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短編

嫉妬と欲情

 兄さんを殺そうと思った。 
 緩やかに上下する薄い胸が、血管が透ける細い首が、精巧な人形のような美しい顔が。兄さんを構成する何もかもが憎く悍ましく、そして羨ましかったから。
 兄さんが、この男が居なければ自分の人生はもっと輝いていたはずなのに。黒く淀んだ感情が腹の底に溜まっていく。そうだ、兄さんが居なくなれば自分はもっと評価されるはずだ。両親からも必要としてもらえるはずだ。幾度目かの答えに従って、兄さんの首に手をかける。このままこの手に力を込めたら、きっと壊してしまえる。きっとそれは拍子抜けするくらい簡単で、幸福になれる方法だ。そう、このまま体重をかけるだけ。白い首元に私の印を、消えない痕をつけてしまえばいい。片膝を乗せたままのべッドが軋む。今日こそ終わりにするんだ。劣等感に苛まれて生きるのはもうやめだ。今日こそ兄さんをこの手で殺すんだ。
 震える手のひらを黙らせて、蝶を絡め捕る蜘蛛のようにゆっくりと着実に兄さんの首を絞め上げる。未だに目を覚まさない眠り姫は息苦しさから逃れようと身じろぎをするが逃れられはしない。たとえ目を覚ましたところでもう遅い。悲鳴もあげられないまま、私に殺されるんだ。状況もまともに理解できていないまま生の崖にしがみ付く兄さんにこう囁いてやるんだ。「ざまあみろ」と。そうしてそのまま、暗い絶望と死の谷底に突き落としてやる。そうすれば私は、もう兄さんの劣化版とは呼ばれない。もう少しで私はようやく解放される、はずなのに。
 急速に私の手は力を失い、兄さんの首元から離れてしまった。全力で力を込めていたと思っていたが、兄さんの首元にはうっすらと赤い圧をかけた痕が残っているだけで。ゆっくりとその赤色が薄れていくのと同時に、私の中の激情も霧散してしまった。ああ、また駄目だった。音を立てぬように兄さんが眠るベッドから降りて私は自嘲する。幾度目かの殺人計画は、今夜も失敗に終わったのだ。

 こうして兄さんを殺そうと思ったのは一度や二度のことではない。ある時はとくとくと暖かく脈打つ心臓にナイフを突き立てようと思った。ある時は薄く開いた口元に強力な睡眠薬を押し込んで、そのまま永遠に眠らせてしまおうと思った。またある時はおろし金で自慢の美貌もおろしてやろうと思った。ほぼ毎日、あの手この手で兄さんに牙をむいてやろうとは思うのだが、今の一度も成功したことはない。
 私の苦悩など何一つ知らない兄さんは今日も今日とてすやすやと眠っている。性別こそ違うが兄さんの寝顔は白雪姫や眠り姫を彷彿とさせる程美しい。血の繋がった兄弟である私が見てもそう思わせる程の美貌は、他人を否応なく惹き付ける魅力があった。厳粛な父と淑やかな母の良い所だけを寄せ集めて作られた兄さんに対して私は父と母のパッとしない部分だけを適当に集めて作られたようである。そんな私に向けられるのは兄との差を比べる嘲笑と、ほぼ完璧超人な兄と比べられる同情だけ。だから今日も出来る限り存在感を消して兄さんの陰に隠れるんだ。父さんに怒鳴られないように、母さんに蔑まれないように。

 私は兄さんが嫌いだ。大嫌いだ。兄さんがいるせいで私は兄さんと比べられ、怒鳴られなければならないから。何が天は二物を与えずだ。美貌も才能も学力も兄さんに振り分けたくせに。私が兄さんと比べて勝てるのは性根の悪さと体力くらいじゃないか。体力や力で兄さんに勝てたとしても、誰も評価してくれない。むしろ体の弱い兄さんがちょっと頑張った顔をした方がみんなちやほやする。挙句の果てに私にかけられる言葉は「真秀が頑張っているのだからお前はもっと頑張りなさい」ときたものだ。
 誰も、誰も私の努力を認めてくれない。頑張っても兄さんの影から出ることが出来ない。兄さんがいなければ、兄さんがいなくなれば。常日頃そんな事を思うのと同時に、虚しさも同じだけ抱えていた。本当は解っているのだ。兄さんが何も悪くないことも、兄さんがいなくなったところで何も変わらないことも。もし兄さんを殺せたとして、私に待っているのは兄殺しの烙印と罰だけで、誰も私を認めてなんてくれないことを、本当は私が一番よく知っているのだ。ただ、自分の心を守りたいだけ。その為だけに兄さんを悪者にして貶しているのだ。兄さんと兄弟でなければよかった。何度そう思ったことか。そうすれば比べられて苦しむこともなかった。嫉妬に狂うこともなかった。叶わない恋情に身を焦がすこともなかったんだ。
 無造作に投げ出された白魚のような手にそっと触れる。ああそうだ。落ちこぼれと呼ばれた私を一番に褒めてくれたのは他の誰でもない兄さんだった。所々パースの狂った下手糞な絵も、満点をとれなかったテストも、途中でつっかかったピアノも、唯一褒めてくれたのは兄さんだったのだ。どんなに兄さんの結果より劣っていても、優れた点を見つけだしては褒めてくれた。「自分より劣る弟を憐れむのがそんなに楽しいか」と怒鳴り散らした時にも優しく抱き留めて「お前は私の自慢の弟だよ」と囁いてくれた。兄さんは、兄さんだけが私を馬鹿にしなかった。私を認めてくれていた。

 ――ああ、本当に兄弟に生まれなければよかったのに。私と兄さんを繋ぐ唯一の関係性が、血の繋がりがなければ、私は兄さんに想いを伝えることが出来たのに。性別の壁が越えられなくとも、想いを伝える事だけは出来ただろうに。性別は変えることが出来たとして、兄さんとの血縁関係を無くすことは出来ない。私は、なんて愚かなんだろうか。叶いもしない恋をして、それを殺意と嫉妬で塗り隠そうとして。ならばせめて、兄さんが私を拒絶してくれたらいいのに。お前なんか嫌いだと、落ちこぼれの弟なんていらないと言ってくれればどれほど楽になれるだろうか。この恋は叶わないし、きっと叶えてはいけない。でも、兄さんは私のことを拒絶してはくれないんだろう。気持ち悪いと罵倒するわけでもなく、青い顔で拒否するわけでもなく、淡くはにかんで「ありがとう」と言ってくれるのだろう。それが何よりも私を苦しめるとは知らないまま。
 好きで、好きで、大好きで、それでいて大嫌い。そんな相反する感情の消化が出来ない私は、殺人計画という建前で兄さんの寝室に忍び込むんだ。いっそのこと今ここで目を覚まして悲鳴の一つでもあげてくれればいいのに。私の醜さを知って失望してくれればいい。兄さんに嫌われることを何よりも恐れながら、それでも嫌ってほしいと願う私は本当に救いようがない馬鹿だ。馬鹿で愚かで救いようのない弟だが、それでも兄さんのことを愛している、なんて囁いてみても眠りの国のお姫様には何一つ聞こえてはいない。だが、それでいいんだ。いつか最悪の形で幕を下ろすことになる恋だから、兄さんは何も知らないままでいいよ。終幕が早く訪れればいい、終幕なんてやってこなければいい。対極的な思想の波に沈められ身動きの取れない私をどうか嗤ってくれ。

 ほんのりと血液の色が透ける兄さんの唇に、自分の唇を押し当てた。幸福感よりも罪悪感が勝る口付け。こんなこと続けていたって苦しいだけなのに。じわりと熱くなる目元から滴が落ちてしまう前に私は兄さんの部屋から逃げ出した。何も知らない兄さんを汚している罪悪感に押しつぶされそうになる心とは裏腹に、自分の欲に忠実な反応を示す下半身。本当に殺すべきなのは紛れもない自分自身だ。自室の扉を後ろ手に閉め、一人嗤った。
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