黒髪の乙女とラッパーたち
これは、私がネオン輝く眠らない街で過ごした一夜のお話です。
知り合って日が浅く、交流はこれからという人からお誘いを受け、私は初めてホストクラブという大人世界へ足を運びました。
『fragrance』。香水という意味を持つ、センスある名前のお店です。
見目麗しい殿方たちが多く出迎えてくださり、まるでおとぎ話の姫君になってしまったかのような心地がしました。
ふかふかの長椅子に腰を下ろし、遠慮してジュースを嗜みながら殿方とお話をしていたのですが、私はもっと大胆にお酒が飲みたくなってしまいました。
連れてきてくださった方には悪いけれど、そろそろお暇して、
その前にお手洗いに行きたい。
そう思った私は断りを入れてから立ち上がり、お手洗いを借りてすっきりとした気持ちで歩いていますと、何やら人が集まり賑やかなお席がありました。
胸の内にぷくりと沸いた好奇心に抗えず、そちらへ行ってみますと、まず目に入ったのは長椅子にぐったりと伸びている男の人でした。
テーブルにあるお水の入ったグラスを取ろうとしていたのでしょうか。手がだらりと、グラスの手前で力尽きています。
「お加減が悪いのですか? お水をどうぞ」
私は男の人の肩を軽く叩き、お水の入ったグラスを彼の近くへ持っていきますと、男の人が私に気が付きました。
憂いを帯びたような、水色がかった緑色の瞳が、驚いたように見開かれます。色の白い肌に赤茶色の髪が映えていて、目の下のクマも含めて儚げな印象を抱かせる方でした。
***
乾杯して、酒を1杯飲んだ後、寂雷先生が壊れた。
仏のようだと思っていた先生に、鬼のように絡まれて酒を飲まされ、頭がクラクラして目が回りかけていた時だった。天使のように可愛らしい声が降ってきたのは。
「お加減が悪いのですか? お水をどうぞ」
地獄に仏とはこのことか。
俺が取ろうとして力尽きていたグラスを、白魚のような手で差し出してくれたその人は、可憐な乙女という表現がふさわしい。
清楚なボブカットにした髪は、濡れているような黒。ぱっちりとした目に鉛筆が乗りそうな長いまつ毛。肌は雪○精でも使っているのかと聞きたいくらいの透明感で、実写化した白雪姫か何かかと見間違えた。
「す、すみません……」
いつもの癖で謝りながら、グラスを受け取り、水を喉奥に流し込む。
少し温くなったけど、まだ冷えているそれが、命の水のように体に染み渡った。
頭と酔いが醒めてきて、ふと気づく。こんな優しいたおやかな人を、今の先生に近づけてはいけない。すぐにこの場から逃がさないと。
「……なんだぁ? 新入りか?」
背後から聞こえた声に振り向いてしまい、俺は思わず「ヒッ」と情けない声を漏らした。一二三の肩に腕を回している先生が、据わった目でこちらを見つめていたからだ。
「そんなとこで突っ立ってないで、お前も飲まんかい!」
終わった。俺のせいだ。見ず知らずの、水を手渡してくれた女性を巻き込んでしまうなんて、俺はなんて愚図なんだ。
先生がにゅっと長い腕を伸ばし、女性の華奢な手首を捕まえる。一二三が「逃 げ て」と懸命に口の動きだけで伝えるのが見えたが、彼女はあっさりと先生の隣に座らされてしまった。
***
天女のように神秘的な、長く美しい髪の男性が、私を隣に座らせてくれました。
このような無粋者の私を、お酒の席に混ぜてくれるそうなのです。
神様のような神々しささえ感じる外見からは、想像もつかないような、荒々しさのあるべらんめえ口調が素敵です。
これが、世の女性たちの多くが胸をときめかせるという、"ギャップ萌え"というやつでしょうか。
しかもグラスに、飲みたかったお酒を、
私は、彼の大人の気遣いに感服いたしました。
ここで無下にするのは失礼です。
私はグラスを傾け、透き通った黄金色の雫をこくりと口にしました。
とても美味しいです。
しゅわしゅわと細かな泡が喉をくすぐり、華やかで
隣に座る男性は、三鞭酒の瓶に口をつけて飲んでおります。鯨飲や牛飲という言葉がありますが、まるで彼のお腹の中に鯨や牛が1頭暮らしているかのような趣でした。
それにしても、羨望してしまう光景です。
私もラム酒を瓶から、お風呂上がりに飲む牛乳のように、腰に手を当てて飲み干したいという夢があります。しかし、人目もあるこの場では、それは胸の内に秘めておくのが慎みというものです。
***
彼女は水でも飲むように、先生と一緒にシャンパンを次々と飲んでいった。
いや、水でも飲むように、という表現は正しくない気がする。
うだるような暑い夏の日に、氷をたくさん入れた麦茶を飲むように。
激しい運動をした後に、よく冷えたスポーツドリンクを飲むように。
気持ちよさそうな、楽しそうな顔で、そして何より美味しそうに、彼女は酒を飲み干していく。その圧巻の光景を見て、止めようとする人は誰もいない。
気を利かせてフルーツの盛り合わせを持ってきたボーイですら、彼女の飲みっぷりに釘付けになっている。
ハッと気がついた一二三が、彼女にそれを勧めていなければ、やがて器が傾いて、盛り付けられた果物が床にこぼれ落ちていたかもしれなかった。
「大丈夫かい? 子猫ちゃん。フルーツはいかがかな」
「ありがとうございます」
見栄えよく盛られた、色とりどりのオレンジやグレープフルーツ。赤と白のリンゴに、緑のキウイ。黄色いパイナップル。
照明の下で宝石みたいに艷めく果物を、彼女はうっとりと眺めてから、口に含む。そしてまた酒を飲む。その横顔に、俺はすっかり目を奪われていた。
テーブルを埋めるほど運ばれた、様々な形や長さの瓶が、中身を失い空になっていく。
店の酒が全部飲み尽くされたんじゃないかと思う頃、ぼすんと音を立てて、先生がソファの背もたれに体を預け、動かなくなった。
「…………先生……?」
恐る恐る声をかけるが、返事は無い。天井を向いた顔からは、静かな呼吸の音だけが聞こえてくる。
え、もしかして先生、酔いつぶれた……?
そう思いながら、黒髪の彼女に視線を移す。
彼女はさっき注がれた1杯を、くいっと飲みきった後だった。頬がほんのり色づいているが、まだ平然としているように見える。
多分、その場に居合わせた全員が、その瞬間拳を強く握ってガッツポーズを取っただろう。俺も取った。
ヤマタノオロチが退治された時、人々はこんな気持ちだったんじゃないかとすら思えた。先生を日本神話の怪物に例えるなんて失礼だが、先生のあの飲みっぷりはウワバミというより大蛇だった。
「巻き込んでしまってすみませんでした! でも、先生と飲んでくださって助かりました……!」
「本当にありがとう……! 君がいなかったら、僕たちは今頃どうなっていたことか。君には感謝してもしきれないよ」
頭を勢いよく下げる俺とは対照的に、一二三は感極まったような顔で、彼女の両手を包むように握ってお礼を述べている。
大抵の女性は、あの宝石級と言われるやたらキラキラした顔を間近に見ると、炎天下にさらされたアイスみたいに溶けてしまう。だが、彼女は例外のようで、「私のようなものに恐縮です」と朗らかに返していた。
「それにしても、よく飲みましたね……。いったいどれぐらい飲めるんですか」
空になった瓶の1本を持ち上げながら、気になっていた疑問を投げかける。すると彼女は、むんと胸を張ってこう答えた。
「そこにお酒のある限り!」
***
私は連れてきてくださった方に一言述べてから、軽やかなステップでお店を出ました。
彼女はご
あれだけお酒を飲ませていただいたのに、まばゆいほどの容姿を持つ金髪の殿方が奢ってくださるそうで、お言葉に甘えることにしました。
なんでも、彼はあのお店で、1番の人気を誇っていらっしゃる方なのだそうです。おかげで私がお支払いしたのは、最初に飲んだジュース代くらいでした。
気持ちの良いほろ酔い気分で、道を進んでいきます。明かりを灯しているお店がほとんどで、ネオンの看板がギラギラと目に焼き付くようです。
この街では、夜はまだまだ終わりません。
次は、どこでお酒を飲もうかしらん。
そう思いながら、私は夜の中をてくてくと歩いていくのでした。
***
「いやー、それにしてもあのセイソな黒髪ちゃん、すっげー飲んでたよな! あんな飲んでてもヘーキな子、俺っち初めて見た!」
「俺も飲み会とかで飲むけど、あんな酒豪、そうそうお目にかかれないぞ……。寂雷先生を酔いつぶすなんて相当だし。あの子の肝臓、どうなってるんだ……」
「また会って、ちゃんとしたお礼したいなーって思ってんだけど、あの子あれっきりウチの店に来てないんだよね。俺っち、また会いたいなぁ。シャンパンタワーチャレンジ開催したら、来てくんないかなぁ。1人で何本飲めるかな〜的な企画ね!」
「何だその肝機能使う方の肝試しは」
「……てかさ、ホントあの子がいなかったら、俺っちたちどうなってたんだろな」
「……やめろ。そのタラレバだけは考えたくない」
先生が起きた時のために、あの日は2人で寝ずに、ホストクラブで一夜を明かした。
――昨日、最初の1杯を飲んでから記憶が無いんだよ。
――あの後、私は寝てたのかい?
目覚めた先生は、いつも通りの穏やかな聖人君子で。そんな彼がきょとんと首を傾げて、昨日のことを綺麗さっぱり覚えていないのを見て、俺たちは戦慄した。
酒に強い名も知らぬ黒髪の女性と、我を忘れるほど酒に弱い寂雷先生。
色んな意味で濃い時間を過ごしたあの夜を、俺も一二三も忘れることはできないだろう。
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