cafeルピナス
…思えば、わたしの人生はとても平穏だった。
今まで生きてきた29年間、特に大きな病気や怪我もしたことはないし、事故や事件に巻き込まれたこともなく平和に暮らしてきた。それが当たり前になっていた。自分の身に災厄が降りかかるだなんて、これっぽっちも思ったことがなかった。まぁ、いわゆる、世に蔓延る平和ボケな国民その1、だったのだ。
でもその日、とても恐ろしい体験をした。
自分の身が危険に晒される恐怖。強い悪意や殺意を感じた時の恐ろしさ。大切な人がいなくなる不安。最悪続きだった1日の終わりに、まさかあんな事件に巻き込まれてしまうなんて、それが自分の身に起こったなんて、なんだかいまだに夢みたいな気がしてしまう。
「……では、これにて聴取は終了です。ご協力ありがとうございます。…今日は色々と疲れだと思いますが、ゆっくり休まれて下さい。」
隣同士で椅子に座って聴取を受けていためぐみと香織に、中年の警察官がそう言って席を立った。促されるまま香織と二人で席を立ち、そのまま聴取室を後にする。
…何だろう。
なんだか頭の中が真っ白になったというか、ボーっとして、ふわふわしている。地に足がついていないような感覚になっていた。その言い表すのに難しい不思議な感覚は香織も同じようで、どこか遠くを見つめたまま歩いている。
「……なんか疲れたね、」
「…ん。正直アタシも聴取にここまで時間かかるとは思わなかった。疲れたわ。」
香織は毅然とした態度で聴取を受けていた。あれだけ怖い体験をしたのに、しっかりと当時の状況や言動を伝え、まっすぐに警察官を見つめて受け答えをしていた。動揺してどこか上の空だった自分とは違う。こういう時でも香織は凄い。
「……めぐみ。」
廊下を歩いていると唐突に香織が立ち止まって声をあげた。つられるようにして立ち止まり振り返ると、彼女は眉尻を下げて何度か口を動かし、そしてゆっくりと頭を下げた。
「めぐみ、本当にごめん。……巻きこんじゃって。アタシのせいでめぐみまで危険な目に合わせた。本当に、本当にごめん。」
「………え、ちょっと、やだ、謝らないでよ香織。」
「だってアタシが無神経に余計なことあの男に言っちゃったせいで、アイツに目付けられてこんなことになっちゃったんだよ。関係ないめぐみまで巻き込ませて。」
「だからって香織のせいでもないよ。香織は事実を述べただけじゃない。香織のせいじゃない。だから謝らないで。」
「……でも、」
「ねぇ、無事で良かったよね、私たち。ほんと良かった。香織が無事で…ほんと良かった。いなくなっちゃったらどうしようかと思った。もし香織に何かあったらって思ったら、私怖くて仕方がなかった。だから、良かったよ本当に。」
「めぐみ……。……うん、アタシも。めぐみが助けに来てくれて、本当に嬉しかった。本当に助けてくれてありがと、めぐみ。」
ふわっと香織のお気に入りの香水の匂いが鼻をくすぐった。
ぎゅっと背中にまわされた手が、わずかに震えている。今回一番怖かったのは香織のはずだ。めぐみも彼女の背中に手を回した。涙腺が緩んで頬を涙が伝っていく。でもこうして涙が出るのも、生きているからこそで。命があるからまたこうしてお互いの温かさを、体温を感じることが出来る。
「香織。生きてるって、素晴らしいんだねぇ。」
「ふふ、何それ。でも…そだね。アタシも、そう思う。」
鼻水を啜りながら呟くと香織は面白そうに笑って、それから強く頷いてくれた。