パン屋とラッパーたち
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浴槽の蛇口をひねったとき、一雫の水すら出てこなかった。
「……ん?」
戻したりひねったりを繰り返すも、うんともすんとも言わない。故障の可能性を考えて業者に連絡を入れると、今から修理に来てくれるという。
「……今日は風呂使えねぇ感じか」
兄は今日も寂雷の病院でお世話になっているため、被害を受けたのが自分だけで良かったと、夜は思う。
幸い風呂を提供してくれそうなアテはあり、夜は携帯に登録してある番号の1つを押した。
少しの呼び出し音の後、すぐに電話は繋がる。
『はい。
「お、一郎。夜だけど、ちょっと頼みたいことがある」
『夜? お前が依頼なんて珍しいな。どうした?』
「うちの風呂壊れたから、お前ん家の風呂貸してくれ」
端的に説明すると、一郎は快くOKしてくれた。
流石、困ってる者は見捨てられない正義漢だ。
『せっかくだし今日は家で飯食ってくか?』
「依頼に無いサービス提供とか神かよ。礼兼手土産にうちのパン持ってくわ。いつものでいいか?」
『マジか。頼む! あとお前も人のこと言えないと思うぞ』
夜にとって一郎は、よく店に来てくれるお得意さんのため、彼が買うパンの種類は熟知していた。
『ストック尽きてきたから、そろそろ買いに行こうと思ってたんだよ。助かる』
「食べ盛りがいるもんな、お前ん家」
ガッツリ系だったり、甘い系だったり、色んな種類のパンを一郎が購入するのは、弟たちのおやつのためらしい。
一郎信者とも言えるほど彼を信頼している、現役中高生の彼らを思い浮かべ、夜はそう答えた。
「じゃあ荷物まとめたら、そっちに邪魔するわ」
『おう』
***
「お邪魔しまーす」
「あ、来たか夜! 兄ちゃんなら三郎と、夕飯の材料買いに行ったぞ」
「おけー。ほらミケランジェロ、土産のパンだ」
「二郎だっつの! そろそろ名前で呼べよ! でもありがとな!」
名前の通り次男の二郎も、よく店に来る存在ではあるが。ほとんど「何で兄ちゃんが勧誘してんのに、うちのディビジョンに入んねぇんだ」と絡むために来る。
「営業妨害するなら帰れ」と小競り合いをするうちに、自然と距離が近くなっていた。
「風呂はもう沸いてるから、すぐ入れるぞ」
「まじかよありがてぇ」
「だろ! 兄ちゃんに感謝しろよ!」
「何でお前が偉そうなんだよ」
胸を張る二郎にツッコミを入れてから、とりあえずお言葉に甘えて、夜は風呂を借りることにした。
「タオル持ってきたか?」
「あたぼーよ。あと俺が風呂入ってる時は覗くなよ」
「ハイハイ」
二郎を追い出し、リュックから入浴セットを取り出し、夜は浴室に足を踏み入れる。
上着から順番に脱いでいき、胸を押さえつけていたサラシを解き、本来の姿に戻っていく。服は軽く畳んでから、脱衣所の隅にまとめて置いた。
「……ふう」
少し伸びてきた髪を洗い、リンスを付け、体を泡だらけのスポンジで優しく擦る。温かいシャワーで全てを流してから、夜は湯船につま先をつけ、ゆっくりと体を沈めた。
「あ~……極楽だ~……」
夜にとって、この時間はとても大切なものだった。1日張り詰めていた気持ちや体がほぐれ、リラックスできる時間。
明日また頑張るための、力を補充する時間だ。
(……夕飯ご馳走になったら、ぱぱっと帰るか)
しかし今いるのは、自宅ではなく一郎たちの家。完全に気を緩めるにはまだ早い。
そろそろ上がろう。そう思った夜は、ザバリと湯船から立ち上がった。
***
その頃。脱衣所に併設された洗面所には、トイレを済ませて手を洗う二郎がいた。彼はそわそわと、浴室のドアを何度も見ている。
(……あいつ、風呂長くね?)
水音が止まってから、時間が経っている気がする。普段風呂に入る時間が短い二郎は、気が気でなかった。
(ま、まさか眠って溺れてるとかないよな……? でも夜がそんなヘマやるか……?)
ぐるぐると考えていたとき、ガチャリとドアノブが回り、浴室のドアが開く。白いベールのような湯気が、ふわりと脱衣所に流れ込む。
その向こうにある姿を見て、二郎は石像になったかのように動けなくなった。
初めて見る夜の体は、意外なほどほっそりとしていて、色白だ。だが、二郎が目を奪われたのはそこではない。
夜の体には、本来男ならありえないはずの、2つの胸のふくらみがあった。
2つの胸のふくらみがあった。
「………………(エッお風呂上がりの全裸女子と対面するとか何この展開兄ちゃんが貸してくれたラノベで見た気がする、何だこれ人生初のラッキースケベ? てかこいつ男のはずだよな? 何で胸あるんだ!?)」
「………………」
頭の中で某笑顔動画の弾幕並に言葉が飛び交う二郎と、黙りこくったままの夜の目が合う。
二郎の顔はみるみるうちに赤く染まり、夜の顔はそれに反比例するように青くなっていく。
次の瞬間。
ドッと派手な音を立て、二郎は床に倒れ込んでいた。骨ばっていない柔らかな手が二郎の口をふさぐ。
二郎は赤面したまま目を剥いた。
彼の上に馬乗りになる夜は、まるで能面をつけたかのように表情を無くし、片手にいつの間にかヒプノシスマイクを握りしめていた。
「ちょちょちょちょちょちょ待て待て待てって!?」
「ちょっと今見たこと全部をお前の脳内から抹消するだけだ騒ぐな」
淡々と感情がこもらない声で呟く夜の腕を何とか掴んだとき、二郎は目の前の光景を直視してしまう。
女性経験が皆無の二郎にとって、一糸まとわぬ姿の女の子が自分の体にまたがっているのは、刺激が強すぎた。
「お、前っ、かか体隠せ! ふふ服着ろよよ……っ!」
「生娘みてぇな反応してんじゃねぇ黙って俺のリリック聞けやボケ」
手で顔を覆っているものの、指の隙間からばっちり見ている二郎に、夜はいつもより割り増しで口調を荒らげる。
夜の髪から漂うシャンプーの香りや、ぽたぽたと滴る雫が、二郎にはやけに艶めかしく感じられた。
(も、……むり……頭おいつかね……)
鼻の奥が熱くなり、二郎は意識を失った。
二郎が鼻から血を垂らして静かに目を閉じたのを見たとき、夜はやっと正気に戻った。
(……不覚だ……)
それからの夜の動きは早かった。
タオルで体を拭き、手早く持ってきた下着を身につけ、サラシを念入りに胸に巻き付ける。
パジャマ代わりのジャージを着て、大きめのパーカーを羽織ってから、夜は二郎の鼻にティッシュを詰めた。
「よい、せっ」
それから、二郎の肩に手を差し入れて彼の上体を起こし。両脇から手を入れて二郎の片腕をつかみ、つかんだ前腕を引き寄せるように、彼を引きずっていく。
今まで大量のパンや小麦粉の袋を運んできたため、体力と力仕事には自信があった。
そして二郎の部屋らしき場所に彼を放置し、夜は一郎たちを待つためにリビングへ向かったのだった。
***
「ただいまー」
「お、おかえり一郎三郎。風呂サンキュー」
「いいってことよ。今日の夕飯ハンバーグでいいか?」
「改めて至れり尽くせりで流石に申し訳なくなってきた。俺も準備手伝うよ」
「大丈夫です。夜さんはお客さんなんですから、そのまま料理番組でも見ててください」
ひょこっと一郎の斜め後ろから、末弟の三郎が顔を出す。一郎ならともかく、なぜか三郎は夜にも素直で対応がソフトだった。
「夕飯前に料理番組って、飯テロになんねーか?」
「夕飯前だから腹減らそうと思って」
「二郎! お前ジャンケン負けて留守番係になったのに何で夜さん放置してるんだよ! あと夕飯の準備手伝え!」
夜が一郎と会話していた時、2階に上がっていった三郎の文句が聞こえた。相変わらず二郎にはあたりが強いなと、夜は思う。
とりあえず、躍起になって否定しても自分の秘密を肯定することになるので、二郎のもの言いたげな視線には知らんぷりをしたまま。
夜は料理番組で紹介されているレシピを眺めながら、夕飯の時間になるのを大人しく待つのだった。