秘密の水辺に響く歌
目玉焼きを乗せたトーストをかじりながら、ニュースを確認する。天気予報で台風の情報が流れていた。今週末には上陸するらしいから、海には行けないな。
「……ロー、大丈夫かな」
海の中に潜ればやり過ごせそう。でも、もし私が来ないと気づいて、陸に上がって探しに来たら。あの重さで風に飛ばされることはないだろうけど、飛ばされた枝や物にぶつかって怪我をする可能性はある。心配だ。
大家さんから台車を借りて、海までの道を歩く。ちょうどよく小雨が降っていたので、レインコートを着て行った。砂にタイヤを取られそうになりながら、灰色の波間にローの姿を探す。
「ロー」
ようやく入り江に到着。誰もいないことを確認してから、彼の名前を呼んでみる。バシャ、バシャと水をかく音がして、藍色の尾ひれが見えた。濡れた前髪を軽くかき上げて、ローが顔を出す。私を見つけると、どこか嬉しそうな表情に変わった。
「ロー。もうすぐ台風が来るから、私、しばらくここに来られないんだ」
直接言葉は交わせないけど、ローは私の言うことを理解できるらしい。残念そうな、不服そうな目つきになる彼と、目線を合わせるようにしゃがみ込む。
「海も荒れて危ないだろうから……。よかったら、私の家に避難する? 狭いかもしれないけど」
「!」
いいのか? と聞くように、ローが首を傾げる。提案した側がだめなんて言わないよ。「もちろん」と頷いてみせると、ローはずりずりと砂の上を這い始めた。
「大丈夫。これに乗って」
押してきた台車に乗ってもらい、カバンに入れてきたパーカーを羽織ってもらう。フードを被せて耳のヒレを隠し、これまた持ってきたバスタオルで尾ひれを覆った。これなら多少見られても、人魚と即バレしにくいはずだ。
「よし、行こう!」
小雨がローの体をしっとり濡らしてくれる間に、アパートに戻る。その決意を胸に、私は台車を押した。強い抵抗が腕に伝わる。スニーカーの底が砂で滑りそうになる。
「んぎぎぎぎ……!」
「ギッ、ギィ、ギィ」
「ん〜〜〜〜っ」
ローの重みが加わったせいか、柔らかい砂にタイヤが埋まった。唸りながら繰り返し押す。最初はびくともしなかったけど、そのうちコツを掴んだのか、少しずつ前に進むようになった。気遣うようなローの声が聞こえる。こんな体たらくでごめん。
時間をかけながら、何とか砂浜を乗り越える。舗装されたアスファルトの上だと、押すのがけっこう楽になった。額に浮かんだ汗を拭って、ガラガラとタイヤの音を響かせながら歩く。犬をしまえ。猫もしまえ。人魚もしまえ。
「ついた〜〜……!」
防犯面は気になるけど、1階の部屋でよかったと改めて思う。荷物が多い時や、重いものを運ぶときは助かるから。鍵とドアを開けて、後ろからローに抱きつくように、前屈搬送の要領で運ぶ。濡れた床は後で拭こう。
「ギィッ、ギィッ!」
「わぁ〜、今までにないくらい興奮してるなぁ」
左右にビッタンビッタンと、揺れる尾ひれが、床や壁を叩く。人間の家が珍しいのかな。喜んでくれてるような姿が、何だか微笑ましい。尻尾をぶんぶん振ってるわんこみたいだ。
お風呂場にローを移して、バスタブに水を入れる。ここ――コーポ
「意外と入ったね……。窮屈じゃない?」
「ギィッ」
「平気そうだ」
はみ出た尾ひれの先が、ゆらんと揺れる。彼の定位置は決まったから、あとはご飯かな。レインコートを干して、パーカーとバスタオルを洗ってから、私は冷蔵庫を開けた。
食パンをちぎって与えてみる。すごく嫌そうな顔でそっぽを向かれた。
焼いたお肉と野菜は普通に食べる。食いつきがいいのは、焼き魚とおにぎり。梅干しは、パンと同様、顔を背けられた。絶対に食べないという意思を感じる。
とりあえず、お昼と夕飯で分かったのは、それくらい。後で読み返せるように、ノートにメモをしておいた。
***
「ごめんねロー。ちょっと別の部屋に行っててね」
「ギィィ、ギィッ、ギッ」
「お風呂入らせてよ。すぐ済ませるから」
後片付けを終えた後、ローを一旦バスタブから出そうと試みる。種族が違うとしても、さすがに男の人の前で裸を晒すのは抵抗があった。銭湯に行くのもいいけど、お風呂上がりに小雨に降られるのは悲しい。
説得と攻防を繰り返した結果。ようやくローはバスタブから這い出てくれた。渋々といった様子の彼に、私はボディミルクを渡す。
「乾燥が気になったら、これ使っていいよ」
「ギィ……?」
「肌に塗るの。無香料だから、使いやすいと思う」
教えた通りに、ローが中の液体を塗り出すのを確認してから、タオルを持って浴室に入る。髪と体を洗うついでに、バスタブも洗っておいた。新しい水を張り直し、パジャマに着替えてからドアを開ける。
「ロー、戻って大丈夫だよ」
「ギィ」
ずりずりと浴室に入ったローは、リラックスしたように体を沈めた。初めての場所なのに、馴染むのが早いな。
***
1日3回のご飯の時間。いろいろ試したおかげで、彼の好みが分かってきた。お刺身は平気そうなこと。甘いものはそんなに多く食べないこと。パンはことごとく――クロワッサンもベーグルもデニッシュもエピパンも――だめなこと。焼き魚とおにぎりだと、よく食べること。
「今日は塩おにぎりと、ツナマヨと、クリームチーズおかかにしてみたよ」
今日は台風到来なので、どこにも出かけられない。ばらばらと強い雨や、風の音が微かに聞こえる。安全な家の中だと、どんなに荒れた天気でも安心だ。
せっかくなので、ローと一緒にお昼を食べる。人魚がいるお風呂場で、食事をするなんて、非日常の詰め合わせみたいだ。ローは珍しそうな反応を見せながら、3種類とも食べていく。
特にクリームチーズおかかは、私の最近のお気に入りだ。おかかだけで良いと思ってたけど、クリームチーズが合わさったときの相乗効果は半端じゃない。もったりとコクのあるクリームチーズが、濃いめの味のおかかできゅっと締められ、おかかのしょっぱさはクリームチーズによってまろやかになる。
「美味しい?」
「ギィッ」
「ふふっ、よかったぁ」
台風が通り過ぎれば、この不思議な共同生活も終わりを迎える。いろいろと濃い3日間だったな。ローを無事に帰せる安心と、ほんのりとした寂しさ。2つの気持ちを抱えながら、おにぎりをこくんと飲み込む。
そう思っていたんだけど。
「ロ〜〜、台風も行っちゃったし地面も乾いたし、そろそろ帰ろうよ」
「ギィッ」
「満足そうだけど、バスタブだと狭いでしょうに。また広い海でのびのび泳ぎたいでしょ? 台車に乗せて連れてくから。今回は砂の上でも大丈夫なように、ソリも借りてきたし……」
「ギィッ! ギィッ!」
「何で抵抗するの!?」
縁にしがみつかれてしまった。やめて爪立てないで。バスタブに傷がついたら、私が修理費払わないといけなくなっちゃう。
「ロー」
あえて普段通りの声で名前を呼ぶ。両腕を開くと、ローは訝しげにしながら、つられたように同じポーズをとった。その隙に彼の胴体に抱きつき、足に力を込める。
「よいしょおっ!」
ザバッと音を立てて、ローをバスタブから引っ張り出す。固まっていたローが、慌てたように尾ひれを振った。ビタビタと跳ねる動きに、バランスが取れなくなる。
「わっ、ちょっ、ロー! 暴れな、いでっ!?」
たたらを踏んでも踏ん張りきれず、ガクンと体勢が崩れた。まずい。そう思ったとき、お尻と太ももに打ち付けるような痛みが走る。
「〜〜〜ッ」
うめいていると、冷たい手に頬を撫でられた。涙で滲んだ視界に、心配そうなローの顔が映る。倒れ込んだ私に覆い被さるように、ローが片手をついていた。
「ギィ、ギィ……?」
「だ、大丈夫だよ」
顔を覗き込まれ、お互いの距離が更に縮まる。近い。ローの綺麗な顔が近い。頬が熱い。両手でローの肩を押しながら、目を逸らす。
「……そんなに、うちにいたいの?」
家族とか仲間はいないのだろうか。心配になって聞いてみるけど、ローの真剣な眼差しは揺るがなかった。ひんやりした両腕が、私を抱きしめる。ローの肌を伝う水滴が、私の服に染みていく。
「……もう、仕方ないなあ」
「?」
「ローが帰りたくなるまで、うちにいていいよ」
根負けしてしまった。ぎゅっと強めに抱きしめてくるローの、背中を撫でる。彼の心臓の音が、体を通して伝わってくる。生きてるんだなと改めて感じながら、私は彼を支えてゆっくり立ち上がった。
***
それ以来、我が家の浴室には人魚が暮らしている。
「♪〜」
「今日もご機嫌だね」
ローはよく歌を歌う。歌詞は全然聞き取れないけど、何となくバラード系のメロディだ。綺麗で心地いい。目を閉じると、銀色の月と紺青のさざ波が、見える気がする。
最初は水が気持ちいいのかと思った。でも話しかけてみたら、何だかがっかりされたような、微妙そうな顔をされてしまった。違ったらしい。意思疎通はまだ難しいな。
今歌っているローの表情は、どこか切なげで、祈るようで、神聖なものに見えた。
何を考えているんだろう。それとも、誰かのことを、思い浮かべているんだろうか。優しく響く歌に包まれながら、私はローの隣で、彼の声に聞き惚れていた。
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