Sorrow
◆キャンドルライト◆
それがたったの一回きりとなるか、この先も見ることになるのか、これを書いている私には知るよしもない、だが、ただ一つ言えるのは、その日が確かに、私が初めてLが泣いたのを、泣き叫んだのを見た日だった。
そしてそれは、彼の8歳の誕生日だった。
――10月31日。
世間ではハロウィンで、そしてウィンチェスター大聖堂のすぐ近くに立つワイミーズハウスでもハロウィンのためにたくさんのお菓子を買い込んでいた。
外は土砂降りだった。
カーテンを開け、外から灰色の光が差し込むスタディでLはいつものように床にしゃがみ込んで様々なことをしていた。クリスマスに起きるであろう、最後の爆破のことは既にラークにも共有していた。
私の開発しているジャミング装置もテスト段階を終え、完成に近づいている。不気味な静けから目を逸らしさえすれば、やはりこの空白の期間は平和だった。
「L、今日はハロウィンだが仮装して外を回る気はあるか?」
「いいえ」
なんとなく聞いてみたものの、その答えは予想していた以上に味気ないものだった。彼は読んでいる本から目を上げようともしない。
「だが、行けば食べきれないほどお菓子が貰えるぞ?」
その言葉でちろりと黒い瞳がこちらを見たが、すぐに伏せられた。
「……それよりもパンプキンパイが食べたいです」
少年のわがままを、しかし私は叱ることが出来なかった。何故ならその日は彼の誕生日だったからだ。ケーキを買ってやろうと思っていたところで予期せず具体的な希望が聞けたので、私にとってはむしろラッキーだったのだ。
Lは自分の誕生日を知っていたかどうかだが、どうやら日付としては知っていたらしい。ほぼ会っていないとはいえ、Lのもとにはロザリオ・スルーズベリーの名前で毎年一冊、本のプレゼントが届いていたというのだ。
だが聞くところによると、Lは誕生日が一般的には家庭で祝うものであるということ自体を知らなかったそうだ。ハッピーバースデーの歌も、子守歌のように《どこかの国か別の時代では歌う場合もある》程度の認識だったそうだ。メモリアルハウスではどの子供も誕生日を祝われたことがなかったそうだ。
「ではLは一日中、ここにいるな?」
「ええ、いつもと同じく。外は雨ですし」
「そうか」
ではこの雨の中に、パンプキンパイを求めて出て行こうではないか。あるいはタクシーを呼んで、Lも一緒に連れて行きプレゼントを買うのも良いかもしれない。
そう考えながら窓の外を見ていたとき、「ワタリ」と改めて呼ばれた。Lは立ち上がって人差し指を咥えていた。
「ん、なんだ?」
「パソコンを借りてもいいですか?」
捜査で使うのだろうか?
まぁ、構わないだろう。
「あぁ、いいだろう。おいで、私の書斎にあるからログインできるようにしてあげよう」
私たちは上の階に上がり、私がこれから書斎にしようとしている部屋へと移動した。そこはベッドやクローゼットもあり、書斎というよりはホテルの一室に近い。そこに、ほぼ使われていないセッティングを終えたばかりのデスクトップパソコンがあった。
Lはどこで覚えたのか、人差し指しか使わない奇妙な叩き方でキーボードをいじり始めた。三角座りで椅子に乗っかった彼の後ろで、私は息をついた。
さすがに天才とはいえ、パソコンの扱いはまだ不慣れな様子だ。触らせて大丈夫だろうか、という漠然とした不安が消えていくのが分かった。
「ワイミーさん、そこにいますか?」
ふいにドアの外からロジャーの声が聞こえて、私はその場をほんの数分、もしかするとほんの数十秒だったかも知れない。とにかくひと時だけ離れた。しかし、そのわずかな時間こそが私の過ちだった。
パソコンの前に座るLを一人にして、私は部屋を出て、そしてすぐに――本当にすぐに戻ってきた。何も変わらないはずだった。だが、Lの様子が明らかに違うと、ドアを開けた瞬間に私は気付いた。
「…………」
Lはスイッチが切れてしまったかのようにぴたりと動かなくなっていた。
「……L」
ぽつりと、何を言うつもりだったのか私は彼の名を呼んだ。
「…………」
返事はない。
Lは両腕をだらりと椅子の横に垂らし、脱力しきって、ひらすらに空虚な瞳で、パソコン画面の青色を反射するだけの感情の読めない瞳で、計算することも辞めてしまったかのような沈黙の瞳で、理解を拒むほどの底知れぬ瞳で、青い画面を見ていた。
彼の見つめる先にあったのは――数ヶ月前に受け取ったフェティア・ナヒクからのメールだった。
「……L、これは」
「これは――」
Lが画面を指さし、私に問いかける。
「この【The boy】というのは、僕のことですか?」
私は瞬間的に、何も言えなかった。答えはイエスかノーか、簡単な二択のはずだったのに、私に出来たのはくらりと血の気が引いた自分の身体を支えることだけだった。現実に立ち返り、焦点を合わせれば、長い前髪越しに私をじっと見つめるLの姿があった。
「これは僕のことで、僕は、名前、は……」
彼らしくもなく、その言葉は途中で途切れた。残るのは乾いた、咎めるような、問い詰めるような、視線だけだった。
私ですら、受け止められないその文面を――Lが見てしまった。知ってしまった。
「…………」
Lはひたすら私を見つめ、それから画面を睨んで全ての動きを留めた。
――沈黙。
「……L、これは、私も――」
その瞬間――がたりと音を立ててLが椅子から飛び降りた。
思わず後ろに飛びのいた私を置いて、彼はドアを殴るように押し開け、瞬く間に廊下に飛び出して行った。
「L!」
突然の行動に、私は咄嗟に彼の名を叫ぶ。ドアの外から大人には到底不可能なスピードで階段を駆け下りていく足音が聞こえてきた。なんてことだ、あんなに早く動くLを、私は未だかつて見たことがない。
私はその足音を追った。
どたどたと革靴が鳴り、階段を下りきった瞬間にどこかで雨音がざぁっと聞こえてきた。Lが外に出たのだ。傘を持つことなく、靴を履くこともなく。
「L!」
私は雨よけのコートを掴み、傘をスタンドから引っ張り出した。パソコンの前にLを一人にしてしまった数分前の自分を呪いながら、あるいは、彼にパソコンを触らせる前に感じていた漠然とした不安にもっと従うべきだったと後悔しながら。
靴を足に引っ掛けてドアを開けると、風に煽られた雨粒が室内に降りかかった。酷い天気だ。一瞬で体温を奪うような冷たい外気はとても十月のものとは思えなかった。
私は外に出て、まず周囲を見渡した。灰色の空が地上にまで広がっているようで、斜めに降る雨が視界を曇らせて、Lの姿を見つけることは出来なかった。
「L、どこだ?」
私は喉を割るように叫んだ。
もしも彼が私から逃げているのなら、声を出して知らせることは得策ではないかもしれない。だが、この時の私に彼をひっそりと探すなどという考えは浮かばなかった。
とにかく――恐れていた。
壊れてしまったかもしれない。壊してしまったかもしれない。
ぎりぎりその形を留めていた小さく繊細なものが目の前で、そして自分のせいで壊れていく様を見ているようだった。
強い風が吹いて、傘が煽られた。横に倒れそうになった私は体制を立て直し、傘を閉じた。思い雨粒が肩に、手に、顔に降りかかる。そして視界の端で小さく黒い影が見えた。影は、水たまりを踏み壊す音を鳴らして、ハウスの西棟の裏へと走っていった。
あの向こうは行き止まりか、そうでなければ――一か所しかない。Lの向かう先は、ワイミーズハウスのチャペルだ。
私は既に息を切らし、水たまりに足を取られながらそこへ走っていった。
ようやく見えてきた、赤いレンガ造りの尖塔に、石の十字架が暗く浮かんでいた。ここは、現在使われていない。ワイミーハウスがかつて修道院の一部だった時の名残だ。外門の内側の施設なので鍵は掛けられていない。
私はチャペルの大きな木製の扉の前の石段に、小さな足跡が付いているのを見つけた。Lはやはり裸足で飛び出してきてしまったのだ。
扉を開けて一歩踏み入る、扉は手を離しただけで勝手に閉まった。その瞬間から外の雨音はヴェールがかかったようにくぐもり、無音になったかのような錯覚を覚える。
「……L」
今度は叫ばなかった。
こつこつと一歩ごとに靴音が反響する。正面の鮮やかなステンドグラスは、外の鈍い明かりを纏ってカーペットに七色の光を淡く映し出している。その光の筋に、室内のホコリが照らされていた。私は中央の通路をさながら神父か、花嫁のようにゆっくりと進んだ。
「L、どこだ?」
ここでも私は意味のない呼びかけをした。左右の長いベンチを順にみていくが、どこにも彼はいない。
しかし、私は気付いた。
下を見れば、彼の行き先は明白だった。
中央通路に引かれた長く赤いカーペットに点々と足跡がついていたのだ。小さく、濡れた足跡だった。それは徐々に色を薄くしながら、まっすぐに正面の祭壇へと向かっていた。
きっと私の足音にも気が付いているに違いない。私はそれでも彼を驚かせない様にそっと近づき、そして聖書と十字架の置かれた祭壇の下を覗き込んだ。
Lは――そこにいた。
いつものように膝を抱え、俯きがちに正面を睨んで――そして、目元を赤く腫らして泣いていた。引き付ける息に合わせ、肩が揺れていた。
「……L、こんなところにいたら風邪をひいてしまうよ」
「……」
濡れた目は私を見上げない。
「隠していた、訳じゃなかったんだ。私も知らなかったんだ」
私は何を言い訳しているのだろう。
知らなかった?何を?
私は全て知っていた。だが――隠していたんじゃないか。
「どうして、ですか」
ぽつりと、虚空を睨んだLが言った。
「どうして、ですか。何故ですか」
Lは私を振り返っていた。
徐々に高ぶるその声には、苛立ちと怒りが含まれているようだった。
「どうして、どうして、理由がない、同じだ、関係ない、何も、変わらないはずだ、なのに――どうしてですか?!」
「……L、落ち着きなさい」
ついに叫びだした彼を、私はどうにかなだめようとした。その目からは今も大粒の涙が零れ落ちていく。
「何が、分からないんだ?」
「僕は、両親を知らない。会ったことはない。なのに――どうして!どうして、《どうやって死んだか》を知っただけで……どうして、こんなに悲しくなるんですか?」
彼は、悲しんでいた。
そして、怒っていた。
大人も子供も、ましてや天才かどうかなど関係ない。特別な彼に言ってやれることなんて、何もない。
「……L」
だから私は言った。言ってやれることなんて、これくらいしかない。
「それが……それが普通なんだよ」
何もおかしい事ではない。
何一つ破綻などしていない。
特別でもなんでもない、普通のことだ。
「でも……僕は覚えていない。好きでも嫌いでもない。それに、名前なんてただの記号のはずのなのに……」
「あぁ、そうだな」
「人は、いつでも死ぬものです」
「そうだな」
「僕は、一人でも大丈夫なんです」
「……そうだな」
「両親の死だって、僕には関係ない。どうでもいいことなんです。知っても変わらない。僕も、何もかも……なのに、どうしてですか?」
「……そうだな。実際、そうかもしれない。過去も記憶も、ただの記録だ。触れられないし、今の自分とは関係ない。でも、心は……それをどう思うかは簡単に変わるものだ」
「……」
「そして、どう思うかは自分で決めていいんだよ」
悲しみを悲しんでもいい。
悲しみを喜んでもいい。
怒りに怒ってもいい。
怒りに悲しんでもいい。
溢れてもいいし、空っぽでもいい。
何も感じなくても、何も感じられなくても、思ったふりをしたって、思わないと言い聞かせたって、どれもが正しく、どれも否定されるものではない。
Lは大きく目を開くと、目尻を両手の袖で拭った。
「いいん……ですか?」
「あぁ」
「……分かりました」
Lは頷き、律義に丁寧に、いつものように平淡な口調に戻っていた。しかし、私を見上げていた瞳にはみるみる再び涙が浮かび、そしてぽろりと零れた。
「……」
「ワイミーさん……」
「なんだい?」
「……悲しいです。寂しくて、痛いです。僕は……悲しい、です」
ぽろぽろと溢れるような言葉は途切れていき、最後には涙となった。苦しそうな声は嗚咽となり、七歳の少年は幼い迷子のようだった。
「……悲しい、のと」
「あぁ」
彼は涙を流している。
「大丈夫なの、と」
「あぁ」
「どっちが……正しいですか?」
だが、知ろうとしている。
必死に、答えを探している。
誰も教えてくれなかったことだろう。だが、それを知らないのは誰だって一緒だ。
「どっちも間違っちゃいないさ」
「……」
「だが、いいことを教えてあげよう。必ず正しいのは、より優しい方だ。何も感じなくてもいい。言葉が嘘でも、心が空っぽでも構いわない。ただ、優しくあろうとするだけで、自然とそれは正義になるんだ」
「……――」
「どうだ、納得できるか?」
腕の中で、彼は涙を拭くように頷いた。
初めてメモリアルハウスの応接室でこの少年に出会った時、私は彼を一目見て、孤独な少年なのだと思った。しかし、私は彼のその孤独の根深さを一片たりとも分かっていなかったのだ。
「なぁL」
私は彼の背中に話しかけた。
「戻ろう。ずぶ濡れだ」
「……ん」
「このままでは風邪をひいて私達二人とも死んでしまうよ」
腕の中でLはもぞもぞと動き、そして――「ふふっ」――小さく笑った。泣き顔以上に、彼の笑い声を聞いたことが私にとっては大きな驚きだった。
「ワタリ、いえ」
言いながら彼は顔を上げる。
「……ワイミーさん、戻る前に、行きたいところがあります」
赤く泣きはらした目と頬で、しかし彼は落ち着いた声で言った。
「着替えてからではだめか?」
「すぐ終わります……お願いです」
そうやってコートの裾を掴まれてしまっては、私はその願いを聞かないわけにはいかない。
分かったと言って彼の手をとれば、彼は冷たい手でぎゅっと握り返してきた。濡れた服のままよりはいいだろうと思い、私は彼に部屋から持ってきた砂色のコートを着せてやった。
「どこにいくんだい?」
「…………」
無言のLは、手を繋いだまま私を先導して歩いた。
そして着いたのは、すぐ隣の敷地のウィンチェスター大聖堂だった。
「聖堂?ここに来たかったのか?」
こくん、と彼は頷く。
私たちは入り口で入場料金を支払って、大きな石造りのドアを潜った。
ワイミーズハウスのチャペルとは比べ物にならないほどの静けさと、息を殺したくなるほどの圧倒的な天井の高さだった。観光客がぽつりぽつりと歩いては立ち止まって聖人の像や古書の展示を眺めている。Lは人差し指を咥えてほんの少しだけ立ち止まりはしたが、もう一度私を引っ張って外側の通路を進み始めた。
やがて、ぱたりと足音を立てて立ち止まる。
それは、無数の灯が揺らぐ燭台の前だった。
祈りとともに火を灯してもいい。
ただ、記念で灯していく人もいる。
Lはその前で再び指を咥えてじっと炎を眺めて、そして私を振り返った。
「…………」
「……ちょっと待ってくれ」
私はポケットを探った。手ぶらで出てきてしまった。
5ペンスでもあればいいのだが――あった。
肩越しにコインを入れてやると、Lは例の指先だけで持つ仕草で珍しそうにロウソクを手に取った。私は後ろから彼を抱き上げて、燭台に高さを合わせてやった。
「ほら、袖に気をつけるんだ」
Lはそっと炎にロウソクをかざし、そしてその炎を一つ手元に宿した。
瞳に橙色が揺らいでいるのは、おそらくLがどの燭台にロウソクを置くかを決めかねているからだろう。しばらく迷ってから、彼は目の前の台を選んで、ゆっくりとロウソクを差した。
「もう大丈夫ですワイミーさん、下ろしてください」
言われたとおりにそっと彼を床に下ろす。
彼は自分のロウソクをじっと無表情で、まるで何を思い浮かべているのか全く分からないようにただじっと見上げた。そして静止、沈黙――二つの瞳がゆっくりと閉じられた。
小さな肩と、伏せられた瞼と、濡れた髪。
その瞬間、私は答えを見つけた。
永く感じられた静寂が解かれ、Lの目が開く。
彼の瞳に映り込む炎は、たしかに彼の中で燃えていた。
それは、あの日ワイミーズハウスの未来を思い描いた日の炎とよく似ているように思えた。
私はほんの少しだけ迷って手を宙に彷徨わせてから、彼の肩に置いた。
天使の子か、悪魔の子か――あるいは神の子か。
しかし彼は紛れもなく一人の人間で、そして小さな子供だった。
私たちの頭上には大きな十字架があり、それが虹色の光を遮って、斜めに影を落としていた。
「もう、大丈夫です。戻りましょう、ワタリ」
「あぁ」
切り替えたように足取り確かに歩いていく少年の後ろを、私は苦笑まじりに追いかけた。
孤独は傷ではなく、それ故に癒えることもない。
家族になることは出来ないだろう。
友達になることは出来ないだろう。
だが、隣にいることができる。
沈黙を破り、言葉をかけることができる。
私だけは彼の一人遊びのパズルを正義だと言い張ろう。
彼が全てを無関係と切り離しても、私が間を取り持って、世界と少年を繋げよう。
見つけた答えはかくも単純なものだった。
一生をこの少年に捧げよう。
そう、命を懸けて誓った。