序章
小鳥の声で目が覚める。タオルケットを軽く畳んで、カーテンと窓を開けると、まだ涼しい朝の空気が顔を撫でた。
時計を見ると8時。薄手のワンピースを被って、下に降りていくと、パジャマ姿のマイラさんが食器をテーブルに並べていた。
「おはようさん。よく眠れたか?」
「ぐっすりだよ。手伝うね」
スクランブルエッグとトマト、焼いたベーコンを乗せたお皿の隣に、2枚のトーストを乗せたお皿を並べる。それからフォークと、マーマレードの瓶。牛乳を注いだコップをマイラさんが置き、2人で食卓についた。
「「いただきます」」
黄色と赤とピンクで色とりどりだなぁ、と思いつつ、トマトを食べる。1枚目のトーストに卵とベーコンを乗せて食べると、優しい甘みとベーコンの塩気が合わさって美味しい。よく冷えた牛乳で流してから、甘酸っぱくてほろ苦いマーマレードトーストを食べ終える。
2人で食器を洗って片づけた後は、自由時間。今日はどの本を読もうかな。昨日の小説の続きかな。あのエッセイも面白そうだし、棚にあった鉱物図鑑もいいなぁ。ハミングしながらドアを開けると、床にタワシが落ちていた。
「……?」
タワシがもぞもぞと動く。違う。タワシじゃない。ちょんと尖った黒い鼻。ちいちゃな耳と手足。きゅるんと見上げてくる、黒いビーズみたいな目。トゲトゲの背中。
「ハリネズミ……?」
「ピィ」
小鳥みたいな声で、ハリネズミが鳴く。何でこんなところにハリネズミ? マイラさん、ハリネズミ飼ってるなんて言ってたっけ。捕まえた方がいいかな……。
怖がらせないようにゆっくりしゃがみ込み、そろそろと手を伸ばす。するとハリネズミは、とことこと反対方向に歩き出した。
「えっ、あ、待って」
ギリギリ捕まえられない素早さで、ハリネズミは走る。追いかけると、ぐるぐると3回真ん中の本棚の周りを回ってから、ハリネズミは窓に向かった。
ハリネズミとは思えない跳躍力で、床から椅子へ、椅子から窓へと飛び上がる。窓はいつの間にか開いていて、白いレースのカーテンがはためいた。
「え……!?」
窓の向こうに広がるのは、知らない景色だった。
ここは2階のはずなのに、地面が近い。ビロードみたいな緑の野原が広がっていて、空の彼方には、雨が降っていないのに虹がかかっている。マイラさんの車が置いてある、マイラさんちの庭じゃない!
「どうなって……、って、あぁ! ちょっと!」
ぴょこんと窓から野原に飛び降り、ハリネズミがこちらを振り返る。まるで、ついておいでと言ってるみたいだ。
どうしよう。このままついて行くべき? いやでも、窓の向こうに知らない世界が広がってたなんて、ファンタジー小説じゃあるまいし。私まだ夢見てるのかな。でも、目をこすっても、頬をつねっても、目の前の光景は消えない。
どうしよう。すごく行ってみたい。靴、取りに行った方がいいかな。読書室のドアの方と、窓を交互に見ていると、ハリネズミが「ピィ」とまた鳴いた。気づけば、ハリネズミの横に銀の靴が1足置かれている。
「それを履いて、来てってこと?」
「ピィ!」
早く早く、と言うように、ハリネズミが窓の下でうろちょろする。思い切って窓枠に手をかけ、足をそろそろと向こう側に下ろしてみる。柔らかな草の感触が、素足にふれてくすぐったい。地面が崩れたりしないことを確認してから、私は窓の向こうに降り立った。
星のきらめきから生まれたような銀の靴は、ストラップがついてて、ヒールも低くて歩きやすい。中に畳まれていた短い靴下も一緒に履いて、ハリネズミの後をついていく。
振り返れば、観音開きの白い窓がぽっかり空中に浮かんでいた。何とも不思議な光景だ。『ロータスの森の伝説』シリーズみたい。
野原を進み、小さな橋を渡り、どんどん進んでいく。足が軽くて、どこまでも歩いていけそうだ。そう思った時、緑のツタが絡まる柵で囲まれた場所が見えてきた。高さは私の胸の辺りくらい。
柵の下をするりとくぐり抜けるハリネズミにつられて、柵を押すと、軽く軋んだ音を立てて開く。ここがドアなのか、と思いながら入ると、そこには花畑が広がっていた。
「わぁ……!」
天上の楽園ってこんな感じかな。そう思うくらいに、綺麗な花がたくさん咲き乱れている。見とれながら歩いていると、ハリネズミが脇道にそれていった。
そこには枝葉を伸ばした大木が生えていて、過ごしやすそうな陰を落としている。そこに横たわっている人影を見つけ、心臓が跳ね上がった。
人が倒れてる!?
小走りで近づくと、また心臓がドクンと跳ねる。さっきとはまた違う驚きのせいで。
そこに倒れていたのは、びっくりするほど綺麗な男の人だった。
私より、少し歳上くらいかな。ウェーブがかった髪は黄色い水仙みたいだし、唇は赤い花びらみたい。肌は象牙みたいになめらかで、背の高い体は細く締まって見えた。
着ているのは、金糸で星を刺繍した、絹みたいな素材の上着。首には琥珀色の鎖をかけてて、まるで芸術品みたいだ。でも胸の辺りがかすかに上下してるから、寝てるだけ?
「……あのう、もしもーし」
とんとんと肩の辺りを叩いてみる。起きる気配が無いので、軽く揺すってみた。
「ここで寝たら風邪ひいちゃいますよ。起きてくださーい」
根気強く声をかけていると、彼の長いまつ毛がかすかに震える。やがてまぶたが薄く開き、菫色の宝石みたいな目が見えた。
「あ、おはようございます」
「……」
寝起きでぼんやりしてるのか、彼は瞬きをしてから、緩慢な動作で上体を起こす。
「……俺は、寝てたのか?」
「え? はい。腰とか痛めちゃうので、お部屋で寝た方がいいですよ」
「……お前が、俺を起こしたのか?」
「? はい」
お、お昼寝の邪魔されて怒っちゃった? それにしては様子がおかしいような。ぼーっとしたような彼の表情に、じわじわと驚きが滲んでいく。
「……名前」
「え?」
「お前の、名前は」
「えと、星羅です。雪谷 星羅」
「……聞いたことが無いファミリーネームだな。別の国の者か」
別の国というか、別の世界というか。でも、あの窓を見せないと、信じてもらえないよなあ。うーん、と考えていると、男の人が立ち上がる。髪や服を軽く整えてから、彼はなめらかな革手袋に包まれた手で、私の手を取って立たせてくれた。
「セイラ嬢。無礼を許せよ」
「へ? え、わっ」
背中と膝裏に腕を回され、体が持ち上がる。とっさのことに身を硬くすると、彼はそのまま早足で歩き出した。
うそ、国宝級のイケメンにお姫様抱っこされてる!? やだ待って顔近い何かいい匂いする無理! 恥ずかしいし顔が熱い!
「おおお下ろしてください! 自分で歩けます!」
「大人しくしてろ」
向かう先は、白く輝く建物。このままでいたいような、早く終わってほしいような。変な気持ちとバクバク跳ねる心臓を胸に、私は運ばれていった。
***
白い洋館の入り口で、やっと下ろしてもらえた。ほっと息を着くと、するりと手を取られてエスコートされる。ドアを開くと、えんじ色のじゅうたんが敷かれた広間に出た。
「クレマン!」
よく通る声が誰かの名前を呼ぶ。最初に2階から、鳶色の髪の男の子がひょこっと顔を出し、階段の手すりを滑り降りてくる。
歳は私と同じくらい。160センチくらいの背丈で、機敏でしなやかな動きがガゼルみたいだ。
続いて降りてきたのは、30代くらいのイケおじさんだった。1つ結びにした白い髪が、肩の辺りに垂れている。肌も服も白い中で、目だけが理知的な黒水晶。腰には小さな杖を差していた。
「どうした、シュトラール。……誰だ、その子は。新入りか?」
「分からない。俺を起こした人間だ」
「は……!?」
「えっ?! シュトラールを起こしたってマジで!?」
「だ、だめでしたか……?」
訝しげな顔から、有り得ないというように目を見開くイケおじさん。それから、びっくりしたように声を上げる小柄な男の子。おずおずと問いかけると、イケおじさんは口元に手を当てて、少しの間考え込むように黙る。
「……詳しく聞こう」
通された場所は食堂みたいだった。白い布がかかった長方形のテーブルにつくと、大きめの缶に詰まったクッキーが現れ、バターの甘い香りが漂う。さらに、ふわふわ飛んできたポットが、カップに紅茶を注いだ。1滴もこぼさずに、目の前に着地したカップに、私は目を輝かせる。魔法みたいだ。
「……まず、名前を聞いていいか? お嬢さん」
「雪谷 星羅です。星羅が名前です」
「セイラ。ここへは、何かの用で来たのか? 新しい"患者"が来る報告は受けてないが……」
「いいえ。その、ハリネズミを追いかけてたら、ここに来てました。勝手に入ってすみません」
「ハリネズミ……。グイーダに呼ばれたか」
「いただきます」と言ってから、リンゴの香りがする紅茶を飲む。ほんのり甘くて美味しい。
あのハリネズミ、グイーダって名前なんだ。不思議な響き。
「この建物や国について、知っているか」
「いいえ。さっき患者って言ってましたけど、ここは病院なんですか?」
「アンタもしかして、森の塔に閉じ込められてたお姫様だったりする?」
「違うよ!?」
小柄な男の子が、ジャムが乗ったクッキーをぽりぽり食べながら尋ねてくる。怪訝そうだけど好奇心もあるような視線が、まっすぐ私を見つめていた。赤みがかったオレンジ色の丸い目が、サンストーンみたいだ。
「名乗るのが遅れたな。俺はクレマン。この施設――フェアリーガーデンの施設長だ。お嬢さんが起こしたのは、シュトラール・ドルン・レースヒェン。この国の王子。こっちの小さいのは、アンドレアス・ブラムスト」
「小さいって言うな!」
吠えかかるポメラニアンを、気にせずあしらうサモエドみたいに、クレマンさんが言葉を続ける。
「ここで生活しているのは、ある魔法使いに呪われた奴らだ。こいつらの――患者の呪いを解くために、俺は研究をしている」
「呪い、ですか?」
「例えばシュトラール。こいつにかけられたのは"眠りの呪い"だ。フェアリーガーデンに来る前は、丸1年眠り続けていた」
「えっ、丸1年!?」
「ここに来てからは、目覚めることができるようになった。だが、呪いが解けたわけじゃない。本人も予想できないタイミングで、突然眠り込んでしまう。一度眠ってしまえば、後は自分から目覚めるまでそのままだ」
「でも、私が揺すったら起きました……よね。時間はかかったけども」
「ああ。体を揺り動かされる感覚があって、目が覚めた」
「どれくらいだ?」
「えーと、確か数分くらい? です」
大体の時間を伝えると、クレマンさんは喉の奥で唸るような声を出した。目の前でワクワクする手品を見せられて、魔法かどうか半信半疑になっているような、そんな声。
「初めてなんだよ。呪いをかけられた後のシュトラールが、他人に起こされるのは」
「俺が鼻をつまんでも、ほっぺたを引っ張っても、近くでシンバルを鳴らしても起きなかったよな。シルトに子猫を10匹くらい乗っけられても寝てたし」
「お前たち、そんなことしてたのか」
「やべッ」
シュトラールさんが、じろりとアンドレアスくんを睨む。美人の怒り顔はかなり迫力があって、アンドレアスくんがクレマンさんの後ろに隠れた。背もたれから様子をうかがうように、顔をそろりと出す。
「お嬢さんは、何者なんだ?」
真剣な黒い目に、私の姿が映る。
彼の真摯な気持ちに応えるように、私は説明した。特に不思議な力は持っていないこと。叔母の読書室に行ったら、知らないハリネズミがいたこと。その子に着いて来たら、ここにたどり着いたこと。
「……なるほど。部屋の窓が、この世界に繋がっていたってわけか」
「俺、見に行きたい! 異世界って噂でしか聞かないし!」
「噂でも聞くんですね」
「多くないが、過去に実例があるからな。井戸やうさぎの穴に落ちたり、クローゼットが別の世界の入り口になっていたりする」
「物語の世界みたい……」
クレマンさんとアンドレアスくんと一緒に、3人で私が入ってきた窓の場所に行くことになった。いつ寝てしまうか分からないので、シュトラールさんはお留守番。軽やかな足取りで進むアンドレアスくんと、並ぶように歩く。その後ろを、クレマンさんがついていく。
シュトラールさんと出会った大木を通り過ぎ、花畑を抜け、柵から出る。爽やかな風に吹かれて、草原をさくさくと踏みしめていくうちに、空中に浮かぶ四角い窓が見えてきた。
「すげー! ほんとに窓が浮いてる!」
「……あれ?」
はしゃぐアンドレアスくんに対し、付きまとうのは少しの違和感。それに気づいた私は、声を上げた。
「窓が閉まってる!?」
来た時は開けっ放しにしてたはずなのに。取っ手を掴んで引っ張ってみるけど、開かない。血の気が引いていくみたいに、背筋が冷たくなる。懸命に押したり引いたりしても、ガタガタと揺れる音がするだけだ。
「うそ、何で? 何でっ?」
混乱しながら窓を叩く。ガラスに拳が当たっても、びくともしなくて、手が痛む。後ろから大きな手が伸びてきて、私の手をそっと押さえた。
「ゆっくり息を吸って、吐け」
クレマンさんのハスキーな声が、耳に流れ込む。言われるままに深呼吸を繰り返していくと、荒れていた心の海が、少しずつ凪いでいく気がした。
「……この扉、今は閉じてるな。流れが途絶えてる」
「俺に任せろ! こう見えて鍛えてるからな!」
「アンドレアス! うかつに触るな!」
クレマンさんが止めるより先に、腕まくりをしたアンドレアスくんが、窓の取っ手をがしりと掴む。その時、バチバチバチッ! と小さな白い光がいくつも爆ぜた。
「〇╳△□◇〜〜ッ!!?」
「アンドレアスくん!?」
ぱたんと倒れた彼の体には、目立った傷は無い。でも体がけいれんしてて、受けた衝撃が大きいことを物語っている。電撃を受けたアニメキャラみたいな反応に近い。
「このバカ。考え無しに動くな」
「……すびばせん……」
「わ、私の時はこうならなかったのに……」
「流れが途絶えていたとしても、この扉にとって、アンドレアスが"招かれざる存在"だったんだろうな。だから拒絶反応が出た、と考えるのが妥当だ」
白い杖でアンドレアスくんにふれながら、クレマンさんが言う。おろおろしながら見守ると、彼の様子がだんだん落ち着いていった。
「死ぬかと思った……」
「痺れとか、無い?」
「まだ指先に感覚が無い……」
産まれたての子鹿みたいに、彼はぷるぷる震えながら上体を起こす。彼が落ち着くまで、ゆっくりしていくことになった。
「クレマンさん。流れってなんですか?」
「別の世界に繋がる場所には、独特の"流れ"がある。風や潮の流れみたいなものだな。世界によって違う流れをたどって、そこへ辿り着く。昔一度見せられたことがあるから、すぐに分かった」
『ガリバー旅行記』で、主人公が小人の国に流れ着いたり、『ピーターパン』では空を飛んで、ネバーランドにたどり着いたりする。あんな感じなのかもしれない。
「あの扉の流れが蘇るまで、フェアリーガーデンにいるといい。空き部屋はまだある」
「いいんですか……?」
「宿代代わりに、俺の助手として、こいつらの呪いを解く手伝いをしてくれたら助かる」
「私、本当に何の力も無い一般人なんですけど、大丈夫ですか?」
「ケンソンしなくていいって。クレマンも言ってただろ? アンタ、俺たちが何しても起きなかったあのシュトラールを、たったの数分で起こしたんだぜ」
あぐらをかいたアンドレアスくんが、屈託ない笑顔を浮かべる。その明るさに励まされたような気持ちで、私はクレマンさんを見た。
ちょっとぶっきらぼうに見えるけど、優しい面もある彼の目を、正面から見つめて頭を下げる。
「えっと……じゃあ、お世話になります! よろしくお願いします!」
おとぎ話のような世界で、私の小さな冒険が始まった。