Ghost
【2004年11月5日】 -沈黙-
外では雨が降っていた。私が座る回転椅子は前も後も白いモニター達に取り囲まれている。
横文字や動き回る人間、各国からの通信が絶えずテキストで受信されるモニター群の中に、東京の上空を映し出しているものがあった。モニターに映る無数のビルは雨風に吹き晒され、灰色の空は時折雷光によって青色に照らされる。
私は回転椅子に体重を預け、装着していたインカムを肩に下ろした。そうして背後で自動ドアがスライドする音を聞きながら椅子をくるりと回した。
「――」
開いたドアの外側で立ち止まったのは、背中を丸めた一人の青年だった。
白いシャツに薄い青色のジーンズ。亡霊のように青白く、影のように静かな立ち姿だった。丸まった背中と、裸足。
「……竜崎」
何かがおかしい――私は呼び掛ける。
竜崎は反応したようにピクリと頭を揺らしたが、何も答えなかった。
不吉な予感がモニタールームに訪れた。
竜崎の立ち姿は、いつもどこか所在なさげに見えるものだ。背中を丸め、ポケットに手を入れ、時には指を咥え、座れば膝を抱える。人を拒み、何かを恐れる子供に見えるかもしれない。
しかし、彼の瞳を覗き込めば、その内に秘めたられた炎と自信を感じ取れないことはなかった。彼はいつでも不敵で、恐れ知らずで、幼稚で、負けず嫌い――それこそが竜崎――いや、世界の切り札と呼ばれ、世界でも最も名を馳せる探偵であり、世界を震撼させているキラ事件の捜査本部を指揮する唯一の存在、《L》だ。
そんな《L》たる彼が今――迷子になって、居場所も向かう先も分からずに地面を見るしかない、小さな子供のように黙り込んでしまっている。
「…………」
私は諦めず、Lの返答を待った。それでも彼は答えない。
やがて彼は自動扉の外側から一歩、二歩と部屋に這入り、私の椅子の傍らに立った。モニターの冷たい色調に照らされて、彼の蒼白な顔はいっそう亡霊のように青白く見えた。
「どうしたんだ、L」
彼は視線を足元に落とし続ける。私は諦めずに、彼の言葉を待った
沈黙――そうだ。
この沈黙こそが、あの事件の前の晩を思い出させるのだ。
未だに私の隣に立つだけのLは、ぼんやりとした様子で一つのモニターを見上げていた。視線の先で、灰色のヘリポートに雨が降りしきる。曇った視界のその先には無数の高層ビルが薄いシルエットで浮かんでいる。
東京は大きな町だ。
時々、間違ってしまったのではないかと思うほどに、私達は途方もなく遠い場所までやってきてしまった。
あの小さな部屋にいた彼は、そして悪趣味な工房に届いた手紙を拾い上げた私は。こんな未来が訪れることなど全く予想していなかった。
そしてこの事件。
凶悪犯罪者が立て続けに一人の人間の手によって殺されていく《キラ事件》――失い、壊されていくのは命だけではなく、多くの人間の正義と悪の概念だ。そこに一般人や警察、犯罪者の区別はない。そし何よりも、一度でさえ揺るぐことのなかったたった一人の青年の自信と、その存在自体が崩れ始めている。
私はそれを――憎いと思う。
一度も態度に出したことはないし、この先も自分の矜持を他人に語って聞かせる機会など来ないだろうと思っていた。思っていたのだが――。
「どうかしたのか、L」
「…………」
もう少しだけ待ってみよう、私は静かに彼の言葉を待った。
◆ ◆
ウィンチェスターの短い夏が過ぎ、風が冷たくなっていくと、そこからは坂道をくだっていくように木の葉が枯れ、秋を感じる暇もなく冬がやってきた。
子供たちの引っ越しも大部分が済み、ワイミーズハウスには賑やかな声や足音が絶えず響き渡るようになっていた。
12月24日は、朝から雪が降っていた。
雨になることなく降り続けていたので、窓の外はいつの間にか雪遊びが出来るほどに真っ白な妖精の国になっていた。
私はスタディに暖炉の火を点して本を読んでいた。昼のうちにラークとLと次の日の作戦を再確認し、心のどこかで緊張を抱えながらも穏やかな時間を過ごしていた。Lはしばらく私の座る肘掛け椅子の近くでしゃがみ込んだり腹ばいになったりして事件の資料を眺めていたが、夕飯にキャロットケーキを食べたあとは東棟の自分の部屋へと早々に戻っていった。
夜の十時になって、私もそろそろ寝る支度を調えようと思った時だった。カチャリと様子を見るような控えめな音とともにスタディのドアが開いた。
「……おや」
上下とも真っ白なパジャマに着替えたLが目をこすりながらそこに立っていた。
「どうした、寝れないのか?」
ぼさぼさのLの髪は寝癖で余計にふわふわとしている。彼はいつもの鋭く観察するような視線ではなく、ただの寝ぼけた子供のような焦点の定まらない表情をして部屋の中に入ってきた。
椅子から立ち上がりかけていた私は、不思議に思いながらももう一度座り直す。
「どうした、シュガーケーンが欲しいのか?」
指を咥えてクリスマスツリーを見た彼に声を掛ける。
「…………」しかし、返事はない。
彼はクリスマスツリーからもゆるりと顔を背け、私の椅子の隣に立つと、何をするでもなく座った。
私は何か、もう一度何かしら声を掛けようと思った。しかし言ったところで返事もないように思えた。
Lは私と隣通しに並んだまま、正面で燃えさかる暖炉の炎を見ていた。椅子から見下ろしてその顔をのぞき込んでも、ぴくりとも反応せずにじっと黙っていた。
私は何も言わない。
Lも静かに前を見ているだけだった。
「…………」
「…………」
窓の外の雪と、暖炉のオレンジ色と、そして不思議な静寂と沈黙がそこにあった。
時折ぱちりと爆ぜる薪の音、それから小さく聞こえる彼の吐息の音、私は本のページを捲りながら、秒針の音に耳を傾けていた。