視聴覚室では天使が歌っている
視聴覚室では天使が歌っている(2/2)
――中に誰かいる。それも、とびきり歌の上手い誰かが!!
興奮の波が恭介を現実に引き戻したが、過去や後悔なんてものよりも重要なものを目の前にした恭介には過去を振り返るだけの思考スペースなど残されてはいないのだ。雑念を脳内のゴミ箱に追いやった恭介の表情は、新しい玩具を与えられた子供のよう。掃き溜めのような底辺校で聴くことなどないと思っていた歌と、その歌を高らかに歌い上げる歌い手の素晴らしさが恭介の心を強く惹き付けたのだ。
喉の締まった聴者まで苦しくなるような高音でもなく、蚊の鳴くような震えた高音でもない歌声は透明感を持ちながらも力強い。空に溶ける高音とGloria(栄光あれ)と繰り返す曲調はまさしく讃美歌特有のものだ。流石の恭介もラテン語の発音について詳しくはなかったが、日本人鈍りのある発音でないことは理解出来る。だが、理解は出来てもすんなりと受け入れる事は出来ていなかった。
扉に押し付けた耳を離した恭介は感情の昂ぶりを宥めようと、もう一度深呼吸をする。この状況は、明らかにおかしいのだ。讃美歌を好んで歌う高校生は日本を探せば見つけることが出来るだろう。問題なのは技巧の高さと現在地が全く持って釣り合っていないことだ。此処はコンサートホールの控室でなければ音大付属の有名高校でもない。恭介の胸に刺さったささくれが再び痛みを訴え始める。このままだと、また先程のように自己嫌悪の渦に呑まれるだけ。恭介は両の手で自分の頬を軽く叩く。乾いた音と微かな痛みが恭介を奮い立たせた。
――うだうだ考えてるより、実際に見てみた方が早いだろ。
鍵が掛かっているか確認するために軽く引いた戸は、何の障害もなく隙間を作る。鍵、もう一本作ったんだろうか。そんな事を考えながら、恭介はゆっくりと一呼吸置いた。歌声は先程よりも鮮明に聴こえる。滑らかに上下する旋律には、戸惑ってリズムを崩す様子も人の気配を感じて歌うのを中断する様子もない。恐らくまだ、扉が開いた事にすら気が付いていないのだろう。驚かせる意図がある訳ではないが、自分から声をかける勇気までは持ち合わせていない恭介は、歌い手が自然に此方を認識するように仕向けたかった。己を奮い立たせた割に思考がみみっちいのはヘタレ気質を匂わせるが、恭介自身は全く持って自覚していない。再び一呼吸置いてから、ヘタレ気質の恭介は勢いよく扉を開け放った。
傾いきつつある太陽が何よりも先に目に飛び込んできて、恭介は思わず片手で陽を遮る。眩しさに細めた視線の先に、恭介は高らかに神を讃える天使を見た。
少女のような澄んだ声と、青年の力強さを掛け合わせたような残響が空気に混ざり溶けていく。その声の主は恭介の想像よりもずっと小柄で、それでいて美しかった。『天使』の背には翼はない。しかし、ロマンチストではない恭介ですら『天使』と形容したくなる姿だった。
陽の光を浴びてきらきらと光る地毛と思われし金髪が肩口で揺れる。突然の乱入者に反応してゆっくりと振り返るだけの仕草が、窓から差し込む太陽が後光の役目を果たしているせいか恐ろしく神秘的に映る。深い海色をした大きな瞳と視線が交差した時、恭介は時間が止まったのではないかと錯覚した。目が合っていたのは数秒か、数分か。その、一般的にはほんの少しであろう間が恭介には酷く長いものに感じられた。
ばっちりと目が合い、見つめあっている状況で露骨に目を逸らすことが出来ない恭介は目の前の見知らぬ生徒を観察する事しか出来ない。困惑を示す下がり眉も、くりくりとした青い瞳を縁取る長い睫毛も髪と同じ色素の薄い金色。白く透明感のある肌に、緊張から来ているのであろう朱がよく映えている。男子としては小柄で線も細いように見えるが、身に着けているのは自分と同じスラックスであり恭介は無言のまま混乱していた。声の高さからすると女性だが、女声にしては男性的な響きをしているし顔立ちはどちらでも納得できるような中性的な要素が多い。スカートではなくスラックスを着ているが、それだけで男と断定するのも何か事情があるのだとしたら失礼に思える。恭介は狼狽えていた。
「あの……。僕、に何か、御用、ですか……?」
先程までばっちりと合っていた視線が顔とスラックスを何度も見比べているのに気が付いたのだろう。心なしか『僕』を強調しながら金髪の歌い手は恭介に問いかける。その声もまた少女とも少年とも取れる響きをしていて、恭介の混乱は深まっていく。狐につままれたような顔をしている恭介に助け船を出したのは他でもない混乱の元凶だった。
「えっと、僕は男です。外側も、中身も、男です」
くす、と口元に手を添え微笑む少年に恭介はただ茫然と「嘘だろ?」と呟く。恭介としては「あんなに澄んだ高音を出せるのに男なんて嘘だろ?」という意味の発言だったのだが、少年は「そんな顔で男だなんて嘘だろ?」と取ったのだろう。若干からかうような口ぶりで、恭介に数歩近づいていく。
「嘘じゃないです。確かめてみますか?」
少年には、そう言えば大抵の男が納得した過去があるのだろう。そして今まで本当に確かめられたことはなかったのだろう。「ああ」と短く答えてからずかずか距離を詰められ、挙句の果てに何の躊躇もなく局部を鷲掴みにされるとは思ってもいなかったのだろう。形を確かめるように念入りにもみもみ、と局部を弄られた少年の思考は一瞬で真っ白に塗り潰された。顔を真っ赤に染め口を何度もぱくぱくと開閉させる少年の姿は錦鯉によく似ていたが、自分の疑念を払うことに一心な恭介は全く意に関していない。
「……ホントについてるんだな。俺はてっきり冗談かカストラートかと……!?」
疑念が晴れすっきりした表情を浮かべている恭介が言い終わるよりも早く、少年が崩れ落ちた。おい、大丈夫か。もしかして痛かったのか。労わりの言葉をかけようと相手の目線に合わせしゃがみこんだ恭介は、ようやく少年の顔がゆでだこになっている事に気が付いた。白い肌を耳まで赤く染め、心なしか涙で潤んだ瞳でふるふると睨みつけてくる少年の顔を間近で捉えた恭介の顔にも、一瞬で血が集まっていく。自分にはそっちの気は全くなかったのだが、事実だけを見ると誰がどう見ても逃れようのないセクハラ行為でしかない。
――なんで俺は初対面の相手のちんこを揉んだんだ! その勇気はどっから出てきたんだよ!
脳内では慌ただしく自己叱責をしている恭介だが、現実ではしゃがみこんだまま何も言えずにただ手だけを忙しなく動かしていた。せめて先に謝ってから弁解を、と頭では解っているものの一向に行動と結びつかない。顔を赤くしたかと思えば青くしたり、また赤くしたりと顔色まで忙しない恭介を横目で窺った少年は、両足を地にぺたりとつけた座り方、俗にいう女の子座りをしたまま再び「ふふ」と目元を綻ばせた。
「……変態さんなのに、肝は据わってないんですね」
「や、お、俺は別に変態さんだから触ったわけじゃ……!!!」
変態さん、と呼ばれ慌てて立ち上がった恭介に対して少年は楽しそうに笑っているだけ。自分よりも大人しく気の弱そうな少年にすっかり主導権を握られてしまい、恭介は若干のもやもやを隠しきれずにいた。そのもやもやが顔に出ていたのだろう。少年は恭介の顔を見上げ、申し訳なさそうに眉を下げる。
「ふふ、ごめんなさい。冗談ですよ。僕の声が普通とは違ったから、確かめたかったんですよね」
少年の白い指が細い喉筋をなぞる。彼の喉には性別を色濃く映す喉仏らしきものは見当たらない。一見するとやはり女性のようにも見えるが、右手の感触が何よりも強く少年の性別を主張していた。何度も右手をまじまじと見つめながら手のひらを開閉している恭介に少年は「もう一回確認しますか?」とからかい交じりに問う。恭介は反射的に「しない!!!!!」と答えたが、俯いて頬を桜色に染める少年の姿が何故か頭の隅をちらついてしまい、顔面に血が集中する。
邪なイメージを振り払おうと首を振る赤い顔の恭介に少年は「冗談ですってば」と頬を緩めた。少年の顔立ちはまだあどけなさを残しているのに、所作の一つ一つが大人びており恭介は何とも言えない気分にさせられた。大人でも子供でもなく、男でも女でもないような。どちらの要素も持ち合わせているのに、どちらにも染まっていない、そんな雰囲気が恭介を強く惹き付ける。惹き付けられた先の感情がただの興味なのか、それとも他の名前をした何かなのか。今の恭介には解らなかったが。
暫し、恭介を見上げ柔らかに微笑んでいた少年が体勢を変えようと両の手を床に這わせる。綺麗に整えられた爪の真横に大きな綿埃を見つけた恭介は何気なく手を差し伸べた。既に手や足は多少汚れてしまっているだろうが、気持ち的には幾分かマシだろう。そんな気持ちを込めて差し出した恭介の手を、少年は不思議そうに見つめている。恭介の意図を量るように手と顔を交互に見合わせてから、少年はおもむろに自らの手を握り「わん」とご丁寧に鳴き真似付きで「お手」をした。呆気にとられ、硬直している恭介とは裏腹に少年は手を入れ替え「おかわり」まで披露し何故か満足げな表情すら浮かべている。
「いやいやいやいや! 絶対違うだろ! 何をどう思ったら俺がお手を望んでるように解釈するんだ!?」
「え? 違うんですか? 変態さんはそういうプレイをお望みなのかと……」
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