夜が明けたら「ただいま」を
東京メトロ渋谷駅 地下5階 副都心線ホーム
ハーフアップにした長い黒髪と、ひとふさだけ垂れた前髪が、さらりとなびく。僧侶のような着物と五条袈裟をまとったその男は、目の前に現れた少女を見て、楽しそうに微笑んだ。
「会いたかったよ。佐藤 佑」
「領域展開――『
契約を交わしているうえに、五条 悟を奪われているため、出し惜しみをする気は無い。相手が術を使う前に、こちらの領域に引きずり込む。夏油 傑の肉体を操る呪詛師――羂索が目を見張ると、全てが闇に包まれた。小さく揺れる黄緑色の炎に照らされた領域は、城のダンスホールのような空間だ。
おもちゃのように軽やかな音色が、パレードのような音楽を奏でる。次は何が来るか。バグに近い彼女を寄生先にするつもりは無いが、新しい駒としては欲しい。未知の存在が見せる力に、羂索が口角を上げると、佑の声が再び響いた。
「『
閉ざされた領域の中で、何かが開く音がする。羂索の背筋を駆け抜けたのは、1000年間久しく感じていなかった類の、空恐ろしさを含んだ高揚感。水が流れる音と共に、黒いインクのような何かが、足元を埋めつくしていく。
佑には1つ作戦があった。呪術師がコントロールする呪力は、人間から流れ出る負の感情がもとになっている。だったら、負の感情を最大限に使える場があれば、力を強めることができるのではないか。
高濃度のブロットが満ちる場所で、佑は呪力を巡らせる。本来のデバフ効果がバフ効果になる現象。更にここは佑の領域内。術者のステータスが格段に向上する場だ。
佑の両目と心臓の辺りから、黒くドロドロした液体があふれ、彼女の体を染めていく。背中からは黒い大きな影が姿を現した。やがて黒い液体がひからび、服のように彼女の体を包み込む。佑の姿が、変化していく。
左目からは白い炎が吹き出し、肌は色味を失って灰色になっていた。着ているのは、とんがり帽子やツギハギだらけのマントといった、魔法使いのような黒い服。帽子についているリボンとマントの裾は、破れたようにギザギザだ。
背後には、青いズボンをはいた、ツギハギのぬいぐるみに似たバケモノがいた。頭が透明なインク壺になっていて、黒い液体がたぷたぷと揺れている。黒いうさぎ耳がゆらりと動いた。
魔法士が一番避けねばならない暴走状態。しかし呪術師としては、高威力の負のエネルギーを扱える最強の姿。それがオーバーブロットだった。
「素晴らしい……!」
初めて見る異郷の影響に、羂索は思わず手を叩く。向こうが全力で来るなら、こちらも相応の力で迎え打たねば。黄緑色の炎に包まれた刀を向ける佑に、羂索も構える。特級相当の力を得た少女と、1000年以上活動していた呪詛師の戦いの火蓋が切られた。
***
「『
長い戦いの末に、とうとう首輪が羂索にかけられる。額の縫い目が解け、入っていた脳みそが転がり落ちた。相手の身体が動かなくなったことを確認してから、佑は近づく。ふらつく彼女よりも先に、マレウスが指先を動かした。
「安らかに眠れ」
黄緑色の炎が、脳みそを包み込む。断末魔を上げたそれが黒く焦げ、ボロボロと崩れていく。やがて灰になったとき、黄金の契約書がすうっと消えていった。契約達成の証だ。
「……遺体、あの人たちに返さないとだよね」
思い浮かべるのは、契約を交わした美々子と菜々子の顔。もう誰にも操れないように、燃やしてしまおうかと思ったが、勝手にやるのは申し訳ない。しかし、成人男性1人を運ぶのは、骨が折れそうだ。『スリープ・キス』で遺体を保護し、マレウスの魔法で浮かせてもらう。
「僕がこのまま、運んでいこう」
「ありがとう、ツノ太郎。あとは、五条先生を助けないと……」
へたり込みそうなのを我慢して、『アイ・シー・ユー』が指し示す立方体を手に取る。眼球がいくつも浮かぶ不気味なそれに、佑は『ドゥードゥル・スート』をかけた。封印の効果を上書きして、封印を解除する。
「やあ、佑。ちょっと見ない間にイメチェンした? 闇堕ち魔法使いみたいになってるけど。ハロウィーンの仮装? 手が込んでるねー」
「いろいろありまして……」
「ちなみにあの中、物理的な時間は流れてなかったんだよね。僕が封印されてから、どれくらい経ってる?」
「まだハロウィーンの真っ最中です……」
「やだ、僕の教え子がめちゃくちゃ強くなってる」
ひどく疲れ切った様子の佑に、いつもの軽口を叩きながら、五条の目は佑を見つめ続けていた。目の前にいるのは、教え子の佑だ。佑本人だ。なのに、何かが違う。根本的な何かが、決定的に変化している。
「……ねえ、佑」
「私、悠仁くんたちのところに行ってきます。まだ、困ってるかも」
手を伸ばしたが、その手が佑に触れることは無かった。黄緑色の光の欠片を残し、佑がその場から一瞬で消える。今までの佑であれば、絶対に出来なかった芸当だ。拭い去れない違和感を抱えながら、五条はその場を後にした。
***
「……佑?」
呪霊を倒し、合流した俺たちの前に現れた佑は、いつもと様子が違っていた。
「悠仁くん、伏黒くん、野薔薇」
安心したように笑う顔は、いつもと同じなのに。肌は血の気が無い灰色で、声にノイズのようなものが混じる。いつの間にか、魔法使いの仮装みたいな格好をした佑は、ボロボロのまま笑顔を浮かべた。
「……よかっタ。皆、無事ダッたンだ」
「モウ大丈夫。皆、私ガ守ルカラ」
「コレデ、モウ誰モ、傷ツカナクテ済ムヨネ。五条先生タチノ負担モ、キット減ルヨネ」
「今ナラ何デモデキル気ガスル。ダッテ、スゴク、チカラガ湧イテクルンダ!」
佑の背後には、黒いうさぎみたいな化け物がうごめいている。感じたことの無い、濃い呪力の気配。ぶわりと鳥肌が立つほどの危機感。俺たちを身構えさせるには充分だった。
「何だ、あれ……!?」
「何この禍々しいというか、おぞましい感じ……! 佑! あんたどうしたのよ!?」
「佐藤! 落ち着け! お前のおかげで全部終わってる! もう戦わなくていい!」
釘崎と伏黒の叫ぶ声が聞こえていないのか、佑は返事をしない。そのときだった。
「ガアアアアッ!」
獣が吠える声がして、何かが佑に襲いかかる。佑が剣を振ると、黒い波が盾のように現れ、佑を守った。
「グリム!?」
襲いかかったのは、キメラ姿のグリムだった。佑に対して、牙をむき出して唸っている。
「何ボケーッとしてるんだゾ!」
雄々しくて低い声がその場に轟いた。その声の主に、俺たちは目を見張る。
「俺様が押さえる! お前たちはユウから、あのバケモノを引き離すんだゾ!」
「グリムお前しゃべれたの!?」
「説明は後だ! このままだとあいつが死んじまうんだゾ!」
その言葉に、頭を殴りつけられたような気がした。佑が、死ぬ? 不思議な奴らを呼んでくれて、俺たちを助けてくれた佑が、こんな普通じゃない状態で?
「分かった!」
――そんなの、間違ってる!
「鵺!」
伏黒が式神を呼び出し、釘崎が釘を飛ばす。黒い雫が垂れる茨で、佑はそれを全て防いだ。うさぎ耳のバケモノが大きくなり、拳を振り上げる。それをグリムが飛びかかることで阻止する。
佑の背中とバケモノが繋がっている辺り。攻撃するならあそこだ。そうすれば佑を引きはがせる!
「邪魔、シナイデ」
佑の顔が悲しそうに、くしゃりと歪む。次の瞬間、グリムに押さえつけられていたバケモノから、どろりと黒い塊が現れた。それが佑の体を後ろから抱きしめ、少しずつ佑の体が埋まっていく。
「おい、取り込もうとしてるぞ!」
「させるか! 虎杖行け! 私たちで援護するから!」
「応!」
迷わずに佑に向かって走り出す。俺を狙ってきた黒い塊に、釘が刺さり、破裂する。
「芻霊呪法・簪!」
次々に来る黒い塊を、3人で蹴散らしていく。塊自体は脆くて、俺たちを傷つける気は感じられない。何があっても足は止めない。懸命に佑に手を伸ばす。
「佑!」
塊に腕を突っ込むと、どぷん、と泥沼に潜り込んだような感覚がした。ドロドロした液体を必死でかき分け、目をつぶってぐったりしている佑を見つけ出す。
「佑、しっかりしろ!」
離さないようにしっかり抱きしめ、手足に力を込めて引っ張り出したのと、グリムがバケモノの首に噛みついたのは、ほぼ同時だった。
バケモノの体や、黒いドロドロが、霧状になって消えていく。闇堕ちしたような佑の姿も、少しずつ元に戻っていく。
「佑、佑!」
名前を呼んで肩を叩く。ぐらぐらと佑の頭が揺れるけど、佑は目を覚まさない。口元に耳を近づけて、俺は愕然とした。
「虎杖! 大丈夫か!?」
「伏黒、釘崎……。佑、息してねえ……!」
釘崎の顔が青ざめる。伏黒が佑を仰向けに寝かせ、佑の横に膝立ちをして覆いかぶさり、胸骨に手を重ねて押し始めた。
俺と釘崎は近くで見守ることしかできない。猫の姿に戻ったグリムが、「ふなぁ……」と不安そうな鳴き声を上げた。伏黒の額に汗がにじむ。佑の目は固く閉じたままだ。
「……ッ」
伏黒が2本の指で、佑の顎を軽く持ち上げる。それから佑の額を押さえていた手で、佑の鼻をつまんで、顔を重ねた。
「「!!」」
人工呼吸が必要な状況だってことと、知ってるやつ同士の口がくっついたのを見てしまったことに、心臓がドクンと跳ねる。釘崎も同じなのか、思わずといった感じで口を手で押さえていた。
人工呼吸を2回してから、伏黒が心臓マッサージに戻る。その時、バシュッと音を立てて現れたのは、五条先生だった。
「五条先生! 佑が……!」
「……今、硝子のところに飛ばす! 恵はそのままマッサージ続けて! 悠仁と野薔薇は恵たちの近くに寄って!」
どういう状況かすぐに察したらしい。俺たちが伏黒の近くに集まると、周りを囲むように五条先生が円を描く。
硝子先生に診せた結果、力を使い過ぎたことで、かなりの負荷が佑にかかっていたことを知った。
佑はそのまま眠り続けて、――二度と目を覚まさなかった。