安心毛布は煙色
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夢を見る。目が覚める度に、頬が濡れていて、自分が涙を流していたことに気づく。
ああ、どうか。どうか。
期待させるだけなら、こんな夢を見せないで。
***
「あれ? スモーカーさん、寝不足ですか?」
「誰かさんのおかげでな……」
「へ?」
「……いや、何でもねェ」
昨夜のうちに、仕込んでいたフレンチトーストを焼いていると、スモーカーさんがダイニングテーブルについた。新聞を眺める目の下には、薄くクマができている。眉間を指先でもみながら、スモーカーさんは呟くように言った。
「コーヒー入れますか?」
「……頼む」
焼いたベーコンを脇に添えた、フレンチトースト。作り置きしていた蒸し鶏をほぐして、キャベツとあえたサラダ。昨日のポトフの残りを温めて、テーブルに並べていく。あとスモーカーさんにはコーヒーで、私には牛乳。
「……お前は」
「?」
「お前は最近、眠れてんのか?」
「え、はい。朝までぐっすり」
「夜中に、お前の部屋から家の中を、うろつき回る足音がするんだが」
「えええ!?」
「無自覚か」
「ぜ、全然覚えてないです……。寝ぼけてたのかな。……あ。でも、最近はよく夢を見ますね」
フレンチトーストにベーコンを乗せて食べながら、スモーカーさんが話しかけてくる。メープルシロップをかけたフレンチトーストを、1口サイズに切り分けながら、私は答えた。
「どんな夢だ?」
「自分の家に帰ってる夢、です」
「……そうか。正夢になりゃいいな」
「はい……」
ここに来てから2週間が経過している。ドアを開けたり、スモーカーさんの家を出たりする度に、突然元の世界に帰れるんじゃないか。そんな期待をしていたときもあった。でも、それはどうやら、間違いだったらしい。
図書館で手がかりを探しているけど、異世界に行くような文献は見つかっていない。晴れやかな朝に似合わない、どんよりした気持ちが立ち込めてくる。口にしたフレンチトーストの甘さと、プリンみたいにトロッとした表面に、少し慰められる気がした。
***
その日のお昼頃。家に置いてある電伝虫――人と通信できるカタツムリみたいな生き物――に、お水をあげていると、電話が2件かかってきた。
「はい。マナです」
「スモーカーだ。今日は遅くなるから、おれの分のメシは作らなくていい」
「分かりました。お仕事お疲れ様です」
「……あァ」
「はい、マナです」
「あっ、マナさん。こんにちは! たしぎです!」
「たしぎさん! わぁ、お久しぶりです」
「お久しぶりです。今日スモーカーさんが、本部に泊まると言っていたのですが、1人で大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ〜。もう17歳なので、お留守番はお手の物です」
「そうですか! ええと、マナさんがご迷惑でなければ、なんですけど。今日の夕方に、そちらに伺ってもいいですか?」
「大丈夫ですよ。来てくださるの、嬉しいです! あ、お夕飯、食べていきますか?」
「え、いいんですか!? あ、でも私の他にもう1人いるんですけど、大丈夫ですか?」
「はい! お待ちしてますね」
うきうきした気持ちで通話を切る。たしぎさんはよく、心配して電話をかけて来てくれるけど、お家に訪問してくれるのは今回が初めてだ。今日も図書館に行く予定だけど、帰りに買い物していこう。お客さんを招く楽しみで、心がほわほわと浮き上がるみたいだった。
***
借りてきた本を部屋に置いて、夕飯の支度をする。食卓の中央には、お花屋さんで買ったポピーを2輪、スモーカーさんお手製の花瓶にいけていた。赤とオレンジが、華やかな彩りを見せてくれる。
約束の時間にドアを叩いたのは、たしぎさんともう1人。淡いピンク色のロングヘアを、さらりとなびかせた、綺麗なお姉さんだ。背が高くてスタイルが良くて、モデルさんみたい。
「わたくしは海軍本部大佐のヒナよ。あなたが、スモーカーくんが保護しているという女の子?」
「は、はい。初めまして。マナといいます」
「驚いたわ。スモーカーくんが、あなたみたいな子の面倒を見てるなんてね。ヒナ驚嘆」
2人を中に招き入れる。今日はシーフードを使ったグラタンと、トマトのサラダにしてみた。ロールパンとコーンスープも添える。たしぎさんの目が、きらきらと輝いた。
「うわぁ……! すごく美味しそうです!」
「これ、手土産のケーキよ。食後にいただきましょ」
「ありがとうございます! 冷蔵庫に入れときますね」
グラタンに入った、ぷりぷりしたエビと貝の、コクのある甘み。ちょうどいい固さにゆでたペンネ。それを包み込む、とろりとしたホワイトソース。表面がきつね色に焦げてカリッとしたチーズが、いいアクセントになる。2人とも美味しそうに食べてくれて、安心した。
食後にコーヒーを入れて、ヒナさんが買ってきてくれたケーキをお皿に移す。それは苺やキウイ、ブドウやオレンジがたくさん乗ったタルトだった。みずみずしいフルーツが、宝石みたいにつややかだ。
「それにしても、あなた料理上手なのね。掃除も得意なようだし。家事はいつも、あなたが請け負っているの?」
「はい。お世話になってる身ですので」
「いい心がけだわ。ヒナ感心。スモーカーくんとの共同生活は、大丈夫そう? 彼、けっこう横暴なところがあるでしょう」
「お風呂上がりに、上半身はだかで過ごすのは直してほしいですけど、それ以外は問題ないですね。スモーカーさん、何だかんだ手伝ってくれたり、気遣ったりしてくれるので」
まろやかなカスタードと、爽やかで甘酸っぱいフルーツ。濃厚なのにさっぱりしたタルトが美味しくて、フォークを持つ手が止まらない。
「スモーカーくんに泣かされたら、わたくしが面倒見てもいいわよ。ヒナ歓迎」
「ありがとうございます、ヒナさん」
「私も隊舎じゃなかったらよかったんですけど……。スモーカーさんには、"お前が面倒見られる側だろ"って言われちゃいました」
「それは否定できないわね」
「そんなぁ」
美味しくて綺麗なスイーツを食べながら、女性同士で話をする。華やぐような、気持ちが弾むような感覚が懐かしい。学校の昼休みでも、友達とこんな風に、おしゃべりしながらお弁当を食べたな。
それを思い出すと、楽しいのに胸が詰まった。
ヒナさんとたしぎさんが帰るのを見送り、1人きりの家で洗い物を済ませる。お風呂に浸かり、布団に潜り込むときも、その感覚は消えない。
大丈夫。眠れば、多分治まるはず。大丈夫。スモーカーさんが帰ってくるまでには、何でもない顔で迎えられるようにしよう。そう思いながら、目を閉じた。
***
「繝槭リ、縺翫?繧医≧」
「莠育ソ偵@縺ヲ縺阪◆?」
「遘サ蜍墓蕗螳、縺?繧医?ゆク?邱偵↓陦後%縺」
見慣れているはずなのに、懐かしい教室。はためく白いカーテン。私を呼ぶ友達の声。次は移動教室だ。何の授業だったかな。
椅子から立ち上がって、廊下に出る。ぱしゃん、と水を踏むような音がした。そういえば、昨日は雨が降ってたんだっけ。
何か変だな。頭がぼんやりする。思考が白いモヤに覆われたように、ゆっくりと濁っていく。
「――マナ!」
そのとき、はっきりと、名前を呼ぶ声が聞こえた。霧が晴れたように、目の前がハッとクリアになる。さっきまでいたはずの、学校の風景はかき消えて。代わりに広がっているのは、青黒い海だった。見渡す限り、水しかない。私は足首の上まで浸かった状態で、海に立っていた。
「マナ」
また名前を呼ばれて、振り返る。浜辺に立っているのは、スモーカーさんだ。彼が私の名前を、こんなにはっきり呼んでくれたのは、初めてな気がする。いつもは、呼ばなくても気づける距離にいたからだろうか。
「マナ、こっちに来い」
「……いや、です」
手を差し伸べたスモーカーさんが、目を見開く。彼の表情に、焦りに似た感情が、浮かんだ気がした。
「毎晩、夢を見るんです」
「私は自分の家に帰ってて、自分の部屋のベッドで目を覚ますんです。お父さんが新聞を読んでて、お母さんが朝ごはんの用意をしてて」
「2人に『おはよう』って言って、朝ごはんを食べて、制服に着替えて、私は学校に行くんです」
「でも、目が覚めたら、まだこの世界にいるんです」
冷たい波が、繰り返し、私の素足を洗う。ネイビーブルーの夜の中で、スモーカーさんが私の言葉に、じっと耳を傾けている。うずく痛みをこらえるように、眉根を寄せて。彼の白い髪が月明かりに照らされて、きらきら銀色に光っていた。
「かえりたい」
壊れた蛇口から水があふれるように、思いが流れ落ちた。
「おかあさんと、おとうさんがいるところに、かえりたい。ふたりに、あいたい」
元の世界に帰りたい。自分の家に帰りたい。学校の友達に会いたい。家族に――お父さん、お母さん、おじいちゃんとおばあちゃんに、会いたい。
小学生のとき、学校の行事で1泊2日のキャンプに行った。昼間はとても楽しかったのに。夜になっても家に帰れないことと、お母さんに会いたい気持ちが、心細さに繋がって、泣き出してしまったことがある。
今の私は、そのときの私そのものだ。もう17歳なのに、自分がこんなに甘ったれた人間だなんて、思いもしなかった。
「ここには、来たくて来たわけじゃ、ない」
ぽろぽろと、生ぬるい雫が頬を伝う。泣いているのか、笑っているのか、自分でもよく分からない。涼しい夜風が髪を踊らせ、肌を撫でていく。潮の香りが、ひどくよそよそしい。
「ここは、私がいる場所じゃない。でも、だからって、どこに行けばいいんですか。もし、もしこのまま、帰れなかったら。わたしは、どうやって、ここで」
答えを求めているようで。でも理論的な答えなんて、聞きたくない気持ちもあって。ただ、この世界に来てから、ずっと抱え続けていた、漠然とした不安を吐き出したかった。
「こわい」
地理も、常識も、何もかも違う。そんな世界に、たった独りでいきなり放り出された。家族も友達も、私を知っている人は誰もいない。自分が17年間生きていた証を、積み重ねてきたものを、全て投げ捨てられてしまったみたいだった。
手の甲で何度拭っても、涙はとめどなくあふれてくる。塩辛い水が目に染みて、痛い。こぼれ落ちた涙が、波の上で弾けて、溶けていく。
そのとき、ふわりと白いモヤが現れた。ゆるゆると動く煙が、毛布のように私を包み込む。ゆっくり抱き上げるように、海から離される。スモーカーさんの側に移動させられたとき、彼の体はふわふわと、煙の集合体のようになっていた。
「……」
スモーカーさんは何も言わない。無責任な慰めの言葉も、励ましの言葉も、ごまかすような弁解も、何も無い。煙に巻くことは一切しないで、ただ、私を抱きしめていた。
頬が彼の胸に当たる。そっと回された腕には力が込められていなくて、全然苦しくない。柔らかく、くるまれているようで、強ばっていた体の力が抜けていく。ふんわりした煙に、悲しみが受け止められて、吸い込まれていく。そんな優しい、静かな抱擁だった。
大きな手にあやされるように、背中をとんとんと、一定のリズムで叩かれる。凝り固まっていた寂しさや不安が、少しずつほぐれていく気がして。お気に入りの毛布にすっぽり包まれているみたいな、絶対的な安心感が染み渡ってきて、私はつい目を閉じていた。
***
ほんのり温かくて、柔らかい。低反発素材みたいな柔らかさと言うより、むちむちした程よい弾力だ。右手と頬に当たる感触に、文字通り夢心地になる。
「……ん……」
とろとろと溶けていくような、気持ちのいい眠気が、まだ頭の辺りをぼやけさせる。温かな何かに顔を擦り寄せたとき、私じゃない誰かの寝息が聞こえた。寝ぼけまなこで顔を上げると、血色のいい肌と、厚みのあるがっしりした体が視界に入る。
「……? ……?、??」
いつもより狭い布団の中。背中に回されている筋肉質な腕。密着している体。顔を上げれば、眉間にシワが無い、スモーカーさんの顔がある。いつも上げている前髪が、下りているせいか、普段より少し若く見えた。
「え、な、〜〜〜!??」
何で。何でスモーカーさんが、私の布団に。そして何で、私を抱き枕みたいにして寝ているのか。悲鳴のようにかすれた吐息がこぼれて、急に霧が吹き飛ばされたみたいに、意識がはっきりする。頬だけじゃなく、顔全体がカアッと熱くなった。
もぞもぞと抜け出そうとしてみるも、彼の腕が重くのしかかってて動けない。逆に引き止めるように抱き込まれてしまい、余計に逃げられなくなってしまった。
「す、スモーカーさん。あの。スモーカーさん。起きてください」
彼の胸や頬を、ぺちぺちと叩いてみる。穏やかに眠っているところを起こすのは申し訳ないけど、そうは言ってられない。恋人同士でもないのに、これはダメでしょ。距離が近すぎる。
「ン゛ン……」
低く唸るような、くぐもった声を上げて、スモーカーさんの眉間に微かなシワが寄る。薄らと目を開けた顔は、寝起きのせいか、いつもよりぼんやりしているように見えた。
「……うるせェ……」
「スモーカーさん。あのですね、お休み中申し訳ないのですが、離していただけると……」
「まだ、寝てろ……」
「スモーカーさん。スモーカーさん。お願いします寝ないでください。あの、背中をとんとんして寝かしつけようとしないでください」
「……ぐぅ……」
「スモーカーさぁん……!」
今にも泣きそうな、情けない声で呼んでもダメだった。再び夢の世界に旅立ってしまったようで、スモーカーさんが寝息を立て始める。私をしっかり腕の中に閉じ込めたままで。いくら捕縛が得意だからって、家の中でまで発揮しないでください。私は無力です。力が欲しい。
***
それから2時間後。ようやく起きたスモーカーさんに、女の子の部屋と布団に入り込んだことについて、注意をしたところ。次の言葉が返ってきた。
「離さなかったのはお前だろ」
「そんなわけ、」
「布団に下ろしたとき、むずかるみてェにしがみついてきただろうが」
「そうなんですか!?」
「仕方ねェから、そのまま寝かしつけてたんだよ。よく眠れたか?」
「ええもうハイおかげさまで!」
久しぶりに何の夢も見なかったのは事実だ。何度も何度も期待させては、目が覚める度に突き落とされるような。飛び上がりそうになるくらい嬉しくて、残酷な夢。
「そういえば私、何で海にいたんですかね……? 部屋のお布団で寝たはずなんですけど……」
「……言ってなかったが。お前、3日くらい前から、寝ながら家の中を歩き回ってたぞ」
「ええええ!?」
「おれはそれを見つける度に、お前の部屋に連れ戻してた。家の外にまで出るとは思ってなかったから、昨夜は肝が冷えたよ」
「あっ、もしかしてそれで寝不足だったんですか!? すみません、お手数おかけしました……! 昨夜もお見苦しいところを見せてしまって、すみません……」
「気にするこたァねェだろ。ガキが親に会いてェと泣くことの、何がおかしいんだ」
申し訳なくて、ぺこぺこと平謝りする。スモーカーさんは特に気にする様子を見せず、葉巻を吸い始めた。窓を開けているので、煙がこもる心配は無い。
子ども扱いされているはずなのに、不思議と反発したくなる気持ちは湧かなかった。上から目線でからかっているのではなく、純粋な事実を持って接しているような、良識のようなものを感じるからだろうか。目を伏せて、スモーカーさんがぼそりと言う。
「……少しは、すっきりしたか」
「え」
「お前、昨日までずっと泣いてなかっただろう。少なくとも、おれの知る限りでは、いつも気丈に振る舞ってた」
「……あ……」
「泣きたきゃ泣け。気が済むまで泣いて、気持ちを吐き出せば、抱えてるもんも少しは軽くなるだろ」
一見ぶっきらぼうで、分かりづらい。でもこの人は、私が知らないところでも、ちゃんと見ててくれる人だ。それが分かって、目の奥がじわりと熱くなる。
「……スモーカーさんって、雨の日に捨てられた子犬とか子猫とか見つけたら、全部拾っちゃいそうですね……」
「何言ってんだ。里親を探すに決まってんだろうが」
「あはは、そういうところですよ」
涙を指先で拭いながら、思わず顔がほころぶ。それを見たスモーカーさんは、少しだけ目を丸くして、フッと口元を緩めた。彼が意外と柔らかく微笑むことを、初めて知る。和らいだ表情に、胸がとくんと、締めつけられるように高鳴る。
「安心しろ。お前のことは、最後まで面倒見てやるよ」
頭に乗せられた、無骨な手の大きさと温かさ。受け止めて包み込んでくれるような、約束の言葉。彼の目が、手のひらが、声が、心から信頼できると感じられる。
透明な朝日が差し込んでくる、穏やかなお休みの朝だった。