安心毛布は煙色
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
月が綺麗な夜だった。スモーカーさんに、悲しみも不安も受け止めてもらったときのような。あの夜と違うのは、ネイビーブルーの波間に、ちらちらと青白い銀河がたゆたっていること。
「スモーカーさん。あそこに行ってみたいです」
淡い白銀の光に照らされながら、神秘的な青が集まる場所を指さす。砂浜から離れていて、足が着くか分からないような場所。スモーカーさんは私を抱き上げ、低く呟いた。
「暴れんなよ」
スモーカーさんの足が煙に変わり、体がふわりと浮き上がる。波に濡れないように、少し高い位置を彼は移動していた。すごい。私たち、空を飛んでる。彼の肩に掴まりながら、どきどきする胸を押さえる。やがて目的の場所が近づき、私は目を凝らした。
青い光が渦を作り、何かの形を作り出していた。中心に映し出されていくのは、白っぽい壁の校舎。二階建てで、青い屋根の家。ちょっと古風な雰囲気の駅。夢で見たのと同じだ。懐かしい元の世界の景色が、水面に消えては現れる。
「これは……」
「私が、いた世界の景色です」
スモーカーさんが、驚いたように目を見開く。彼にも分かるように、私は指をさして答えた。
「あれは私の家。これは通ってる学校です。こっちは電車が来る駅。あれは、友達とお休みの日に行くアーケードです」
スモーカーさんに抱えられたまま、靴を脱いだ素足を伸ばし、そっと足をつけてみる。水に濡れる感覚は全然無くて、何かを通り抜けるような不思議な感覚がした。ほのかに温かい空気に、足を入れたような感じ。
「……帰れんのか」
「多分。ここに飛び込んだら、行ける気がします」
今の私が着ているのは、この世界で買った服じゃない。念のため着てきた、高校の夏服だ。砂浜には学校用のリュックも置いてある。もともと元の世界の持ち物は、全部リュックにしまってたから、今さら荷造りをする必要も無かった。強いて言うなら、小犬のぬいぐるみを入れるくらい。
一旦砂浜に戻って、リュックを手に取る。ついた砂を軽く払って背負い、スモーカーさんと向き合った。月明かりの下で、きらめく彼の白い髪が、やっぱり綺麗だった。
――これで、お別れなんだ。
どうして私がこの世界に来たのか、原因は分からないまま。びっくりしたし寂しかったし、怖いとも思った。でも何とか前向きにやってこられたのは、スモーカーさんがいてくれたからだった。
強面でぶっきらぼう。でも優しくて気遣ってくれる面もあって、ちゃんと見ててくれる人。良識を持って接してくれて、ずっと守ってくれていた人。
「さよなら」は言いたくなくて。「またいつか」と言うには、私たちの世界は果てしなく遠くて。じゃあ何を伝えようかと、考えて。
「ありがとうございました」
深く頭を下げる。心からの感謝を、改めて彼に伝えたい。あなたがいてくれたから、ここまで来られた。あの日、海で出会ったのが、あなたでよかった。私を受け止めてくれたのが、あなたでよかった。
顔を上げると、たくましい腕に抱き寄せられる。大きな背を屈めて、私の耳元でささやくように、彼は言葉をこぼした。
「……怪我には気をつけろ」
「はい」
「何があっても、もうおれァ、庇ってやれねェんだ」
「はい」
安心できる広い背中に、手を回して答える。森の中にいるような煙の香りを、鼻の奥に焼きつけるように、私はそっと息を吸い込んだ。
「スモーカーさん、煙になってくれませんか?」
「どうした」
「最後に、少しだけ。お願いします」
がっちりした男の人の体が、モクモクと白い煙に変わる。空から落っこちてきた私を、捕まえてくれた煙。悲しみを包んで吸い込んでくれた、安心毛布のような煙。
私はもそもそと潜り込み、柔らかなそれに頬を擦り寄せた。すごく落ち着く。雛鳥が、巣の底に敷き詰められた羽毛に潜り込むみたいに、リラックスした気分だ。
「……何やってんだ」
「モクモクセラピーです」
「アニマルセラピーみたいに言うんじゃねェ」
「スモーカーさんの煙に包まれると、落ち着くんです」
「……お前な。男の前で、そう易々と隙を見せるな。噛まれるぞ」
「そんな野生動物じゃないんですから。……あっ、ちょっとスモーカーさん。霧散しないでください」
煙がかき消えて、スモーカーさんに戻る。思っていたより顔が近くて、私は息を飲んだ。彼の細い目に見つめられて、頬が熱くなる。
白銀の月光の下。微かに聞こえる、心地いい波の音。どくどくと高鳴り始める心臓。目を閉じてしまった私の近くで、身じろぐような気配がして。彼の大きな手のひらが、私の頬にそっと添えられて。
ぴんっ。
「あいたっ」
おでこを弾かれるような、軽い痛みがした。両手でおでこを押さえてまぶたを開くと、目を細めたスモーカーさんがいた。いたずらを仕掛けた人みたいな、ちょっと意地悪で楽しげな笑み。彼にデコピンされたのだと、遅れて気づく。
「何期待してんだ。お嬢さん」
「えっ、いや、あの、その」
「そういうのは、大事なヤツのために取っとけよ」
無骨な手に頭を撫でられて、無意識にしてた勘違いに顔全体が熱くなった。恥ずかし過ぎる。体が汗ばむ感覚がして、おろおろと腕を動かす。スモーカーさんはフッと笑うような吐息をもらして、私の頭に顔を寄せた。
聞き逃してしまいそうな、小さなリップ音。私の頭に置いた手の甲に、彼はキスを落としたらしい。これ以上無いくらい、真っ赤になってるだろう私の顔を見て、彼はくつくつとまた笑った。
もう一度彼に抱えてもらい、青い光の中心に行く。今度はスニーカーを履いた足で、私は懐かしい景色に足を踏み入れた。見つめ合う間に、もう言葉は必要無い。どちらからともなく、そっと手を離した。
***
とんっ、と駅のホームに足がついた。目の前に広がるのは、いつもの最寄り駅。見慣れたはずの景色が、不思議と懐かしく迎えてくれているような気がした。
「……?」
私、今まで、何してたっけ? 電車に乗って帰ってきたはずなのに、その日のことが上手く思い出せない。ついさっきのことのはずなのに、長い時間が過ぎ去ったように、ぼんやりしている。
ふわりと一瞬、煙の匂いが鼻をかすめた。タバコとは少し違う、どこか落ち着くような独特の匂い。私は首を傾げてから、帰り道を歩いていった。
「ただいまー」
「おかえり。……あら?」
玄関でスニーカーを脱いで、家に入る。何だろう。いつもより、ほっと落ち着く気がする。台所にいたお母さんに声をかけると、振り返ったお母さんが訝しげな顔をした。
「どこ歩いて帰ってきたの? 何だかタバコみたいな匂いがするけど」
「え、そうかな?」
「夏休みに入ったらクリーニング出すとして。ちゃんと消臭剤かけときなさいよ」
「はーい」
お母さんに返事をして、自分の部屋に入る。制服を脱いで部屋着に着替え、ハンガーにかけた制服に鼻を近づけてみた。焦げたような、いぶしたような。木と土とスパイスを混ぜたような匂いがした。
普段の私なら顔をしかめるはずなのに、嫌じゃない。どこかで嗅いだ匂いに首を傾げながら、消臭スプレーを数回吹きかける。制服が、ほのかな緑茶の香りに変わったことを確認してから、私はリュックを開いた。
「あれ?」
明日の準備をしておこうと思ったのに、思いがけないものと目が合う。白い小犬のぬいぐるみが、ジト目で私を見つめていた。ちょっとムスッとしたような顔が可愛くて、首には緑のスカーフを巻いてる。手に取ると、ふわふわした手触りが伝わった。
「こんなぬいぐるみ、持ってたっけ?」
家には無かったはずだし、学校にぬいぐるみを持って行った記憶も無い。小犬を机の上に置いて、リュックを覗く。上にあったスケジュール帳が気になって、ぱらぱらとページをめくってみた。
カレンダーのページを過ぎ、メモのページにたどり着く。そこで私の手が止まった。使っていなかったはずのページが、びっしりと文字で埋め尽くされている。
日付とその日あったことは、日記のようだ。歯磨きセットや服、タオルやシャンプー等、買い物メモのようなものも残ってる。気づけば夢中になって、私はページをめくっていた。
「……あ……、ぁ……」
文字を追ううちに、頭の中に記憶がよみがえる。知らない世界に落ちたこと。そこで出会った人に、優しくしてもらったこと。いろんな経験をして、ようやくここに帰れたこと。
何で、なんで、忘れてたの。
ぱさりと手から、スケジュール帳が滑り落ちる。小犬のぬいぐるみを胸に抱きしめて、私はぺたんと床に座り込んだ。みるみるうちに視界がぼやけて、ぼろぼろと涙があふれ出す。
「すも、か、さ……。スモーカーさん……っ、スモーカーさん……!」
しゃくり上げながら名前を呼ぶ。忘れ去ってしまうところだった、大切な人の名前。もう二度と忘れないように、自分の中にしまい込むように、何度も呟く。
うずくまる私を抱きしめてくれる人も、止まらない涙を受け止めてくれる人も、ここにはいない。家に帰れたことが、嬉しくて安心するのに。彼にもう会えない寂しさも、同じくらいある。
涙が枯れるまで、ふわふわしたぬいぐるみの感触だけが、静かに私を慰めてくれていた。
***
不思議な体験をしてから、3年経った。
私は高校を卒業し、大学に進学。初めての一人暮らしは、心地いい自由と自立の日々。お母さんがしていた家事をなぞりながら、自分が食べたい料理に挑戦したり、週に1回掃除をしたりする。その度に、スモーカーさんと過ごした時間を、懐かしく思い出す。
スモーカーさんたちは、元気にしてるかな。
小犬のぬいぐるみを撫でたり、あの時期の日記を読み返したりしながら、そう思う。
勉強と家事をして、友達とも楽しく過ごして、充実した大学2年生になったある日。友達とショッピングモールを回っていたときに、それを見つけた。
「うわー懐かしい! これ映画やるんだ!」
ショッピングモール内に貼られていたのは、映画の広告。ここには映画館も入っているから、その宣伝なんだろう。彼女が目を輝かせて見ていたのは、アニメのポスターだった。
『時代の覇権を巡る熱狂、開幕。』
「8月公開かぁ。ねえ、一緒に見に行かない?」
「これ、どんな作品なの?」
「海賊が主人公なんだけど、冒険とバトル中心で面白いよ! 昔見てたお気に入り!」
たくさんのキャラクターが写る中で、サングラスをかけた人が目に留まる。白い髪をオールバックにした、いかつい雰囲気の男の人。額の縫い傷が、更に凄みを与えている。
隣に並ぶ友達の話を聞きながら、私は歩き出す。今はまだモラトリアムの途中だけど、いつか必ず社会に出ることになる。そのときは、しっかり自分の足で立って進んで、誰かに優しくできる大人になりたい。
遠い場所にある目標を、目指す気持ちで。心の中に残る広い背中を追うように、私は1歩踏み出した。