うどん一杯では賄いきれない礼を
忍術学園へ父である山田伝蔵の洗濯物を届け、土井半助先生と話し、大川平次渦正学園長に引き止められ、あっという間に夕刻になってしまった。明日は休日にしてあるから、と利吉もついつい気が緩みゆっくりと過ごしてしまったのだ。
利吉は帰りの挨拶をしようと伝蔵の部屋へ向かう。障子は少し空いていて中をそっと覗いた。
「利吉か」
利吉の気配を感じたのか、サラサラと筆を運びながら顔も上げず伝蔵が聞いてきた。はい、と利吉は短く応える。
「では父上、わたしはこれで」
忙しそうな父に気を遣い手短に挨拶をすると
「今日は学園に泊まっていきなさいよ」
顔を上げ伝蔵は利吉にそういった。それはいつもより優しい声色だった。
「はい。父上」
利吉がそう答えると伝蔵はふっと顔をゆるめた。筆を置いた伝蔵は立ち上がると、利吉の横を過ぎ少し離れた事務室へ向かい声をかけた。
「失礼」
開かれた障子戸に向かい伝蔵が声をかけた。
「はぁい」
「小松田くん」
「なんでしょうかぁ?山田先生」
「今日、利吉が泊まるんだが、客間の用意をしてもらえないか?」
「そうなんですねぇ!わっかりましたぁ」
と小松田がいつもの調子で応えている。
「じゃあ、頼んだよ」
伝蔵はそういうとあとでな、と利吉に声を掛け歩いていった。
別に父上が小松田くんに頼まなくても自分でお願いできるのだが、と利吉は思ったが特に言わないことにした。素直に父に甘えることにしたのである。
小松田が部屋からひょっこり顔をだし利吉を見つけニコリとする。
「利吉さん、泊まっていかれるんですねぇ」
トトト、と廊下にいた利吉の隣までやってきた。
「あぁ、学園長先生と話していたらすっかり遅くなってしまってね」
「学園長先生お話し長いですからねぇ」
「まったくだよ」
小松田も学園長の相手をよくしているのだろう。学園長先生は大変優秀な忍びで利吉も尊敬しているが少々面倒なところもあるのだ。
「もしかして明日はお仕事お休みですか?」
「あぁ、そうだが」
「そうなんですねぇ。あの、新しい本が入ったんですよ。利吉さんが読みたがっていた」
小松田が部屋のほうにちらりと目線をくれた。
「読まれますか?僕、今図書室から借りてて」
「いいのかい?君、よんでるんじゃないの?」
「実は少しむつかしくて。利吉さんにちょっと解説してもらおうかと」
えへへ、とはにかんだ。
「なるほどね。いいよ」
「やったぁ!」
「夜、部屋で読もう。小松田くんもそのまま客間で寝ればいい。戻るのもめんどうだろう」
「いいんですかぁ?じゃあお言葉に甘えて」
少しの間があり小松田がふふ、と笑った。
「同室なんて忍たまの子たちみたいですねぇ。楽しみです!」
「あはは……そう」
小松田の素直な物言いに利吉は思わず笑みをこぼした。
「吉野先生とはいつも同室じゃないか」
「吉野先生はお父さんみたいなかんじなのでぇ」
「まぁ、そうだね」
「忍たまの子たち、夜に本を読んだりおしゃべりしたりしてから寝てるんですよ。ぼくもそういうのやってみたくて」
確かに小松田も利吉も忍たま長屋のような生活をしたことがなく、利吉もそういうのに憧れたことがないこともなかったのだ。
特にフリーのプロ忍者になってからは基本的に一人で寝ることが多い。同じ年頃の人間と一緒の部屋で眠ることは滅多になかった。
「なぁ、小松田くん。君って寝てるときは静かだよね?」
普段は騒がしくトラブルを起こしている小松田に対して利吉はにわかに不安に思った。隣でいびきやら寝言やらで騒がれたらたまらない。
「静かですよ!吉野先生にいつも小松田くんは布団に入ってすぐに深い眠りにはいってるようで羨ましいですね、っていわれてますからねぇ!」
「そう。じゃあいいよ」
「そういう利吉さんこそうるさくないですかぁ?僕もうるさいのだめなんですよねぇ」
小松田がプリプリしながら言うのを利吉は鼻で笑う。
「静かに眠れるのがプロ忍だよ」
「へぇ!流石ですねぇかっこいいなぁ!」
小松田は感心したようにそういうと
「じゃあ僕軽く掃除と準備先にしてきますねぇ。利吉さんあとでいらしてください」
と続けた。
「あぁ。ありがとう」
小松田は軽く微笑んで軽い足取りで客間へ向かった。
その日の夜、小松田が本と枕をもってやってきた。
「失礼します。よろしくお願いしますねぇ、利吉さん」
「はい、よろしく」
「これがその本です」
どうぞ、と小松田が差し出す。忍術学園の図書室はさすがに流行への感度が高い。松千代先生のご意向か中在家くんの意向か、なかなか面白い本がそろえてある。
パラパラとページを捲った。思わず読み進めてしまったら
「ごめんなさい、やっぱり一人で読みたかったですか?」
おずおずと小松田が問うてきた。
「いや、こういうのは教えながら読んだほうが頭に入るしいいんだ」
「そうですよねぇ!僕もそう思います!」
「自分でいうかな。普通」
「まぁまぁ、始めましょう。ね、利吉さん」
「はいはい」
小松田くんは
素直で、よく聞いている。
理解度も悪くない。質問も悪くない。
おかげで楽しい勉強会になっている。
事務作業と忍の才能だけはない。そういうことだろう。なぜそれをしてて、目指しているのか。不思議である。
だんだんと小松田のまぶたが重くなってきたようなので
「今日はこのへんで」
と声をかけた。
「ふぁい」
と眠そうな返事を返してきた。
「ありがとうございました」
とあくびを噛み殺しながらいってきたので
「もう布団に入っていいよ」
と促す。小松田は言われるがまま布団に入った。
利吉はローソクを消した。今日の月はとても明るく大きく、明かりを消しても部屋の様子もよくわかった。休みにしたのは正解だった。
利吉がさっと布団に入ると
「利吉さぁん、おやすみなさい」
小松田が今にも眠りに落ちそうな声でいってくる。
「はい、おやすみ」
利吉はチラと小松田をみて返事をした。
仕事も立て込んでいて、利吉はまともな布団で眠るのも久しぶりだった。
父上やお兄ちゃん、学園長先生とゆっくり会話をし、食堂の美味しいご飯と暖かいお風呂、整った部屋と布団がある。おまけに読みたかった本まであってなんて幸せなのだろう。おまけに明日は休日。何をして過ごそうか。利吉は頬を緩ませた。
ふと横に目をやると小松田がすでに規則正しい寝息を立てていた。おやすみ、といってからまだ虫の音も数回しか聞いていない。本当にすぐ眠れるのだな、と利吉は感心した。
どこでもこんなふうに眠れるのだとしたら忍者の適正が少しあるのかもしれないが、他の適正は全くないし、とても危なっかしくて見ていられない。ここで事務員をしているのが小松田くんには一番あっている。吉野先生には申し訳ないが。
なんだかんだ学園の皆から愛されているのだからそれでいいじゃないか。なぜ忍者をまだ目指す必要があるのだろう。そこが利吉には理解できなかったしイライラさせるところでもあった。
小松田がもぐもぐと口を動かしている。その姿が妙に笑えて利吉はふっ、と吹き出した。
寝よう。明日も有意義に過ごそうじゃないか。利吉はそんな事を考えながら目を閉じた。
何か得体のしれない大きなものに追われている
利吉は逃げるのだがうまく足が動かない
これは夢だ、そう理解しているが覚めることもできずただ逃げることしかできない
大きなものはさらに大きくなり利吉に追いつきのしかかる
強い圧迫感で息が
苦しい
苦しい
苦しい!
「うわぁ!!!!」
利吉は自分の声で飛び起きた。はぁはぁと息は荒く、涙と震えがとまらない。
「ど、どうしました!?」
そう声をかけられた利吉は咄嗟に小松田のほうを向いた。尋常でない様子をみせている利吉に小松田は目を見開いていた。利吉はうつぶせになり、顔を隠した。
「大丈夫ですか!?」
「苦しいんですか!?」
慌てた小松田の声が利吉の頭上から降ってくる。
「先生方呼んできます!」
「大丈夫……すぐよくなる……」
今にも消え入りそうな声で利吉は答えた。騒ぎにはなりたくないし、父やお兄ちゃんを呼んでほしくない。利吉のプライドが許さなかった。余計な心配もかけたくなかった。
プロ忍者になった頃、たまにこういう事があった。なれない忍務のストレスからだろう。こうして安心できる環境で眠っているときだけでる発作のようなものだった。しばらく耐えていれば治る。それまでは誰にも見られたくなかった。
最近はよく眠れていた。油断していた。利吉は息を上げながら苦々しく思う。涙もとまらないのだ。いつもより一層ひどい有様だった。
よりによって小松田くんと同室で寝ている時とは、情けない。なにが静かに眠れるのがプロ忍、だ。あんな発言をした自分が恨めしかった。
小松田くんはどうしているだろうか。外に行った気配はなかった。大方、オロオロと心配していることだろう。申し訳ない気持ちもあったが、顔も上げられず利吉はただうつぶせで丸くなっていることしかできなかった。
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どれくらいたったか、しばらくして背中に優しくなにかが触れる感覚があった。それはポン、ポンとまるで子供を寝かしつけるようなリズムを刻む手のようだった。
小松田くん、か?それ以外考えられないのだがその手があまりにも優しく暖かく困惑したのだった。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
その声を聞いて利吉は小さな頃を思い出した。
父が忍術学園に戻ったその晩、母と二人きりになり床についた。
利吉は無性にさみしい気持ちになり、楽しかった父との遊びを思い出しながら涙した。気づかれぬよう静かに泣いていたつもりだったが母にはお見通しだったらしい。
大丈夫、大丈夫よ。そういって背中をポンポンと叩いてくれたのだった。
小松田くんも誰かににしてもらっていたのだろうか。利吉はその手のぬくもりを感じながらそんな事を考えた。
「……からくにの そののみたけに なくしかも ちがいをすれば ゆるされにけり……」
やがて背中の手はさするようになり、そうつぶやいた。それは確か夢違へのまじないだった。悪夢が現実にならないような願いをこめるまじない。
利吉はまじないなど信じていない。だが、それを選び取ってくれた小松田を信じてみたくはなった。
彼の優しい願いが込められているまじないを。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
「今日は楽しかったです」
「大丈夫、大丈夫ですよ」
「明日も晴れそうですねぇ」
小松田の声が遠くになっていくのを聞きながら利吉の息はゆっくりと一定の呼吸を取り戻していった。
いつの間にか朝を迎えていた。
利吉が目を覚ますと、うつぶせの姿勢の上に布団がかけられていた。隣に目をやると小松田はすでに起きているようで、布団も無かった。
利吉はおきあがると障子戸をあけた。
目にしみるような青空。心地よい秋隣の少し冷たい風の吹く天気だった。
目の前の庭では小松田が布団を干していた。こちらに気づくとぽん、と芽吹いたように笑った。
「おはようございます!すっごくいい天気ですねぇ」
昨晩のことは何といおうかいうべきか、利吉が逡巡を巡らせ言葉を発さないでいるとのんきな声で
「利吉さぁん、お布団もってきてください。干しますよぉ」
と、声を掛けてくる。
小松田がニコニコしながらこちらに近づいてきた。いつもと同じ声、同じ表情で。
小松田は昨晩のことは何も言ってこない。全て夢をみていただけかもしれない。そうもおもったが彼の顔がそうでないことを証明していた。
よく眠れてない目。白目は少し充血しているし、まぶたは少し腫れぼったい。
小松田くんはあのあとどれくらい起きていてくれたのだろう?利吉は得も言われぬ思いがした。
「利吉さん?お布団くださぁい」
小松田が腕を伸ばす。
「……あぁ」
利吉はようやく返事をし、踵を返し布団を取りに戻る。そして布団を小松田に渡して声をかけた。
「小松田くん」
「はい?」
「今日、うどん食べに行かないか?」
小松田は目を大きくあけ、少しの驚きと戸惑う様な表情をみせた。
「ご馳走するよ」
できるだけいつものようにスマートに。ニッコリと笑顔で利吉はそう言った。それに合わせて小松田もぱっと花が咲くように笑い、いつもの調子で応えた。
「いいですねぇ!こないだの美味しいうどんもう一回食べたいです」
今日は侵入者がきませんように。
今日は小松田くんが仕事を失敗しませんように。
うどん一杯では賄いきれない礼を
君へ。
利吉は帰りの挨拶をしようと伝蔵の部屋へ向かう。障子は少し空いていて中をそっと覗いた。
「利吉か」
利吉の気配を感じたのか、サラサラと筆を運びながら顔も上げず伝蔵が聞いてきた。はい、と利吉は短く応える。
「では父上、わたしはこれで」
忙しそうな父に気を遣い手短に挨拶をすると
「今日は学園に泊まっていきなさいよ」
顔を上げ伝蔵は利吉にそういった。それはいつもより優しい声色だった。
「はい。父上」
利吉がそう答えると伝蔵はふっと顔をゆるめた。筆を置いた伝蔵は立ち上がると、利吉の横を過ぎ少し離れた事務室へ向かい声をかけた。
「失礼」
開かれた障子戸に向かい伝蔵が声をかけた。
「はぁい」
「小松田くん」
「なんでしょうかぁ?山田先生」
「今日、利吉が泊まるんだが、客間の用意をしてもらえないか?」
「そうなんですねぇ!わっかりましたぁ」
と小松田がいつもの調子で応えている。
「じゃあ、頼んだよ」
伝蔵はそういうとあとでな、と利吉に声を掛け歩いていった。
別に父上が小松田くんに頼まなくても自分でお願いできるのだが、と利吉は思ったが特に言わないことにした。素直に父に甘えることにしたのである。
小松田が部屋からひょっこり顔をだし利吉を見つけニコリとする。
「利吉さん、泊まっていかれるんですねぇ」
トトト、と廊下にいた利吉の隣までやってきた。
「あぁ、学園長先生と話していたらすっかり遅くなってしまってね」
「学園長先生お話し長いですからねぇ」
「まったくだよ」
小松田も学園長の相手をよくしているのだろう。学園長先生は大変優秀な忍びで利吉も尊敬しているが少々面倒なところもあるのだ。
「もしかして明日はお仕事お休みですか?」
「あぁ、そうだが」
「そうなんですねぇ。あの、新しい本が入ったんですよ。利吉さんが読みたがっていた」
小松田が部屋のほうにちらりと目線をくれた。
「読まれますか?僕、今図書室から借りてて」
「いいのかい?君、よんでるんじゃないの?」
「実は少しむつかしくて。利吉さんにちょっと解説してもらおうかと」
えへへ、とはにかんだ。
「なるほどね。いいよ」
「やったぁ!」
「夜、部屋で読もう。小松田くんもそのまま客間で寝ればいい。戻るのもめんどうだろう」
「いいんですかぁ?じゃあお言葉に甘えて」
少しの間があり小松田がふふ、と笑った。
「同室なんて忍たまの子たちみたいですねぇ。楽しみです!」
「あはは……そう」
小松田の素直な物言いに利吉は思わず笑みをこぼした。
「吉野先生とはいつも同室じゃないか」
「吉野先生はお父さんみたいなかんじなのでぇ」
「まぁ、そうだね」
「忍たまの子たち、夜に本を読んだりおしゃべりしたりしてから寝てるんですよ。ぼくもそういうのやってみたくて」
確かに小松田も利吉も忍たま長屋のような生活をしたことがなく、利吉もそういうのに憧れたことがないこともなかったのだ。
特にフリーのプロ忍者になってからは基本的に一人で寝ることが多い。同じ年頃の人間と一緒の部屋で眠ることは滅多になかった。
「なぁ、小松田くん。君って寝てるときは静かだよね?」
普段は騒がしくトラブルを起こしている小松田に対して利吉はにわかに不安に思った。隣でいびきやら寝言やらで騒がれたらたまらない。
「静かですよ!吉野先生にいつも小松田くんは布団に入ってすぐに深い眠りにはいってるようで羨ましいですね、っていわれてますからねぇ!」
「そう。じゃあいいよ」
「そういう利吉さんこそうるさくないですかぁ?僕もうるさいのだめなんですよねぇ」
小松田がプリプリしながら言うのを利吉は鼻で笑う。
「静かに眠れるのがプロ忍だよ」
「へぇ!流石ですねぇかっこいいなぁ!」
小松田は感心したようにそういうと
「じゃあ僕軽く掃除と準備先にしてきますねぇ。利吉さんあとでいらしてください」
と続けた。
「あぁ。ありがとう」
小松田は軽く微笑んで軽い足取りで客間へ向かった。
その日の夜、小松田が本と枕をもってやってきた。
「失礼します。よろしくお願いしますねぇ、利吉さん」
「はい、よろしく」
「これがその本です」
どうぞ、と小松田が差し出す。忍術学園の図書室はさすがに流行への感度が高い。松千代先生のご意向か中在家くんの意向か、なかなか面白い本がそろえてある。
パラパラとページを捲った。思わず読み進めてしまったら
「ごめんなさい、やっぱり一人で読みたかったですか?」
おずおずと小松田が問うてきた。
「いや、こういうのは教えながら読んだほうが頭に入るしいいんだ」
「そうですよねぇ!僕もそう思います!」
「自分でいうかな。普通」
「まぁまぁ、始めましょう。ね、利吉さん」
「はいはい」
小松田くんは
素直で、よく聞いている。
理解度も悪くない。質問も悪くない。
おかげで楽しい勉強会になっている。
事務作業と忍の才能だけはない。そういうことだろう。なぜそれをしてて、目指しているのか。不思議である。
だんだんと小松田のまぶたが重くなってきたようなので
「今日はこのへんで」
と声をかけた。
「ふぁい」
と眠そうな返事を返してきた。
「ありがとうございました」
とあくびを噛み殺しながらいってきたので
「もう布団に入っていいよ」
と促す。小松田は言われるがまま布団に入った。
利吉はローソクを消した。今日の月はとても明るく大きく、明かりを消しても部屋の様子もよくわかった。休みにしたのは正解だった。
利吉がさっと布団に入ると
「利吉さぁん、おやすみなさい」
小松田が今にも眠りに落ちそうな声でいってくる。
「はい、おやすみ」
利吉はチラと小松田をみて返事をした。
仕事も立て込んでいて、利吉はまともな布団で眠るのも久しぶりだった。
父上やお兄ちゃん、学園長先生とゆっくり会話をし、食堂の美味しいご飯と暖かいお風呂、整った部屋と布団がある。おまけに読みたかった本まであってなんて幸せなのだろう。おまけに明日は休日。何をして過ごそうか。利吉は頬を緩ませた。
ふと横に目をやると小松田がすでに規則正しい寝息を立てていた。おやすみ、といってからまだ虫の音も数回しか聞いていない。本当にすぐ眠れるのだな、と利吉は感心した。
どこでもこんなふうに眠れるのだとしたら忍者の適正が少しあるのかもしれないが、他の適正は全くないし、とても危なっかしくて見ていられない。ここで事務員をしているのが小松田くんには一番あっている。吉野先生には申し訳ないが。
なんだかんだ学園の皆から愛されているのだからそれでいいじゃないか。なぜ忍者をまだ目指す必要があるのだろう。そこが利吉には理解できなかったしイライラさせるところでもあった。
小松田がもぐもぐと口を動かしている。その姿が妙に笑えて利吉はふっ、と吹き出した。
寝よう。明日も有意義に過ごそうじゃないか。利吉はそんな事を考えながら目を閉じた。
何か得体のしれない大きなものに追われている
利吉は逃げるのだがうまく足が動かない
これは夢だ、そう理解しているが覚めることもできずただ逃げることしかできない
大きなものはさらに大きくなり利吉に追いつきのしかかる
強い圧迫感で息が
苦しい
苦しい
苦しい!
「うわぁ!!!!」
利吉は自分の声で飛び起きた。はぁはぁと息は荒く、涙と震えがとまらない。
「ど、どうしました!?」
そう声をかけられた利吉は咄嗟に小松田のほうを向いた。尋常でない様子をみせている利吉に小松田は目を見開いていた。利吉はうつぶせになり、顔を隠した。
「大丈夫ですか!?」
「苦しいんですか!?」
慌てた小松田の声が利吉の頭上から降ってくる。
「先生方呼んできます!」
「大丈夫……すぐよくなる……」
今にも消え入りそうな声で利吉は答えた。騒ぎにはなりたくないし、父やお兄ちゃんを呼んでほしくない。利吉のプライドが許さなかった。余計な心配もかけたくなかった。
プロ忍者になった頃、たまにこういう事があった。なれない忍務のストレスからだろう。こうして安心できる環境で眠っているときだけでる発作のようなものだった。しばらく耐えていれば治る。それまでは誰にも見られたくなかった。
最近はよく眠れていた。油断していた。利吉は息を上げながら苦々しく思う。涙もとまらないのだ。いつもより一層ひどい有様だった。
よりによって小松田くんと同室で寝ている時とは、情けない。なにが静かに眠れるのがプロ忍、だ。あんな発言をした自分が恨めしかった。
小松田くんはどうしているだろうか。外に行った気配はなかった。大方、オロオロと心配していることだろう。申し訳ない気持ちもあったが、顔も上げられず利吉はただうつぶせで丸くなっていることしかできなかった。
[newpage]
どれくらいたったか、しばらくして背中に優しくなにかが触れる感覚があった。それはポン、ポンとまるで子供を寝かしつけるようなリズムを刻む手のようだった。
小松田くん、か?それ以外考えられないのだがその手があまりにも優しく暖かく困惑したのだった。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
その声を聞いて利吉は小さな頃を思い出した。
父が忍術学園に戻ったその晩、母と二人きりになり床についた。
利吉は無性にさみしい気持ちになり、楽しかった父との遊びを思い出しながら涙した。気づかれぬよう静かに泣いていたつもりだったが母にはお見通しだったらしい。
大丈夫、大丈夫よ。そういって背中をポンポンと叩いてくれたのだった。
小松田くんも誰かににしてもらっていたのだろうか。利吉はその手のぬくもりを感じながらそんな事を考えた。
「……からくにの そののみたけに なくしかも ちがいをすれば ゆるされにけり……」
やがて背中の手はさするようになり、そうつぶやいた。それは確か夢違へのまじないだった。悪夢が現実にならないような願いをこめるまじない。
利吉はまじないなど信じていない。だが、それを選び取ってくれた小松田を信じてみたくはなった。
彼の優しい願いが込められているまじないを。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
「今日は楽しかったです」
「大丈夫、大丈夫ですよ」
「明日も晴れそうですねぇ」
小松田の声が遠くになっていくのを聞きながら利吉の息はゆっくりと一定の呼吸を取り戻していった。
いつの間にか朝を迎えていた。
利吉が目を覚ますと、うつぶせの姿勢の上に布団がかけられていた。隣に目をやると小松田はすでに起きているようで、布団も無かった。
利吉はおきあがると障子戸をあけた。
目にしみるような青空。心地よい秋隣の少し冷たい風の吹く天気だった。
目の前の庭では小松田が布団を干していた。こちらに気づくとぽん、と芽吹いたように笑った。
「おはようございます!すっごくいい天気ですねぇ」
昨晩のことは何といおうかいうべきか、利吉が逡巡を巡らせ言葉を発さないでいるとのんきな声で
「利吉さぁん、お布団もってきてください。干しますよぉ」
と、声を掛けてくる。
小松田がニコニコしながらこちらに近づいてきた。いつもと同じ声、同じ表情で。
小松田は昨晩のことは何も言ってこない。全て夢をみていただけかもしれない。そうもおもったが彼の顔がそうでないことを証明していた。
よく眠れてない目。白目は少し充血しているし、まぶたは少し腫れぼったい。
小松田くんはあのあとどれくらい起きていてくれたのだろう?利吉は得も言われぬ思いがした。
「利吉さん?お布団くださぁい」
小松田が腕を伸ばす。
「……あぁ」
利吉はようやく返事をし、踵を返し布団を取りに戻る。そして布団を小松田に渡して声をかけた。
「小松田くん」
「はい?」
「今日、うどん食べに行かないか?」
小松田は目を大きくあけ、少しの驚きと戸惑う様な表情をみせた。
「ご馳走するよ」
できるだけいつものようにスマートに。ニッコリと笑顔で利吉はそう言った。それに合わせて小松田もぱっと花が咲くように笑い、いつもの調子で応えた。
「いいですねぇ!こないだの美味しいうどんもう一回食べたいです」
今日は侵入者がきませんように。
今日は小松田くんが仕事を失敗しませんように。
うどん一杯では賄いきれない礼を
君へ。
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