別章
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ある男の話をする。
彼にはかつて、愛しんだ女性がいた。
彼女は貧しかった。両親が九尾事件の際に命を落としていたからだ。
襲撃に巻き込まれ、彼女と妹だけが両親に逃される形で助かったのだと言う。
孤児となり食うに困った彼女は、忍びとなった。
忍びになれば、教育も生活も里が面倒を見ることになる。それは、あの戦下の時代特有の――命を切り売りすることへの対価だった。
彼女は他の女性たちと違って、色恋には興味がなかった。
それほど、生きるのに精一杯だったのだろう。彼女の身なりは支給される忍装束で、質素そのままだった。
少女から年頃にさしかかり、周りが浮き足立つ中で、妹を思って堅実に生きるその姿勢は、ひどく目立って見えた。
それが、彼女が「他人」ではなくなった、きっかけだった。
彼女はよく笑った。誰も恨まず、誰も憎まず、まっすぐに生きていた。
男がその姿を見慣れ、心を留めるようになった頃だった。いつしか男に心を開いていた彼女は、両親からの手紙を見せた。
そこには彼女を慈しむ言葉が長く綴られ、最後は「妹と仲良くね」と締めくくられていた。
紙は古く、今にも擦り切れそうだったが、破れた跡は一つもなかった。 彼女がそれをどれほど大切にしてきたかが、それだけでわかった。
苦しい時はこれを見て、何度も乗り越えてきたのだと言う。
男は彼女の妹とも顔を合わせた。
「お姉ちゃんをよろしく」
そうませた態度で言う少女は、彼女によく似ていた。彼女が「こら」と小突く。それだけで、二人の関係が微笑ましいものだと知れた。
妹は、非戦闘員だった。妹には「普通」に生きてほしいから、と彼女は言った。その言葉は、どこかで彼女自身もまた「普通」でありたかったことを示しているように見えた。
彼女が不都合なく暮らせているか、時折心配するようになった。彼女はなんのしがらみもなく、男をただ一人の人間として捉えた。
いつしか彼女と過ごす時間は、男にとってすべてを忘れられる安らぎになっていた。
生まれも育ちも、里有数の一族の嫡男として育てられた男とは何もかもが違っていた。
だが、自身の幸せを捨ててでも、愛する兄妹に幸せになって欲しいというその生き様だけは男と同じだった。
彼女が自分を顧みないのなら、己が彼女の人生を見守ると決めるまでに――そう時間はかからなかった。
妹を失ったあの日、男は言った。
「俺が生きる理由では駄目か」
それ以来、彼女はずっと男のそばにいた。
だが男は彼女の動機を、情のようなものだと捉えた。
それを裏付けるように、彼女は何度もこう言った。
「……私、負担になってないかな?」
「私のことは、気にしなくていいんだからね。」
男は、その言葉を覚えている。何度違うと否定しても、彼女は繰り返した。
そのうち男は、そう結論づけた。
愛している相手を、負担などと思うはずがない。
それを理解できないということは――
彼女は、男を愛してはいないのだろうと。
彼女は、自分を想ってそばにいるのではない。あの日の言葉を無碍にできずにいるだけなのだと。
彼女の生い立ちから来るその憂慮が、優秀だった男には分からなかった。
それでも男は、構わなかった。彼女が生きていればそれで構わなかった。
男は彼女と共に生きるつもりだった。
少なくとも、三ヶ月後の今日ここで待つと書いたあの手紙を書いた時までは。
約束の日、男はその場所を訪れた。
だが彼女の姿はなかった。
代わりに残されていたのは、彼女からの文だった。
「三ヶ月後の今日、ここで待っています」
男は、確かに彼女と共に生きるつもりだったのだ。
だが、それはかなわない願いとなる。
男は、自分の命に残された時間が多くないことを知る。
男は考えた。残された時間の少ない自分と生きても、彼女は幸せにはなれない。
いずれ彼は死ぬ。その後、彼女は一人で生きていかなければならない、里を抜けた犯罪人として名を記され、他国からも追われる身で。
――俺といても、彼女は幸せにはなれない。
男は、彼女の笑顔を思い出した。
彼女を幸せにできないことを悟る。
手元には、約束の手紙がある。
やがて、男は彼女を手放す覚悟を決める。
だが、一つ問題があった。
彼女を里に残したままでは、その身が危うかった。男に里抜けを命じた張本人――志村ダンゾウに目をつけられていたからだ。
彼女は、幼い弟を除けば、男を深く知るただ一人の人物だった。
男が彼女に一連の事件の真実を話しているのではないか。 もしそうならば、露見する前に始末すべきではないか。ダンゾウがそう疑うのも無理はなかった。
里を守るためならば、非情な作戦も卑劣な手段も厭わない男だ。不穏分子として彼女を抹殺する可能性を、男は危惧していた。
彼女を里から連れ出そうとしていたのは、そうした危険から守る意味もあった。
そのための備えは、すでに打ってあった。
男は里を抜ける直前、自身の瞳術を仕込んだカラスを木の葉に放っていた。
彼が不在となる三ヶ月のあいだ――結果としてそれは半年に及んだが――里と彼女の様子を見張るためである。
カラスは里の上空を巡り、時に屋根に止まり、森の枝に身を潜めた。
その視界は、そのまま男の視界でもあった。
そして、彼の予想は当たる。
ダンゾウは、彼女を危険視した。
もっとも、三代目火影の目がある。すぐに殺すことはできなかった。里の中で、あまりにも露骨な処理を行えば、疑いを招く。ダンゾウもそれは理解していた。
だから別の、回りくどい方法を取った。
根の者を動かし、彼女を監視させた。
それとは別に、もう一人――右目の下に泣き黒子を持つ女を送り込んだ。
女は根の者として特別優れていたわけではない。だが、「女」だという点では非常に優れていた。
女に与えられた任務は単純だった。
彼女が男と通じている証を掴むこと。そして処理すること。あるいは――自ら命を絶たせること。
女はまず、彼が里抜けしたことを知り得るはずもない長期任務に出ていた彼女に伝えた。もし彼女が男と通じているならば、その知らせを聞いた瞬間に何らかの反応が出るはずだった。だが、彼女は本気で動揺し、それは空振りに終わった。
その後、ささやかな噂を流した。
どれも彼女と男に関する確証のない話だった。女は時折、彼女の背後で小さく笑い、あるいは、聞こえるように囁いた。
だが、同じ言葉を、違う場所で、違う人間が繰り返す。そうしているうちに、それは「噂」ではなく「空気」になった。
やがて里の忍たちは、彼女を見るたびに目を逸らすようになった。
それは偶然ではなかった。根の人間たちが、意図的に作り出した空気だった。孤独な彼女を自死に追い込むためだった。
その様子をカラスを通じて見ていた男の胸に、冷たい焦燥が広がった。今すぐにでも手を差し伸ばしたいが、それはかなわない。――それでは、彼女は幸せにならない。
その時、彼は一筋の光明を見出す。それが、カカシの存在だった。
かつて男が里にいた頃、数少ない「頼りにできる」と思えた忍だった。感情に流されず、それでいて弱い者を見捨てない。
男は、カカシが彼女を見る視線を見て、その好意に気づく。それが、彼が必要としていた重要なピースになることに気づく。
男の計画はこうだ。彼女との関係を完全に断ち切る。そしてその事実を、彼女を監視している根の者に見せつける。彼女はもはや男とは無関係の存在であると、そうダンゾウに認識させるためだ。
男は彼女を殺したように見せかけることを計画する。
危険な賭けだった。だがそれ以外に、用心深いダンゾウを納得させる方法を見出せなかった。一歩間違えば、彼女が死ぬかもしれない危険な賭けであることは承知だった。だからこそ、
愛する者を手に掛ける。
それがどれほど身を切られる想いがすることか、彼は知っていた。だが、やるしかなかった。
男は、カラスを使って、彼女とその周辺を観察した。決行の日よりも早く、独断で彼女を殺そうとした女――右目に黒子のある女――は、カラス伝いに幻術を使ってその殺害を止めた。その後、人気のない場所で始末した。
そして二度目の約束の日。
男は、カカシと任務を共にしていた忍に幻術をかけ、彼女が森へ向かったことをカカシに暗に知らせた――カカシがその場所に辿り着くように。
あとは――男が、彼女を拒絶し、殺す場面を、彼女にずっと帯同している根の者に見せつければ、それで全てが終わるはずだった。
だがここで計算違いが生じる。
男は気付いていなかったのだ。
彼女が、本当に死ぬ覚悟であの場に立っていたことに。
クナイを突き立てたその瞬間、彼女はわずかに前へ踏み込んだ。
刃が、深く沈む。
男は一瞬、狼狽した。
本来ならば、反射的にクナイを避けようとしてもおかしくない場面だった。だが彼女は逃げなかった。
それどころか、刃を受け入れるように自ら距離を詰めた。
――その時、男は悟る。
彼女は、
それほどまでに、男への想いが深かったことを。
男が息を吸う。
彼女はまだ生きている。根の者も近くにいる。
だから、何も出来ない。何を伝えることも出来ない。
その時、男の脳裏にある日の記憶が蘇る。
「俺が生きる理由では、駄目か」
唯一の肉親を失い、立ち尽くしていた彼女の前でそう言った日だ。
「……ありがとう」。
彼女が呟く。微かな声だった。
男は気づく。彼女は男を愛していた。
彼女は、幸せだったのだ。
――俺は、このクナイを引き抜かなければならない。
だが、わかる。深く突き刺さっているこれを、今抜けば、彼女は死ぬ。カカシが到着するよりずっと早く――彼女が、望むように。
男は、たった今、根の監視に気づいたかのようにそちらへ殺気を放った。
彼らの気配が一瞬怯み――遠ざかるのを確認してから、傷口を押さえた。
それが後に何を残すか、どんな意味を持つことになるのかを考える余裕はなかった。
――死ぬな。
――死ぬな、ナマエ。
カカシが到着するまでのわずかな間、男は彼女の胸の圧迫を続ける。言葉にはならない想いとともに。
カラスが、男とカカシの距離を知らせる。彼が到着するそのギリギリを待って、彼はクナイを引き抜く。
その後、目の前のカカシが問う。彼女は、お前にとって何なのかと。
男はただ、こう答える。
「何者でもありませんよ」
――男は、彼女にとって何者でもない。
何者であってもいけない。
******
約束の場所には、誰もいない。
森の奥、静まり返った空気の中で、イタチはしばらく動かなかった。
予定の時間は、とっくに過ぎている。
それでも彼は、帰らなかった。
ふと足元に視線を落とすと、木の根元に、小さく折り畳まれた紙があることに気づく。イタチはそれを拾い上げる。
――三ヶ月後の今日、ここで待っています
それは綺麗に書かれた、彼女の字だった。
もし、あの時、ナマエに会えていたなら――
イタチはそこまで考えて、ふと自嘲的に笑う。
未来に、たらればなどない。あるのは今だけだ。
これで、よかったのだとイタチはいつものように結論づける。
かさりと、掌の中の文が鳴った。
浮かぶのは、もう手元にはない、彼女の笑顔である。