夜が明けたら「ただいま」を
ぽつり、ぽつりと点滴の雫が落ちる。白い病院のベッドの上に横たわる佑を、伏黒は椅子に腰かけたまま、何も言わずに見つめていた。
開かないまぶた。動かない表情。かすかに聞こえる呼吸音と上下する胸だけが、彼女がまだ生きていることを証明している。
その姿は、寝たきりになったときの津美紀と同じだった。
佐藤 佑は善人だ。助けたいと思った善人だけは、守れる力が欲しいと思ったのに。少しでも多くの善人が、平等に幸せを享受できるように、救いたいと思ったのに。守られていたのも、救われていたのも、自分の方だった。
爪が手のひらに食い込むほどに、きつく拳を握る。
「……佐藤」
名前を呼んでも、返事は無い。ひんやりとした病室に、伏黒の声が虚しく溶けて消えた。
***
「佑、おはよう。起きて……ないか」
ふらりと病室に入ってきた五条は、ベッドの傍に置いてあった丸椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
「僕この前、仙台に行ってきたんだよね。渋谷であんなことがあったのに、上も人使いが荒いと思わない? まあそんなのいつものことなんだけどね。これも買えたし許してあげようと思うよ。ほら、僕って優しいナイスガイだからさ」
がさりと音を立てて持ち上げてみせるのは、和菓子屋のロゴが入った紙袋。中からお菓子を取り出し、五条は話し続ける。
「これ知ってる? 喜久水庵の喜久福。超うまい仙台名物なんだよ。僕のオススメはこれね、ずんだ生クリーム味。早く起きないと僕1人で食べちゃうよ〜」
はぐ、とひんやりしている柔らかなお餅に噛みつけば、優しい甘さのずんだ餡とふわりとした生クリームが口いっぱいに広がっていく。ついつい頬が緩んでしまう美味しさだ。
「ん〜。やっぱこれが一番だね。こんなに美味しいの食べられないなんてカワイソウだなー。1個あげよっか?」
笑顔で食べかけを差し出してみても、佑からは何の反応も無い。当たり前だ。彼女は未だに眠り続けているのだから。
「……」
ようやく黙って、持っていた喜久福をかじることに集中する。1つを食べ終え、五条は紙袋を一旦、床頭台に置いた。
黒々とした髪に、石膏のような青白い肌。眠り続ける少女の姿は、まるで童話に出てくる、毒りんごをかじった姫のようだった。
「……僕はさぁ、死体でお人形遊びする趣味は無いんだよね」
ぎしり、と大きな手が、佑の枕元に置かれる。五条が覆いかぶさったことで、佑の体や顔に影が落ちる。
「ねえ、起きてよ。佑が作ったタルト、また食べさせてよ。他のお菓子でもいいからさ」
昼下がりの穏やかな光が差し込む病室で、2つの影が5秒ほど重なる。
「……こんなんで呪いが解けたら、苦労しないよ」
佑の唇に少しだけついたクリームを、すらりとした指先で拭いながら、五条は独りごちた。
***
「……う、……ゆう、」
「――ユウ!」
「ふがっ、?」
大きな声と揺すぶられる感覚に、パチッと目が覚める。目の前にいるのは、毛先がぴょこぴょこと跳ねたテラコッタの髪に、チェリーレッドの瞳をした男の子。それから、落ち着いたネイビーの髪に、ピーコックグリーンの瞳の、優等生っぽい男の子。
「……エース? デュース?」
「そーだよ。そろそろ休み時間終わるぜ」
「ずいぶんぐっすり寝てたな。最近疲れてるのか?」
「……え、あれ? 渋谷の事件は? 悠仁くんたちは……?」
「え? 何、寝ぼけてんの?」
「そう言えば、寝言で何か呟いていたな。どんな夢を見ていたんだ?」
そよそよと涼しい風が頬を撫でる。柔らかい芝生の感触。寝ている時に寄りかかっていたのは、しっかりした木の幹。
命を奪い合うような、呪い合うような。そんな激しい戦いなんて無かったかのように、穏やかな景色。不可解そうなエースの顔と、ちょっと興味津々っぽいデュースの顔。
「……なんか、自分が先輩とか皆の力を借りて、変身して、悪い人? を倒す夢……」
「おお! 胸がアツくなるやつだな!」
「ふーん。現実じゃユウは魔法使えないから、その反動じゃね? それより行こうぜ。次クルーウェル先生の授業だぞ」
エースが立ち上がり、私の方に手を差し出す。
「ほら」
「あ、ありがとう」
エースが手を貸してくれるなんて珍しいと思いつつ、素直に差し伸べられた手を取る。繋いだ手のひらから、温かさが伝わってくる。
私、いつの間にか、ツイステッドワンダーランドに戻ってきたのかな。
今までのことは全部夢だったのか、それとも今いるここが夢なのかは、分からない。
(でも今は……いいか)
今はただ、この世界に浸っていたかった。
魔法史の授業を受けて、うたたねをしているグリムを起こして。錬金術の授業で実験をして。お昼には皆と食堂に行って、ビュッフェ方式のオシャレなランチを食べたり、グリムに自分のごはんを少し分けたり、先輩や友達と話したりする。
自分がいた世界では普通じゃなくて、でもここでは普通で当たり前の時間。懐かしくて、何だか落ち着く。
「……あれ、まだ帰ってなかったわけ?」
1つ1つの机や椅子が前を向いて並んでいるんじゃなくて、長テーブルみたいな机が向かい合っている教室。そこの細い窓から、夕焼けを眺めていると、後ろからエースの声が聞こえた。
「うん。何だか名残惜しくて」
「そーかよ」
エースが隣に並ぶ。オレンジ色の太陽が、教室の中をゆっくりと琥珀色に染めていく。時計の針が進む音が、カチコチと小さく聞こえてくる。
「迷子は帰る時間だぜ」
遠くで鐘が鳴る音がした。
思わず隣を見ると、茜色の目が私を真っすぐに映していた。
「ほんとは分かってんじゃねーの? ここが、今のお前がいるべき場所じゃないって」
琥珀色になった教室に、少しずつヒビが入っていく。そして、ぱらり、ぱらりと、淡い金色の欠片になって、飛び去っていく。花びらにも似た、小さな欠片。
「ほら。お前、呼ばれてる」
目を閉じて耳をすますと、時計の音と重なるように、声が聞こえてきた。
――佑、嫌だ。目、覚ましてくれよ。
――佑。一緒にあのカフェ行こうって約束したじゃない。
――佐藤、起きてくれ。……頼む。
「……帰らなきゃ」
悠仁くん、野薔薇、伏黒くんがいる場所に。私が生きてきた、あの故郷に。仲間と呪いと、頼れる先輩や先生がいる、あの世界に。
ぽっかりと、黒い穴みたいな場所ができる。あそこが出口なんだろう。そこに向けて歩き出すと、ぽんと背中を軽く押された。
学園生活を送っていた間、ふざけて肩や腕を叩きあった、あの調子で。
「エース!」
振り向いて名前を呼ぶ。
この世界に来て、初めて会ったこの学園の生徒。初めてできた友達。明るくて意地悪で、要領がよくて、何だかんだ傍にいてくれた。
「また会えて嬉しかったよ! さよなら!」
ニッと笑いながら言うと、エースが少しだけ目を丸くする。それから、いつもみたいに明るい笑顔で、激励を送るみたいに声を張った。
「もう迷い込むんじゃねーぞ! 監督生!」
"監督生"。そう呼ぶのはきっと、私が、"自分"が、この世界にいたことを知る人だけだ。
エースの姿が見えなくなり、真っ暗な闇に包まれる。帰り道は分かるかな、と思ったとき、ポワッと明かりが灯った。
気づけば私の片手には、ランタンが握られていた。中には火じゃなくて、星送りのときに渡された願い星みたいなものがある。それが、道を照らすように、青白く光っていた。
ランタンをしっかり持って歩き出す。聞こえるのは自分の足音だけ。しばらく歩いていくと、暗闇に慣れた目が、向こうにぽつんとある小さな光を見つけた。
そこに向けて進んでいく。光が近づくにつれて、自分がいた場所がトンネルみたいな半円形であることを知る。
明るい場所に慣れるために、目をつむってから、まぶたを開く。すると彼岸花が咲き乱れる川辺が、視界にパッと現れた。
「わあ……」
一面の赤と透き通る水のコントラストに目を奪われる。手の中にあったランタンは、役目を終えたのか、消えていた。ふと、川の向こう岸に人がいることに気がつく。
風にたなびく黒い髪。お坊さんが着るような袈裟。大きな黒いピアスに、狐みたいな細い瞳。"最悪の呪詛師"と言われた、夏油 傑その人。
「私の体を解放してくれて、ありがとう」
たくさんの人を呪い殺したとは思えない、柔らかな笑みを浮かべて、彼は言った。
「帰り道はそちらだよ。振り向かないでお行き」
彼が指さす方には、1つのドアがある。建物は無くて、あるのはドアだけだ。ぺこりと会釈をしてから、私はドアノブに手をかける。
「悟に、よろしく」
友達のことを思うような、優しい声。
その言葉を胸に、私はドアをくぐった。
***
目を開けたとき、最初に視界に映ったのは、見覚えのない天井だった。
体を起こそうとして、自分が寝かされている場所が、柵付きのベッドにしてはやや狭いことに気づく。柵と思わしきものに手をかけて、ぎしぎしと軋む体を何とか起こすと、いつの間にか体に乗っていた菊や百合の花がぽたりと落ちる。
閉じそうになる目蓋を開けたり閉じたりして、それから周りを見回すと、知っている人がたくさん私を囲んでいた。
学長先生、五条先生、七海さん。悠仁くん、伏黒くん、野薔薇。真希先輩に狗巻先輩にパンダ先輩エトセトラ。
「皆さん集まって何してるんですか?」
あらためて服を見ると、私は白い着物を着ていた。こんなパジャマ持ってたっけ。
それより寝起きの姿のままじゃん。寝癖だけでも整えないと。手ぐしで髪をとかそうとすると、頭に紐状のものが巻かれていることに気づく。解いてみると、それには三角形の白い布がついていた。
なぜか足袋と草履を履いてて、手には白い手甲がはめられてる。着物の合わせは左前だし、懐を探れば六文銭が入った袋が出てきた。
「……?、??」
首を傾げながら、もう一度顔を上げてみると、呆然とした顔の悠仁くんたちと目が合う。目の前で奇跡が起きたような、信じられないというような反応だ。
まさか。いやそんなまさか。
「ゆ、」
「佑〜〜〜!!」
悠仁くんと野薔薇がこっちに向かって走ってきた、と思った瞬間、ドッと体に衝撃が走る。
背中に回された腕や手。ぎゅうううっと思い切り締め付けられるような感覚。悠仁くんのすっきりした整髪料の匂いと、野薔薇のふんわりしたシャンプーの匂い。2人に抱きしめられているのだと、脳がやっと理解し始めた。
「あ、あの……?」
「うわあああ喋ってる動いてる息してる! 心臓もちゃんと動いてる! よかったあああうわあああ!」
「バカ! あんたほんとバカ! 私がどれだけ心配したと思ってるのよ!」
「ご、ごめん。その、2人とも、今どういう状況か説明してほしいんだけど……伏黒くんは何で私の脈測ってるの!?」
泣きながら私の心臓辺りに耳を押し付けている悠仁くん。私に抱きついたままのせいで顔が見えないけど、肩を震わせながら怒っている野薔薇。
遅れてやって来た伏黒くんが、私の片腕を軽く持ち上げ、手首に指を置いてじっとしている。
「…………生きてる」
ぽつりと伏黒くんが呟く。それから私の手を大きな両手ですっぽり包んで、そこに額をこつんと寄せた。まるで、大切にしているものに縋るような仕草だった。
「………………よかった」