黒髪の乙女とラッパーたち
これは、私がうごめく大都会で過ごした一夜のお話です。
天高くそびえ立つ通天閣や、ぷかりぷかりと空を泳ぐ大きなフグの提灯。新しい世界という名前がついた、大変冒険心をくすぐられる場所で、私はお酒を求めて単身乗りこんでいました。
のぼり旗が揺れる居酒屋に吸い寄せられると、お店の人が元気よく挨拶をしてくださいます。私はおひとり様なので、カウンターに案内してもらいました。
最初に注文したのは
かくして無手勝流にお酒を嗜んでいた時、隣のお席に誰かが腰を下ろしました。そうして話しかけてきたのは、見知らぬ中年の殿方でした。
***
「カンパーイ!」
がちん、と音を立てて、3人分のジョッキが軽くぶつかる。すると、中に注がれたクリアな黄金色の酒が、とぷんと揺れた。
「ぷはー、仕事終わりの酒は格別やな!」
紅しょうが、牛肉、豚肉、色々な具材に衣をつけて、さっくり揚げた串カツを片手にビールを飲む。もちろんソースに2度漬けはしない。これはもはやオオサカの文化や。
「1週間の疲れが抜けてく気ぃするわ……」
「カワイイお嬢ちゃんを見ながら飲む酒はうめぇなぁ」
緊張が解けたような顔で唐揚げをかじる盧笙に対し、零は
「カワイイお嬢ちゃん? どこやどこや」
「ほら、あそこのカウンターに座ってるだろ」
「はー、あのつややかな黒髪のべっぴんさんか! ……ん? 隣のおっさんは知り合いなんやろか」
「そうでもなさそうだぜ」
黒髪のべっぴんさんに話しかけてるおっさんは、ひょろりと痩せてて、長めの顔には無精髭が生えていた。着ているシャツもジーンズもヨレヨレで、お世辞にも身なりに気を使ってるとは言えへん。
ペラペラと話しかけながらも、おっさんはべっぴんさんから全然目を離さない。視線が獲物でも狙ってるような、ちょっとねちっこいようなものに見える。
それに気づいていないのか、べっぴんさんはおっさんの言うことに時折頷きながら、素直に耳を傾けていた。アカン。これは危ないんとちゃうんか。
ハラハラしながら見ていると、おっさんが腕をべっぴんさんの体に回した。べっぴんさんの肩を抱いて揺さぶりつつ、何やら元気づけているようだ。「頑張れよ!」と声が聞こえる。
その時、俺はあることに気づいた。
「……あのおっさんの手の位置、アカンやろ」
軽蔑したように顔をしかめて、盧笙がゆらりと立ち上がる。これはブチ切れとる。
盧笙の言う通り、あのおっさんの手の位置は、完全にべっぴんさんのおっぱいを掴んでいた。べっぴんさんも流石に困った様子で、おっさんを押しのけようと揉み合いになっている。
これは助け舟が必要やな。
盧笙がやり過ぎないように止めるためにも、俺は盧笙とカウンターに近づく。盧笙がおっさんに声をかけようと、息を吸い込んだ時だった。
なんと。
暴力なんて知らなそうな、生まれてから1度も人に手を上げたことなんてないような黒髪のべっぴんさんが。
おっさんのほっぺたに鉄拳をお見舞いした。
体をのけぞらせ、椅子から転げ落ち、慌てながら出て行くおっさん。
息を吸い込む動作のまま固まる盧笙。
見事なギャップに、さすがの俺も言葉が出てこない。
「今どき、拳の暴力なんざ流行らねえ……と言いたいところだが、良いパンチ持ってんなー。お嬢ちゃん」
停止した空気をいい意味でぶち壊したのは、いつの間にか近くに来ていた零だった。
***
「今どき、拳の暴力なんざ流行らねえ……と言いたいところだが、良いパンチ持ってんなー。お嬢ちゃん」
色気を感じる渋い声に振り返ってみると、それは背が高く、がっちりとした立派な体つきの男性でした。
歳は、先程まで私のお乳を揺さぶっていた殿方と同じくらいでしょうか。先程の殿方が放っていた、猛々しく野性的な「大人の男」の香りとはまた違う、蜂蜜や花のような甘さの中に刺激的なスパイスを添えたような奥深い香りがします。
「はへぇー、意外とお転婆なんやね。びっくりしすぎて鮫の酔いも醒めてまうわ!」
爽やかな浅葱色の頭髪に、狐や招き猫を連想させる細い目の男性が、軽快なオオサカ弁で話しかけてきました。たいへん巧みな洒落を言う方です。
「このアホ。こんな時までクソつまらんギャグかますなや」
そう言って、糸目の男性の頭をぺしんと軽く叩いたのは、髪の毛全体を粗く後ろに撫で上げて、チェーンのついたオシャレな丸眼鏡をかけた男性でした。このお2人は、仲が良いようです。
「それに、確かにいい1発だったけど……。君、その拳の握り方だと、親指折れるぞ。大丈夫なのか?」
丸眼鏡の男性が、関西ならではの抑揚が残る標準語で、心配そうに私の拳を指さしました。糸目の男性は「目の付け所が物騒やなー」と笑っています。
4本の指で親指をくるみ込むように握った拳を、御三方に見せ、私はこれが何か説明しました。
「これは、"おともだちパンチ"です」
「おともだちパンチ? 初めて聞くなぁ」
「攻撃力より幸福呼びそうやな。猫ちゃんのおててみたいやん」
興味津々といったお顔で、糸目の男性と丸眼鏡の男性が私の拳を見つめます。糸目の男性は、私の拳を両手で真似して、招き猫のように構えました。
「幼い頃に、母から姉へ、姉から私へと伝授された奥の手なのです」
その時、母と姉は、ひよこ豆のように小さかった私に、こう言って聞かせたのです。
「よろしいですか。女たるもの、引きも切らず暴力をふるってはなりません」
「けれどもこの広い世の中では、聖人君子などはほんのひと握り。残るは腐れ外道かド阿呆か、あるいは腐れ外道かつド阿呆です」
「ふるいたくない鉄拳を敢えてふるわねばならない。そんな時は、このおともだちパンチをお使いなさい」
「親指をそっと内に隠し、堅く握ろうにも握られない。そのひそませる親指こそが愛。おともだちパンチには愛が満ちているのです」
「腐れ外道かドアホて。アンタのオカンとお姉ちゃん、中王区で暮らしてたりするん?」
「いえ、中王区の外で、道場の師範をしています」
そこまでお話してから、彼らは自己紹介をしてくれました。巷で噂の"ナイスミドル"と思わしき男性は、天谷奴さん。糸目の男性は白膠木さん。丸眼鏡の男性は躑躅森さんと言いました。
白膠木さんと躑躅森さんの提案で、私は彼らと相席をさせてもらうことになりました。先程のようなことがまた起きないようにと、2人が配慮してくださったのです。
私の隣に座る天谷奴さんが、先程の殿方について教えてくださいました。
「さっきの奴、借金こさえてやけ酒がてら、出会ったお姉ちゃんにちょっかい出してたらしいぜ」
「そうとは知らず、冷たい仕打ちをしてしまいました」
「気にせんでええよ。あーいうのは人の優しさにつけ込んだ上、踏みにじる奴らやから。むしろもっと冷たくしたってええくらいや」
「やられた方が泣き寝入りする必要なんかあらへん。声はあげるべきやと俺は思う。実写版のアラジンでもそんな挿入歌あったで」
ため息を着く私を、白膠木さんと躑躅森さんが慰めてくださいます。けれども、苦しんだ末に破廉恥な行為に及んでしまったであろう方に対し、あれぐらいのことを平気で受け流す器の大きさが自分に無いことを、私は気にせずにはいられませんでした。
天谷奴さんが私のために注文してくれた日本酒を、こくこくと飲みながら、彼らのお話を聞きます。
白膠木さんはお笑い芸人、躑躅森さんは高校の数学教師ということですが、天谷奴さんの職業はよく分かりません。
「相手の願望を気持ちよーく満たすお仕事だぜ」
「ダウトや」
「嘘つくな、この詐欺師」
白膠木さんと躑躅森さんはしょっぱい顔でそう言いますが、天谷奴さんご本人がこう言うのですから、きっと人のためになる良いお仕事なのでしょう。
「これから俺たち店変えるんやけど、一緒にけぇへん? 連れがおる方が安心やろ」
「おともさせて頂きたいと思います」
「夜の街で会った人間には、油断も信用もしちゃあいけねえぜ、お嬢ちゃん。もちろん、俺たちみたいな人間にもな」
「お前と一緒にすんなや。君、俺ら2人はともかく、こいつには隙を見せたらダメだぞ」
***
いい塩梅になるなら1杯か2杯。しかしそれで満足する私たちではありません。
日本酒。芋焼酎。麦焼酎。麦酒。酎ハイ。梅酒。
ガリ酎や冷やしあめという、オオサカ名物のお酒や飲み物との記念すべき出会いもありました。やはり魅惑の大人世界というものは、奥が深いものです。
「ガリ酎は、寿司に欠かせないガリを入れた酎ハイやねん。ほんのり甘ぁて後味爽やかやで! そんで、冷やしあめは、生姜と水飴で作った飲み物なんや。オオサカじゃ昔から飲まれてて、昔懐かしな味やなぁ」
白膠木さんが陽気かつ饒舌に教えてくださったので、私は冷やしあめハイボールを頼んでみることにしました。
穀類のようなやさしい甘みと、すっきりした生姜。そして炭酸入りのお酒が合わさって、夏によく合う爽やかさを醸し出しています。これは美味です。
お酒を楽しみ、食い倒れの街にふさわしい味のお好み焼きや串カツ、焼き鳥等のごはんを食べて。
そうして3軒目を出る頃には、躑躅森さんは目の焦点が合わず、呂律も回らなくなってしまっていました。
「おいおい盧笙、大丈夫かぁ〜?」
「らいじょーぶ、らいじょうぶやぁ」
そう天谷奴さんに答えるわりには、足が左右を踏み違えて、ふらふらしています。まさしく千鳥のような歩き方です。
「ほな、酔い醒ましに散歩でもしよかー」
白膠木さんが躑躅森さんを支え、夜のオオサカの街を歩いていきます。ぴかぴかと明かりの灯る中を、私たちの他にも連れ立った人々が楽しげに抜けてゆきます。
大人による大人のための大人の遊びを繰り広げに行く人たちが、この中にいるのかもしれません。興味深いことです。
「お嬢ちゃん、ここへは酒を求める旅に来たんだっけか。どこのホテルに泊まってんだ?」
「××というところです。砂糖菓子のように白くて可愛らしい建物なのです」
ひんやりとした心地よい風に吹かれながら、天谷奴さんと言葉を交わします。私の頭を包んでいたお酒の酔いが、涼しい風に乗って散ってゆくように思われました。
満たされてほかほかのお腹をそっと撫でた時、目の前にすっと折りたたまれた紙が出てきました。隣を見ると、天谷奴さんが指に挟んだメモを私に差し出しています。
「それ、俺の連絡先な。何かあったら、いつでも連絡してくれや」
受け取ると、天谷奴さんはセクシーな笑みを浮かべて私の耳元に顔を近づけました。
「待ってるぜ」
近くで聞くと、ますます魅力的な声だということが分かります。ウォッカやテキーラのような、すぐに人を酩酊させてしまうような甘い声です。何をしたら、こんなにダンディな声になるのでしょうか。
気がつけば、私が予約をしていたホテルに到着していました。さりげなく送ってくださるという大人の気遣いに、私は脱帽せずにはいられませんでした。
「また会えたら、今日みたいに飲みに行こな! ほなね〜! お風呂は明日の朝に入るんやで!」
「またな、お嬢ちゃん。歯ァ磨いて寝ろよ」
「かお、あらえよー。またらいしゅうー」
昔の夜8時に放送していた、お笑い番組を彷彿とさせる御三方の別れ際の言葉に、私はくすくすと笑いながら手を振り返しました。
夜はしっとりと更けていきます。
今夜のお話は、これにておしまいです。