第30幕
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『あっ』
カシャンッと何かが割れる音と、海の声が騒がしい屯所の食堂で響く。茶を飲もうと部屋から持ってきた湯呑みが手から滑り落ちてしまった。幸い、中身は空の状態だったから床が汚れることはなかったが、割れた湯呑みの破片は細かく、手で全て回収するのは難しそうだ。
落ちて粉々になった湯呑みをただ呆然と見つめる。そこまで大事にしていたものではないから、また新しく買い換えればいい。だが、何となく割れたことについて違和感を感じた。自分の不注意によるものであってそれ以上のことはないはず。それなのに何故か嫌な感じがする。
先程まで騒がしかった食堂がしんと静かになっている事に気づき、その原因が自分にあると察した海は慌てて割れた破片へと手を伸ばした。
「大丈夫ですか?桜樹さん」
「怪我とかありませんか?」
「すぐほうき持ってきます!!」
近くで見ていたらしい隊士が心配げな声で海に話かけたのを皮切りに、食堂にいた隊士たちがわらわらと海に近寄ってくる。湯呑みを割っただけであって大したことは無いと言ったのだが、彼らは海の言葉を無視してせっせと掃除の準備へと取り掛かった。そこまで構われると思っていなかったから戸惑いを隠しきれず、海は引き攣った笑みを浮かべながら隊士たちを追い払おうと手を振った。
『悪い……ちょっと目を離したら落ちただけだ。片付けは自分でやるからお前たちは朝食済ませろよ』
そう言ってもなお彼らは甲斐甲斐しく海の世話を焼こうとしてくるのだ。してもらっているのだから強くは言えないが、少々めんどくさいと感じてしまった。出来れば今は一人にして欲しい。湯呑みが割れてから良い気分ではないから。
大丈夫だから戻れ、と繰り返していると食堂全体へと聞き慣れた声が響き渡る。その声は不機嫌そうで、明らかに海たちに向けてのものだった。
「おい、てめェら。そこで固まって何してやがる」
「副長!桜樹さんが……」
「あ?」
『待て待て待て。たかが湯呑みを落として割ったくらいだろうが。なんで土方を呼ぶ必要がある』
「だって桜樹さん、手!」
土方を呼んだ隊士は青ざめた顔で海の手を指差す。今度はなんだよと思いながら己の右手へと目を向けると、割れた湯呑みの破片を強く握りしめていた。ぽたぽたと垂れている血は床を汚し、割れた湯呑みよりも目立っている。
まったくの無意識。隊士に言われるまで気づかなかった。慌てて握りしめていた右手を開くと、持っていた湯呑みは真っ赤になって元の色が分からない。そばに居た隊士がまじまじとそれを見てしまい「うわぁ」と呟いて口元を手でおさえた。
『悪い。食事中に見せるもんじゃないな』
朝からこんな物を見せつけられてしまった彼らはこの後食事どころではなくなってしまうだろう。ただでさえ、ここのところ忙しく休む暇もないというのに、こんな血なまぐさいものを見てしまっては尚更しんどくなる。
「副長!桜樹さんを医務室に連れて行ってあげてください!ここは自分らが片付けますので」
血の気の引いた顔で隊士は土方を呼ぶ。何が起きているのかまだ理解していなかった土方はタバコをくわえたままこちらへとやって来てきた。海の状態を見た土方は目を丸くして固まったが、垂れ続けている血を見て眉間にシワを寄せる。
「何やってんだお前は」
『いや、何も』
「何もじゃねぇだろうが。早く手当てしに行くぞ」
右手首をがしりと土方に掴まれて引っ張られる。なるべく他のやつらに血を見せないようにと気を配ったが、傷口から溢れる血は点々と床を汚してしまった。
「何か考え事でもしてたのか?」
『いや、なんも考えてなかった』
「それでこれか。少しは考えろよ。無意識に破片握りしめてるなんて怖ェだろうが」
『お腹空いたなくらいしか考えてなかったわ。気をつける』
「食い意地だけは立派だな!?」
医務室に行くまでの間、土方に右腕を掴まれていた。心臓部よりも高い位置に手を上げろと言われていたのだが、歩いている間ずっとぼうっとしていたため、それを見かねた土方がこうして高く上げてくれている。ただ、その間にも流れ落ちる血が海の腕を掴んでいる土方の左手を赤く染めていた。
『服、汚れてないか?』
「あ?気にすんな。汚れても洗えばいい話だろ」
『血は落ちにくいんだよ』
「すぐに洗えば大丈夫だ」
きっと土方のシャツは赤くなってしまっているだろう。彼のシャツを汚してしまっている申し訳なさに右手を引っ張ったのだが、ビクともしなかった。
これは医務室に着くまでは離してくれないだろう。
本人が良いと言っているのだからそのまま甘えさせてもらうことにしよう。
『そういえばあの件はどうなったんだ?』
「どうこうも変わらねぇよ。今日も朝方、浪人が死んでやがった」
『またか……これで何人目だよ』
「さぁな。こんだけ騒がれてんのに夜中一人で出歩く方が悪いとしか言いようがねぇが」
最近、江戸で問題になっている辻斬り。
屯所内でもそれは重要案件として取り扱われており、ここ数日の見回り強化もされている。
すぐに捕まると思われていた犯人はやたらと逃げ足がはやく、中々素性が掴めずにいる。その為、先日の会議で近藤はパトロールの巡回頻度を増やすことを決定した。その際に必ず二人一組で行動すること。怪しい人物と遭遇した場合は下手に手を出さずに、副長並びに部隊長に報告することを義務付けた。
決して一人で相手にしない。それがこの間の会議で近藤が念を押した言葉だった。
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