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少し開けた窓から、冷たい風が時折ひゅうと入り込んでくる。空気の入れ替えをしたほうがいいと思ってのことだったけれど、日陰になってしまった部屋の中は思ったより気温が低くて、椅子に座った私の手はひんやりとしている。
「動かないでね」
言われた通り、なるべく力を抜いているけれど、段々と指先から体温が奪われていく感覚に、窓を開けていたことを少しだけ後悔していた。
そんな私とは対照的に温かな手をした彼は小瓶から色を取り、その筆先で私の爪先を滑らせていく。
ひと筆ひと筆をゆっくりと、丁寧に動かすその姿はあまりにも自然で、聞かなくたって慣れている事が伝わってきた。
最後にふっと息を吐いた彼は、私の手を温めるように両手で挟む。手のひらをじんわりと伝わる温もりが心地いい。
「はい、あとは乾くまで動かさないでね」
にこりと笑って言う山崎さんの手が離れると、私の指先はたちまち元の冷たい手に戻ってしまった。ああ、寒い。それから少しだけ、さみしい。
動けない私をよそに、椅子から立ち上がった山崎さんは、少し離れた所に置いた箱の中へと無造作にマニキュアをしまう。色とりどりの小瓶がころころと転がっている様は、飴のようにも見えた。隙間もよれもなくきっちりと塗ってくれた人とは思えないほど、大雑把な片付け方をする山崎さんの背中を眺めながら、ふうっと爪先に息を吹きかける。あまり意味はないかもしれないけれど、少しでも早く乾いてほしかった。
「こらこら。変な事してないでじっとしていて」
「あ、すみません」
こっそりとしたつもりが、山崎さんにはバレバレだったようだ。すぐに見つかってしまい、慌てて顔を離した私に静止するように、温かな手で私の指先を隠すと、眉間に力を入れて凄まれてしまった。
だがそれもつかの間で、すぐに表情を緩めた山崎さんは視線を落とし、私の広げた手を右手の小指から順に左手まで眺める。
まじまじと確認されるのは気恥ずかしいが、自分の行いのせいだと分かっている手前、引っ込める事など出来る訳もない。
段々と緊張から早くなっていく鼓動を何とか押さえつつ耐えていれば、流れる視線がふわりと上昇した。視線が合ったかと思えば、その手はまた離れてしまった。
「じっとしてるのは暇だもんね。乾くまで話でもしようか」
先程と同じように椅子に腰かけた山崎さんは、私と顔を合わせると人当たりのいい笑顔をこちらに向ける。私より年上のこの人は、時々こういう可愛い表情をするからずるいと思う。言えばきっと拗ねたような顔をするんだろう。それも可愛いに違いない。
「かわいい…」
「…え?何?」
「あっ…あ、いえ、その…」
「え?可愛いって言った?」
しまった。
そう思った時には遅く、私に詰め寄る様に顔を寄せた山崎さんは、もう目の前だ。
しどろもどろになりながら言葉を探すも、残念な事に“良い言い訳”は思いつかない。
ああ、とか、うう、と唸るしか出来ない私を見て、山崎さんはついに吹き出してしまった。
「あぁ、ごめん。別に怒ってるわけじゃないから…そんな困った顔しなくてもいいよ」
柔らかく下がった眉と、緩やかに上がった口角。
優しい声に、いちいち心臓がざわついて仕方ない。
恥ずかしくなった私は目をそらして、鮮やかに発色している爪先に視線を落とした。
つるんとした水色に、淡いピンク色が花のように描かれているそれは、空に舞う桜の花弁に似ている。
一つ一つが違うデザインのそれは、小さな芸術作品のようだ。
「可愛いでしょ、それ」
まるで何てこともないように飛んできた言葉は、私の心にするりと入り込んできた。当たり前のように言われたその言葉に、不思議と私の口まで素直にさせた。
「…はい、とても素敵です」
再び顔を上げて山崎さんを見れば、ぱちりと瞬きをした山崎さんと目があって、やっぱりまだ少し照れ臭い。山崎さんはにこりと笑って、私の手をそっと持ち上げて指先を見始めた。
「俺もそう思う。すごく似合ってるよ」
「ありがとう、ございます。お手間を…」
「いやいや、そんなこと無いよ。たまには練習しておかないと腕が鈍るしね」
監察は潜入捜査もあると聞いているから、きっと女装なんかもするのだろう。
もしくは、そういった店員にでもなるのだろうか。
私にこうしているように、誰か知らない女性にも、こうして触れたりするのだろうか。
「……っ…?!」
突然、指先がぞわぞわと異様な感覚に襲われた。思わず手を引っ込めようと したが、願いは叶わず私の手は山崎さんの手に捕まっている。
「駄目だよ。じっとして」
「で、でも」
「駄目」
ぼんやりと考え込んでいる間に、私の両手の指はすっかり山崎さんの指に絡め取られていた。
それぞれの手のひらを合わせるように絡ませた手から、肌の温もりが伝わってくる。
きゅっと繋がれていた指をゆっくりと離され、まだ緩く繋いだまま親指の腹で手の平から人差し指を撫でられて、言い様のない感覚に息を飲んだ。
普段触られることのない部分でもあるが、あまりに扇情的な触られ方をした私の体は、おかしくなってしまったのだろうか。
すきま風に晒された頬は、やけに涼しく感じる。
「かわいい」
「へっ…?」
「いや、顔真っ赤にして可愛いなぁって思って」
「え、あ、あ…」
繋いだままの手までも、すっかり熱を持っていた。
恥ずかしさで視界がぼやけてしまっている私に追い討ちをかけるように、山崎さんはお芝居掛かった仕草で私の指先を手に取り直す。
そのままゆっくりと山崎さんの顔が近づく。
容易に想像のつく展開に、これでもかというほど心臓が激しく暴れだし、私は直視できずに目を閉じた。
羞恥と期待でごちゃまぜになった感情が、指先から溢れ出てしまいそうだった。
「………?」
だが想像していた感触は、数秒経っても訪れることはない。
再びひゅうっと冷たい風が吹いたことで少し冷静さを取り戻して、恐る恐る目を開いてみれば、なんと山崎さんは小刻みに震えながら笑いをこらえていた。
──からかわれた!
そう瞬時に頭の中を駆け巡った私は、慌てて手を引き抜いて太ももの上で固く拳を握る。
あまりの悔しさに、爪の事などすっかり忘れて力を込めた。
「ひ、ひどい……」
絞り出した声はあまりにか細く、あまりに情けなかった。
それ以上話せば、溜め込んでいた感情が爆発しそうで、口を噤む代わりに力を込めて席を立った。素早く足を動かし、戸口へと向かう私の顔は、きっと酷いものだろう。
そんな私の手首を山崎さんは力強く掴んだが、振り返ることも振りほどくことも出来ない私は、ただ静かに息を吐いてゆっくりと言葉を探っていく。
「ありがとう、ございました。もう出来たみたいですし、戻ります」
「まってまって、怒らせたならごめん」
「別に怒ってなんか」
「いやいや、絶対怒ってたじゃん。笑ってごめん。あまりにも…その、キミが素直に反応してくれるから、調子に乗りすぎた」
「………」
「本当にごめん」
背後から弁明をする山崎さんの声がほんの少し低くなり、指先がピクリと反応してしまった。
そんな私に気付いているのか、いないのか、山崎さんは掴んだ手を未だ離さずしっかりと力が込められている。
「…大丈夫です、ので…手を…」
「え?あ、ごめん!」
慌てた声と共に、容易く解放された手首はじんわりと痺れるような熱を持ち、撫でれば薄っすらと痕が残っていた。
「ごめん、痕が…」
「すぐに消えますよ、この位。平気です」
「でも」
「平気です。それに、稽古でできた傷のほうが多いですし」
やっと治まった熱にひと呼吸置いて、私は後ろを振り返ると、山崎さんとしっかりと顔を合わせた。目の前には申し訳なさそうな表情でこちらを見る山崎さんが居て、少しだけ意地悪をしてやりたくなった。
なっただけで、そんな事はできないけれど。
「本当に大丈夫ですから、気になさらないで下さい」
「そう…?」
しゅんと垂れた眉にへの字に下がった口角が、叱られた子犬のように見えてしまうのはきっと私の心がそう見せているのだろう。
思わずクスクスと笑ってしまい、慌てて口を隠して目を逸らした。
「じゃあ、早く治るように」
「へ?」
「ちょっとごめんね」
今日だけで何度触れられただろうかという私の手は、また山崎さんの手に取られて顔の高さまで持ち上げられた。
そして先程のように顔が寄せられ、柔らかな唇がそっと指先に触れた。
「あっ……」
息をのむ私と、伏し目がちなまつげに隠れた彼の瞳が合う。
びりりと痺れたように動けなくなった私を他所に、手のひら、そして手首へと滑るように移動した唇は温かい。
そこでやっと意識を取り戻した私は引き攣ったように息を吸い込み、ぶらりと下げていたもう片方の手で、山崎さんの顔を押さえた。
「や、やや、やま、山崎さん?!」
「ちょっと何?見えないんだけど」
さも楽しげにクスクスと笑いながら顔を離した山崎さんとは反対に、私は相変わらず羞恥心と疑心でいっぱいだ。
山崎さんが何を思いこのような行動に出ているのか、期待をしてはいけないと思いながらも、もしかしてを期待してしまう。
「ふはっ、すごい顔真っ赤」
「なっ…」
「まぁまぁ、ほら、手も温かくなったよ。ごめんね、寒かったよね」
「えっ…?あ、あぁ……」
「よし、じゃあ今度こそお終いね。引き止めちゃってごめん」
「えっ…ええっ……」
先程までの強引さは一体何だったのかというほど、あっさりと私の腕は解放され、山崎さんはにこにこと両手を胸の位置で開いている。
そしてゆっくりと、お別れの時のように左右に振りながら「またね」と言って、くるりと背中を向けてしまった。
「な、何だったの……」
部屋を出た私は、やっといつもの具合に戻った心臓を撫で下ろしながら、自室へと足を進めていた。
陽の差した廊下は暖かく、春の陽気に包まれるようで心地いい。
ふと庭を見てみれば、青空を彩る様に濃く色付いた桜が満開になっていた。
「動かないでね」
言われた通り、なるべく力を抜いているけれど、段々と指先から体温が奪われていく感覚に、窓を開けていたことを少しだけ後悔していた。
そんな私とは対照的に温かな手をした彼は小瓶から色を取り、その筆先で私の爪先を滑らせていく。
ひと筆ひと筆をゆっくりと、丁寧に動かすその姿はあまりにも自然で、聞かなくたって慣れている事が伝わってきた。
最後にふっと息を吐いた彼は、私の手を温めるように両手で挟む。手のひらをじんわりと伝わる温もりが心地いい。
「はい、あとは乾くまで動かさないでね」
にこりと笑って言う山崎さんの手が離れると、私の指先はたちまち元の冷たい手に戻ってしまった。ああ、寒い。それから少しだけ、さみしい。
動けない私をよそに、椅子から立ち上がった山崎さんは、少し離れた所に置いた箱の中へと無造作にマニキュアをしまう。色とりどりの小瓶がころころと転がっている様は、飴のようにも見えた。隙間もよれもなくきっちりと塗ってくれた人とは思えないほど、大雑把な片付け方をする山崎さんの背中を眺めながら、ふうっと爪先に息を吹きかける。あまり意味はないかもしれないけれど、少しでも早く乾いてほしかった。
「こらこら。変な事してないでじっとしていて」
「あ、すみません」
こっそりとしたつもりが、山崎さんにはバレバレだったようだ。すぐに見つかってしまい、慌てて顔を離した私に静止するように、温かな手で私の指先を隠すと、眉間に力を入れて凄まれてしまった。
だがそれもつかの間で、すぐに表情を緩めた山崎さんは視線を落とし、私の広げた手を右手の小指から順に左手まで眺める。
まじまじと確認されるのは気恥ずかしいが、自分の行いのせいだと分かっている手前、引っ込める事など出来る訳もない。
段々と緊張から早くなっていく鼓動を何とか押さえつつ耐えていれば、流れる視線がふわりと上昇した。視線が合ったかと思えば、その手はまた離れてしまった。
「じっとしてるのは暇だもんね。乾くまで話でもしようか」
先程と同じように椅子に腰かけた山崎さんは、私と顔を合わせると人当たりのいい笑顔をこちらに向ける。私より年上のこの人は、時々こういう可愛い表情をするからずるいと思う。言えばきっと拗ねたような顔をするんだろう。それも可愛いに違いない。
「かわいい…」
「…え?何?」
「あっ…あ、いえ、その…」
「え?可愛いって言った?」
しまった。
そう思った時には遅く、私に詰め寄る様に顔を寄せた山崎さんは、もう目の前だ。
しどろもどろになりながら言葉を探すも、残念な事に“良い言い訳”は思いつかない。
ああ、とか、うう、と唸るしか出来ない私を見て、山崎さんはついに吹き出してしまった。
「あぁ、ごめん。別に怒ってるわけじゃないから…そんな困った顔しなくてもいいよ」
柔らかく下がった眉と、緩やかに上がった口角。
優しい声に、いちいち心臓がざわついて仕方ない。
恥ずかしくなった私は目をそらして、鮮やかに発色している爪先に視線を落とした。
つるんとした水色に、淡いピンク色が花のように描かれているそれは、空に舞う桜の花弁に似ている。
一つ一つが違うデザインのそれは、小さな芸術作品のようだ。
「可愛いでしょ、それ」
まるで何てこともないように飛んできた言葉は、私の心にするりと入り込んできた。当たり前のように言われたその言葉に、不思議と私の口まで素直にさせた。
「…はい、とても素敵です」
再び顔を上げて山崎さんを見れば、ぱちりと瞬きをした山崎さんと目があって、やっぱりまだ少し照れ臭い。山崎さんはにこりと笑って、私の手をそっと持ち上げて指先を見始めた。
「俺もそう思う。すごく似合ってるよ」
「ありがとう、ございます。お手間を…」
「いやいや、そんなこと無いよ。たまには練習しておかないと腕が鈍るしね」
監察は潜入捜査もあると聞いているから、きっと女装なんかもするのだろう。
もしくは、そういった店員にでもなるのだろうか。
私にこうしているように、誰か知らない女性にも、こうして触れたりするのだろうか。
「……っ…?!」
突然、指先がぞわぞわと異様な感覚に襲われた。思わず手を引っ込めようと したが、願いは叶わず私の手は山崎さんの手に捕まっている。
「駄目だよ。じっとして」
「で、でも」
「駄目」
ぼんやりと考え込んでいる間に、私の両手の指はすっかり山崎さんの指に絡め取られていた。
それぞれの手のひらを合わせるように絡ませた手から、肌の温もりが伝わってくる。
きゅっと繋がれていた指をゆっくりと離され、まだ緩く繋いだまま親指の腹で手の平から人差し指を撫でられて、言い様のない感覚に息を飲んだ。
普段触られることのない部分でもあるが、あまりに扇情的な触られ方をした私の体は、おかしくなってしまったのだろうか。
すきま風に晒された頬は、やけに涼しく感じる。
「かわいい」
「へっ…?」
「いや、顔真っ赤にして可愛いなぁって思って」
「え、あ、あ…」
繋いだままの手までも、すっかり熱を持っていた。
恥ずかしさで視界がぼやけてしまっている私に追い討ちをかけるように、山崎さんはお芝居掛かった仕草で私の指先を手に取り直す。
そのままゆっくりと山崎さんの顔が近づく。
容易に想像のつく展開に、これでもかというほど心臓が激しく暴れだし、私は直視できずに目を閉じた。
羞恥と期待でごちゃまぜになった感情が、指先から溢れ出てしまいそうだった。
「………?」
だが想像していた感触は、数秒経っても訪れることはない。
再びひゅうっと冷たい風が吹いたことで少し冷静さを取り戻して、恐る恐る目を開いてみれば、なんと山崎さんは小刻みに震えながら笑いをこらえていた。
──からかわれた!
そう瞬時に頭の中を駆け巡った私は、慌てて手を引き抜いて太ももの上で固く拳を握る。
あまりの悔しさに、爪の事などすっかり忘れて力を込めた。
「ひ、ひどい……」
絞り出した声はあまりにか細く、あまりに情けなかった。
それ以上話せば、溜め込んでいた感情が爆発しそうで、口を噤む代わりに力を込めて席を立った。素早く足を動かし、戸口へと向かう私の顔は、きっと酷いものだろう。
そんな私の手首を山崎さんは力強く掴んだが、振り返ることも振りほどくことも出来ない私は、ただ静かに息を吐いてゆっくりと言葉を探っていく。
「ありがとう、ございました。もう出来たみたいですし、戻ります」
「まってまって、怒らせたならごめん」
「別に怒ってなんか」
「いやいや、絶対怒ってたじゃん。笑ってごめん。あまりにも…その、キミが素直に反応してくれるから、調子に乗りすぎた」
「………」
「本当にごめん」
背後から弁明をする山崎さんの声がほんの少し低くなり、指先がピクリと反応してしまった。
そんな私に気付いているのか、いないのか、山崎さんは掴んだ手を未だ離さずしっかりと力が込められている。
「…大丈夫です、ので…手を…」
「え?あ、ごめん!」
慌てた声と共に、容易く解放された手首はじんわりと痺れるような熱を持ち、撫でれば薄っすらと痕が残っていた。
「ごめん、痕が…」
「すぐに消えますよ、この位。平気です」
「でも」
「平気です。それに、稽古でできた傷のほうが多いですし」
やっと治まった熱にひと呼吸置いて、私は後ろを振り返ると、山崎さんとしっかりと顔を合わせた。目の前には申し訳なさそうな表情でこちらを見る山崎さんが居て、少しだけ意地悪をしてやりたくなった。
なっただけで、そんな事はできないけれど。
「本当に大丈夫ですから、気になさらないで下さい」
「そう…?」
しゅんと垂れた眉にへの字に下がった口角が、叱られた子犬のように見えてしまうのはきっと私の心がそう見せているのだろう。
思わずクスクスと笑ってしまい、慌てて口を隠して目を逸らした。
「じゃあ、早く治るように」
「へ?」
「ちょっとごめんね」
今日だけで何度触れられただろうかという私の手は、また山崎さんの手に取られて顔の高さまで持ち上げられた。
そして先程のように顔が寄せられ、柔らかな唇がそっと指先に触れた。
「あっ……」
息をのむ私と、伏し目がちなまつげに隠れた彼の瞳が合う。
びりりと痺れたように動けなくなった私を他所に、手のひら、そして手首へと滑るように移動した唇は温かい。
そこでやっと意識を取り戻した私は引き攣ったように息を吸い込み、ぶらりと下げていたもう片方の手で、山崎さんの顔を押さえた。
「や、やや、やま、山崎さん?!」
「ちょっと何?見えないんだけど」
さも楽しげにクスクスと笑いながら顔を離した山崎さんとは反対に、私は相変わらず羞恥心と疑心でいっぱいだ。
山崎さんが何を思いこのような行動に出ているのか、期待をしてはいけないと思いながらも、もしかしてを期待してしまう。
「ふはっ、すごい顔真っ赤」
「なっ…」
「まぁまぁ、ほら、手も温かくなったよ。ごめんね、寒かったよね」
「えっ…?あ、あぁ……」
「よし、じゃあ今度こそお終いね。引き止めちゃってごめん」
「えっ…ええっ……」
先程までの強引さは一体何だったのかというほど、あっさりと私の腕は解放され、山崎さんはにこにこと両手を胸の位置で開いている。
そしてゆっくりと、お別れの時のように左右に振りながら「またね」と言って、くるりと背中を向けてしまった。
「な、何だったの……」
部屋を出た私は、やっといつもの具合に戻った心臓を撫で下ろしながら、自室へと足を進めていた。
陽の差した廊下は暖かく、春の陽気に包まれるようで心地いい。
ふと庭を見てみれば、青空を彩る様に濃く色付いた桜が満開になっていた。
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