謎を解くのは誰のため?
割れたステンドグラスが、淡い銀色の月光を透かす。長い時間を経て色あせ、朽ちるのを待つ調度品や絨毯は、静けさの中で眠っているようだった。
かつて多くの人が行き来し、栄えたであろう城。今は歴史に置き去りにされた廃墟となったような、その空間の中央で、1つの糸車がゆっくりと回っていた。
からから、ころころ。
からから、ころころ。
窓辺に置かれた椅子に腰掛け、煌々とした黄緑色の瞳で糸車を愛でるように見つめながら、彼は微笑む。
「ヒトの子の成長は、存外侮れないな」
ここは彼女の――いや、"彼"の生得領域。
彼女の中に眠っている力の、核となる場所。
「待っているぞ。僕の愛しいユウ」
***
金属がぶつかり合う、激しくも澄んだ音が響く。八十八橋の下で、私は呪詛師さんと戦っていた。
何の効力を持つか分からない以上、彼の鍵にふれるのは怖い。呪霊じゃない、生きている人と敵対するのも初めてだからか、避けたり受け流したりするので精一杯だ。
「人間を相手にするのは、初めてですか?」
お見通しですよ、と言いたげな目で、呪詛師さんが薄笑いを浮かべる。
「遠慮せずに見せてください。もっとも……」
再び刀と鍵がぶつかったとき、彼は鍵をカチャリと回した。まるで、見えない鍵穴を作り出して、鍵を閉めるように。
その途端、刀が空中で固定されたかのように動かなくなる。柄をしっかり握って懸命に動かそうとしても、びくともしない。私の焦りを見逃さず、彼は指が食い込むほどの強さで、私の腕をがっちりと掴んだ。
「あなたの了承は必要ありませんが、ね」
口角を吊り上げ、目を爛々と光らせて、彼は不気味に笑う。やっと見つけた宝箱をこじ開けるような、そんな愉しみを隠さない目。
呪力をまとった鍵が、私の額に差し込まれる。
カチャリと錠が開くような音がした瞬間、頭の中にたくさんの映像が流れ込んできた。
――そこのニンゲン! オレ様にその服をよこすんだゾ!
――オレは■■■。今日からピカピカの1年生。どーぞヨロシク♪
――大丈夫だって。オレを信じろ。
――俺たちが行ったって、足手まといになるだけかもしれない。でも、お前だって相棒とダチがやられたのに黙ってらんないだろ。
――もし俺が夢に縋り、『闇』に飲み込まれそうになったら……。ユウ。どうか俺を止めてほしい。
――私に、彼らに、君に、残された時間は少ない。
――決してその手を離さぬよう───────
誰の声かも分からない。たくさんの声がノイズのように混じり合う。
「うあ゛あああああああっ!」
頭が、割れるように痛い。耐えきれずに悲鳴を上げる私を、白銀の月が見下ろしていた。
***
意識を失って倒れた佑の上に、スクリーンのようなものが現れる。そこに流れる映像を、興奮を抑えずに眺めながら、呪詛師は手先で鍵をもてあそぶ。
彼の術式は【
「これが、彼女が行っていた異郷ですか」
異郷とは、人間が暮らす世界では有り得ない力が通じる場所。人間以外の種族が暮らしている場所。そして、行こうと思って行ける場所には無い場所。日本国内外を問わず、数多くの神話や昔話、童話や漫画、アニメーションやライトノベル等で扱われる題材に、彼はひどく魅了されていた。
映っているのは、平凡なようで、日本ではあまり見慣れない風景。制服を着た少年たちが、大学の講堂のような教室で授業を受けていたり、広い食堂で話しながら食事をしたり、洋風建築らしい柱が立ち並ぶ廊下を歩いたりしている。
それだけ見れば、イギリスの学校に通う生徒たちのように思えるだろう。しかし、呪詛師が生きる世界と決定的に違うものがそこにあった。
キラキラ光る宝石がついた万年筆を振り、炎や風、氷や光を生み出す光景。
ホウキに乗ったり、掴まったりして、空を飛ぶ光景。
怪しげな色をした小瓶の中身や、得体の知れない粉末を大釜で混ぜて、薬のようなものを作り出す光景。
人によって違う、不思議な力を繰り出す光景。
それらは全て、『魔法』によるものだという。
「呪術では無く、魔法がある世界……! こんな異郷が存在するとは、何と素晴らしい! 後は彼女が、どうやってこの異郷にたどり着いたかを探るだけですねえ……! ああ、彼女がどうやって帰ってきたかも確かめなければ! 行き来できなければ、異郷が実在するという証拠になりませんからね!」
早口でまくしたてるように喋りながら、呪詛師は鼻息荒くスクリーンに張り付く。全ては自分が知らない世界を知り、そこにたどり着き、その世界を知り尽くすため。
彼女の記憶をもっと見ようとした時、映像に砂嵐が混じる。どうやら彼女の記憶は、想像以上に厳重に封じられているらしい。舌なめずりをしながら、呪詛師が鍵に更なる呪力を込めると、足元で声が聞こえた。
「そんなに知りたいのなら、教えてやろう」
少女のものとは違う、威厳のある低い声。凛とした青年のような声を発しながら、身体を起こしたのは、佑本人だった。
前髪の隙間から見えた目は、雪の下から萌え出る若草のような色に染まり、宝石のように輝いている。その輝きは、美しさだけでなく、どこか禍々しさも感じさせた。
呪いではない。人間でもない。精霊とも違う。こちらの理解の範疇を超えた、何か。それを相手にした呪詛師の手が、足が、体が、小刻みに震え出す。自分が知らないものに対する、畏怖と高揚。相反する感情が彼を包んだ。
「"僕"のヒトの子に手を出した礼だ。存分に、心ゆくまで、その脳が焼き切れるまで、教え込んでやろう」
細い指が印を組む。"佑"の呪力が、大きく膨らみ、強くうねり、形を変えていく。
「確か、この世界のヒトの子は、このように力を練るのだったか」
呪詛師が動く前に、薄い唇が言葉を紡いだ。
「領域展開」
思い描いた通りの魔法を使うのに、必要なのはイマジネーション。それは呪術とて、例外では無い。大事なのは、確かな土壌。そして一握りのセンスと想像力。
「『
太古の夜を思わせる濃い闇が、辺りを塗りつぶす。呪詛師が辺りを見回したとき、軽やかな音楽が鳴り響いた。
華やかで明るいパレードのような音楽。遊園地にいるかのような、楽しげな音色。しかし、暗い色彩に似合わないその音は、その場の異様さと恐ろしさを際立たせるだけだ。
黄緑色の炎がぽつぽつと灯る。
おぼろげに浮かび上がったのは、ダンスホールのような広い空間。そこへ次々と、闇の中から様々な影が抜け出してくる。
槍を持ったトランプのような、薄っぺらい影。ランプから煙のように現れる影。獲物を求めて唸るサバンナの動物。ヒレをゆらめかせ、呪詛師の周りをぐるぐると泳ぐ人魚。
不思議の国の住人たちが取り巻く、夜の世界。
「もう帰り道は無いよ」
判決を下すような声が、呪詛師の希望を断ち切った。
***
深い海に潜るように、記憶を遡っていく。
黒い棺を乗せた馬車。言葉を話し、青い炎を吹く魔獣。闇の鏡。オンボロ寮。出会った人たち。獣人。人魚。妖精。魔法。魔法士養成学校。ナイトレイブンカレッジ。
「……う、……ゆう、」
「――佑!」
「ふがっ、?」
大きな声と揺すぶられる感覚に、パチッと目が覚める。目の前にいるのは、明るい茶髪をボブカットにした女の子と、ツーブロックにした短髪の男の子。それから、頭から出血している、黒髪の男の子。
「……野薔薇? 悠仁くん? 伏黒くん?」
「とりあえず大丈夫そうね」
「よかったー、起きた!」
「お前も無事か。良かった」
「伏黒くんが一番無事じゃない気が……」
「ところで、この茨に縛られたオッサンは誰よ?」
「あ。その人、私を襲ってきた呪詛師さん」
「……虎杖、まだ動けるわね」
「おうよ」
「俺も行けるぞ」
「さ、3人とも? 白目剥いて気絶して拘束されてる人に、これから何するつもりなの?」
「ちょっと潰すだけよ」
「一発殴るだけ」
「渾の爪で裂くだけだ」
「何を? どこを?? 待って待って3人とも落ち着いて」
止められなかった。突然出てきたグリムに、全身使って顔面を覆われたから、何が起きたかは分からない。もふもふのお腹が離れたとき、鼻が折れて、胸からお腹にかけて三本の切り傷があるのに、未だ眠り続ける呪詛師さんの姿があった。
「全然起きなかったわね。急所を狙ったのに」
「こいつ、警察とかに引き渡した方いいのかな。俺、運ぶよ」
「……新田さんに報告して、補助監督の人にもう1台車を回してもらうか。先生たちに引き渡そう」
「はわわ……」
淡々と処理を進める3人を、おろおろしながら見守っていたとき、野薔薇が振り返る。
「佑、こいつに何か術式掛けてる? いつものアンタとは、ちょっとだけ違う残穢があるんだけど」
「あ、えと……。私、その人の術式? で気絶してたから分からなくて……」
「もう一発殴っとく?」
「悠仁くんもう大丈夫だよ!」
話しているうちに、少しずつ、頭の中が整理されていく。自分が使っていた術式は、誰かから借りたものであること。ずっと守っていてくれる存在がいたこと。それから……。
「……私、私……その人の術式で、思い出した」
「何を?」
「まさか……」
「私が、"神隠し"で行ってた場所……」
「"ツイステッドワンダーランド"」