「この部屋だよね。」
「……早く終わらせましょう
シアン」
舞台はワイミーズハウス。現場は開かずの間。探偵と助手のように、私とニアは、小さな謎を解くためにペアを組んでいた。
もちろん探偵役はニアである。
光沢のある赤みがかった木製のドアを、ざらついたスズ色の鍵でがちゃりと開錠する。ワイミーズハウスでも最上階の隅に位置する部屋だ。倉庫として実質開かずの間になっているこの一室は、屋根裏部屋と呼ぶべきなのかもしれないが、入ったことがないので果たしてこの部屋が屋根裏なのか知らなかった。
「うわ、ごほっ、うわはっ、ごほっ。」
「………意外と明るいですね。」
勢いよくドアを開けると、風圧で埃がそのまま風となって吹き付けてきた。木の香り、埃の香り、そしてペンキ屋塗料のような香り。むせる私を壁にして無事のニアは、部屋の明るさに驚いているようだった。
思っていたような開かずの間の倉庫にしては明るい。埃が舞う部屋を、白い光が放射状に照らしていて、きっと写真だったらそれなりに美しいだろう。
部屋はちょうどワイミーズハウスの塔のような三角屋根部分に位置していたようで、カーテンの無い嵌め込み式の窓からちょうど光が差しているからだった。__そっか、あの部分の内部はこうなっていたのか、と私は感心する。
そして、あった。
視線を巡らせるまでもなく堂々と中心で存在感を放つのは、大きなグランドピアノだった。
「わ!すごいね、こんな立派なグランドピアノがあったんだね!」
「……………。」
埃をかぶりつつも大きく立派な光沢が見て取れるその大きなグランドピアノに私は圧倒されていた。隣のニアはやはりどこかふてくされていた。
◇◇
「今度新しい子が入ってくるんだが、なかなか言葉を話してくれなくてね。無口と言うわけではないんだ、ただ、彼の才能は音楽に関するものでね。ピアノがあれば生き生きと弾きだす子のようなんだ。そこで倉庫で眠っていたピアノを出そうと思うんだが、調律師への依頼が必要かどうか確かめたくてね。音程までは分からなくていいから、適当に触って、鍵盤がちゃんと落ちるかどうかだけ確かめてみてくれないかな。」
つい数分前にロジャーから頼まれた言葉を思い出す。
何故、身体を動かすのが嫌いなはずのニアがお手伝いとして一緒にいるかと言うと、彼にとっては不本意だろうが、意外とニアには頼みごとをしやすい性質があるからだった。
「あぁニア、例のフィギュアだが、うまく交渉すれば日本の生産元から取り寄せられるだろう」
ロジャーの適切でやり手な一言で、ニアは分かりやすくぴくんと反応した。
「ちょっと
シアンを手伝ってやってくれ。」
ニアはその才能とは関係なく、ごく個人的で極端な趣味嗜好で、おもちゃやパズルを収集するところがある。本人に自覚がないかは別として、端的に言って、「もので釣りやすい」、分かりやすい子供なのである。
「ですが何を手伝う必要があるんですか。鍵盤を弾くだけなら
シアンだけで十分では。」
ニアの指摘はもっともだった。力仕事はいずれ業者に依頼することになるし、鍵盤を弾くだけなら私ひとりで十分だ。わざわざフィギュアで釣ってまで何故ニアなのだろう?
ロジャーは待ってましたとばかりに机の引き出しを開け、クリーム色の便せんを取り出した。
「ワイミーズハウスに来る子供たちと言うのは……どうしてこうも……。」
眉間に手を当て、今まさに頭痛に悩まされているかのようなロジャーの手から、私はその手紙らしきものを受け取る。外側にはイニシャルだろうか、「JMR」とサインペンで書かれている。すでに破壊された封蝋は気にせず、中から大きな紙を四つ折りにしたような紙を取り出す。
「差出人、いや、この場合作曲者というべきかしら。JMR君、なのかな?」
そこに記されていたのは手書きの楽譜だった。数行の、フレーズも奏でないような短い楽譜だった。
「でも、変な楽譜ね、ロジャー。音符は並んでいるけれど、調もテンポも書かれていないし、異様に短いし、なんだか楽譜としては不完全なような……。」
疑問を共有するように言うと、ロジャーはしわの入った指先でこめかみを摩った。
「ピアノがあるが、ずっと使っていないから調律しないと使えないかもしれないというと、彼は急にこの楽譜を描き始め、小さな声で“そういうことなら…”と書いたばかりの楽譜を差し出してきたんだよ。「これはいま作曲したのかい?」と訊くと、ただ首を振る。……困ったものだ。」
つまりは音楽好きな天才による、一種の謎だ。
「そこで、ニアにはこの謎を解いてほしいという訳だ。
シアンはまぁ、フォローだ。」
フォロー、はい了解です。
まぁワイミーズハウスではこういった謎の類はそう珍しくもない。しかし確実に、子供嫌いで有名なロジャーの悩みの種でもあった。
「弾いてみたら分かるかな? ね、ニア。」
「………。」
手紙を受け取り、ニアに見せようとするも、彼はそんなに興味を引かれないようだった。まいっか、あとでゆっくり見せよう、と私たちは早速ロジャーの書斎を後にしたのだった。
◇◇
「すごーい、これ、飾っとくだけでも出せばいいのに。」
部屋に踏み入れ、より近い位置でそのグランドピアノを見回す。埃をかぶっているだけで、全然古い感じがしない。しいて言えば、ずっと放置されて弦やら何やらが劣化しているかもしれない。少なくとも、外見上は古いピアノには見えなかった。
「ここは空気の通りがいいとは言えません。太陽光も当たります。木製のピアノの保管場所としては最悪です。相当大事にしているんでしょうね。」
ニアは彼の特徴である、ほぼ白髪と言ってもい程の癖のある銀髪をくるくると指先でいじりながら、なんとも丁寧で分析的な皮肉を口にした。
「ワイミーズハウスというのは、どこまでも無駄に設備の充実した施設ですね。」
ニアの口にする皮肉というのはほとんどの場合ユーモアを含むことは無い。性質としては悪口そのものだった。
それでも立ち去らないあたり、私はかわいいやつだな、とそんな皮肉を聞くたびににこにこと笑みを浮かべてしまう。もっとも、そんなやりとりすら彼にとっては不満かもしれないが。
「ニアのおもちゃも無駄?」
「おもちゃと言わないでください。あれは設備でなく私物です。全く、私よりメロにでも頼んだ方がいいでしょうに。」
「でもメロに頼むとこの仕事、きっとフィギュアじゃなくて板チョコレートの山になるよ?」
「チョコレートは大量生産品です。無価値です。」
「チョコレートは無価値。」
Lが聞いたら嘆きそうだ。
「ええ、無価値です。子供っぽい。」
「それを言うならフィギュアも子供っぽいかと……。」
「フィギュアは大人の趣味です。」
___……マニアの間ではそうらしいね。
心の中で返事をしつつも、私は無言で会話を切り上げた。このままいじり続けていると、最終的には「貴方も無価値です」なんて暴言を吐かれかねない。その辺、Lと違ってとても攻撃的なのがニアだ。
「まぁ、空気もあんまりよくないし早く終えちゃおうか。」
ピアノを外に運び出すの作業は業者がやってくれる。私達はただ、グランドピアノを触るだけでいい。即ち蓋の部分__前屋根、大屋根というらしい__を持ち上げ、鍵盤を一通り叩くだけ。
「…………。」
「あれ、どうしたの?」
ニア君は触りたくない感じ?
「音を鳴らすのに上の部分を開ける必要はありません。」
「あっそっか。」
それもそうだな、と私は持ってきたタオルで鍵盤を覆う鍵盤蓋の埃をふき取る。意外と重みのあるそれを持ち上げると、白い鍵盤が現れた。蓋のおかげか、ほとんど新品のように汚れは見当たらなかった。弾く前から、全然大丈夫そうに見える。
最初の音は__ド__Cだろう。
指を置く。ポロン、とはいかず、ずっしりと重かったので、指に力を込めた。押し当てるように鍵盤が沈むと、深い響きが部屋を巡り、そしてまた耳に入った。
「ん?」
なんだか音がおかしい。知ってる音と違う。
__ド、ミ、ソ
__C E G
音程を変え、ペダルを踏み、何度も鍵盤を鳴らす。やっぱり変だ。
「ニア、これ調律ずれてるかもね。」
私には音楽の才能はないし、絶対音感もない。しかし、ドレミファソラシドの大まかな響きくらいは分かる。なんとなく、ずれているのだ。
「やっぱりずれてるね、これ。」
「いえ、
シアン。一応すべて鳴らしてください。」
振り返って確認するようにニアに問いかけると、意外にも何かに注目するように目を大きく開けていた。今度は下から順にすべての音を鳴らす。まずは白鍵だけ。次に黒鍵だけ。最後に全部通して88鍵、鳴らしてみる。
「……ふぅ、終わったよ。ニア。」
鳴らし終えてニアをくるりと振り返ると、ピアノ用の丸椅子に片足立てて座りながら髪の毛をくるくるといじっていた。今度は不満ではなく、考え事をしている様子だった。
「どちらにせよ、調律師は呼ぶべきでしょう。」
「そうなの?」
「聞いた限りでは彼の注文通りにも聞こえますし、気のせいかもしれません。いずれにせよ些細でどうでもいいレベルの差異ですので、やはりそこはプロに任せるべきでしょう。」
それは全部を分かっているような口ぶりだ。もう用はない、とばかりに立ち上がったニアを私は慌てて追いかけた。
「彼の注文?ま、待ってニア、もしかして全部分かっちゃったの?」
「はい。」
普通だったら目の前に状況を理解していなさそうな人間が居たら、簡単な解説を添えるものだが、それをしないのがニアだった。いや、ワイミーズ的というべきか。「分かったの?」に対して「YES」とだけ、事も無げに答える姿は、どことなくLを思わせる返答だった。
気分を害す人間が大半だろうが、私はなつかしさを覚えて物悲しく、そして嬉しくなる少数派だった。なので私は積極的に聞き返すことにした。
「これ、楽譜だよ、実際に弾かなくていいの?」
ロジャーから受け取った便せんを広げようとすると、ニアは一瞥し、ドアノブに手を掛けた。
「それは弾くためのものではありません。」
ぴしゃりと逆説的なことを言い放つ。
「でも、一応紙に書いて確かめてみましょう。そうでもしないとロジャーの頭では理解できないでしょう。」
私の頭も理解できていません、とはあまりに自明すぎて言えなかった。
◇◇
紙とペンを持ってきてください、と言われて私はわさわさと準備をした。探偵の助手か、それともマジシャンのアシスタントか。どちらにしても雑用係だった。ニアよりずっと歳は上のはずなのに。
「お待たせしました。」
ロジャーの書斎入ると、頬づえをついて困った顔をしているロジャー本人と、その視線の先にはカーペットに腹ばいになるようにしてロボット遊びをするニアが居た。
「ニア。まだ何も話してない……よね?」
こく、と頷く。私は苦笑し、彼の目の前に白い紙とペンを置いた。渋々、と言った様子でニアは手に持った怪獣を脇によけた。
「あの暗号は……」
「やっぱり暗号だったのか!」
唐突に、高い位置から感嘆したようなロジャーの声が降ってくる。横やりの入ったニアは視線を上げ、「静かにしてください」というような念を送ったように見えた。
「……
シアン、便せんを出してください。」
「はい。」
差し出すと、ニアは封蝋の横の「JMR」の表記を指さし、ロジャーに見えるように高く持ち上げた。
「このJMRはラヴェルのことを指しています。」
それでも床の高さからなので、身を乗り出すようにロジャーは自分の眼鏡の角度を調整した。
「ラヴェル?作曲者のことか?」
「はい。Joseph-Maurice Ravel……私は音楽の造詣が深い人間ではありませんが、これくらいは常識です。」
「へーそうなんだ!」
素直に思ったことを口にしただけなのに、それも感嘆しただけなのに、じろりと睨まれてしまった。もしかして今のも皮肉だったのだろうか。
「そしてこれは一見、楽譜ですが、ただの音符の羅列を、楽譜の形に納めただけのものです。ロジャーが「作曲したのか」との問いかけに対し彼が首を振った、というのは、それが曲ではなかったからです。」
「曲ではないというなら、それはなんなんだ、ニア?」
ロジャーはシンプルに疑問を呈した。きっとLなら楽しそうに笑うところだろうと思わず影を重ねてしまうが、ニアはその表情をピクリとも動かさず髪をいじった。
「ピアノの調律に関する彼からの注文です。」
◇◇
ロジャーがほう、と驚き眼鏡をただす間に、ニアは私の持ってきたペンのキャップを勢いよく外した。蓋は行儀悪く遠くに投げられる。
「ラヴェルといえばその解読法は一発でわかりますよね?一応紙に書きますが、まずは音階はAからGまでのアルファベットで表記し……」
きゅきゅっと音をたてながら無駄に大きな字でニアの手がAからGのアルファベットを横並びに描いていく。
「………。」
ぐぐ、と喉を鳴らすようにしてロジャーが唸る。あ、いけないフォローをしなければ。
「に、ニア、ストップ!プリーズ。……ラヴェルとその暗号になんの関係があるの?わたしもロジャーも残念ながら一発では分からないみたい。」
ニアのなかではとっくに暗号解説フェーズに入っているようだった。私は取り残されたように息をのむロジャーに一応の解説を付した。私の声でもっと説明が必要なことを察したのか、Gを描き終えたニアが勢いよく頭を上げた。
「………『ハイドンの名によるメヌエット』で有名になった音階とアルファベットの変換法です。あとで調べておいてください。まぁ、例の彼が施設に来てから聞いても喜んで教えてくれると思いますが。」
ニアの手は、Gまで横並びに書いたのちに、改行し、引き続き二行目にHからNを書いた。そのまま同じ文字数ごとに改行を繰り返し、最終的にはAからZ、すべてのアルファベットが4行に収められた。
「一番上のAからGが音階、それ以外の下にならんだアルファベットは上の音階に倣うだけです。簡単です。」
私は手元の楽譜__暗号を見下ろした。
ABCDEFG
HIJKLMN
OPQRSTU
VWXYZ
五線譜内の音符を、この表に当てはめると。でも、実際にやってみようとして私は行き詰ってしまった。
「でもニア、その対応表は四行よね?……ということは、例えばドの音にあたるアルファベットはC,J,Q,Xと四つある事になるけれど、どうやって区別したらいいの?」
「拍数です。」
さらりと、事も無げに言われた。
「一拍の四分音符が一行目、二拍の二分音符が二行目という風に変換していくだけの話です。」
「……なるほど、やってみる!」
__ド:二拍、ソ:三拍、ミ:三拍、ファ:三拍
__道理で付点二分音符が多いわけだ。
__シ:二拍、ソ:二拍、ファ:三拍、ラ:三拍、ソ:二拍、ラ:一拍、ファ:三拍、シ:二拍、ラ:三拍、ソ:二拍
__JUST INTONATION
「な、なんかそれっぽい熟語が出てきたよニア!」
「やはりそうなりましたか。お疲れ様です。」
「ニアはこれ、頭の中で分かったの?」
「いえ、私は最初のJUSTだけ考えて、あとは推測でした。」
「そ、それでもすごいよね……。」
「JMRという署名に不完全な楽譜とくれば、誰でもわかる話です。Lなら見た瞬間に調律師に電話するんじゃないでしょうか。」
「………。」
__さもありなん、だった。
私とニアが今は亡きLの話題に花を咲かせている間、ロジャーはその単語の意味に頭をひねっているようだった。
「それが彼の“注文”なのか?」
そういえばそうだ、ちゃんとした意味を、私も知らない。
一文字ずつ書き起こすと、なにやら意味ありげな熟語が出来上がった。しかし、これはどういう意味なのだろう。イントネーション?それはさっきニアが言っていた、ピアノの調律の注文のことなのだろうか。
「Just Intonation__純正律__というのは調律法の一つです。調べたところ、普通は平均律という方法で調律するのが一般的だそうですが、マイナーな方の純正律には美しい響きがあると、根強いファンもいるそうです。……調律が必要なピアノがあると聞いて、ここぞとばかりに伝えようとしたのしょう。」
「……急ぎなら何故わざわざそんな……。」
「それは、たぶん……」
これは私だった。まだ会わぬ、少年、音楽にだけ心を開く、小さな少年の姿を思い浮かべて、勝手な想像をした。
「自分を分かってくれる存在がいるかどうか……新しい家に移る前に試してみたかったんじゃないかな。」
「………子供は本当に困ったものだよ。」
もう何度目かもわからないが、ロジャーは頭を抱えた。それでも受け止め、私とニアに依頼したロジャーは子供嫌いでも、優しい大人だ。
ニアは音楽好きな少年によって書かれた、秘密の五線譜をロジャーに掲げた。
「とはいっても、ほんの数ヘルツの違いです。我々には聞き分けられないでしょう。ですので、どちらにせよ、調律師をよんであげるべきと私は考えます。」
それは指先でもって、Lのような持ち方だった。最後のネタ晴らし、彼なりにかっこつけたかったのかもしれない。
しかしニアの求めるものは違った。
「ところでロジャー__フィギュアはいつ届きますか?」
にやりと、おもちゃを得た子供のようにニアは笑ったのだった。