秘密の水辺に響く歌
それから私は、日課の散歩のときに、入り江を訪れるようになった。最近暑くなってきたから、パーカーとサンダルを脱いで砂浜に置く。さらさらした砂に素足をくすぐられながら、波打ち際に立つと、ひんやりした海水が足を濡らした。
「ふふ、冷たい」
ぱしゃ、ぱしゃ、と音を立てて、寄せては返す波に足を入れる。子どもの頃に川遊びをした時のような、無邪気な気持ちが蘇る。
「ギィ、ギィッ」
人魚の彼も何だかご機嫌で、浅瀬で尾ひれを揺らしていた。ヒレが水面を叩く度に、バシャバシャと軽い飛沫が上がる。
「そういえば、君って名前はあるの?」
「ギィ」
呼ばなくても近くにいたからか、すっかり聞くのを忘れていた。ふと尋ねると、彼は一声鳴いて頷く。それから腕を伸ばして、鋭い爪としなやかな指先で、砂の上に文字を書いた。
「L、A、W……。"ロー"?」
「ギィ」
「そっか、ローか。改めてよろしくね。ロー」
「ギィッ」
"人魚の彼"から"ロー"へ。非日常から日常へ。彼と時間を過ごす度に、彼のことを知っていく。一つ一つ、綺麗なシーグラスや貝殻を拾い集めていくのに、似ている楽しさ。
「人魚って、いろんな種類があるんだね」
「ギィ?」
「私、人魚は綺麗な声で話すと思ってたんだ。絵本で見た人魚が、そんな感じだったから。話せる人魚も、どこかにいるのかな」
本で読むだけじゃなくて、実際にふれてみないと分からないものは多い。ローの使う音は人魚特有の言語なのか、私には意味を聞き取ることが出来なかった。ローと話せたら、どんな感じなんだろう。水に足首まで浸しながら、ぼーっと考えていたとき、勢いよく手を引かれた。
「わぶっ!?」
ムッとしたような顔のローが、一瞬見えて。視界が白いあぶくと透明な青に包まれる。ひんやりした水の中で、髪がゆらゆらと揺れた。ローに手首を掴まれていて、引きずり込まれたことに気づく。突然の事で息ができない。苦しい。
『汚い声で悪かったな』
水面に上がろうと手足をばたつかせる。そのとき、低くて凛とした声がした。クールでどこか艶のある声。驚きながらも何とか水を蹴り、水面に顔を出す。酸素を取り込んでいると、ローが得意そうに顔を出した。
「……い、今の、ロー……?」
「ギィッ」
砂浜に上がりながら問いかけると、返事が来る。何かすごいイケボが聞こえた気がする。濁ったような音じゃなくて。
ずぶ濡れになった髪や、肌に張り付くTシャツの裾を絞ると、海水でべたつく感触がした。パーカーを上まで閉めれば誤魔化せるかな。