The Letter
◆第五の爆破◆
【1987年6月23日】
さて、差し当たってこの事件に私が関わることになったきっかけを述べるのなら、たった一言で済むだろう。
私――キルシュ・ワイミーは、あやうく爆破に巻き込まれ死ぬところだった。
七年間、様々な国をめぐっていた私はようやくイギリスへと戻ってきたところだった。
長旅の飛行機から電車へ乗り継ぎ、そしてウィンチェスター駅へ。
そして荷物を抱えてタクシーへ。
買い物を済ませようと立ち寄ったハイウェイの近くのパーキングで車を降りた瞬間、足元を掬うような衝撃が襲い掛かった。
足元の地面が赤く照らされ、ガソリンの香りが熱風と共に背中を圧迫した。遅れて黒い煙が視界を覆う。
「―――っ」
膝をつき、目を細め、むせかえりながら私は振り返った。
炎に飲まれていたのは、どう考えても数秒前まで自分が乗っていたタクシーだった。車種はもう煙と炎で判別不可能だ。ただ、駐車位置を見る限りはそうとしか考えられなかった。
吐き気がこみ上げ、冷や汗が血の気を攫って行く。
あと数秒――あと一歩でも遅ければ、きっと無事では済まなかっただろう。
それから――少しの間だけ記憶が飛んでいた。
気が付けばパーキングにはパトカーや消防車、救急車まで到着しており、周囲はサイレンの織り成す様々な色と光に満たされていた。
どうやら炎上するタクシーの傍らで何もせずにぼうっと立っていた私の代わりに、ドライバーが警察へ通報してくれたらしい。はっきりと記憶に残っているのはすっかり鎮火したタクシーを見つめる私の目の前にオレンジ色の制服を着た救急隊員が現れた時点からだった。
「大丈夫ですか?」
「あぁ」
「どこか痛いところは?」
「いいえ、大丈夫です」
救急隊員にはそう答えながらも、私は何が大丈夫なのか全く分からなかった。鞄も荷物も全て燃えてしまった。不幸なのか幸運だったのかよく分からない。オレンジ色の制服を着た隊員は、不可解そうに首を傾げると、蒸し暑い初夏であるはずなのに、私の肩に毛布を被せた。
次いで、パトカーのドアを勢いよく閉じて、大柄な赤毛の男がこちらに向かって歩いてきた。スーツを着た彼は私の顔を見るなりニヤニヤと意地悪そうな笑みを浮かべた。
「よう、Q。七年ぶりだな」
「…………」
顔なじみとはいえ、私はげんなりと顔を上げることしかできなかった。その男はオリバー・シックスフィート、それなりに腕利きの刑事で警部だ。飛行機に乗る直前も電話をした旧友だった。
「毛布なんか被っちまって、帰国したその日に事件に巻き込まれるなんてお前もついてねーなぁ、Q」
――Q、それは私のニックネームだ。
「まぁ怪我がなくてよかったな。荷物は無事か?」
「……いえ」
スーツケースも土産も、すべて炎上するタクシーの中に置き去りだった。無事なのは財布と自宅の鍵くらいなものだ。
「まぁ、そう気を落とすな。車を出るのがあと何秒遅かったら死んでたんだって話だからな!」
がはは、とオリバーは笑う。
「…………」
「いや、悪い。お前にはきつい冗談だった」
「……いえ、私なら大丈夫です」
「そうか?発明も《Q》も辞めて街を出たのは七年前の《あの事件》があったからだと思ったんだが」
七年前の事件と聞いて――瞬間的に、記憶が蘇る。
あの夜も、こうして爆破が起きた。
窓の外を通り過ぎていくサイレンの光と音、為す術もなくベッドに戻った自分と、翌朝の《死傷者二百名超》という新聞記事。
私は首を振って過ぎた過去をかき消した。
「心配には及びません、オリバー。ありがとうございます」
「そうか?……まぁ、命を狙われてるなんてことはないだろうが、せいぜい気を付けて――」
「――それは大丈夫だと思います」
ふいに、背後から誰かが声を上げた。
小さく、静かで、しかしはっきりとした声だった。
そして――
「これは連続爆破事件の一部です」
――それは少年の声だった。
「このハイウェイの周辺では既に4回の爆破が起きています。貴方は運悪く5回目の爆破に巻き込まれてしまったんです」
予想外の存在に、私は目を凝らした。
ベッドから出てきたばかりのように黒いパジャマを気崩した少年が、指を咥え、長い前髪の向こうから無表情に私を見つめていた。
「な……き、君は……」
誰だ?とも、何なんだ?とも言えなかった。
少年の目を見た瞬間、そのあまりの目つきの悪さと、暗さと、そしてすべてをくまなく観察するような視線に気圧されてしまったのだ。
言葉が喉で詰まり、自分でも信じられないほどに狼狽えてしまった。
「この爆破を引き起こしたのは――」恐ろしく平坦な声で少年は言った。「過去、4回の爆破を引き起こしたのと同一犯です。犯人の狙いはタクシーの《アルファ》という車種、貴方とは無関係です。それに犯人は遠隔操作で貴方が車から離れた瞬間を狙って起爆装置を作動させたと考えられます。今までも近くに人がいないタイミングを見計らったかのように起きていることから明白です」
「…………」
まるで――目の前に見えている文章を読み上げるように。
抑揚もなく、伝える意思もなく、冷えた声だった。
「ですので」
彼は顔を上げた。
「貴方は命を狙われている訳ではありません」
「…………」
「ですから安心してください、ミスター」
「……あ、あぁ……ありがとう」
少年は指を咥えたままゆらりと表情を歪める。これは――笑っているのか?そして、励ましているつもりなのか?
「驚きました」
少年は目を丸くして興味深そうに私を見た。
「何がだ?」
「ミスターは、僕のことを信じてくれるんですね」
「…………」
「……『何を言っているんだ』、『子供が口を出すな』と、普通は皆、怒るものなのですが……こうも静かに話を聞いてくれたのは初めてです……」
不思議と――鼓動が高鳴る。
理由が全く分からない。ただ、少年と目が合い、戦慄のような閃きが全身をぴりりと駆け巡った。
パーキングに座って毛布を肩から掛けた煤だらけの私と、ぶかぶかのパジャマを着た、みすぼらしくも見える少年――人生を変える出会いだと、その時の私は思いもしなかった。ただ、未だ飛行機に揺られてうなされている悪夢にうなされているような心地だった。
「――はぁ、またお前か」
意識を引き戻すように、オリバーが大きくため息をついた。
彼は腕を組み、呆れたように少年を見下ろした。しかし、彼に何を言うでもなく、私の肩越しに「おい、ラーク」と声を上げた。
「あはは、すみません先輩」
答えるように背後から聞こえた声に、私はつられて振り返る。
そこにいたのは、私服姿の青年だった。白いシャツに薄い青色のジーンズを履いて、一見手ぶらで、そしてポケットに両手を入れている。
「捜査に部外者の子供を連れまわすなと言っているだろう、ラーク」
オリバーの声に、私の目の前にいた少年はぴくりと反応すると、白いシャツの、ラークと呼ばれた青年の後ろに隠れてしまった。
ラークは、そんな少年を見下ろすと親しげにその黒い頭に手を置いた。
「はは、少年。そこのジェントルマンと何を話したんだ?」
「…………」
親しげに話しかけられるも、少年は俯いて何も言わない。
私は目の前のラークと呼ばれた青年と少年がいったい何者なのか、あるいは彼らの関係性が何なのか、様々な疑問を込めて友人の名を呼んだ。
「あの、オリバー、一体彼らは……?」
「……すまん、Q。混乱させたな。こいつはラーク、俺の後輩だ。こんな格好だが一応警部補でな。そこのガキはラークに懐いてる、妙な奴なんだよ」
オリバーはげんなりとしていた。
ラークは少年を背後に引き連れたまま私の正面に回り、右手を差し出してきた。
「初めまして。ハンプシャー警察のラーク・フローリックです。先日、警部補になったばかりでして、シックスフィート先輩の後輩にあたります」
「警察?警部補?あなたが?」
手を握りながら、私はつい彼の服装を見回してしまう。
あまりにもカジュアルで、場違いだ。
「ええ、私服なのは、私服警官だからです」
白いロングTシャツに、薄いブルーのジーンズ……警察官としてはラフすぎる。だが清潔感のある服装で、飄々とした立ち姿だった。精悍な顔つきながら優しげな笑顔、嫌味のない栗色の髪と緑色の瞳は、声と同じくいかにも好青年、といったところだ。
「というのは軽い冗談です。ただこの服が好きなんですよ。……まぁ、僕の言うことはみなデタラメですので、あまり信じない方がいいですよ」
「……はぁ」
「貴方のことは先輩から聞いています。今後もお付き合いがあるかは分かりませんが、よろしくお願いします」
「あ、あぁ」
私は説明を求める様にオリバーへと視線を送った。彼は珍しくニヤニヤ笑いではなく、仕方なさそうに肩を竦めた。
「ラーク、Qの前であまり冗談飛ばしすぎるなよ」
「はは、すみません先輩。ちょっと照れてしまいまして」
「全く……」
腰に手を当て、オリバーが気遣うように私を見る。
「すまんなQ……こいつはいつもこんな感じなんだ。若くして警部補、人望もあるんだが……何と言うか、本当にいちいち真に受けてたらキリがない奴なんだ」
「まぁ、そういうことです。今日は不運で幸運でしたね。羨ましい」
ラークはぎゅっと私の手を握ると、人の好さそうな笑みを浮かべたままオリバーを振り返った。
「先輩、今日は僕がこの方をお送りします。事情聴取は明日にでも。それでいかがですか?」
「分かったよ。その子供もちゃんと送っていけよ。Qもそれでいいか?」
「ええ、私は構いませんが」
「悪いな、また飲もうぜ」
オリバーは私の肩を叩くと、黒焦げになったタクシーの方へと走って行ってしまった。7年前は一介の刑事だった彼も、今となっては警部だ。彼は自らの昇進をあまり正しいものだと受け止めていない。七年前の爆破事件で死んだ同僚こそが本来警部になっているべきだと彼は言う。それは皮肉なことではあるが――。
「ではワイミーさん。私の車に乗ってください。私の車とは言っても、覆面パトカーですが」
そう言って、ラークは脇に留めていた銀色の車をガチャリと開錠した。そして、足元でじっと黙っていた不思議な少年の背中を軽く叩いた。
「――いくぞ、少年」
そして例の少年も、ひょこひょこと慣れた様子でパトカーへ乗り込む。
こうして私は、パジャマ姿の少年と、そして警察官であるのにラフすぎる私服姿の男――異様な二人とともに、七年ぶりの自宅兼工房へと戻ることになったのだった。
「お住まいはどちらですか?」
「アッパーブルック通り、SN-23です」
「アッパーブルック通り?」彼は不思議そうに反芻した。「あそこはなんかの工房だったかと思いますが。いつも無人ですよ」
「私が家主なんですよ。今朝、七年ぶりに帰国したところでして」
「はは、そうでしたか」
フロントミラー越しに彼が目を細めて笑うのが見えた。彼は常に笑っている。軽い調子で冗談でも言うように。
「ということは貴方が発明家なんですね、ワイミーさん」
「えぇ」
「では、先輩の言っていた《Qを辞めた》というのは?《Q》ってなんの略なんですか?」
「それは……まぁ……」自然と言い淀んでしまう。「探偵の真似事ですよ。Qは私の名前、キルシュ・ワイミーの略でして、オリバー……シックスフィート警部とは旧知の仲で、捜査に関してちょっとしたアドバイスをしたりしていたんですよ」
「あぁ、聞いたことがあります。謎の探偵Q、貴方でしたか」
「……厳密に言うとイコール私という訳ではないのですがね。アドバイスと言っても、本当に一言や二言でしたし」
オリバーは、自分の手柄にしておけばいいものを、何故か《Q》という正体不明の探偵があたかも存在するように振る舞っていた。そんな探偵は実在しないし、私もあくまで真似事をしただけで、探偵を名乗ったつもりはなかった。
「何故、辞めてしまったのですか?」
「深い理由はないですよ。たまたまその時期に発明したものでそれなりの利益がでましてね。ちょっと世界を回ろうと思っただけです」
というのは嘘ではないが、しかし建前でもあった。
本当のところは七年前の事件を目の当たりにしたからだ。
その事件を知ったのは、真夜中のサイレンの音を聞いた時だった。事件は、端的に言えば爆破事件――つまりは救急や消防、パトカーが出動している時点で、ことはもう終わってしまっているということだった。ベッドから身を起こし、青や赤のサイレンが目の前の道路を通過していくところを、私は暖かい室内からなすすべなく見送った。いや、実際何も起きなかったかのようにベッドに戻ったのだから、それは《何もしなかった》というべきなのかもしれない。
翌朝、紅茶を入れながら朝刊で事件の詳細を知ったその瞬間、私はQであることを辞めようと決心した。
『死傷者二百名』という見出しの前で、紅茶の湯気が漂っていた。
私は考えた。
人が死んでいるのだ。それも、大勢。
そんな凄惨な事件に、部外者の自分が立ち入るべきではなく、ましてや遊び気分でアドバイスをするなどと――そこまで考えて私は、果たして電話をして何を言おうと思ったのか、警察の番号をダイヤルしようと、黒電話に伸ばしていた自らの手を止めた。
私は受話器を取り落とし、脇のソファに呆然と身を預けた。
今までの自分の考えがすべて間違っていると思った。
これは、犯罪だ。
だが、今更だ。今までも全て――そうだった。
軽い気持ちで取り組んでいたことは、全てが犯罪捜査だった。罪の重さや軽さ、犠牲者の数、遊びかどうかを線引きするものではなかったのだ、と。そしてのちに分かったのは、相棒ともいうべきオリバーがその事件で同僚を一人亡くしていたことだった。
「Q、ではありませんが」
私を現実に引き戻したのはラークの声だった。
「今、ウィンチェスターでは別の探偵が活躍しているんです」
「別の探偵?」
「ええ、Lという探偵です。Qと同じく正体不明の謎の天才です。さっきの爆破も、Lだけが《ただの悪戯ではない》と注目しているんです」
「……警察は、いまの事件を悪戯だと考えているんですか?」
「見解というわけではないんですけれどね。それでも皆、そう言ってますよ。なんせ被害がゼロですから。今日を含めて特定のものを狙う意図が見えてこないんです」
「共通点は全くないと?」
「……警察が動くようなものは、何も」
含みのある言い方だった。気になるところではあるが、もしかするとそのLという探偵は何かに気付いているのかもしれない。
――Lか。
「どのような探偵なのでしょうか」
「そうですね、子供っぽいところがある人間ですかね」
「はぁ」
「それと、甘いものが好きで」
「……なかなか個性的ですね」
「嫌いなものは靴下だそうです」
名探偵は、常に裸足に靴を履いているのだろうか?
「警察の中では僕以外に彼の顔を知る人物はいません」
「……」
「今はウィンチェスターだけですが、いずれは世界で活躍するのではないかと思います」
「そこまでですか」
「まぁ、僕のいうことは全てデタラメなので、あまり信じない方がいいと思いますけれどね、はは」
「………」
若くして警部補――おそらく優秀なのだろう。だが、なんだろう、この何とも言えない掴みどころのなさは――。
彼の話を聞きながら、私は隣の席に座る子供の視線を感じていた。
「……君も、なんだか探偵みたいだったな」
「…………」
返事はない。
それどころか、私が顔を向けた瞬間に目を逸らしてしまった。さっきとはまるで別人だ。
シートベルトをしながら窮屈そうに持ち上げられた両足は裸足だ。十歳に満たない外見とはいえ、丸くなって親指を口元に当てている姿は物珍しい。
オリバーは「部外者の子供」と言ったが、彼は一体――?
それに、今はこうして押し黙っているが、さっきは現場でやけに饒舌に事件のことを喋っていたじゃないか。
「君は……ええと、フローリック捜査官。この子は?」
少年に声を掛けるか迷って、私は運転席の彼に尋ねた。
「あぁ、言い忘れてました。近くの孤児院の子供でして、よく一緒に遊ぶんですよ」
「遊びで……現場へ?」
「ええ。まぁ、僕のすることなのであまり気にしないでください。それと、僕のことは気楽にラークと呼んでください」
彼が言い終わると同時に、車は私の工房の傍らに停車した。
実に七年ぶりに戻った自分の家なのに、爆破に飲み込まれてしまったことで持ち帰るスーツケースはなかった。手元にあるのは財布と鍵と、そして後部座席に座る少年が「日本で買ったものだ」と言い当てたビニール傘だけだった。
車を降りる間、終始その少年が私を見ていた。