卵が割れるその前に



交流会のための特訓と、たびたび来る任務に追われながら、忙しい日々を送っていたある日。私は任務のために、神奈川県を訪れていた。

無事に呪霊を祓い終えて、補助監督さんに言われた通りにまっすぐ帰ろうとしたとき。空の一部が切り取られたように、夜になっているのが見えた。

あんなところに帳が降りてるなんて。誰かが戦ってるのかな?

「グリム、行ってみよう」

キメラの姿のグリムを呼び出し、彼の背中にまたがる。グリムが勢いよく地面を蹴り、視界がぶわっと一気に広がった。

ドラゴンみたいな翼を広げ、グリムが空を飛んでいく。風を頬に受けながら近づくと、帳が降りている場所に校舎があることが分かった。

りおう高校? いや、さとざくら高校かな。

とぷん、と水の幕をくぐるような感覚がして、グリムと一緒に帳の中に入る。牙をむき出して唸るグリムを、撫でながらなだめていると、全身の毛が逆立つような感じがした。

これ、呪霊の気配……?

嫌な予感がして、校舎に向かって走り出す。目指すのは2階。窓ガラスが割れてる場所。

玄関から飛び込み、土足のまま階段を登っていく。気持ちばかりが急いて、もどかしい。スカートがばさばさと足に絡みつく。もっと早く走りたい。何か起きてからじゃ遅いのに……!


「『月夜を破る遠吠えアンリイッシュ・ビースト』!」

そう唱えると、ふいに体が軽くなり、身体中に力が満ちた。左右の手で床を掴むように、一気に階段を駆け上がる。

目的地は近い。誰かの声が聞こえてくる。

「順平って君が馬鹿にしている人間の、その次くらいには馬鹿だから。だから死ぬんだよ」

声の主が階段の影にいるからか、様子が分からない。でも、誰かの命の危機が迫っているのは分かる。


───────そうはさせない。


頭の中の引き出しから、もうひとつの言葉が転がり落ちる。意識を集中させて、私はその言葉を唱えた。

***

無為転変。
相手の魂に触れて、魂の形を操作し、対象の肉体を変形及び改造する術式。

触れられて改造されてしまったら、もう反転術式を使ったとしても治せない。そんな能力を使って、真人は順平に触れた。

グニィ、と順平の肉体が、物理法則を無視した形に歪む。

(……あれ?)

そのとき、真人が抱いたのは違和感だった。

(確かに魂の形を変えたはずだ。見た通り、ちゃんと改造できてる。……でも何だ? 何か、いつもと違うような……)

順平だったものが、虎杖に向かう。
真人の拘束は解けたが、虎杖は反応できなかった。
映画の話をして、一緒に夕飯を食べた仲の友人が、呪術高専に来いよと誘った友人が、目の前で異形に変えられた。

「順平! しっかりしろ! 今治してやるから!」

異形に殴られながらも、虎杖は腕に力を込め、彼を懸命に押さえる。けれども、異形は攻撃を止めない。脇腹を抉るように、拳を叩き込まれながら、虎杖は自分の中の呪いを呼んだ。

「宿儺ァ! 何でもする! 俺のことは好きにしていい! だから俺の心臓を治した時みたいに順平を治してくれ!」

呼びかけにすぐに応じた呪いの王は。

「断る」

矜恃、未来。全てを捧げて寄りすがった彼の頼みを、無情にも切り捨てた。
呪いは呪いでしかない。寄り添って力を貸してくれる、頼れる存在などでは決してない。

「治せと言うが、その人間、何も変わっていないではないか」
「何言って……!」

人間とは思えない姿にされているというのに、それを気にも止めていない発言だ。虎杖が食ってかかろうとしたとき、ぬるりとしたものが手に流れた。

その感触にぎょっとして、視線を戻す。順平の青紫色の体から、赤い液体が流れ出していた。

(血!? いや違う、鉄錆みたいな生ぐさい臭いがしない。むしろ、この匂いって……)
「ペンキ……?」

虎杖が呟くと、湧き出てきた赤いペンキが順平の体をすっぽりと包み込む。ゆっくりと形を変えて、ペンキが流れ落ちて消えた後、そこにはもとの姿の順平が立っていた。

「あ、やっぱり変えられてなかったんだ。手応え無いけどいつも通り姿が変わったから、気のせいかと思っちゃったよ」

占いが外れていたような気楽な声で、真人は笑う。虎杖が順平を背にかばったとき、黒い影が飛び込んできた。

真人の体が吹っ飛び、壁に穴が開く。

黒い影の正体は、1匹の狼だった。
人が乗っても大丈夫そうに見えるほど大きい。黒々とした毛並みが、銀色のツヤを帯びている。

(伏黒の玉犬……じゃねえよな。デコに赤い三角のマークがねえ。気配的に呪霊でも無い)
「味方……なのか?」

虎杖の問いかけに、狼が振り向く。澄んだ茶水晶の瞳が虎杖の姿を映すと、その目が大きく見開かれた。

狼の体が、白い光に包まれる。

「……いたどり、くん?」

震えてかすれた少女の声がして、狼がいた場所に立っていたのは、虎杖と同じ渦巻きのボタンがついた制服の少女だった。

順平は困惑した。
まず、慕っていた真人に、今まで見せてもらった改造人間たちと同じようにされたと思ったら、助かっていた。

次に、自分たちを守るように現れた黒い狼が、黒髪の女の子に変身した。狼が本体なのか、今が本来の姿なのかはまだ分からない。

そして今、呆然として、幽霊でも見たような反応をする少女。そんな少女の視線から逃げるように、赤いパーカーのフードを思い切り深く両手で被って、しゃがみ込んでいる虎杖。

何がどうしてこうなった。

「……虎杖くん、だよね?」
「…………ヒトチガイデス」
「……うそだ」

虎杖は混乱していた。

(やばいやばいやばい、五条先生に俺が生きてるのまだナイショにしとこうねって言われてたのに佐藤と会っちまった! っていうか何で佐藤がここに!!??)

沈黙が降りる。手遅れだけれど、必死で顔を隠している今、佑がどんな表情をしているかは虎杖には分からない。

「……これだけは教えて。君は本物なの? それとも偽物なの?」
「そ、それは」
「……ちなみに偽物なら、斬ります」
「切っ、え!?」

シャキ、と鋭い刃物の音がして、佑が鞘から日本刀を抜く。日本で禁止されているはずのものが、目の前に現れたことに驚いたのは、虎杖だけじゃない。順平もだった。

「ま、待ってください! 事情は分かりませんけど、悠仁を傷つけないでください……!」
「分からないなら黙っててください」

グサリとくる言葉をぶつけられ、順平は押し黙る。復讐の念に支配されて、冷静じゃなくなっていた自分が、虎杖にぶつけたのと似た言葉なのが、なお刺さった。

「あと10秒」
「時間制限あんの!?」
「9、8、7」
「待って待って待って俺マジで本物! 偽物じゃない!」
「6、5、4」
「虎杖 悠仁、呪術高専東京校1年! クラスメートは伏黒と釘崎と佐藤! 担任は五条先生! 学長先生はブサカワ呪骸作る人!」
「3、2、1」
「あっ、そうだ! 佐藤のいちごタルト甘酸っぱくて美味かったです! ゴチになりました!」

佑がゼロを言い終わる前に、両膝と両手をついて、土下座のような体勢で虎杖は頭を下げた。突然始まったコントのような空気感に、順平はさっきまでの状況が頭からすっぽ抜けかける。

「……なんで、私がいちごタルト作ったこと知ってるの……?」
「五条先生がおやつにくれました」

構えられていた日本刀が下ろされるのが、気配で分かった。ほっと虎杖が息をつくと、すんと鼻をすするような音が聞こえる。

顔を上げると、佑の目がきらきら光っていて、そこから雫がぽろりと流れ落ちていった。



「おーい、そろそろ終わった?」

カチリとスイッチを切り替えたように、場を流れる空気が一変した。佑は手の甲でさっと残っていた涙を拭い、虎杖は立ち上がって拳を構える。

「話には聞いてたよ、"異郷からの生還者"。君も魂の形を変えられるの? 狼の他には、何に変身できるのかな。そうだ、さっき俺の術式をどうやって阻止したのか教えてよ」
「さっき使ったのは、『薔薇を塗ろうドゥードゥル・スート』。短時間、要素を上書きして変えることができます」
「へえ、すごい! 他には何ができるのかな? 君みたいにイレギュラーな人間に会えるなんて、俺は運がいいね」

無邪気に喜んでみせる様子は、青年のような見た目をしていても、子どもと変わらない。しかし、相手は人間の負の感情から生まれた呪いだ。

「……佐藤、順平を頼む。あいつは俺にやらせてくれ」
「……分かった。でも危なそうだったら、勝手にサポートするからね」
「頼む」

真人に視線を移したとき、虎杖の目から光が消える。

「ぶっ殺してやる」
「"祓う"の間違いだろ、呪術師」

真人と虎杖が戦い始める。
一方で順平を任された佑は、自己紹介を終えた後、彼から細かい事情をあれこれ聞いていた。

「あ、順平さんって2年生なんですね。それじゃあ順平先輩って呼びます。……なるほど、あのマヒトっていう呪霊からいろいろ教えてもらったと」

いじめられていたこと。真人が術式の使い方や呪霊について教えてくれたこと。真人は自分の考えを含めて、自分の全てを肯定してくれたこと。母親が呪い殺されたこと。その復讐のために、今日動いたこと。虎杖とは、偶然会って、映画の話で仲良くなったこと……。

「……真人さんは、悪い人じゃない」
「本当に悪い人じゃないなら、人間を改造したりしませんよ」

まだ信じられなかった、いや信じたくなかったことを絞り出すように言うと、相槌を打ちながら聞いてくれた少女は、びっくりするほどバッサリと言った。

「……そう、だよね。そもそも、真人さんは人じゃなかった」

認めざるを得なかった。自分にとって優しい言葉をかけてくれたけど、思い返してみれば、自分を動かして何かをしようとしていた。

例えば、自分の敵である呪術師と、仲良くなるよう言ってみたりだとか。

人間を大きくしたり小さくしたり、あれだけ好奇心に従って人間を改造している存在が、自分を改造しない保証なんて無かったのに。

「……馬鹿だなあ、僕は」

体育座りをしたまま、腕に顔を埋めて、自嘲気味に呟く。

自分の全てを肯定するという、甘く優しい言葉も、母を呪い殺されて動揺していたときに落ち着かせてくれたことも、全部まやかしだった。

「あなたは、どうしたいんですか?」

思わず順平が顔を上げると、正面にしゃがみこんだ佑が、順平を真っすぐに見つめていた。

「虎杖くんに、"高専に来いよ"って誘われたんですよね。でも、人に言われたから行くんじゃダメです。自分で決めて、自分で動かないと」

落ち着いた声に解かれるように、ごちゃごちゃになっていた考えが、ゆっくりとまとまっていく。

母を殺した相手が許せない。母は呪物に引き寄せられた呪いに殺されて、その呪物を用意したのは、自分を救いあげてくれた真人。
でも真人は、自分のことも使い捨ての道具みたいに殺そうとした。

憎しみと悲しみの他に生まれたのは、自分でケリをつけたいという気持ちだった。

「……強くなりたい。真人さんから貰った力で、真人さんが言う馬鹿が、死なずに生き残るんだってことを、証明したい」

その目には、もう弱々しさも、憎しみに凝り固まった陰りも無かった。相手を見つめ返すほどの、強い意志が宿っていた。

「大丈夫みたいですね」

それを見て、佑は安心したように笑う。

「それじゃあ、私は虎杖くんのサポートに行くので、順平先輩はここで待っててください」
「あ、あの、僕も連れていってもらえたりは」
「危ないからダメです。意思疎通ができるってことは、知能が高いことと一緒。つまりあの呪霊は相当強いです。本来なら、私たちみたいな子どもが相手にしていい存在じゃないはずです」

両腕でバッテンを作りながら言うと、順平はいささか不服そうな顔をした。自分より1つ歳下の虎杖が、戦っている真っ最中だからだろう。

「私の力なら、特級でも何とかできるらしいです。だから順平先輩は、今は自分の身を守ることを優先してください」

するり、といつの間にか現れた黒猫――グリムが、順平を見上げて「ふなぁ」と鳴く。

「何かあっても、グリムが守ってくれます」

順平が頷いたのを見てから、佑はくるりと背を向けて走り出した。

(虎杖くん、どこまで行ったんだろう)

周囲を見回しながら廊下を駆けていくと、窓から土煙が上がるのが見えた。クレセント錠を外して窓を開け、窓枠に足をかける。

「受け止めて」

念じるように呟き、具体的なイメージを頭に思い浮かべると、黒い茨がするりと這い出てくる。そのまま佑は窓から飛び降りた。
黒い茨から棘が消え、幾重にも重なり、落ちてきた佑の体をぶ厚いクッションのように受け止める。

「虎杖くん!」

見えたのは、真人に串刺しにされている虎杖の姿だった。その声に、真人の意識が佑に向かう。

「君から来てくれるなんて嬉しいな」

瞬きの間だった。真人の足がチーターのような形に変わり、一気に佑との距離を詰める。佑が刀に手をかけるも、真人の手は佑を捕らえていた。

「順平はできなかったけど、君の魂の形を変えたら、あいつ泣いちゃうかな?」

無為転変。真人の手のひらから呪力がほとばしり、佑の体へ流れ込む。そして、魂の形に触れる。

そのはずだった。

(魂の形が……無い?)

色も形も、一切の無。そう感じたのは一瞬だけで、真人の術式は彼女の魂をちゃんと見つけた。そこで、彼女の魂を覆い隠している、"何か"があることにも気づく。

(魂の形を知覚している? いや、違うな。彼女の意思と言うより、もともと"何か"に守られている?)

薄いベール1枚を隔てているような、そんな僅かな距離が埋められない。彼女の魂に、触れることができない。



「これはこれは……勇気があるな。僕のヒトの子に触れるとは」



虎杖の中にある、宿儺に触れたときと似て非なる感覚。声の主の姿は見えないが、強大なものに見下ろされているような心地になる。

(この気配……ほんの少しだけ花御に似てるな。呪霊じゃなくて精霊の類か?)

呪いでもない。人間でもない。こちらの理解の範疇を超えた何かが、存在している。


「下がれ。無礼者」


ぱっと花びらが散ったように、赤い液体が飛び散る。
真人の胸が、肩が、腹が、数本の黒い茨に貫かれていた。さきほど自分が、虎杖にそうしていたように。

佑が刀を鞘から抜き、真人の腕を切り落とす。その直後、真人の顔面に、思い切り拳がめり込んだ。きつく握りしめた拳を叩き込まれたことで、ぐしゃりと真人の顔が歪む。

「佐藤に触んな。てめぇの相手は俺だろ」

佑が今まで聞いたことのない、静かに激怒しているような、虎杖の低い声。腹の底でマグマが煮えているような、背筋が寒くなる声。

(俺の術式が効かない。こっちも天敵かな。器ってわけじゃないけど、彼女の中に別の何かが眠っているのは確かだ)

真人は知らず知らずのうちに、口角を上げていた。知らないことがあれば知りたくなるのは人間の性だが、人から生まれた呪いである真人も例外ではない。

ぼこりと音を立てて、切り落とされた真人の腕が再生する。

「ねえ君、どこで"それ"と出会ったの?」

腕の先が数本のロープのような形状になり、しゅるりと長く伸びた。蛇のようにしなやかな動きで、佑を狙うようにうごめく。

「君のこと、もっと知りたいな。"異郷からの生還者"」
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