本章
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ナマエはギリギリのところで命を取り留めた。
血に塗れた彼女は、傷も深かったと言う。医療班からは、あと少し到着が遅ければ手の施しようがなかったと言われた。
目を覚ました彼女は俺を見るなり、かすれた声で言った。「嘘をついてごめんなさい」。
そんなことどうでも良かった。ただ、彼女が助かった、そのことが俺の胸の奥に安堵となって広がった。
「好きだ」。思わずそう言って、抱きしめた。だが、彼女の視線は俺の肩越しの、どこか遠くを見ていた。
死の淵にまで行ったはずなのに、その瞳の奥にいるのが俺ではないことだけはすぐにわかった。
彼女は、事情聴取を受けた。
内容は単純だった。罪人を見つけ、追おうとした。だが、返り討ちに遭い、生死を彷徨った。その逢瀬が偶然ではなく、犯罪人を追うための正義感で行われたわけでもないことを誰もが察していたはずだったが、彼女の容態とカカシの証言、三代目の温情から、それ以上は問われず不問とされた。
「あ、カカシさん。」
病室を出た廊下で声をかけられる。
「ナマエさん、だいぶ回復されたみたいで良かったですね」
「あぁ・・・はい。ありがとうございます。」
「幸い臓器に傷もなく、思ったより早く退院できそうで良かったです」
何度も見舞いに来るせいで周囲からはすっかり恋人だと勘違いされた俺は、ナマエの治療にあたる医療班の一人から呼び止められた。
あえてその誤解を訂正する気もなく、「おかげさまで」と頭を下げる。
単なる世間話で終わるはずだった。彼がこの一言を言うまでは。
「途中で止血でもされたんですか?」
その言葉に、思考が一拍、止まる。
呼吸の仕方を忘れたように、胸がわずかに固まった。
「……なんの話?」
「え、ええと……動脈のそばの一番深い傷です、本来なら、もっと出血していてもおかしくなかったんです」
彼は悪気なく続ける。
「ですが、その箇所だけ圧迫された痕がありました。あれがなければ……間に合わなかったでしょう。
さすが、カカシさんですね。」
――していない、そんなこと。
視界の奥が、わずかに揺れる。
喉の奥が、ひどく乾いた。
止血痕、それが事実なのであれば。
イタチだ。
彼がやったとしか、考えられない。
――だけど、だったら、なぜ。
「……カカシさん?」
呼びかけに、ゆっくり視線を上げる。
「……そのこと、ナマエには言わないでくれる?」
ちゃんと、声は穏やかに出た。
「彼女が負い目に思うといけないから」
「あ……はい!」
自分では苦しい理屈だと思った。が、彼はすべてを善意に受け取り、感心したように何度も頷いてから、いそいそとその場を去っていった。
足音が遠ざかり、廊下に静けさが戻る。
先日、見舞いに訪れ、名を呼ぼうと扉に手をかけたその時、室内から押し殺した嗚咽が聞こえたことがある。——あれが「恋人に殺されかけた痛み」でなければ、一体なんだというのか。
現に、残されたクナイはイタチのものだった。皮膚を裂き、肉を抉った傷もまた、彼の手によるものであることは疑いようがない。そこまでは、冷酷なまでに明白な事実だった。
ならば――この齟齬は、何だ。
動脈のすぐ脇を深く抉った、あの刺創。動脈の脇を掠めたあの刺創は、あとわずか角度が違えば致命に至っていたはずで、彼女が生き延びたこと自体が、ほとんど僥倖に等しい。
殺意がなかったとするには、あまりにも深い。
しかし、殺すつもりだったと断じるには、決定的にそぐわぬ痕跡の、止血痕。
その二つは、本来、同じ場所に並び立つはずのないものだ。
考えうる可能性は、ひとつしかなかった。
殺すつもりだった 。
だが、最後の最後で、何かがそれを押しとどめた。
それはなぜか。それは――。
その推測が、静かに、しかし確実に胸の内に沈み込んでいくにつれ、カカシは、自分が恐れているものの輪郭をはっきりと知った。
――彼は、彼女を殺せなかったのだ。
その理解が形を取った瞬間、静かで黒い感情が先走った。
その真実が、もし、彼女に伝われば。
彼女の心は、決して自分には向かない。その心はイタチで染まったまま、もう自分に向くことはないだろう。
――彼女を、あの男の"迷い"なんかに縛らせやしない。
それからは迷わなかった。カカシは今まで以上に見舞いに通い、シャワーのように、彼女に甘い言葉をかけた。
同時に、触れる回数も、抱きしめる時間も少しずつ増やしていく。
「好きだ」
「俺は絶対、君を傷つけることはしない」
「そばに居させてほしい。ずっと一緒にいると約束する」
その言葉が、イタチが言えなかった数々の言葉であることも、彼を意識した故に選び取られた言葉であることも、自覚していた。
彼が与えられなかった安心を、俺が与える。
それで、構わなかった。
彼女がその言葉に戸惑い、泣き、目を伏せるたびに、自分の存在が少しずつ浸透していくのを感じた。
卑怯だと分かっていても、止められなかった。
回復には、時間が必要だった。身体の傷が塞がり、心のひびが目立たなくなるまで、季節がひとつ、またひとつと巡った。
彼女がようやく、本当のことのように笑うようになったのは、半年が過ぎ、桜がほころびはじめた頃だった。
好きだ、という俺に、初めて彼女が恥じらうように「私もです」と返した。
その言葉に、驚きと、そして――ひどく利己的な安堵が広がる。
ほんのりと照れるように微笑む彼女に唇を重ねながら、思う。
――やっと。
やっと、並べた。
*****
その夜は静かだった。
窓の外で、風が木の葉を揺らす音だけが、時折、思い出したように聞こえる。
彼女はもう眠っている。規則正しい呼吸が、隣で小さく上下しているのを、カカシは横目で確かめるように見た。
ここまで来るのに、時間がかかった。遠回りばかりで、無駄な言葉も多かった気がする。それでも、こうして同じ夜を過ごしている。
彼女の愛情は、彼女の性格をそのまま体現したような質感をしていた。
ただ、優しくそばにいてくれる。
信頼してくれる。
迷いなく「好きだ」と告げてくれる。
その感情が、取り繕ったものではなく、確かに彼女自身の選択であることを、カカシは知っている。
自分は代わりではない。
彼女は、いま、自分を選んでいる。
――それで、いいはずだ。
そう思う。思うのに。
胸の奥に、沈めたままの名がある。
彼女が、かつて一番に呼んでいた男の名だ。
彼女が自分を選んだのは、あの夜、切り捨てられたという前提があったからだ。拒絶され、裏切られたと、そう思い込んだからこそ、彼女は振り返らなかった。
だがもし――あれが拒絶“だけ”ではなかったと知れば。あの刃の奥に、断ち切れなかった何かがあったと知れば。
イタチがあの夜、何を思っていたのか、俺にはわからない。
だけど、彼女は、きっと立ち止まる。その意図を推測する。揺らぐ。俺の隣にいていいのか、心に問い直す。
そして――あの男が里を裏切ったと糾弾された時でさえ、ただ一人、彼を信じた彼女はきっとこう言う。――「彼を裏切れない」と。
彼女は嘘をつけない。
優しいからこそ、過去を踏み越えてしまうこともできない。
――だから、聞かない。
彼女が忘れない人の話を、俺は聞かない。
真実を知れば、彼女は俺の手が届かないところに行ってしまうから。
カカシはそっと視線を戻し、眠る彼女の目が開かないよう、明かりを落とした。
闇の中で、彼は静かに目を閉じる。
言わない言葉たちと一緒に。
本章 Fin.
血に塗れた彼女は、傷も深かったと言う。医療班からは、あと少し到着が遅ければ手の施しようがなかったと言われた。
目を覚ました彼女は俺を見るなり、かすれた声で言った。「嘘をついてごめんなさい」。
そんなことどうでも良かった。ただ、彼女が助かった、そのことが俺の胸の奥に安堵となって広がった。
「好きだ」。思わずそう言って、抱きしめた。だが、彼女の視線は俺の肩越しの、どこか遠くを見ていた。
死の淵にまで行ったはずなのに、その瞳の奥にいるのが俺ではないことだけはすぐにわかった。
彼女は、事情聴取を受けた。
内容は単純だった。罪人を見つけ、追おうとした。だが、返り討ちに遭い、生死を彷徨った。その逢瀬が偶然ではなく、犯罪人を追うための正義感で行われたわけでもないことを誰もが察していたはずだったが、彼女の容態とカカシの証言、三代目の温情から、それ以上は問われず不問とされた。
「あ、カカシさん。」
病室を出た廊下で声をかけられる。
「ナマエさん、だいぶ回復されたみたいで良かったですね」
「あぁ・・・はい。ありがとうございます。」
「幸い臓器に傷もなく、思ったより早く退院できそうで良かったです」
何度も見舞いに来るせいで周囲からはすっかり恋人だと勘違いされた俺は、ナマエの治療にあたる医療班の一人から呼び止められた。
あえてその誤解を訂正する気もなく、「おかげさまで」と頭を下げる。
単なる世間話で終わるはずだった。彼がこの一言を言うまでは。
「途中で止血でもされたんですか?」
その言葉に、思考が一拍、止まる。
呼吸の仕方を忘れたように、胸がわずかに固まった。
「……なんの話?」
「え、ええと……動脈のそばの一番深い傷です、本来なら、もっと出血していてもおかしくなかったんです」
彼は悪気なく続ける。
「ですが、その箇所だけ圧迫された痕がありました。あれがなければ……間に合わなかったでしょう。
さすが、カカシさんですね。」
――していない、そんなこと。
視界の奥が、わずかに揺れる。
喉の奥が、ひどく乾いた。
止血痕、それが事実なのであれば。
イタチだ。
彼がやったとしか、考えられない。
――だけど、だったら、なぜ。
「……カカシさん?」
呼びかけに、ゆっくり視線を上げる。
「……そのこと、ナマエには言わないでくれる?」
ちゃんと、声は穏やかに出た。
「彼女が負い目に思うといけないから」
「あ……はい!」
自分では苦しい理屈だと思った。が、彼はすべてを善意に受け取り、感心したように何度も頷いてから、いそいそとその場を去っていった。
足音が遠ざかり、廊下に静けさが戻る。
先日、見舞いに訪れ、名を呼ぼうと扉に手をかけたその時、室内から押し殺した嗚咽が聞こえたことがある。——あれが「恋人に殺されかけた痛み」でなければ、一体なんだというのか。
現に、残されたクナイはイタチのものだった。皮膚を裂き、肉を抉った傷もまた、彼の手によるものであることは疑いようがない。そこまでは、冷酷なまでに明白な事実だった。
ならば――この齟齬は、何だ。
動脈のすぐ脇を深く抉った、あの刺創。動脈の脇を掠めたあの刺創は、あとわずか角度が違えば致命に至っていたはずで、彼女が生き延びたこと自体が、ほとんど僥倖に等しい。
殺意がなかったとするには、あまりにも深い。
しかし、殺すつもりだったと断じるには、決定的にそぐわぬ痕跡の、止血痕。
その二つは、本来、同じ場所に並び立つはずのないものだ。
考えうる可能性は、ひとつしかなかった。
だが、最後の最後で、何かがそれを押しとどめた。
それはなぜか。それは――。
その推測が、静かに、しかし確実に胸の内に沈み込んでいくにつれ、カカシは、自分が恐れているものの輪郭をはっきりと知った。
――彼は、彼女を殺せなかったのだ。
その理解が形を取った瞬間、静かで黒い感情が先走った。
その真実が、もし、彼女に伝われば。
彼女の心は、決して自分には向かない。その心はイタチで染まったまま、もう自分に向くことはないだろう。
――彼女を、あの男の"迷い"なんかに縛らせやしない。
それからは迷わなかった。カカシは今まで以上に見舞いに通い、シャワーのように、彼女に甘い言葉をかけた。
同時に、触れる回数も、抱きしめる時間も少しずつ増やしていく。
「好きだ」
「俺は絶対、君を傷つけることはしない」
「そばに居させてほしい。ずっと一緒にいると約束する」
その言葉が、イタチが言えなかった数々の言葉であることも、彼を意識した故に選び取られた言葉であることも、自覚していた。
彼が与えられなかった安心を、俺が与える。
それで、構わなかった。
彼女がその言葉に戸惑い、泣き、目を伏せるたびに、自分の存在が少しずつ浸透していくのを感じた。
卑怯だと分かっていても、止められなかった。
回復には、時間が必要だった。身体の傷が塞がり、心のひびが目立たなくなるまで、季節がひとつ、またひとつと巡った。
彼女がようやく、本当のことのように笑うようになったのは、半年が過ぎ、桜がほころびはじめた頃だった。
好きだ、という俺に、初めて彼女が恥じらうように「私もです」と返した。
その言葉に、驚きと、そして――ひどく利己的な安堵が広がる。
ほんのりと照れるように微笑む彼女に唇を重ねながら、思う。
――やっと。
やっと、並べた。
*****
その夜は静かだった。
窓の外で、風が木の葉を揺らす音だけが、時折、思い出したように聞こえる。
彼女はもう眠っている。規則正しい呼吸が、隣で小さく上下しているのを、カカシは横目で確かめるように見た。
ここまで来るのに、時間がかかった。遠回りばかりで、無駄な言葉も多かった気がする。それでも、こうして同じ夜を過ごしている。
彼女の愛情は、彼女の性格をそのまま体現したような質感をしていた。
ただ、優しくそばにいてくれる。
信頼してくれる。
迷いなく「好きだ」と告げてくれる。
その感情が、取り繕ったものではなく、確かに彼女自身の選択であることを、カカシは知っている。
自分は代わりではない。
彼女は、いま、自分を選んでいる。
――それで、いいはずだ。
そう思う。思うのに。
胸の奥に、沈めたままの名がある。
彼女が、かつて一番に呼んでいた男の名だ。
彼女が自分を選んだのは、あの夜、切り捨てられたという前提があったからだ。拒絶され、裏切られたと、そう思い込んだからこそ、彼女は振り返らなかった。
だがもし――あれが拒絶“だけ”ではなかったと知れば。あの刃の奥に、断ち切れなかった何かがあったと知れば。
イタチがあの夜、何を思っていたのか、俺にはわからない。
だけど、彼女は、きっと立ち止まる。その意図を推測する。揺らぐ。俺の隣にいていいのか、心に問い直す。
そして――あの男が里を裏切ったと糾弾された時でさえ、ただ一人、彼を信じた彼女はきっとこう言う。――「彼を裏切れない」と。
彼女は嘘をつけない。
優しいからこそ、過去を踏み越えてしまうこともできない。
――だから、聞かない。
彼女が忘れない人の話を、俺は聞かない。
真実を知れば、彼女は俺の手が届かないところに行ってしまうから。
カカシはそっと視線を戻し、眠る彼女の目が開かないよう、明かりを落とした。
闇の中で、彼は静かに目を閉じる。
言わない言葉たちと一緒に。
本章 Fin.