視聴覚室では天使が歌っている
視聴覚室では天使が歌っている(1/2)
熱い意志を持って接すれば、生徒も答えてくれる理論を武器に善意のお説教をしてくる担任ほど面倒なものはない。君の気持ちはよく解る、と一方的に「君の気持ち」と名付けられた持論を日が傾くまで延々と聞かされるくらいなら、裸で校舎の周りを三周して来いと命令される方がよっぽどマシだ。数時間にわたる善意の監禁から解放された西園寺恭介は肺の中に溜まった生温い空気を一気に吐きだした。
ご丁寧に押し付けられた紙切れが嫌に重たくて、恭介はまた溜息をついた。負のオーラの染みついた紙を家まで持ち帰る気は更々ないが、あの熱血粘着担任の事だ。校内に捨てたらまた「僕の考えた君の気持ち」朗読会に付き合わされることになるのだろう。逃がすだけの幸福さえ尽きた恭介は溜息の代わりに舌打ちを響かせた。
可愛い教え子の為、という免罪符を掲げた自悦の為の御高説がまだ耳にこびりついている気がする。嫌な響きを上書きしようと人気の少ない校内を歩き回ってみるものの、耳に入るのは頭の中身を何処かに落っことして来た馬鹿共の馬鹿でかい笑い声か、鍵のかけられる部屋から漏れ出ている男女の気持ちが悪い湿り声くらいで、恭介には御高説と同じ耳障りな雑音でしかなかった。
いっそのことさっさと帰って不貞寝するのも悪くない。だが誰もいない窮屈な部屋に帰ったところで空虚感に苛まれて、ろくに眠ることも出来ずに時間だけをただ浪費するだけだと恭介はよく知っていた。もし仮に不貞寝に成功しても夜中に風呂をたいて食事の準備をする気力など一かけらも残りはしないだろう。
ふらふらと玄関を目指して進んでいた恭介の足が止まる。どうせ帰るなら少しでも気晴らしをしてから帰りたいと願うのは普通のことだろう。精肉屋のおばちゃんの揚げたてメンチカツやらコロッケやらを紙袋いっぱいに買い込んで一人揚げ物パーティか、新しく出来た大型店舗に客を盗られたせいで寂れに寂れたゲームセンターで新記録を狙うか。うんうんと考えながら、教え子思いの担任様に押し付けられた紙ゴミを適当に丸めてポケットに押し込む。
その時、恭介の手がふと、己の尻を撫でる。虫が天敵から身を守るのと同じように、教師から注意されない程度、かといって周りから浮かない程度にみっともなく下げたスラックスの尻ポケット。ありふれた銀色の鍵は帰るべき場所に帰れず、ずっとそこで眠っていた。
別に盗もうと思って盗んだわけではない。ただ、偶然借りる機会があったものを今の今まで一度も持ち主に返していないだけだ。恭介の人並みの良心は思い出したようにつきつき痛みを主張しているが、今更返しても変に思われるだろうし、必要だったらもう既に新しい鍵を作っているだろうと言い訳をして誤魔化した。財布諸々貴重品の窃盗が日常茶飯事な世紀末めいた此処では随分と可愛らしい方の悪事だろう。己を正当化する理論を塗り重ね、返却しないままずるずると尻で鍵を温め続ける程度には恭介はその場所を気に入っていた。
何をする為にあるのかよく解らない教室のトップ3には入るであろう視聴覚室。授業でも滅多に使われることのないその部屋は、いわゆる校内の穴場である。鍵をくすね、気晴らし部屋として利用している恭介も更年期に差し掛かった無駄に世話焼きな音楽教師に雑用を頼まれたから知っているのであって、普通に学校生活を無駄に消費していたら三年間「よくわからない部屋」という認識だっただろう。恭介は正直、背中をばしばし叩いてくる声の大きい更年期おばさんが得意ではなかったが、視聴覚室に雑用と称して差し向けてくれたことには感謝をしていた。感謝はあれど、恭介にはこの先暫くは鍵を返すつもりがないのだが。
三階に位置するその部屋は窓が多く、日当たりも悪くない。普段は机も隅に片付けられている為、部屋の中は広く、尚且つ適度に身を隠す場所もある。普段は鍵が掛かっているお陰でほぼ誰にも邪魔されない空間は理想の場だった。半年ほど前までは名前だけの合唱部の尻軽女たちの溜まり場になっており、菓子の食べかすやらゴミやらが散乱していたが自分で掃除をして、鉢合わせない時間帯――ヒスおばさんが尻軽共を追い出したタイミングを狙えばいいだけであり、恭介はその手間を惜しまなかった。
名前だけの合唱部の顧問の頑固おばさんとの衝突が激しくなり、尻軽部の活動場所が移ったと風の噂で聞いたような気がする。恭介の足取りは先程とはうってかわって軽やかなものに変わっていた。お気に入りの場所を占有出来る優越感もあるが、恭介は「今日こそピアノが弾けるかもしれない」と淡い希望を秘めていたから。
調律にいささか不備を感じさせる古いグランドピアノ。高校男児とはいえ標準体型な恭介が座っただけで酷く軋む壊れかけのピアノ椅子。使い古されあちこち擦り切れてしまっている楽譜。音漏れする防音機能。どれをとっても実家の防音室には敵わないと恭介も理解している。だが、実家の防音室以外からピアノが消えたとしても、恭介は帰ることはない。
——ピアノは、どうなったのだろうか。
恭介はぜんまいの切れかかった玩具のようにゆっくりと減速し、次の段に片足を乗せたまま停止した。踊り場に残された片足が重い。ふとした瞬間に絡みついてくる過去の呪縛は、とりもちによく似ている。恭介自身も解ってはいるのだ。床から足が離れないのはただの妄想であり、何の変哲もない床にもちもちのとりもちが設置されている訳ではないことを。頭では理解していても体はいうことを聞いてくれないということも。
心の傷口がじくじくと鈍い痛みを恭介に訴えかける。たった一年ぽっちじゃあ、そう簡単に塞がってはくれないか。恭介は歓びのない引き攣れた笑みを浮かべ、ゆっくりと瞳を閉じた。暗い世界に広がるのは侮蔑と叱責の忌わしい記憶。淀んだ感情が胃の奥からせり上がる。そのまま全て吐き出してしまえれば楽になれるのに、と恭介はまた乾いた笑みを浮かべた。喉にへばりついた自責と後悔が空気の通りの邪魔をする。少しでも呼吸を楽にしたい恭介は、片手で乱雑にネクタイを緩めるが効果は焼け石に水だった。
こんな時、あの偏屈な幼馴染がいてくれたら。いや、せめてここが誰にも迷惑をかけることのない自室だったら。机上の理想論を並べながら、恭介は無意識に奥歯を噛み締めた。過去の妄執に憑りつかれたのは一度や二度の事ではない。対処法を持ち合わせていない訳でも無いのだが、今の恭介に実践することは難しかった。
対処法――強制的に意識を他の事に移せばいい。そう言ってよく助けてくれた幼馴染は今ここにいない。もし居たとしてもこんな何処で誰に見られるか解らない場所で下着を露出しながら踊り狂ってもらうわけにもいかない。いや、むしろもう自分で踊ればいいのでは? 精神的に追い詰められている恭介は素っ頓狂な考えを巡らせているが、本人としては至って真面目なのである。
断頭台を目の前にした罪人のような顔をしながらスラックスのベルトに手をかけた恭介の耳に、聞きなれない音が届いた。歌詞や旋律ではなく自分自身に酔いしれながら歌う、対して上手くもない軽音部の歌とも、難聴になるのではないかという爆音で再生されるロックとも、面倒くさい女の最終形態のような甘ったるいエゴに包まれた恋の歌とも違う。もっと、綺麗な歌。何処からか漏れ出ている歌声に釣られて、恭介はふらふらと一歩ずつ段を踏みしめていく。夢遊病のごとく音の方向へと進む恭介は、自分が後悔の鎖から解き放たれていることにまだ気が付いていない。吸い寄せられたのは視聴覚室の扉の前。すり硝子のはめ込まれた扉にそっと耳を押し当て、恭介はゆっくりと肺の中の空気を入れ替えた。
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