秘密の水辺に響く歌
人魚と聞いた時、人は何を思い浮かべるだろう。
海の泡になってしまう儚い存在? 美しい歌声で船乗りを難破させる怪物? 不老長寿の薬? それともジュゴンやマナティー?
私が出会った人魚は、そのどれとも違う存在だった。
海がある街に移り住んでから1週間。アパート近くの浜辺を散歩するのが、日課になっていたある日のこと。人の気配が無い入り江で、何かが動くのを見つけた。
漂着物か、座礁した生き物かな。動物だったら、警察とかの判断が必要だから、触っちゃいけないはず。足音を忍ばせて、そろそろと近づいていく。岩陰からそっと覗き込むと、大きな尾ひれが見えた。
魚にしては大き過ぎて、イルカとかの海洋哺乳類にしては鱗がある。夜空みたいな深い藍色の鱗が、つやつやときらめいていた。視線を動かしていくと、青白い肌と引き締まった体が映る。顔と体は人間みたいだけど、耳の部分には胸ビレのようなものがついていた。
「……に、んぎょ……?」
上半身は人間、下半身は魚。そんな存在、物語の中でしか見たことがない。私の呟きに気づいたのか、金色の目がギロリと私を睨む。唸りながらもがく彼には、漁網が絡みついていた。
「ギィ……ッ!」
砂を踏みしめながら、刺激しないようにゆっくり歩み寄る。鋭い牙や爪で威嚇してくる姿に、怯みそうになる。でも放っておけなかった。恐る恐る手を伸ばし、漁網を解こうと試みる。
「……だ、大丈夫。怖がらないで。これを取るだけだから。何もしないよ。ね?」
ちぎれて張り付いていた網の一部を取る。腕や尾ひれに絡まっていた網を、持ち上げて緩める。落ち着かせるようにささやきながら、根気強く作業を続けた。ハサミやナイフがあれば、もっと楽に取れただろうけど、普段持ち歩かないものだ。仕方ない。
「痛くない……?」
声がけと慎重な動きが良かったのか。彼はやがて警戒を解いたように、大人しくなってくれた。おかげで解き終わった網を抱え、離れた場所へ放る。
「もう大丈夫だよ。海へお帰り。ここにいたら、危ないよ」
他の人に見つかる前で良かった。人魚が実在するなんて分かったら、大変なことになる。SNSで拡散されたり、研究者たちに解剖されたり、捕まえられて売り飛ばされたりするかもしれない。流石にそれは可哀想だ。
ふう、と息をついて歩き出す。そのとき、ずり……ずり……と音が聞こえた。砂の上を何かが這いずるような。振り返ると、ほふく前進みたいな体勢で、人魚が私を追いかけていた。
「え、え……!? だめだよついてきたら! こっち陸だよ。海はあっち!」
「ギィ」
「だめだってば。戻らないと危ないって。人に見つかったらどうするの……!」
走って逃げようかと思ったけど、すぐにその考えを打ち消す。もし、私を見失った彼が道路に出てきたら。車に跳ねられたら。人間に囲まれて、捕まえられたら。
私は歩調を緩め、方向を変えて後ろ向きに歩き出す。彼はちゃんとついてきてくれた。スニーカーと靴下を脱いで、1つずつ持つ。まだ冷たい波が足を濡らし、軽く飛び跳ねた。彼の体が浅瀬に浸かる。
「君の帰る場所は、ここから先だよ。陸は危ないから、もう来たらだめ。分かった?」
水平線を指さして言う。オレンジ色の夕日が、ちょうど沈んでいくところだった。切れ長の金色の目が、黄昏時の中で妖しく光る。彼は目を伏せて、波の中に身を沈めた。藍色の尾ひれがゆらりと揺れ、水の中に消えていく。
それを見送って、もう一度ため息をついた。よかった。ちゃんと帰ってくれた。でも何で、私のことを追いかけてきたんだろう。もしかして、お礼を言おうとしてたのかな。そんなわけないかな。
夕飯を作るために、アパートへと帰る。不思議な出会いは一度きりと、相場は決まっているけれど。何故か人魚の彼との出会いは、この日だけで終わらなかった。
***
「ギィッ、ギィッ!」
「また来ちゃったの。危ないよ」
「ギィ、ギィ」
「人に見つかったら騒ぎになっちゃうよ」
「ギィ、ギッ、ギィッ!」
「君は海で、私は陸で暮らそう。共に生きよう。別の場所で」
毎日浜辺を散歩する度に、人魚の彼は海から出てくるようになった。散歩コース変えた方がいいのかな。でも海を眺められるこの道が、一番好きなんだよな。悩みながら、砂浜の上を這いずってくる彼をころころ転がして、海へと帰す。辺りを確認するのも忘れずに。
「……」
誠に遺憾、みたいな顔をする彼を、改めて眺める。不思議な紋様が描かれた体には、しっかり筋肉がついている。たくましくて、すらっとした腕。冷たくてしっとりした肌。藍色の短い髪と、整えられた顎髭。少しクマのある鋭い目。そして、端正な顔立ち。人魚って、女性だけじゃなく男性も綺麗なんだなぁ。
思わず見とれてしまった。そのときだった。離れた場所から、複数の人が歩いてくる。
「!」
向こうは話すのに夢中らしく、まだこっちには気づいていない。どうしよう。どこか隠れられる場所。キョロキョロと周りを見回して、ちょうど良さそうな大きさの岩を見つける。あそこまで行けたら。
急いで彼の背中と尾ひれに腕を回す。持ち上げようと踏ん張る。ほんの少ししか浮かない。無理。普通に重かった。他の人たちは、スマホらしきものを海に向けて、記念撮影をしているらしい。こうなったら最後の手段だ。
両手でがしっと尾ひれを掴む。ぬるりと滑りそうなのを何とか堪え、思い切り引きずった。さらさらした砂が引っ張るのを助けてくれる。全力で足を動かし、目当ての岩陰に滑り込んだ。そっと顔を出すと、人々は何事も無かったかのように、引き返していく。
「……よ、よかった〜〜〜……」
危なかった。緊張が切れて、全身から力が抜ける。岩にもたれて座り込むと、ぱちりと金色の目と目が合った。
「……ギィ…………」
そこには、うつ伏せのまま私を見上げる人魚の彼がいた。体もボサボサになった髪も砂だらけだ。か細く掠れた鳴き声と、物言いたげな視線が、(何でこんな酷いことをするんだ……)と訴えてくるようだ。
「……ご、ごめんね。見つかったら大変だと思って、必死で……」
「ギィ……」
「嫌がらせとかじゃないんだよ。ごめんね」
少し湿った髪に指を通して、砂粒を取り除く。体にまぶされた砂も優しく払いながら、繰り返し謝った。仕方なかったとはいえ、罪悪感が波のように押し寄せる。
そういえば。持ってきたトートバッグを探り、私は小さめのランチバッグを取り出した。海を見ながらご飯を食べるのもいいなと思って、作ってきたお弁当。おしぼりで手を拭いてから、ラップにくるんだおにぎりと、小さめのタッパーを並べる。
「お詫びと言ってはなんだけど、どれか食べてみる?」
おかずは玉子焼きとウインナー。おにぎりは、焼き鮭と梅干しと唐揚げの3種類。人魚が何を食べるかはよく知らないけど、半分人間なら、食べられるものは似てるはず。ドキドキしながら見守ると、上体を起こした彼は、物珍しそうにおにぎりを見ていた。匂いをかいで、迷わず手に取ったのは、焼き鮭入りのやつ。
「あ、ラップは取るんだよ」
そのまま、かぶりつこうとしたのを一旦止めて、透明な薄い膜を剥がす。気を取り直して1口かじった彼は、少し目を丸くした。もぐもぐと頬が動き、飲み込む。そしてまた、かじりつく。頬に少し赤みがさして、機嫌はさっきと比べて治ったみたいだった。
「美味しかった?」
「ギィ」
「そっか。よかった」
彼が頷いてくれて、嬉しさと安心が込み上げる。私もお腹が空いたので、お弁当を食べた。お腹が満たされて、片付けも終えて、改めて彼に向き直る。
「……理由は分からないけど。君は、私に会いに来てるの?」
他の人に見つかるかもしれないリスクを、ものともせずに、毎日私の前に現れる。漁網から助けただけの私に、どうしてそんな行動を取るのかは分からない。でも彼は、私の問いかけに、確かに頷いた。
「……それなら、明日からは、人の目がつかないところで会おう。初めて会った、あの入り江とかどうかな?」
あそこなら、滅多に人は来ないはずだ。本当に彼のことを思うなら、もう会わない方がいいんだと思う。それでも、砂浜で彼を見つけるのが、少し楽しみになってきている自分もいた。
「ギィッ」
人魚の彼は頷く。その表情はほのかに柔らかくて、どこか嬉しそうに見えた。