると、梅宮の長ランから足が生えているように見える。ボタンを閉めれば二人羽織状態の、ヘンテコな格好だ。柊はしかめっ面で止めに入り、桃瀬は笑いをこらえるように肩を震わせる。椿野は微笑ましそうに、口元に手を当てていた。
「てか学ランで包んできたのかよ」
「うちの制服着てる間は、うちの生徒だろ」
「屁理屈が過ぎんだろ」
「仕方ない。肩車は学校出たら、だな」
「はーい」
結局来たときの抱っこに戻る。バイバイと手を振ると、他の3人は振り返してくれた。階段を下りて扉を抜けて、門を潜る。いつきはそっと振り返り、はためく旗と校舎を見つめた。
「はじめおにいちゃん、ありがとう」
「ん?」
「きょうね、いっぱいたのしかった」
"とくべつ"なヒーローの本拠地。多分、もうここには来られない。それなら、楽しかった今日のことを、あのキラキラした場所のことを、たくさん覚えておきたい。ぎゅっと梅宮に抱きついて、いつきは伝える。
「あのね。こんどあえたら、はたけのおはなし、いっぱいしてくれる?」
「……おう。もちろん。たくさん聞かせてやるからな」
柔らかく落ち着いた声が降り注ぐ。大きな手のひらに、宝物を触るように撫でられる。まるで木漏れ日の中にいるような心地良さに、くるまれる。
肩車をしてもらって、満足したら下ろしてもらって、自分で歩く。手を繋いで、家へと続く道を進んでいく。大きくなるまで、何回この道を歩けるかな。そんなことを思いながら。
「はじめおにいちゃん、またね」
「またな、いつき」
家の前で、祖母が手を振っている。楽しみはまた明日に残して、いつきは駆け出した。大好きな家族が待つ家に向かって。