Ghost
◆人質◆
翌朝――12月25日
最後の爆破日時
私は自分のベッドで目を覚ました。たたき起こされたような気分だった。枕元の黒電話のベルがけたたましく鳴って、私は心臓が止まるような心地で飛び起きた。
「……はい」
鳴り続けるベルと留めるために私は手を伸ばして答えた。
『Q、今すぐそっちに行く。着替えておけ」
「オ、リバーですか」
寝起きの意識でかろうじて《Q》という呼び名に意識の焦点を合わせる。
『あぁ』
答える彼の声に余裕はなかった。急いでいるのか、既に移動中のような雑音も混じっている。
『いいか、何を見聞きしても絶対に外には出るな。俺がつくまで待ってろ』
「一体何の話ですか』
『詳しい状況もすぐ説明する。いいから着替えておけ』
――『それと、《例の装置》の準備もな』――通話が切れる瞬間のそのオリバーの言葉で、私はようやく氷を被ったように目を覚ました。
これはあの事件の件だ――何かが起きている。
私は羽織をつかんで部屋を飛び出した。いやな予感が今更襲ってきて、私は真っ先にスタディを覗いた。読みかけの本があるだけで誰もいない。次に向かったのは東棟の図書館の隣――Lの部屋だ。ノックはしない。そっと開いた瞬間――私の体中の血が凍り付いた。
――Lはいなかった。
ベッドの布団が捲り上がって、床には彼が散らかしたままの資料が乱雑に広げられたままで、そして外出用のコートはハンガーにかかったままだった。
「L、いるのか?」
声を上げながら廊下と図書館を探す。バスルームにもいない。階段を駆け下りてふと窓の外を見た。
そこに――足跡があった。
クリスマスイブに降り始めた雪は一晩中降り続け、子供たちの足跡などとっくに埋まってしまっている。時刻は朝の六時だ。まだ大人も出入りする時間ではない。その中で一人分の子供の足跡が窓の外を横切っていた。
靴を履き、玄関のドアに手を掛けようとしたときだった。
「外に出るなって言っただろう!」
防寒用コートに黒い制服を着た男――オリバーだ、彼が向こう側からドアを開けた。
「オリバー、一体何が――彼が、施設の子供がいなくなって――」
「落ち着け」彼は言う。「一回中に戻れ。状況を説明する」
威圧的な声のおかげもあって、私はいくらか落ち着きを取り戻した。彼の言うとおりに談話室へ戻り、椅子に身を預ける。
オリバーは向かい側に座ると、大きく息をついた。
「Q、落ち着いて聞いて欲しい」
「……」
「ここの子供が人質にとられた」
「――な」
私は叫び、立ち上がりかけた自身の身体を無理矢理にその場に縫い付けた。私をじっと睨むように見てから、オリバーは続けた。
「ついさっきのことだ。警察に連絡があった。ワイミーズハウスという施設から子供を一人預かった。親も友人もいない、いなくなっても誰も困らないような子供だ」
犯人の要求はこうだ、とオリバーは言った。
「……《Lを探して連れてこい。必ず一人でウィンチェスター大聖堂に昼の十二時までに来い》と」
――なんてことだ。
12月25日、ウィンチェスター大聖堂――これは、例の爆破事件だ。
「オリバー、これは……これは爆弾魔の仕業です」
かろうじて声を絞り出すと、オリバーは唸るような声を出した。
「あぁ、分かっている。おそらく今までの被害者のようにその子供にも爆弾が取り付けられているんだろう。Lを呼び寄せてどうしたいのかは分からないが、最悪の場合、二人まとめて爆破しようとしている可能性も……と聖堂で行われるはずだったミサやクリスマスコンサートは中止させた。付近に人が近づかないように警官も配備している。だが、爆弾となると不用意に近づくこともできない」
「だったら、私のジャミング装置を稼働させながら……」
そのとき、電話が鳴った。
不穏なタイミングだった。早朝、孤児院に電話を掛けるような人物など思い当たらない。 私は受話器を取った。
風のような音が数秒聞こえて、そして小さな声が言った。
『……ワイミーさん』
それはLの声だった。
「だ、大丈夫か、無事なのか!」
『今、犯人の携帯電話から掛けています。…………声を聞かせてやれと……ごめんなさい、ワイミーさん……もしかしたら爆弾があらかじめ設置されているかも知れないと思って夜中に聖堂に行こうとしたら……捕まってしまいました』
「いいんだ、すぐに助けに行く。犯人は近くにいるか?」
再び息の音が聞こえ、Lが『いいえ』と言った。
『……いません。でも、遠くから僕を見ています』
「どんな奴だ、何か凶器は持ってるか?」
『……ガスマスクをしています。起爆装置のようなものをずっと右手に持っていて……爆弾は、僕の身体にテープで巻き付けられています。動けま――』
唐突に電話は切れた。
無機質な電子音がその場に漂った。
「……っ」
ぞくりと――戦慄のように駆け巡ったのは怒りだった。
「Q、今のは……」
「犯人の携帯電話を借りてLが電話を……」
「《L》?」
オリバーはまるで訳が分からないといった表情を浮かべる。ラークのことをLだと思っている彼にしてみれば仕方がない。私は自分を落ち着けながら首を振った。
「いえ、Lというのはその少年の名前であって犯人の要求するLではありません」
そもそも何故、Lがこんな目に遭わなければならないのか……それに、携帯電話を使っているということは、こちらがジャミング装置を作動させればそれを向こうも察知するということだ。爆弾が作動しなくとも、身動きのとれないLが危険にさらされるかもしれない。
「……一体、どうしたら」
「――僕が行けば良いんです」
凜とした声に振り向けば、ドアの傍らにラークが立っていた。走ってきたのか、肩で息をして、呼吸を乱している。
「人質に取られたのはあの少年なんですね、ワイミーさん」
彼はまっすぐに私を睨むようにしてこちうらへ歩み寄ってくる。頷くと、彼は今度はオリバーを見た。
「先輩、犯人の狙いは僕でしょう。先輩は知っていたでしょう。僕がLなんです」
「…………」
オリバーは何も言わない。
「よく僕が一緒に遊んでいる子供を覚えていますか?今、人質にとられているのはあの少年なんです。僕――Lと一緒にいたから彼は狙われてしまった。それに彼は……元はメモリアルハウスの子供です。……《あの人》の子供かもしれない」
「……っ」
彼の言葉にオリバーは息をのんだ。
そして、彼の言葉が半分ほど嘘だと私には分かった。
《あの人》とはキリエ・スルーズベリーのことを指しているのだろう。しかし、ラークは直後に「はは」といつもの調子で軽く笑った。
「まぁ、関係ないですけれどね。僕にとっては……僕もあの人を尊敬していましたが……それよりも、あの少年のことが大切なんですよ」
――。
時刻は朝の6時30分、私が着替えをしてジャミング装置をアタッシュケースに入れ終えると、ラークはいつも通りの白シャツにジーンズという薄着でクリスマスのウィンチェスターの冬に出て行った。
ドアを開けた瞬間に、オリバーが外に出るなといった理由に納得がいった。
外は既に警察官が多数到着しており、ハウスと隣接したウィンチェスター大聖堂を取り囲んでパトカーが複数停止している。こんな中に状況も分からず出て行って混乱を招けば、明確な要求を提示している犯人を刺激しかねない。
聖堂の広場へ到着すると、警部であるオリバーが関係者である私と話をつけていることは当然、周囲の警察官も把握していたのか、皆が私たちに注目した。同様に、いつものように私服のラークもまた視線を受け、時折「フローリック警部補」と話しかけられていたが、彼は微笑みながら何も言わなかった。
騒然とした現場の中を、彼はいつものようにのったりと、何も事件など起きていないように進んでいった。
「では先輩、いえシックスフィート警部」
彼はポケットに手を入れたまま、聖堂の入り口の前で振り返った。
「僕は大丈夫です。任せてください。それと、危ないので皆は非難していてください」
「……タイミングを見て突入する。犯人から起爆装置を手放させることはできそうか?」
心配もしているのだろう。
しかし、努めて冷静にそういったオリバーに、ラークは「はは」と笑い返した。
「ええ。できるだけ。やれるだけやってみましょう。あ、こうしてポケットに手を入れていると何か危ないものを隠し持っているように見えちゃいますね。だったらいっそ両手を挙げて入っていくとしますか」
ポケットに両手を入れているのと何も変わらない調子で彼は両手を挙げる。掛け値なしに顔色一つ変えず、ラーク・フローリック警部補は私たちから背を向けて、ウィンチェスター大聖堂の正面入り口へと向かおうとして――
「あぁそうだ、ワイミーさん。一つ、言い忘れていました」
彼は、何気ない用事を思い出すように指を一本立ててぼんやりと言った。
「さっきワイミーズハウスに行ったとき、こっそり少年へのクリスマスプレゼントを置かせてもらいました。玄関の横のツリーの下です。この事件が無事に終わったら、あげてくださいね」
「あぁ、分かった」
自分で渡した方がいいのではないか、と思わなかったこともない。だが、クリスマスプレゼントはそういうものなのだろうと、そのときの私は思ったのだった。
彼が何を思っていたかなど、その後の彼の行動すら想像できていなかった私に分かるはずもなかった。
そして彼は今度こそ振り返らずに聖堂の入り口へと姿を消した。
隣ではオリバーが、周囲では緊迫感をまとった黒い制服の警察官たちが静かに、息を殺して石の壁を見守っていた。
――程なくして。
《ブツッ》という音がオリバーの肩から聞こえてきた。無線機へ通信が入ったのだ。
『――ますか。聞こえますか、先輩』
ラークの声だった。
がさがさという衣擦れのような音に混じって、彼ははっきりと話していた。
「あぁ、大丈夫かラーク」
『はい。無事にLに会うことが出来ました』
その笑顔が目に浮かぶような口調だったが、同時に違和感を覚える。
「Lに会えた?あぁ、確かその少年のニックネームだったか」
ラークのことをLだと思っているオリバーは、彼の言葉に引っ掛かっていた。しかし、オリバーに対してそういった物言いをするのもまたラークにしては妙だった。
『――ブツ、――あはは』
「何がおかしい、ラーク」
『――……あはは、は――』
「おいラーク、周りに誰かいるか?犯人は、爆弾はどうなった?」
彼の笑い声に、オリバーが眉間に皺を寄せて無線機にしがみつくように問いかける。しかし、ガサガサという雑音が返ってくるだけでラークは何も言わない。
『――――ちょっと待っててくださいね』
そんな返答がようやく返ってきて、そして――――遠くで、銃声が一つ鳴った。
「な、なんだ!?」
同時に聞こえるガラスが割れて崩れていくような音、警察官の一人が聖堂の反対側から走ってきて、聖堂内のステンドグラスが銃声とともに破壊されたと報告した。
「内部で何が……ラーク、どうなっている?」
『はは、先輩。僕は――無事です』
穏やかで微笑むような口調でラークは答える。
『それに、手はず通りにLと会うことが出来ました。ありがとうございます』
――――。
『ですが、ごめんなさい。この少年にはもう少しだけ人質でいてもらうこととします』