いのり

いのりなかないで

 昼時、正門に人だかりができているのは遠巻きに見た。それから二時間経った授業終わり、噛み殺せなかったあくびが口の端から漏れる。
 気だるく賑わう大講義室にて、荷物を手早く取りまとめている最中。前の席の会話が突然一紀の耳に飛び込んできた。
「救急車で運ばれた子ってさー、あの超かわいい子だよね?」
 頭にぱっと浮かんだ名前が、そっくりそのまま女子の口から発される。大丈夫かな、すごい騒ぎだったよね、と会話は続いていく。
 ざらざらとした雑音が急に世界から消えた。咄嗟に、一紀は立ち上がりかけていた彼女の肩を掴んだ。
「それ、今日の昼の話? 小波って小波美奈子?」
 彼女は驚いた様子で振り返って、こくりと頷く。明らかに困っているがそんなこと気にしていられない。
「どこの病院? それは、本当の話なんだよね?」
「えっと、そこまでは……そうらしい、としか知らなくて……」
「わかった。急にごめん」
 短く会話を切り上げ、ペンケースを握ったまま飛び出した。ごった返しの人混みをすり抜けて、美奈子のよくいる二号館に向かい、偶然捕まえた顔も名前も知らない男女に同じことを訊く。残念ながら情報量はほとんど変わらず、ただ信憑性だけが増してずしりと肩に乗る。
 一紀は早足で歩きながら、半開きだったリュックを閉めた。震える指で美奈子にふたつメッセージを投げる。通知音がすぐ鳴るようにセットしてポケットに突っ込んだ。
 どこの病院かはわからない。とは言ってもここで救急車を呼んだなら、十中八九すぐ近くにある総合病院だろう。学生課にでも確認しようかと一瞬頭をよぎったが、それより先に足は再び走り出していた。
 ちょうど来ていたバスに飛び乗って、一駅過ぎても二駅過ぎても動悸が止まらない。目を閉じて深呼吸をする。手すりに額を寄せて、ゴムの香りの空気を肺に溜め込んだ。
 ふっ、ふぅーっ、と息を吐ききって、ちらりとスマホを取り出した。返信はない。もう一度肺を大きく膨らませて、いくらか冷静な思考を取り戻す。そうだ仮に、もしもなにかあったとしても、学内でそうそう命に関わる事故など起こるはずがない。あの人の事だから、呑気に蝶でも見ながら歩いていたら転んだとか、そんなしょうもない出来事のはずだ。
 転ぶ、というところまで想像して、昨日雨が降っていたことに気づく。そうだ、そういえば人通りの多いところは今朝もまだ濡れていた。靴が濡れないように端ばかり歩く列に渋々並んだことを、ところどころ滑りやすくなっていた階段のキュルキュルと鳴る音を思い出す。
 途端に、医療ドラマなんかで使う、薄い色水が一紀の頭皮から染み出してきた。いかにも嘘っぽい赤い液体がこめかみを濡らし、頬を厭らしく伝う。心臓がいつになく位置を主張し始めた。嫌な想像をかき消すように、頭の中でとびきり好きな音楽をかける。
 顔を上げて窓の外に目を向けた。交差点を曲がると、あまりにものどかで爽やかな水色の空がちらりと見えた。染まりかけのイチョウの列がゆっくりと通り過ぎていく。バスの揺れは腹立たしいほどまったりしていて、座席の分厚い生地から湿っぽい匂いがして、そこに座る人々も怖いくらいにいつも通りスマホを見ていた。
 ああ、ついさっきまでは、本当にありふれた日常だったのだ。普通の一日だったのだ。一紀の目からぽとりと涙が落ちる。勝手に次から次へと美奈子の笑顔が脳裏に蘇り、それに連動して眼球が濡れた。バスが数回大きく揺れて、硬いアナウンスの声が響く。炭酸の抜けるような発車音が遠く聞こえる。
 一紀はパスケースを握りこんで指を組んだ。なぜだか落ち着いていた。深い呼吸に合わせて、ただ垂れ落ちていく涙が顎から袖口に落ち続ける。痛覚は鈍くぼやけて、思考も薄く白んでいた。不安定な足取りでバスを降り、すん、と小さく鼻をすする。
 受付。階段。つやつやと光る長い廊下。清潔くさい静寂の中を一紀はみっともなく走った。はた迷惑に右往左往して、ようやく見つけた小部屋に半身突っ込む。
 一瞬、別人のような気配を感じた。上体を起こして窓の外を見ていた小波美奈子がぱっと振り返る。
「……イノリ! 来てくれたんだ! あれ、でも授業は——」
 なだれ込むように、がむしゃらに抱き寄せて、散らばらないように強く腕を締める。通常運転の声を聞いて、やっと体が震え始めた。グシャグシャとまた眉間に皺が寄る。堪えようと腕に爪を立てた。
 ふと彼女は驚いたり焦ったりするのをやめて、一紀と同じように相手の首筋に顔を埋めた。
 丁寧に丁寧に、痛くない範囲を少し超えた力強さで抱きしめる。眼鏡を乱暴に外して落とした。小さくてぬるい体だった。ちゃんと息をしていた。
「ごめんね」
 彼女の声が体に直接響いてくる。どろん、と眠気に近い安堵感で一紀の抱擁が緩んだ。その隙間をこじ開けて、彼女の腕が逃げていく。風は静かに穏やかにカーテンを小さく揺らしている。
 その柔らかい指先が、いつものように一紀の髪をふわふわと撫でた。
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