The boy
◆拳銃とガスマスク◆
工房に戻り、ジャミング装置の設計図ラフの続きを一通り書き終えた時点で、ふと腕時計に目を落とせば午後八時過ぎだった。私はメモリアルハウスの例の少年との約束を思い出した。彼に何か買ってやらなければならない。
私は財布だけ持って工房のドアを開けた。夏に差し掛かって、外では虫の声が風の音のように響き渡っていた。
観光地とはいえ、ウィンチェスターは片田舎である。この時間で空いているケーキ屋やカフェはほぼないが、七年前と変わっていなければ宛てがあった。それは工房から歩いて五分程度の場所にある、深夜営業の小型スーパーだった。チェーン店ではあるものの、あそこでは確か地元の有名店のその日分の売れ残りをディスカウントして販売しているはずだ。
人気のないレンガの塀に沿って歩く。遠くで犬が吠え、それ以外は樹の葉が擦れる音がするだけだ。ほぼ無音だった。
ふと、違和感を覚えた。
それは音ではなく、光だった。
自分の足取りに合わせて、足元をゆっくりと光が移動している。――車のライトだ。
はっきりと気が付いた時には、その車は私のすぐ脇に停車していた。
「ミスター・ワイミー」
黒い車のウィンドウが開かれると同時に呼び掛けられる。私は立ち止まって息を吐いた。
「ミスター・キルシュ・ワイミー、少々、話をしましょう」
「……名乗りもせずに何をおっしゃいますか」
「名乗る必要がありますか?名前など何の意味もありません」
「……貴方もまた名前は記号だとか言い出すつもりですか?」
皮肉を言いながらも私は、いまの自分に《逃げる》や《無視する》という選択肢がないことを冷静に受け止めていた。
「冗談を言うのは自由ですが、あまりお勧めはしませんよ」
「……ご冗談を」
「私たちは本気です」
足を止めてしまった時点で間違いだった。
――窓の隙間から銃口が覗いていたのだ。
「……サイレンサーまでつけて、それがおもちゃでないということはよく分かりましたよ」
「それはなにより」
ふふ、と余裕を演出するかのような笑いが挟まる。窓の隙間から彼の容貌が見えた。頭からパーカーのフードを被り、ガスマスクを着用していた。
「ミスター・ワイミー。私たちは知っているのです。Lから手紙を受け取っていますね。話してください。メモリアルハウスで何を話したのですか?Lについて、何を知ったのですか?」
「何も話していませんよ。少なくとも、君が聞きたいようなことは何もね」
「そういう態度はよくありませんよ」
ゆらり、脅しに拍車をかけるように銃口が揺らぐ。
「言ったでしょう、私達は知っているのです。尋ねているのはイエスかノーかではなく、その会話の中身ですよ」
やけに断定的だ。発言の内容も、少々ひっかかる。
「手紙は私のポストへ直接投函されたものですし、私は手紙のことを誰にも話していませんよ。その存在を知っている以上、貴方こそLの関係者ではないのですか?」
――返答まで一瞬の間があった。
「違います。私達はLの協力者でも関係者でもありません。……Lは慎重な人物です。私達はただ、何も知らない無関係の子供がポストへ手紙を入れるところを見ただけです」
「……『無関係の子供』、ですか。子供を庇うようなことを言いながら人を拳銃で脅すのですね、貴方は」
「ミスター・ワイミー。とぼけるのは無しにしましょう。Lについて何も知らないといいうのなら、貴方がLから受け取った手紙の内容を話してください。私たちは、貴方が手紙を持ってメモリアルハウスに向かったところを見ています」
「あぁ、手紙は受け取ったとも。だが内容がまるで理解できなくてね。だから説明を求めて手紙に書いてあった通り、メモリアルハウスに向かったんですよ。これはなんだ、と説明を求めてね」
これは、少なくとも嘘ではない。
「まぁ、結果として施設長のメモリアル氏に不審がられてお終いです。悪いのは手紙なのに、変人扱いされてしまいました。まぁ発明家ですし私、変人だと思われることには慣れているのですが、それにしても初対面でそう判断されるのはいささか心外というものですよ」
「貴方は十分、変人です」
「ガスマスクをしている貴方よりも変でしょうか」
「こういうことをする人間が顔を隠すのはむしろ普通です。そうやって無駄口を叩ける神経を私は変だと言っているのです」
――ああそう。
「ところで」
私は人差し指を立て、頭上を指さした。
「私は貴方のいうLほど慎重ではありませんが、自分の家の前には監視カメラをつけることにしているのですよ。それと、警察に友人もいます。このままここで話を続けますか?」
窓の向こうで、ガスマスクの男は首を振ると、銃を下げた。
「ミスター・ワイミー、私達は貴方の敵ではありません。情報を明け渡し、手を引いてくださればそれでいいのです。望むなら――それ相応の額も支払いますよ」
生憎、金には困っていない。
「たとえ私の気が変わったとしても、事実は変わりませんからね。私は何も知りません」
「……ミスター・ワイミー。Lと関われば、貴方は今後もこうして命を狙われることになる。私たちだけではないのですよ。手を引くなら今のうちです」
「ブリリアント、それはいいニュースです」
「……ゆめゆめ――お忘れなきよう」
捨て台詞のように、男はマスク越しに言い残して去っていった。
覆面ガラスにフード、ガスマスク。それに去り際の車を見送って気が付いた。車のナンバープレートは取り外されていた。もしも手元にスナイパーライフルがあれば容易くタイヤを狙うことが出来るのに、と惜しく思う。
まぁ、そんなことはどうでもいい。問題は、午後9時――当てにしていた店も閉店してしまっている時間だった。しかし、それもまた、意識の中で二の次に追いやられつつあった。
思わず笑みが零れる。
「……『手を引くなら今のうち』、ですか」
面白い。もしも私が何か引き返せない場所に踏み入れているのだとすれば、望むところだ。――行けるところまで行ってみようじゃないか。