Victims
◆ワイミーズハウス◆
「よう、少年」
そして翌日、朝から施設を出ようと大きなスーツケースを抱えたLの前でしゃがみこむ白シャツの男がいた。両手をポケットに入れたまま、柔和に、善意の塊のように胡散臭く笑っている。
「新情報ですか?」
「冷たいこと言うなよ、お祝いだよ、ほら」
じとりとした目を向けて指を咥えるLに、ラークは何処からか取り出した紙袋を掲げた。
無言で不審そうにそれを見つめるLに、ラークは「はは」と軽く笑った。そしてがさがさと紙袋の中身を取り出した。
「少年、服らしい服、その黒いパジャマしか持ってないだろう?」
彼が両手で小さく広げたのは、子供サイズの白いシャツだった。
「ほら、下もある」
そして薄い青の、こちらも子供サイズのジーンズだった。
「なんと僕とお揃いだ。どうだ?」
「…………」
Lは指を咥えたまま、なんとも形容しがたい表情を浮かべた。目元に少々力が籠っているが、口は開き、人差し指が口元に充てられている。
「ヒバリとお揃いの服が、何故、お祝いになるのか、分からないです……」
「嬉しくない?」
「嬉しく……」
Lは途中で言葉を区切り、まるっきり空白になってしまった。
「……いえ……嬉しいです」
これには驚いた。Lはてっきり呆れているものかと思ったからだ。ラークは満足げに笑うと、Lの寝ぐせ頭をさらにかき乱した。
「よしよし、やっぱり少年は可愛いとこあるなぁ、流石、僕の切り札だ。いや、いずれは世界の切り札かな」
引っ越し祝いを託しただけで、ラークはそそくさと仕事に戻ってしまった。もっとも、仕事をしているような外見ではないのだが、彼はあれで許容されている存在なのだから仕方がない。せいぜい、同じ服を送られて喜んでいるLが同じような人間にならないことを祈ろう。
しかし、その読みは甘かったと言わざるを得ない。
「L、シャワーから出たら違う服を着なさい」
「でもこれがいいんです」
「洗濯する間は仕方がないんだよ」
「……では、もう一着買ってもらえますか?」
いずれ、このようなやり取りが繰り返され、その後20年間にわたって延々と彼が同じ服を着続けることになることを、その日の私が予知しているはずもなかった。
――それはさておき。
大きな荷物をそれぞれに抱えた私とLは、ワイミーズハウスにつくまでの十分余りの間にすでに汗だくになってしまっていた。私はLに抹茶のアイスを買ってやった。イギリスで見かけるのは珍しい、日本の緑茶の風味である。大きな黒い鉄柵を前にしてLは片手にコーンを持ち、もう片方の手で私の袖を掴んでいた。きっと暑いのだろう。
外門につけられたセキュリティベルを鳴らすと、すぐに高くて大きな柵はギィと音を立てながら私達を出迎えた。Lは静かにしていて、大人しく聞き分けの良い子供のように立っていた。私は袖を掴んでいた彼の小さな手を握った。すると、ぎゅっと力が籠った。この場で緊張しているのはこの子か、それとも自分か、どちらかと考えた。
「ようこそ、L」
エントランスが開かれ、吹き抜けの広い玄関ホールでロジャーが出迎えた。Lは丸いカーペットの中心に立ち、薄暗かったメモリアルハウスと正反対の開放的なホールを見回していた。
「他の子供たちは?」
きょろきょろと周囲を見渡して、不思議そうにLが言った。
「まだ来ないんだよ。君が一番乗りだ」
「じゃあ、好きな部屋を選んでいいですか?」
「……部屋を、か?」
ロジャーは分かりやすく狼狽えた。
既にLの荷物をあらかじめ決めておいた部屋へ運ぼうとしているところだったからだ。
「あぁ、すまないロジャー。彼とは一人部屋を与えると約束してしまったんだよ。……そうだな。確か、子供部屋と隣接していない個室だったか?」
私の言葉にロジャーは腕を組んだ。おそらく「子供が何故、子供部屋と隣接していない部屋を希望するのだ?」といったところだろう。
「東棟の最上階、図書館の隣の部屋がいいだろう。静かな場所だ」
「で、ですがワイミーさん、あそこは客室のはずでは……それに、少々この子には広すぎるかと」
「あぁ、それくらいで丁度良い」
「……そうですか。ならばそのようにいたしましょう。もともとが客間のつもりでしたので、すぐに泊まれるようにはなってますから」
少々落胆した様子のロジャーを見て、私は気の毒に思う。客間のつもりで用意していた部屋を小さな子供の自室にされてしまったのだから仕方がないだろう。しかし、Lは静かに口角を上げて、上機嫌にアイスを舐めていた。
「あとは近くにキッチンがあれば言うことなしですね」
これは私の独り言だった。
住む環境が変わったことは、Lにとっては本当に些細な問題だったのかもしれない。
Lはたびたびハウスの外に出て、何をするでもなく空を眺めていた。メモリアルハウスではそういったイメージのない子供だったので、少し意外だった。
ずっとそうしたかったのかもしれないし、そうできなかったのかもしれない。
Lは勝ち取った自室のほかに、勉強部屋と書斎を兼ねて作ったスタディという部屋を気に入ったようだった。私が肘掛椅子で本を読んでいる間、Lは現在はまだ火を灯していない暖炉の前のカーペットに座り込み、地図や資料を広げて黙々と思考していた。
だが――残念なことに爆破地点の予測に至ることはなかった。
犯人からのパズルのピース
事件を解く手掛かり
それらが欠けている限りは、地道な捜査を警察に任せるほかに、7歳のLにできることはなかった。だが彼はそれでも見落としがないか、あるいは五つの点で構成される図形の正体に気付けないか、思考の手を休めようとはしなかった。
Lの眼の下の隈は文字通り日に日に深くなり、彼は私よりも朝早く、夜遅く、常にスタディにいた。事件のこともさることながら、宿を共にすることで私は余計にLのことが心配になっていた。彼は注意すれば自室に戻ったが、きっと寝ていないに違いなかった。
そして7月9日――七度目の爆破予定日。
「ワイミーさん、頼みがあります」
「あぁ、何でも言ってみなさい」
慣れない《心配》という感情の臨界をとっくに突破していた私は、そのLからのあまりにストレートな頼みごとに当然の如く強気な返答をしたのだった。
「今日一日、僕と一緒にこの部屋にいてください」
まるで無感情に淡々と述べられたその愛らしく謙虚なお願いの意図を、しかし私は掴みかねた。
「どうして?」
「今日が第七の爆破予定日だからです」
「それは……分かっているが」
――もしかして、私の身を案じてだろうか?
「いえ、そうではありません」
「では、どうしてだ?」
二度目の問い詰めに、Lはじとりと目を半分にして私を睨んだ。
「深い理由はありません。言ったらワタリは怒るので秘密です。僕は怒られたくありません」
「だが……いいのか?」
これは、ジャミング装置の試作品を試す必要もないのか、という意味だった。もっとも、次の爆破地点が分からない以上、ウィンチェスター近郊で発生するとも言えず、当てずっぽうのテストすら難しい状況ではあるのだが。
「はい、ここにいてください」
だがLは頑なだった。
意志を曲げず、そして理由を説明もしなかった。私が怒る理由というのは近頃は夜更かしとお菓子の食べ過ぎ位なものだが。
理由は――のちに分かった。
何年後かも忘れた、未来に知ることができた。
「あれは貴方を容疑者から外すためでした」
――なるほど確かに。
それなら当時の私は怒ったかもしれない。私を容疑者から外すために一日部屋に拘束したということは、その場にいない全員が容疑者ということであり、それは即ち、彼が誰も信じていなかったということだからだ。唯一、容疑を外そうと思ってくれたはずの私にすらそれを秘密にしていたとなれば、尚更だ。
そして――午後3時。
『こんにちは、ワイミーさん。少年はそこにいますか?』
軽い調子でかかってきたラークからの電話、その要件が何であるかは明白だった。私は受話器をLに渡し、横で聞き耳を立てた。
「ヒバリ、Lです」
『やぁ』彼の声は十分聞こえてきた。
「……現時点で分かっていることは?」
もう前置きなど必要ない。Lも先を急かすように静かに促した。
『爆破の時刻は午後2時。場所はミューズレーンの西端、空きガレージの中で、椅子に括り付けられた状態で一人の男が爆発に巻き込まれた』
被害者の名はザイオン・ジグザグ。
強盗容疑で指名手配中の犯罪者だったという。
「……イニシャルがz・z……ギリシャ文字の【ζ】ですね」
『今回は首から上が派手に損傷していてね、検視結果はまだ来ないが、即死だっただろう』
――即死。
その言葉を受けてか、あるいは最初からか、顔よりも大きな受話器を握るLの手に力が込められた。関節が白く浮き上がっている。
「他に何か、ヒバリが気づいたことはありますか?」
『そうだなぁ。僕の言うことだからあまりあてにはならないと思うけれど――』
そして私は、Lの黒い両目がゆっくりと見開かれるのを見た。
間違ったことを聞いてしまったように。
聞きたくないことを聞いてしまったように。
『今回の被害者が犯罪者だったのは、良かったと思ってるよ』