黒髪の乙女とラッパーたち
これは私が、味が濃くて強いのが当然の街で過ごした一夜のお話です。
その日の私は、1軒のバーでカクテルを嗜んでいました。カクテルを飲んでゆくのは、綺麗な宝石を1つずつ選んでゆくようで、たいへん
ピナコラーダやら、アカプルコやら、キューバ・リバーやら。他にはメアリービッグフォード、クレオパトラ、モヒート。もちろん、ラム以外のカクテルも興味深いので、ソルティドッグやホワイトレディ等とも飲みつ飲まれつの契りを交わします。
「おねーさん、すごい飲むねー。なにか悩みごと?」
カウンターの隅から、私の隣にあるスツールに移動してきたのは、見知らぬ殿方でした。歳は20代前半といったところでしょうか。さっぱりとした服装で、人懐こそうな笑みを浮かべています。
私はすぐに返事ができませんでした。なぜなら悩みが無いからです。
「何かおごってあげるよ」
「いえいえそんな」
「遠慮しなくていいってー」
私は重ねて辞退しましたが、彼のせっかくの親切を断るのも、かえって非礼になります。それに、この資本主義社会において、タダより安いものはありません。
「彼女にスクリュードライバー1つ」
運ばれてきたのは、「ネジ回し」という意味の名を持つ、爽やかな黄色のカクテルでした。
***
サックスが奏でるジャズの音色に、耳を傾けながら、俺はグラスも傾ける。仕事終わりに、オン・ザ・ロックでアイラウイスキーを飲むこの時間は、俺にとって至福のひとときと言ってもいい。
今夜のこの場所は人が少ない。俺も座っているカウンター席には、黒髪の若い女が1人と、軽薄そうな若造が1人いる。密かに様子を見ていたが、男の方は完全に持ち帰り目当てのようで、さっきからレディーキラーカクテルと呼ばれる代物ばかりを飲ませている。
ただ、男にとって誤算だったであろうことは、女の方が酒に強いらしいことだ。カカオリキュールと生クリームを使ったアレクサンダーも、紅茶を一滴も使っていないロングアイランド・アイスティーも、けろりとした顔で飲み干していた。
これは放置しても大丈夫か?
そう思いながら、俺がマスターにもう一杯を頼むのと、女がグラスの中身を空にしてから手洗いに行くのはほぼ同時だった。
女の姿が見えなくなってから、男がマスターに注文をする。横目で観察していると、男はポケットから小さな錠剤を取り出し、2粒ほどカクテルに落とした。
みるみるうちに酒の色が、サファイア色に染まっていく。
「おい、お前」
近づいて声をかけると、男はギクリとしたように固まった。にやけていた表情が消え、うろうろと視線をさまよわせている。
「そのままいけば、刑法第178条、準強制わいせつ及び準強制性交等の罪になるぞ」
「……な、何だよおっさん。ちょっと法律に詳しいからって、そんな脅しは、」
「"ちょっと詳しい"ねぇ……。生憎、俺はこれが生業なんでね」
取り出した名刺をテーブルの上に置いてやる。男は青ざめた顔で、俺と名刺を交互に見ていた。俺が法律のエキスパートだと分かったんだろう。
「すっ、すみませんでした!」
あたふたと財布から金を抜き出し、テーブルに勢いよく置いて、男は逃げるようにバーを出ていく。酒だけじゃ力不足だからって、薬に頼るなんざ、人の風上にも置けない青二才だな。
ドアがバタンと音を立てて閉まったとき、ちょうど女が戻ってきて、小首を傾げた。
「こんばんは。こちらに座っていた殿方は何処か、ご存知でしょうか?」
「そいつならさっき出てったぜ」
マスターがさりげなく、青く染められた酒を回収する。近くで見ると、確かにナンパしたくなる気持ちが分かるような、マブい女だ。
「それは何のお酒でしょうか?」
好奇心できらめく黒目がちの瞳が、俺のグラスに注がれる。あんなことがあったのに、男への警戒心が見えないのは、大物と言うべきか、無防備と言うべきか。
「アイラウイスキー。イギリスのスコットランド地方で熟成された、スコッチ・ウイスキーのことだ」
「お詳しいんですね」
「自分が好きなものだからな」
座り直し、またグラスを傾けると、彼女が俺の近くに腰を下ろした。
「ウヰスキーをください」
「……アンタ、さっきから、かなり飲んでなかったか? 大丈夫なのかよ」
「のんびり飲んでいたら醒めてしまいます」
清楚で可憐な見た目の割には、かなりいける口らしい。舐めるようにウイスキーを飲む彼女と、並んで酒を飲む。俺が独り言のように、アイラウイスキーの雑学を話すと、彼女は素直に相槌を打ちながら聞いていた。
「アイラ島の蒸留所は全部海辺にある。それで、潮の香りやヨード香を生み出して、独特の個性をもたらしてるんだ」
「それぞれ、一度飲んでみたいものです」
たまには、こんな風に、誰かと飲むのも悪くねえ。
薄ら上気した頬で、夢見るようにうっとりした彼女の横顔を見ていると、不思議とそう思えてくる夜だった。
***
今夜は学ぶところの多い夜でした。
柔らかくうねる髪をリーゼントにし、革でできた黒と白の上着を羽織った、ロカビリーというような雰囲気の男性。あの方は、どんな人なのでしょう。
また会えたらいいなぁと思いつつ、私は夜明け前には寝床に戻るために、まだ暗い空の下を歩いてゆくのであります。