年上彼氏と年下の彼
「笑いごとじゃないよー。教授に「私のコーヒーは不味いのかね?」とか睨まれちゃうし。もー焦った。」
「あはは、教授はブラック派の人ですからね。ただでさえいつも仏頂面なのに、睨むと余計に凄い貫禄出ますし。はは、怖いって研究室のみんなからも有名なんですよ市原教授って。」
千波と教授の顔を想像して面白くなったのか、コウキは噴き出して笑った。そして机の上にあったものを全てしまいこむと、コウキはスッと小指を差し出した。
「じゃあ…実習明けて帰ってきたら、また千波さんの好きなコーヒー入れますね。」
「うん。ぜひともお願いします。…約束ね!」
そう言って小指を絡ませる。ドキン。
…年下だよ、彼は。それにこんな誠実そうな好青年、あり得ないでしょ。
そんなの分かってる。だからこれはあれだよ、愛とかとはまた違う、別の感情だよ。そう自分の心に言い聞かせる。
その時は今までで一番、ゆったりとした時間が流れている気がした。絡ませた小指から伝わるぬくもりに、やけにドキドキする。まるで少女のように顔を赤くして笑う自分のことが、ああもうなんだか恥ずかしいなあ!
でも凄く、また彼に会える時間が楽しみだった。早く実習が明けて戻ってきて、コーヒーを飲みたいな。その時は、コウキと二人きりで飲んでみたいな、なんて。冷静を装おうとする脳からの指令とは裏腹に、胸の高鳴りは消えない。
…でもそれがコウキと会った最後のキャンパス内での思い出になってしまうなんて、誰が予想出来ただろうか。分かっていたなら連絡先を聞くとか、そういうこと出来たかもしれなかったのだけれど。
「…と、いうわけで、後任はこの子が引き継ぎますので…」
コウキが実習に出かけて一週間が経った頃、急に担当替えが決まった。私は別の大学の営業に出ることになり、明日からは後輩が引き継ぐことになったのである。市原教授の元に後輩を連れて挨拶に行くと、教授はパソコンから眼を離さずに「分かった」とだけの淡白な返事を返した。別に悲しんで欲しいとか思うわけじゃないけど、これでも何度も面会したことがあるのだから、少しくらい惜しんで欲しかったなとは思ったが、まぁ仕方がない。
そして当然、このことはコウキは知らない。コウキの連絡先など、もちろん知らないわけだし。というか、よくよく考えてみればそこまで親しい間柄でもなかったのかもしれない。こちらが勝手に親しみを持っていただけで。
…でも、なんだか不思議な感じがした。胸の奥が、もやもやするような、そんな気持ち。こんな突然会えなくなるとは思いもしなかったから。やっぱり連絡先くらい、聞いておけば良かったかな。それに、せめて最後はちゃんと会ってさよならを言いたかったなぁ。
「あと残り1週間、だったのに…。」
思わず口からこぼれたその言葉は、今の正直な気持ちだった。
コウキの淹れてくれる美味しいコーヒーが飲める日を心から待ちわびている自分がいた。コウキとまた笑って話が出来ることを楽しみにしている自分がそこには確実にいた。でももうその日は来ることはない。
―…この気持ちがなんなのか、本当はもう気付いていた。
気付いていて、でも蓋をしていたのは自分だ。
唇をギュッと噛みしめる。きっと、もう彼と会うこともないだろう。次に担当になった大学はコウキの通う大学とは正反対の方向にあるし、ここからはかなり距離がある。
(…ばいばい、コウキ君。)
心の奥のもやもやを振り払うように首を振って、歩きだした。
結局、その後、私がコウキの通う大学に足を踏み入れることは予想通り一度もなかった。