The boy
◆対面◆
翌日、メモリアルハウスの門の前についてから、私は来た道を引き返した。
「結局昨日はあのクレイジーなガスマスク野郎のおかげで少年へのお土産を買うことができなかったしな……」
憂さ晴らしのために私は敢えて口に出して言う。
相手が少年とはいえ、約束は約束だ。
コールブルック通りを抜けて、私はウィンチェスター大聖堂の敷地へと向かった。気分のいい、天気のいい日だった。
白い墓石がところどころ露出する芝生の上で、家族連れがピクニックを楽しんでいる。彼らを横目に見ながら私は小さな書店へ入り、観光用のウォーキングマップを一部と、併設されたカフェテリアでアップルパイをホールで買った。
再び薄暗いコールブルック通りからメモリアルハウスの門をくぐると、相変わらず「うふふ」と楽しそうに笑うフェティアが出迎えてくれた。
薄暗い廊下と、軋む階段を進む。
メモリアル氏はオフィスの外に立って待っていた。
「ワイミーさん、Lが貴方にお会いしたいと言っています」
一体どういう風の吹き回しか。
私の姿を見るなりメモリアル氏はそう言ったのだった。
「……何故、急に?」
「信用したか気が変わったか……分かりません。いつものことながら」
機械的でいかにも気が進まないのを押し殺しているような口調だった。
「こちらへ」
重そうに歩くメモリアル氏の白衣がなびく。一方、私は文字通り浮足立っていた。足取りが軽い。三度目の訪問にして、ようやくLという存在のヴェールが取り払われるのだ。
一つ上の階に上がり、砂色の絨毯が敷き詰められた暗い廊下を進んだ。名前のない扉が沢山並んでいた。子供たちの声がしないが、メモリアルハウスの子供たちは比較的大きく、皆、それぞれの学校に行っているということだった。
「こちらです」
やがてメモリアル氏はひとつの扉の前で立ち止まった。
それはオフィスでも書斎でもなさそうな名前の無い扉の一つだった。隣の部屋との間隔も狭そうだ。子供部屋の一つにしか見えない。
「あの、ここで合っているのですか」
「どうぞお進みください、Lが待っています」
促されるままに、私は二回ノックした。返事はない。鈍く光るスズ色のノブに手を掛けたときにはメモリアル氏は既に身を翻して階段を下っていくところだった。
ノブは――抵抗なく回る。鍵は掛かっていなかった。
「…………」
そこは、小さな部屋だった。
シングルベッドと、小さな机と椅子があるだけの、狭い子供部屋のように見えた。窓が開きっぱなしで、吹き込む風でカーテンのレースが大きくなびいている。
――誰もいない?
いや、そんなはずは――私は足元へと視線を落とした。
そこに__一人の少年がいた。
事件現場にいたあの少年が、そして応接間で何度も見かけたあの少年が、床に直接、両膝に顔を埋めるようにしてしゃがみ込み、手元に広げた紙に熱心に何かを書き込んでいた。
彼の周りには色鮮やかなお菓子の包み紙が色とりどりに散らかっている。
少年はこちらに意識を向けない。
俯き作業に没頭し、そしてたまに神経質そうに親指を口に運んでいた。
「……ワタリ?」
彼は急にぴたりと動きを止めた。
ペンを手放し、小さな両手を膝の上に乗せて――そして、ゆっくりと顔を上げた。
微かにはにかんだように口角をあげ、彼は言った。
「やっと会えましたね。僕がLです」
――これは、一体、どういう状況だ?
「…………」
出会いがしらにぺらぺらと話すのもおかしな話ではあるが、それでも思わず、言葉を失ってしまった。
「初めまして、僕がLです」
私が無言だからか、少年は再度かしこまった挨拶をした。
彼は部屋の中心のカーペットの上で、三角座りで王の如くこちらを見上げている。
ぼさぼさの黒い髪と、深い隈の刻まれた大きな目。蒼白な肌に、サイズの合っていない大きな黒いパジャマ。裸足で、そして指を咥えていた。
「どうかしましたか、ワイミーさん」
彼の周囲には色とりどりのお菓子が広げられている。散らされているのか、散らばっているのか、散らかっているのか――ケーキ、ビスケット、クッキー、ゼリーのボウルにジェリービーンズ、オレンジジュースにグレープジュース……こうしている今も、彼は黙々とカラフルなマシュマロを指先で持ち上げては口に運んでいる。
「ワイミーさんも自由に食べてください。僕だけだとずるいでしょう」
彼はじろりとこちらを見ると、チョコレートを一つ差し出した。
「…………」
私は未だに一言も言葉を発していない。
彼は私がチョコレートを受け取らないと思ったのか、指先でそれを頭よりも高い位置に持ち上げると口に放り込んだ。
「これは仕方ないんです。僕がちゃんとした扱いを受けてると思わせたいようで、来客が来る時だけこんな感じなんです。貴方が帰ったら僕もいつもの部屋に移ります。大人の都合ですよね」
「いつもの――部屋?」
「僕の部屋は階段の下の物置部屋なんです。元は他の子供と一緒の二人部屋だったのですが、一人部屋がどうしても必要だと言ったら物置部屋に追いやられてしまいました。それでも、子供と一緒よりは幾分ましですが」
「…………」
彼の様子は、応接室で会ったときの隠れるような態度とは似ても似つかない。ましてや物置部屋を自室にされている子供らしくもなかった。
「き、君と私は全然、『初めまして』ではないだろう……」
「ええ、そうですね。名乗らずにいてすみませんでした」
少年はにやりと笑みを浮かべる。
「約束の《お土産》も買ってきてくれたようですね」
不敵に、あるいは不遜に。
やはり、まるで別人だ。
「手紙を書いたのも君なのか?」
「はい。僕が書いて、自分でポストに投函しました」
少年はクッキーを選んでいた瞳を鋭く向けた。瞬間、全てをくまなく観察されているような不安感を覚える。
「……ラークが事件の話をしたとき、貴方は例の連続爆破に興味を持ってくれました。悪戯で片付けず、より詳しい話を聞こうとしました」
少年はあっさりと視線をクッキーへと移すと、淡々と続けた。
「そして貴方は発明家――依頼の装置を開発することも可能だと言ってくれました。貴方が僕に協力してくれるなら、僕も協力を惜しみません。情報は共有しましょう。互いの信頼が不可欠です」
さて、彼の態度をみる限り、彼が信頼という言葉の意味を分かっているのか甚だ疑問である。彼はこちらを見ることもなく口調ばかり丁寧に話しているのだ。
「君を信頼と言っても、こちらは君のことをよく知らないんだ」
「僕はLです。さっき教えました。キルシュ・ワイミーさん」
「……」
「僕も自分のことはよく知りませんが」
まるで無感動に、少年はぽっかりと空いた大きな穴のような黒い目を持ち上げた。あまりに空虚なその表情に、私は自分が失言したことを思い知る。
「七歳、L、生まれた時からここに住んでます。好きなものは甘いもの、嫌いなものは靴下です。親はいませんが、親の仇くらい嫌いです」
「L、君は……」
「気にしないでください。ただの冗談です」
ぷいと顔ごと目を逸らすと、Lは目いっぱいに腕を伸ばしてアーモンドチョコレートが山になったガラス皿へと手を伸ばす。指先は皿にすら触れることなく、彼の座った椅子は今にも倒れそうになっていた。
「これが欲しいのか?」
「ありがとうございます、ワタリ」
私は見ていられなくてその皿を渡してやった。
「その、ワタリっていうのは私のことか?」
「ええ、偽名です。今後、捜査中は使ってください」
彼は説明もなく、さも当たり前のように肯定する。
Lは指先で皿の上のマシュマロを摘まみ上げるように選ぶと、大きくのけぞって、大袈裟な仕草でそれを口に入れた。ごくんと喉が鳴る。
「それより、時間がありません。貴方には今すぐ装置の開発と制作に取り掛かってもらわなければいけません。事態は差し迫っているのに、機材の作成が間に合うかどうか、技術者でない僕には分かりません。ですが、これがなければ――」
「ちょ、ちょっと待ちなさい」
私は慌ててLの言葉を区切った。
「……なんですか。話を遮らないでください」
彼はじとりとした瞳を持ち上げ、初めて少年らしい表情を――頬を膨らませ、不機嫌そうにした。
どうやら話を遮られるのが単純に好きではないらしい。
「遮ったことについては謝るよ。それにしたって、《装置の製作に取り掛かってほしい》と言ったって、それが何の機材なのか……いや、用途を察することはできる。だが、まずは説明がほしい。君の口からだ」
Lが指の爪を噛み始めたので、私は最後だけ物腰柔らかに言葉を正した。
大人びているのか、子供じみているのか――いや、子供じみているという言葉は間違っている。彼は子供なのだ。大人びているようでいて、意外に短気で情緒は不安定、といったところだろうか。
「もうすこし順を追って話してくれると助かるんだ」
「…………」
大人扱いしても子ども扱いしても、どちらも不正解か……ならば……。
「教えてくれないとこのアップルパイは持って帰ってしまいますよ」
折衷案。
丁寧な口調で脅してみた。
「……連続爆破です」
やがて仕方なさそうに渋々、Lは話し始めた。
いつの間にか床に座り込む彼の前には様々な写真が並べられていた。
後部座席がえぐれて焦げた車両、大破したガレージ、ある一部分だけが焼け野原となった空き――爆破現場の写真だろう。
「現状、被害ゼロというのは異常です。……これだけの破壊度の爆弾を用意できた人間が無意味な爆破をして終わるはずがありません。当然、リスクなど顧みずに一瞬の破壊だけを望む人間や、それでも人は殺したくないという、狂った人間である可能性は依然として残ります。ですが、最悪のケースを考慮せず、犯人が狂った人間である可能性に望みをかける方が狂ってます。犯人には明確な意図がある……その可能性の方が明らかに高いことは言うまでもありません」
犯人には明確な意図がある。
確かに――そう思う。
この事件がばらばらの意図によるものではなく、一つの意思によって繋がっているのなら、現時点で無意味に見えるそれは、決して繋がっているとは言えない。蜘蛛の糸というと聊か古典的かもしれないが、この先に何かがある可能性は、高いと言わずとも十分にある。
「そして、意図が一つに繋がっているとすれば、いずれその終わりがきます。そうですね、言うなればその装置は念のためのもの――いえ、切り札です」
やはり、思った通りだった。
Lは犯人の目的や行動を予測して。その犯行を目前で阻止する前提で話をしている。
「L、それはすべて君が考えたのか?」
「はい。全部、僕です」
では、ラークとの関係は――そう問い返そうとした時、Lの頭上に影が差した。
振り返る私と、顔を上げるや否やじとりとした目になる少年だった。
「やぁ少年」
タイミングよく、そこに立っていたのは爽やかに笑うラーク・フローリック警部補だった。