傘を忘れた日
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結婚を機に私は引っ越した。
それまで実家から半分同棲のように通い詰めた1LDKの彼の部屋。2人で暮らす分には事足りたが、十分というわけでもなかった。ちょうどタイミングもいいと、籍を入れると同時に部屋を探し、手頃な広さの部屋へと引っ越した。
今まで20数年間使っていた最寄り駅も変わった。新しい最寄り駅は、住宅街で2人の会社の間にあった。
実家の近くの最寄り駅は改札が一つだった。それが、2つになった。今までより少しだけ大きい駅だった。
とは言っても各駅停車しか止まらないのは相変わらずで。電車も10分に1本。
会社から帰る時は、最寄り駅の到着時間を彼に連絡する。早く帰るほうがスーパーに寄り、その日のご飯を作る。先に一人で食べる時もあれば、帰りの時間が近ければ待って一緒に夕食を共にすることもあった。
誰もが望む、幸せの形だった。
私も、幸せだった。
「……あ、」
改札から続く階段を下りると、その日は雨が降っていた。
傘を持っていても、差す人と差さない人が半々くらい。そのくらいの、霧のような雨だった。
駅から家まで徒歩10分。
何もなければ、走って帰ることに迷わなかった。
でも今は、今までとは違った。滑って転ばなければ大丈夫だろうけど―――それでも、何かあるといけない、その気持ちが、数分ほど駅に滞在時間を作った。
後ろから来た人が、どんどん私を追い越して遠ざかる。
同じ電車に乗った人が全員はけて、少しばかり時間が経った頃―ふと後ろから気配がして、そちらをちらりと見てハッとする。
銀髪。整った横顔。
少し、大人になっていたけどすぐに分かった。
高校生の時、あの時、いつも同じ電車に乗っていた、彼だった。
(えっ………)
思わず驚きで目が見開く。目線が外せなかった。彼も、私を見た。
彼が、立ち止まった。
視線の合う長さが、他人じゃなかった。
あの時とは違って、彼は眼鏡をかけていた。ここは彼をいつも見ていた、実家近くの最寄り駅でもない。でも、すぐに彼だと分かった。
彼は横長のどこにでもある銀の眼鏡をかけており、それはとても彼に似合っていた。
(もしかして、私のこと、憶えてる……?)
彼の表情から、そう思ったけれど、しばらくそのまま何も言えなかった。
彼も、立ち止まったまま、何も言わなかった。
彼はスーツを着ていた。あの時高校生だった彼が、少しだけオトナになって、また、私と同じ駅に立っている。
その手には、傘がある。
彼は私と他人の分だけ距離をあけて、それでも一歩近づいて何か言おうとした、その時――
「ナマエ」
後ろから低い声がかかり、そちらを見た。イタチだった。
大学生から付き合い、ずっと大きな喧嘩もなく、社会人になって1年を経て、結婚した。
私の夫となった、彼が傘をさしてそこにいた。
「イタチ…」
私の、最初で、最後の人。
「…わざわざ来てくれたの?」
「急に降ってきたからな。ナマエのことだ、走って帰ろうとするだろう?」
イタチはそこまで言うと、ふと、笑った。
「もう、お前だけの身体じゃないんだ。心配もするさ」
高校生だったあの時みたいに、私が走って帰れなかった理由。
万が一にも転ぶわけにはいなかった理由。
2週間前に、お腹に彼との子供がいると、わかったばっかりだった。
「…ありがとう」
私は素直にお礼を言った。
その時、横にいた彼――カカシさんが、手持ちの傘を開こうとして、視線が合って――ふとわずかに微笑みながら、会釈をされたことに気づいた。
高校生だった彼とは違う、穏やかで、静かで、優しい笑みだった。
あの時のように傘を差し出されることも、走り出すことも、もう名前を叫ぶこともなかった。
私は一瞬頭が真っ白になったが――慌てて会釈を返す。イタチも私と同じように動いた。
彼はそのまま、他人と同じように視線をそらすと、傘を広げて遠ざかっていった。
「…知り合いか?」
イタチが私の視線を追って尋ねた。
私は、少しだけ首を傾げて言う。
「……ううん。」
私は首をひねりながら答える。
「ただ、傘を貸してくれようとしただけ」
イタチは「そうか」とうなずき、私の方へ傘を傾ける。
「今度、お礼を言うんだぞ」
「うん、わかってる」
そしてそのまま歩調を合わせて歩き出した。
イタチの手が、私の背にそっと寄り添う。
私が彼から高校生の時に借りた、あの傘は、まだ家にある。
時間が経って、もう、柄の部分はさびれている。ナイロンもくすんだ。引っ越しの時、捨てないの?と母から問われた。
でも、捨てられなかった。
彼 と目が合った。その瞬間、あの時言えなかった言葉が浮かんだ。
でも、それを口にするための時間は、もう、どこにもなかった。
私にはもう、傘を届けてくれる人がいるから。
一番最初に始まって、一番最後に終わった、遠い、昔の恋。
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応援ぽちり
20260107 加筆修正
それまで実家から半分同棲のように通い詰めた1LDKの彼の部屋。2人で暮らす分には事足りたが、十分というわけでもなかった。ちょうどタイミングもいいと、籍を入れると同時に部屋を探し、手頃な広さの部屋へと引っ越した。
今まで20数年間使っていた最寄り駅も変わった。新しい最寄り駅は、住宅街で2人の会社の間にあった。
実家の近くの最寄り駅は改札が一つだった。それが、2つになった。今までより少しだけ大きい駅だった。
とは言っても各駅停車しか止まらないのは相変わらずで。電車も10分に1本。
会社から帰る時は、最寄り駅の到着時間を彼に連絡する。早く帰るほうがスーパーに寄り、その日のご飯を作る。先に一人で食べる時もあれば、帰りの時間が近ければ待って一緒に夕食を共にすることもあった。
誰もが望む、幸せの形だった。
私も、幸せだった。
「……あ、」
改札から続く階段を下りると、その日は雨が降っていた。
傘を持っていても、差す人と差さない人が半々くらい。そのくらいの、霧のような雨だった。
駅から家まで徒歩10分。
何もなければ、走って帰ることに迷わなかった。
でも今は、今までとは違った。滑って転ばなければ大丈夫だろうけど―――それでも、何かあるといけない、その気持ちが、数分ほど駅に滞在時間を作った。
後ろから来た人が、どんどん私を追い越して遠ざかる。
同じ電車に乗った人が全員はけて、少しばかり時間が経った頃―ふと後ろから気配がして、そちらをちらりと見てハッとする。
銀髪。整った横顔。
少し、大人になっていたけどすぐに分かった。
高校生の時、あの時、いつも同じ電車に乗っていた、彼だった。
(えっ………)
思わず驚きで目が見開く。目線が外せなかった。彼も、私を見た。
彼が、立ち止まった。
視線の合う長さが、他人じゃなかった。
あの時とは違って、彼は眼鏡をかけていた。ここは彼をいつも見ていた、実家近くの最寄り駅でもない。でも、すぐに彼だと分かった。
彼は横長のどこにでもある銀の眼鏡をかけており、それはとても彼に似合っていた。
(もしかして、私のこと、憶えてる……?)
彼の表情から、そう思ったけれど、しばらくそのまま何も言えなかった。
彼も、立ち止まったまま、何も言わなかった。
彼はスーツを着ていた。あの時高校生だった彼が、少しだけオトナになって、また、私と同じ駅に立っている。
その手には、傘がある。
彼は私と他人の分だけ距離をあけて、それでも一歩近づいて何か言おうとした、その時――
「ナマエ」
後ろから低い声がかかり、そちらを見た。イタチだった。
大学生から付き合い、ずっと大きな喧嘩もなく、社会人になって1年を経て、結婚した。
私の夫となった、彼が傘をさしてそこにいた。
「イタチ…」
私の、最初で、最後の人。
「…わざわざ来てくれたの?」
「急に降ってきたからな。ナマエのことだ、走って帰ろうとするだろう?」
イタチはそこまで言うと、ふと、笑った。
「もう、お前だけの身体じゃないんだ。心配もするさ」
高校生だったあの時みたいに、私が走って帰れなかった理由。
万が一にも転ぶわけにはいなかった理由。
2週間前に、お腹に彼との子供がいると、わかったばっかりだった。
「…ありがとう」
私は素直にお礼を言った。
その時、横にいた彼――カカシさんが、手持ちの傘を開こうとして、視線が合って――ふとわずかに微笑みながら、会釈をされたことに気づいた。
高校生だった彼とは違う、穏やかで、静かで、優しい笑みだった。
あの時のように傘を差し出されることも、走り出すことも、もう名前を叫ぶこともなかった。
私は一瞬頭が真っ白になったが――慌てて会釈を返す。イタチも私と同じように動いた。
彼はそのまま、他人と同じように視線をそらすと、傘を広げて遠ざかっていった。
「…知り合いか?」
イタチが私の視線を追って尋ねた。
私は、少しだけ首を傾げて言う。
「……ううん。」
私は首をひねりながら答える。
「ただ、傘を貸してくれようとしただけ」
イタチは「そうか」とうなずき、私の方へ傘を傾ける。
「今度、お礼を言うんだぞ」
「うん、わかってる」
そしてそのまま歩調を合わせて歩き出した。
イタチの手が、私の背にそっと寄り添う。
私が彼から高校生の時に借りた、あの傘は、まだ家にある。
時間が経って、もう、柄の部分はさびれている。ナイロンもくすんだ。引っ越しの時、捨てないの?と母から問われた。
でも、捨てられなかった。
でも、それを口にするための時間は、もう、どこにもなかった。
私にはもう、傘を届けてくれる人がいるから。
一番最初に始まって、一番最後に終わった、遠い、昔の恋。
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20260107 加筆修正