Victims
◆第六の爆破◆
――三日後、6月29日
Lからの連絡は結局、入らなかった。それはつまり、彼が爆破地点の特定に至らなかったということでもあるのだろう。現状、地点が分かったところで警察に出来ることは限られているだろうが、それでもほんの少しだけ期待があったことは否めない。
私は朝の10時に工房を出て、約束通りにメモリアルハウスの手前、ウィンチェスター大聖堂の広場のベンチでフェティアへとつながる番号をダイヤルした。ハウスのレセプションカウンターだ。
『……はい、メモリアルハウス』
しかし、電話口に出たのは別の女性の声だった。フェティアよりも年がいっていて、そして突き放すような事務的な声だった。
「あの、失礼ですが本日、ナヒクさんは」
『彼女ならこの時間は大学です。夕方頃には出勤かと思いますけれど、何かご用で?』
「……そうですか、いえ、ありがとうございます。私はキルシュ・ワイミーと申しますが、後で伺いますので」
不審がる電話口の女性の声を受けながらも、私は通話を切った。
フェティアは約束を忘れているのだろうか?あるいは急ぎの用事か?
いずれにせよ、待ち合わせ時間の約束はしていない。__今日はすでに半分が過ぎようとしているが、街は至って平和で、爆破など起きていないようだ。このままLのもとへ行って、そのまま彼女を待てばいいだろう。
私は一瞬迷って、聖堂のカフェでビスケットとサンドイッチを土産に買った。Lは甘いものが好きで普通のご飯は好かないのだとフェティアは言っていたのを思い出したのだ。 ハウスのインターホンを鳴らすと、先ほど電話に出た別のシスターが私を通してくれた。
「今日、Lという少年はいますか?」
彼の事情を把握しているのがフェティアだけかと考え、私はそう訪ねた。
『……はぁ、子供たちの名前なんかいちいち覚えちゃいないんですけれどね』
シスターは眩しそうな表情でため息をつくと、舌打ちしながら振り返って子供たちの名前のついた鍵のかかったウォールフックを見た。出かけるときに鍵を預けるシステムだ。そこにLの鍵はなく、代わりにシールで『L』と書かれている空のフックがあるだけだった。
『……あぁ、Lってこれかい?いますよ。具合でも悪くて学校休んでるのかね』
やはり、彼女はLが普段から学校に行っていないことを知らない様子だ。
「ありがとうございます。誰か、警察の人も来てたりしますか?」
『はぁ?来てないですよ。物騒なことを言わないでください』
怪訝に言う彼女に礼を言い、私は応接室を覗いた。静まり返った暗闇は無人で、Lはそこにいなかった。次に、私は階段の下の物置部屋を見た。本当に小さなベッドと難しい図鑑が机の上にあったので本当に普段からLがそこで過ごしていることが分かってぞっとしたが、やはりLはいなかった。であれば、上の、前にあった時に彼がお菓子に囲まれていた部屋だろうか?もしかするとラークが来ているのかもしれない。
私は上の階へと上がり、前回と同じ扉をノックした。
返事がない。だが、それは前回もそうだった。
私はドアノブに手を掛け、ゆっくりと回した。鈍い錫色のそれが抵抗なく回ったので、鍵はかかっていないようだ。静かに押し開け、部屋を見渡す。
Lはいた。
ベッドの上で膝を抱え、指をくわえ、ただ正面を睨みつけるが如く、見据えていた。私が部屋に入ってもこちらを見ようともしない。
「L」
私は小さく声を掛けた。それでようやく彼の黒い頭がこちらを向いた。
「__」
その瞬間、私は呼吸を忘れた。
「ど、どうしたんだL……」
彼の目の下には黒く、煤をなぞったのかと思うほど深い熊が出来ていた。頬も痩けている。白かった肌が、さらに蒼白になっている。たったの三日しか経っていないのに、彼は変わり果てていた。
「……分からないんです」
Lは口元に充てていた爪をがりっと勢いよく噛んだ。私は思わず顔をしかめる。
「三日間、考えました。爆破の地点も、メッセージの意味も、次の標的と、そしてどうしたら阻止できるかについても、全部……全ての可能性を網羅して考えました。それでも答えが見つからないんです」
私は小さく身を縮こませた彼に歩み寄った。
「このまま……このまま爆破を留めることが出来ずにいつか多くの人が死んだりしたら……そのときは僕の負けです」
余裕のない二つの大きな目が虚空を睨みつける。
彼が苦しんでいるのは「分からない」という感情か、それとも「敗北」の可能性か、いつか起きるだろう犠牲か、どれなのだろうと考えた。しかし暗い瞳を覗き込んでも、一体この少年が何を見据えているのかは全く伺い知れなかった。
「……L、落ち着きなさい。最後に寝たのはいつだ?」
私は彼が丸くなっているベッドの縁に腰を下ろした。
「時間がないんです。次の爆破は今日中に起きます」
「L、答えなさい。なにも無理に眠れとは言いませんから」
Lは膝に頭を埋めて、消え入りそうな声で「三日前」と言った。
__なんてことだ。前に会ってから一睡もしていないというのか。この歳の子供が徹夜をするなど、一日としてあってはならないことだ。
「……分からないんです、ワタリ」
彼は叫ぶように呟いた。
小さな少年の、小さな声だった。
彼にとって《分からない》という感情は酷く不安定で、そして見知らぬ他人のように不慣れな感情なのだろう。それこそ、痛みを伴うほどに。
「分からないこともあるさ」
私はLの肩に手を乗せ、軽く力を込めた。
「だが、悔しいことかもしれないがこの事件の犯人は犯行のたびにメッセージを残しているんだろう?次で一気に分かるかもしれない。そのチャンスは逃すべきじゃない。そのときに備えて、まずは……」
寝なさい、という言葉を我慢して、私は手元の袋を見せた。
「何か……甘いものでも食べるべきだと思うがね」
甘いもの、と言ったときにLの黒い頭が微かに揺れた。私はそれを見逃さない。
「来る途中、どうもお腹が空いてしまってね。つい、美味しそうなスコーンを買ってきてしまったんだ。それも六個もだ。うっかりイチゴのジャムとクロッドクリームもね。しかし、一人ではとても食べられそうにないな、困ったな」
途中から台詞を読むような気持ちで、そして、ラーク・フローリックという男の口調を真似ながら、私はパストリーの袋をがさりと鳴らした。
「!」
Lはその音でびっくりしたような勢いで顔を上げた。目は既に大きく見開かれている。
「それは……僕のために?」
「さぁ、どうかな」
私は肩をすくめながら袋を差し出した。少年の暗い瞳が、子供らしく輝いた。彼は精一杯に両手を伸ばし、私からビスケットの入った袋を受け取ろうとする。私は袋を高く掲げた。
「だめですよ。手を洗ってきなさい」
「……」
「その間に私はキッチンからお皿と紅茶を持ってきますから」
私は対等な交換条件を提示するように丁寧に言った。きっと彼は一般的な子供にするような言い方では不十分なのだ。彼の光彩の奥で、緻密な計算機が稼働したようだった。
「……分かりました」
Lは部屋を出て、手を洗いに行く。私は廊下に出た。キッチンは確か下のフロアの突き当たりにあったはずだ。紅茶とカップとソーサーくらいはあるだろう。
軋む木製の階段を下ると、赤い絨毯の敷かれた長い廊下の中心に出る。右の突き当たりにはメモリアル氏のオフィスがあり、今日も薄く出入り口が開かれていた。そしてキッチンはその十数メートル先の向かい側突き当たりだ。
左に歩き出そうとしたところで、目の覚めるような音が響いた。旧式の黒電話の喧しいベル音だった。方向的にメモリアル氏のオフィスの方から聞こえてくる。
3コール、4コール、それぞれの余韻が廊下にまで響いてくる。
しかし、どうも彼が出る気配がない。留守にしているのだろうか。
私は好奇心ともお節介心ともつかぬ、ほんの思いつきで彼のオフィスへと向かった。電話の内容が取り立てて気になったという訳でもない。自分の足がそこに到達するまでにコール音が止めば、それはそれで仕方ない。
開け放されたドアから踏み入ると、やはりオフィスは無人だった。
コールは鳴り続けている。
受話器を持ち上げながら、私はコーヒーの色素が沈着したコップが置き去りにされているのを見つけた。底は乾燥していたが、どれほど前に彼が部屋を出たかを推測するのは難しかった。カップにもドクロの線画が描かれている。メメント・モリ。メモリアル氏はつくづく中世趣味だ。
「――はい」ようやく私は受話器に手を掛けた。
『メモリアルさんですか』
無言の私に、電話の向こうの声は呼びかけた。どことなく焦っている。背後からも複数の人間の声が聞こえる。
「彼は留守です。私は代理のキルシュ・ワイミーです」
電話の向こうの男性は『あぁ』と脱力したような声を出した。
『僕です、ラークです』
「なんだ、君か」
私も緊張を和らげた。
なるほど。つまりはラークからLへと連絡を入れる際にはメモリアル氏を通しているという訳だ。
『ワイミーさん』
しかし彼は、再び背筋を正したように緊迫して改まった口調になった。
『今日僕がこうして電話を掛けているのは警部補として、そして警察官として【L】に状況を知らせるためです。私は今――【現場】にいます』
「現場__まさか」
『はい。第六の爆破が発生しました。爆発に巻き込まれ、一人が搬送されました__名前はフェティア・ナヒク』
「……っ」
途端に血の気が引き、床が歪んだような錯覚を覚えた。かろうじて残っていた力で惰性のように受話器を持っているのが精一杯だった。
――フェティア、何故彼女が?
『……すみません、今お伝えできるのはここまでです。詳しくは夜にでも……何時になるかは分かりませんが、必ずメモリアルハウスへ伺いますから。__少年をよろしくお願いします』
ラークは一度として冗談も軽口も話すことなく、淡々と、警察官として通話を終えた。もっとも、最後の一言だけはLのことを【少年】と呼んでいたのでプライベートの部分だったようだが。
私はツーという機械音を数秒聞いてから、思考と切り離された身体で受話器を置いた。
ふと気配を感じて振り返る。
ドアの脇にLが、指を咥えて、裸足で立っていた。
静かな影のように、切り取った空虚のように、何も言わないでこちらを見ている。
ぐらりと、視界が揺れた。
彼は、どこから聞いていたのだろう。受話器の向こうのラークの声が聞こえたはずもないが、彼ならば会話の内容を察しても可笑しくはない。
「……L」
近づいて声を掛ける。彼は私を一瞥して、すぐに目を逸らしてしまった。
「今日、爆破が起きるのは分かっていたことです。ヒバリは、何と言っていましたか?」
――被害者の名前を、今ここで言うべきか?
「一人……爆破に巻き込まれたそうだ。詳しくは夜にまた聞かせてくれるそうだよ」
「そうですか。……分かりました」
Lはそれ以上を知ろうとしなかった。
あるいは「分かりました」という返事は文字通り全てを見透かしての返答かもしれなかった。私は気付かれない様に深く呼吸をして、自分を落ち着かせた。
「とにかく、ラークのことは一緒に待とう。紅茶を淹れるから部屋で待っていてくれ。いいかな?」
彼はひとつ頷いた。
私はキッチンで紅茶の準備をしてから、先ほどの部屋へ約束通り紅茶と温めたスコーンをトレーに乗せて持って行った。最悪の場合、人が死んだかもしれない。それも、よく知る人間かもしれない。Lが知ったら、一体それをどう受け止める?
「おいしいかい?」
そう聞けば、Lは無言のまま頷いた。
「L、聞いてもいいかな」
世間話のつもりで、私は切り出した。
「なんれふか」
「Lはニックネームだろう?本当はなんという名前なんだ?」
Lはまるで予想外のことを聞かれたように丸い目で私を見上げた。
「……絶対に誰にも言わないと約束してくれますか?」
「あぁ、するよ」
Lは冷めた紅茶のカップを両手で持ち、ごくりと一口飲んだ。
「Lはニックネームではありません。Lはそのまま僕の名前です。誰も信じないので、偽名を考える必要がないんです」
「Lが……君の名前?フルネームなのか?」
「はい。それが僕が生まれてからずっと呼ばれてきた名前です。出生証明書と戸籍にもそう記されています。あるいは僕がそう聞かされているだけかもしれませんが」
「……」
「両親にフルネームを考える時間がなかったのでしょう。どうでもいいことです。ただ身元を判別するだけの記号の話ですから」
何重もの戸惑いが私の思考を遮っていた。ラークはともかく、自らの本名のことをただの記号と言ってのける子供に私は初めて出会った。そして、それ以上に__「両親がフルネームを考える時間がなかった」と言っただろうか?
「……L、君の両親は」
「火事で死んだと聞いています」
特に感情を押し殺すでも、寂しそうでもない、淡々とした声だった。事実を述べるだけの、簡潔な返答だ。
「……それは……すまないことを聞いた」
「お気遣いありがとうございます。ですが僕なら大丈夫です。その記憶もありませんし」
再び、私は指先で血が冷えていくような錯覚を覚えた。
平凡な生まれの自分と比べてはいけない。孤児である彼と感覚が根本的に違うのは当然だ。しかし、それにしたって、少年は自らの両親の死をただの事実の一つとしてしか受け止めていない。あるいはそれ以下なのかもしれない。彼はほんの一瞬の思考も挟まずに、「ありがとうございます」と儀礼的な返事をし、「覚えていないから」と、それを補足する理由付けまでしたのだ。
それは儀礼的で、作業的で、そして機械的な思考だった。
「……ワイミーさんは変だと思いますか?」
急な問いかけに、私は驚くばかりだった。
「変?何がだ?」
「前にヒバリに言われたんです。火事にあったということは家にいたということ。病院を出て退院までしているのなら出生証明書はとっくに提出しているはずで、名前を考える時間がなかったなんて不自然だ、と」
「……」
「僕も変だとは思います」
Lは指を咥えて静かに言った。
「ですが……それはどうでもいいことです。僕の名前など関係ありません。過去が分かったところで、何も変わるものはありません。今はそれよりも先に考えるべきことが他にありますから」
「…………」
今の私にLにかけてやれる言葉はなく、そして彼は沈黙のまま、いつの間にか、そのまま床でこくりこくりと眠りに落ちてしまった。
私は彼を抱き上げ、ベッドへ運んでやった。彼の身体は羽のように軽かった。ベッドに寝転がると、彼は丸まって口元に親指を持って行った。
「どうでもいい、関係ない……か」
生まれた時からずっと、彼はそうやって世界を切り離して生きてきたのだ。
ほんの少しだけ、「自分がなんと言おうと真実は変わらない」と言ったラークの言葉を思い出した。名前と過去をどうでもいいという少年に感じたのは、自分の言葉と、存在それ自体に全く意味はないという、完結した孤独だった。
私の知らない場所で、
孤独は完結していた。