短編
【一】
深夜3時のファミレスにいるような人たちは大体疲れたような顔をしている。
24時間営業のファミレスともなると俺の他にもう一人いる店員もやる気がなく、たとえファミレスにどう考えても未成年だと思わしき少年がいたとしても面倒くさいという理由で通報をしなかった。少年の方もパトカーが巡回に来る曜日だけは必ず来ないから、十中八九確信犯だと思っている。
そんな夜間に居座る少年は毎度ドリンクバーを頼む。コップさえ用意すれば後はセルフなので正直有難いが、ただただ本当に飲み物を飲んで終わりなのでこの少年は一体何しにこのドリンクバーに来ているのだろうと思う。確かに安価でいろんな飲み物を飲めるドリンクバーは値段と手頃さを考えれば魅力的ではあるけれど、正直コンビニでペットボトルを適当に買い込んでしまった方が楽なんじゃないだろうか。そう思っても口は出さないのは一応お客様として少年を認識しているからである。ちょっとした打算を込めるのであれば、誰かにこの少年に言われた時に未成年だとは気づきませんでしたと言い張るためにだ。好奇心は猫をも殺すという言葉もあることだし。
少年が座るのは決まって窓側の奥の席。四人掛けの良く言えばアンティーク、悪く言えば使い込んだダイニングソファに座って真っ暗な外をじっと眺めている。ドリンクバー用のプラスチックのコップを少年の前に置いてそそくさと立ち去る。少年はコップを手に持ち、ドリンクバーの前で少し悩んだ後にアイスティーのボタンを押した。
一人の客をじっと見つめるのはよくないので、少年の姿を背に店内を見渡す。今日の客は少年を除けば、何やら一心不乱にノートPCのキーボードをカタカタと打ち鳴らしている目の下の隈がやばい男と、手紙をじっと見つめてため息を吐いている髪色が奇抜な女。あとは何やら本を読んでしかめっ面をしているジャージ姿の男だ。誰も彼もがただならぬ雰囲気を醸し出しているので近寄りたくない。まぁ、ただの店員だから話しかけることもないのだけれど。
そう思っているとがらんっと扉につけたベルの音がする。いらっしゃいませ、と控えめな声で入り口を見るとファミレスに似つかわしくない恰好をした男がいた。白いジャケットに黒いシャツを着た男は一度自分の方をちらりと視線を寄越してからつかつかと歩いていく。そしてそのまま少年のいる机にやってくるとその反対側のソファにドカリと座った。他にも席があるのにわざわざ相席!?と驚きに目を瞬かせたが、じろりと男の赤い瞳に睨まれて慌てておしぼりとお冷を用意する。お盆にその二つを乗せて、少年と男のいる席へと歩いていく。
テーブルにおしぼりとお冷を置きながら男の方を見ると、男はメニューを開いていた。つつっと男の不健康なまでに白く細い指先がメニューをなぞっていく。コーヒーの文字の所で止まる。
「ご注文ですか?」
こくりと頷かれる。いや、声に出せよ。そう出しかけた言葉を笑みの裏側に隠し、承知しましたと注文を紙に書き込む。世の中電子化の流れが来ているのにうちではまだ注文を紙に書いているのだ。支払いだってクレジットカードはできるけれど電子マネーなどは使えなくてまるでこの店は時代に乗り遅れているというか取り残されているような店だ。
心の中で愚痴をつきながら、厨房にいるもう一人の店員にコーヒーの注文が入った事を伝える。もう一人の店員は怠け者だが料理をする腕は俺よりも手慣れているし、作る料理もうまい。この男がいるからこそこのファミレスも24時間営業できているというものだ。厨房から薫るコーヒーの匂いを嗅ぎながら、聞こえる話し声にそっと耳を澄ませる。当然のことながら、話し相手がいるのはあの相席となった席しかない。静かなファミレスではあったが、ラジオがかかってはいるし、あの席は他の客がいる席より少し遠い。壁にひっそりと立ち、聞き耳を立てている俺以外には恐らく聞こえないだろう。
「どうして、ここに」
「忘れたのか。お前を今際へと戻したのは私だぞ。……を追えば簡単にお前など見つけられる」
「そうなのか」
少年と男は知り合いのようだ。だが、どことなく偉そうな男の物言いが鼻につく。友達とか少なさそうだなと思いながらラジオから流れるクラリネットの曲を音色を背に耳を澄ませた。
「ふん。久しぶりに顔を合わせて見ればどのような表情をするかと思えば対して面白みのない顔だな」
「……俺が怒ったり、怖がったりするとでも思ったのか」
「少し期待していた。
だが、お前がどんな奴かは他のから聞いていたから予想はできていた。
地獄では人気の男ではあったよ、お前は。一番は違う奴だが」
「そうか」
「あっさりとしているな」
「誰にも恨まれてないとは思ってないからな。一生懸命にできることをやってきたけれども、それでもいつも最善ではなかったような気がする。だと言っても今となっては謝る相手すらいないんだが」
「だからこうして、ぼんやりと過ごしているのか」
「自分を振り帰るにはいい時間なんだ」
少年はそう言ってアイスティーをストローで一度、回す。男と少年が話している内容はよくわからないが、『自分を振り帰るにはいい時間だ』という言葉には何故か納得した。
朝の光はまだ遠く、真っ暗な外の世界は明かりがなければ何も見えない。目を閉じているのと同じだ。そこに静けさを加えれば、世界にはまるで自分一人しかいないのではと錯覚してしまいそうだ。そんな一人しかいない空間は、どうしても色々と物事を考えてしまう。明日への不安。過去への後悔。見えない道に不安を覚え、自分を見つめ直すにはぴったりな時間だ。とはいえ、寂しさを覚えてファミレスのアルバイトをしているのが自分なのだけれど。
「私は一万回死んできた。償いを終えたので、先に進もうと思う」
「わかった。次は道を間違えるなよ」
「私は道を間違えたとは思わない。……だが学びの多い人生だった。次は活かそうと思う」
「反省してるのかどうかわからないな」
少年が苦言を呈しているのに男は飄々とした顔で受け流している。コーヒーを口に含み、眉を寄せる。苦い、と小さく呟いたのが聞こえた。少年がぷっと笑う。男は少年を睨みつけるがふと良いことを思い浮かんだというように笑った。
「反省しているかどうか気になるなら、ずっと俺を見張っていればいい」
「お前を見張る?」
目を丸くする少年に男はそうだ、と答えた。良い提案をしたと男は思ったのだろう。くつくつと笑うと男は待っているぞと少年の答えを待たずに席を立った。
慌ててレジスターの前に立ち、男の飲んだコーヒーの値段を伝える。硬貨がちゃりんちゃりんと皮のコイントレーに落ちる。伝えた値段ちょうどの数の硬貨がトレーにあるのを確認して、ありがとうございますの言葉と共にレシートを手渡すと、レシートはすぐ近くにあるごみ箱へと捨てられた。
変な男ではあったけれど多分、あの男はもうこのファミレスには来ないだろう。何となく、そんな予感がした。俺がレジスターの前に立っていると少年もやってきた。ドリンクバー頼んだのに結局飲んだのはアイスティー一杯だけ。これぐらいならコンビニのペットボトルでもいいだろうにという言葉を飲み込んで、値段を伝える。少年はファミレスのドリンクバーの無料券を差し出してきた。なるほど。これがあるなら確かにコンビニよりも安いに違いない。券を受けとり、ありがとうございましたと伝えると少年もありがとうございましたと律儀に挨拶して扉を押して外へ出て行ってしまった。不思議な客だ。
ぼけっと突っ立っていると、ジャージ姿の男がやってきて、清算を済ませる。ちらりと横にある置時計を見れば、4時近く。新聞配達員がそろそろ朝刊を持って住宅街を駆け回る頃だ。この時間になると朝の気配につられて少しずつ外が活発になってくる。
まるで夜の住人たちのようなお客は朝が来る前にさっと消えてしまう。その代わり、朝の散歩のついでにと訪れるご年配がやってくるのだ。その頃になればアルバイトの時間も終わりだ。
交代の人たちがやってきたのを確認して、バックヤードから外に出る。うっすらと寒くて湿った空気を肺一杯に取り入れながら伸びをする。今日も良い一日になりそうだ。
【二】
深夜バイトは時給が高いが、やる人はそこまで多くない。と言うのもここのファミレスが若干駅から遠く、駐車場もそう多くない土地なのが起因しているのだろう。立地が悪すぎる。でも客はそんなんでも入るし、なんならこのファミレスは地域のご高齢の人にとっては憩いの場である。近くの喫茶店の方が勿論にぎわってはいるが、あの店のように人が来られたらこのファミレスは潰れてしまうだろう。人材不足で。なのでちょうど良い塩梅なのだろう、この人の少なさはとバイト仲間と話しながら過ごしていると今日もまたあの少年がやってきた。
いつもの席に案内してドリンクバーですか?と訊けば、少し驚いたした顔をした後に「はい!」と笑顔を返された。いつもどおりのプラスチックのコップを机に置くとありがとうございますと感謝された。ほわほわと少しだけ癒されながら厨房近くの壁に立つ。
つい先日までは頑なにかの少年に関わるまいと心に決めていたのだけれど、あの男との会話を聞いてからふと興味が出たのだ。と言っても顔見知りの客と店員という程度で知り合いと言うにも烏滸がましい程度の付き合いだ。毎回ドリンクバーを頼むのはわかっているし、支払いはいつも無料券だから客に言わせるよりもこちらから聞いた方が早いのだ。なんて言い訳を心の中でしつつ、あの一夜から時々ではあるが少年が座るボックス席に相席する人が度々現れた。
この前は黒髪ボブの声の優し気な男性と楽しそうに会話をしていて、その前は顔に傷のある物騒な男と話していた。今日はあの奇抜な髪の女性が少年の前に座っている。どうやら少年と女性は知り合いのようで、度々同じファミレスにいたというのにまるで初対面かのように女性は少年に少し遅れてファミレスに入ってくるとああああ!と大きな声を上げて、少年のいる席へと駆け寄った。
「久しぶりだね!」
「はい、お久しぶりです。お元気そうで良かった」
にこにこと二人は笑うと女性はすいませーんと三段重ねのパンケーキを注文した。こんな真夜中にパンケーキだなんて、と思うかもしれないがこれもいつも通りの注文だったので驚かなかった。厨房に伝えればすぐに甘い匂いが漂い始める。
「あのね、来世になったら結婚しましょうって約束したの」
「そうなんですね!おめでとうございます!」
「うん、ありがとう」
少年の祝いの言葉に女性ははにかみながら返す。だが、浮かない表情と歯切れの悪い声に少年がこてんと首を傾げた。
「どうしましたか?」
「えっとね……来世では、きっと鬼もいない平和な世界だと思うの。
だからきっとあの人も前よりずっと良い場所で生きてるはずだわ」
「そうですね。あの時苦労した分、皆さんには幸せになってもらいたいですから」
「でも、でもね。
そんな幸せな人生に私が入り込んじゃっていいのかなって少し不安になるの。
約束はしたけれど、本当に私でいいのかしらって。
きっと昔と違ってたくさんいろんなものを選べる時代になっているはずだもの。でも前世からの約束ってだけで他の選択肢を奪ってしまわないか少し不安だわ」
それに期待してしまった分、もし駄目だと言われたら寂しいわ。
そう続けられた女性の声は少しだけ震えている。少年は眉を寄せた。今日のお話は恋愛相談かと肩を落とす。かれこれ彼女いない歴=年齢を更新し続けている自分にとっては程遠い話だ。だが、程遠いと言っても自分の未来の教訓にもなり得るかもしれないとじっと耐える。いつかこのファミレスにやってきた良い感じの女性客とそういう可能性もあるかもと店内を見渡す。
ジャージ姿の男と目が合ったが、すぐに目を逸らす。まぁ、そういい相手なんて早々いないよな。そもそも夜のファミレスに出会いなんかを求めるのが間違っている。
「辛い記憶が多い過去を思い出さないでほしいって思うのは当然ですよね。
苦しませたくないし、悲しむ姿を見たくないし、大切な人にはいつだって笑っていてほしいですもん」
「ええ。そうなの」
「でも、貴方が言った通りたくさんのことが選べる人生なんだから、前世との約束だけがすべてで他の選択肢が消えるわけじゃないと思います。それを叶えても別に他の選択肢が消えるなんて、そんなことはないです」
「そうかしら」
「約束したから結婚したいんじゃなくて、その人のことが好きだから結婚したいんでしょう?」
少年の言葉にはっとしたように女性は目を丸めた。
「そう。好きなの」
「それなら来世も好きな人と結婚するって思えばいいんですよ。きっと前世でも好きだったんだから、来世でも好きになるだけです。
あと、それとあの人から貴方に言伝を預かってるんです」
「それって」
頬を赤らめて、女性が口の前で小さな指先を揃える。期待に揺れる瞳に少年は優しく微笑む。
「約束を覚えていたら、君にあの時の言葉をもう一度伝える。覚えてなくとも俺はきっとまた君のことが好きになる。
だから君の傍に来世も、その先もずっと居させてほしい。
一足先に、待っている」
「ぃ……ろっさん……」
女性は目に涙をためて感極まったように誰かの名前を呼ぶ。そんな感動的なシーンらしい場面で厨房からできたよと声を掛けられた。ほかほかと湯気の立つパンケーキの上でバターとメープルシロップが絡み合いながら重力に従って落ちていく。早く届けなければ、と思うのだけれどあの空気の中でそっとこの皿を差し出すのを少しだけ躊躇う。
けれど、出来上がった料理に罪はないし、パンケーキはあつあつで食べるのが一番だ。ごくりと唾を飲み込み、テーブルに向かい、女性の方に向かってご注文の品です、とそっとパンケーキを置いた。
「紅茶、頼んでもいいですか?」
少年が泣く女性の代わりに追加で注文をする。パンケーキを食べるなら紅茶が一番なんですよね?と少年が女性に聞くとうんうんと頭を上下に振る。
「ストレートティーでいいですか?」
「いえ、ミルクティーで」
「わかりました」
ミルクティーなら俺にでも作れる。注文を受けて、厨房に戻ると電気ケトルの電源を入れる。茶葉をティースプーンで量り、ポットとティーカップを用意する。厨房でせかせかと俺がミルクティーの準備をしている間に少年と女性の笑い声が聞こえてきた。あの湿っぽくて甘ったるい空気はもうどこかへ行ってしまったようだ。茶葉をティーポットに入れて、適温になったお湯を注ぐと茶葉がゆらゆらとポットの中で踊る。しばらく蒸らして出来上がった紅茶を持っていけば、パンケーキの一番上の段がなくなっていた。
「ミルクティーです」
「ありがとうございます!あ、あともう三皿パンケーキ頼んでもいいですか?」
「三皿ですか?」
聞き間違いかと復唱すれば、はいと笑顔で女性は答え、やっぱり五皿でもいいですか?ともじもじ恥ずかしそうに言った。いくら甘い物好きな大人でも五皿は食べられないと思うのだが、注文は注文だ。わかりましたと額に汗をかきながら答える。少年の方を見れば止めもせずににこにこ笑顔だ。厨房に向かってパンケーキ五皿と言えば、五皿?!と驚いた声が返ってきた。間違えてるんじゃないのかと睨まれたが聞き間違えじゃないと答えれば、渋々とパンケーキを焼き始める。
少年たちの方を見れば、女性が美味しいわ美味しいわと言いながらパンケーキを頬一杯にして満面の笑みで食べている。それを少年もいつの間にかドリンクバーで入れてきたのだろうか、しゅわしゅわのメロンソーダを飲みながら良かったですねぇなんて言っている。女性の食べっぷりはほれぼれするほどで、見ていて美味しそうだなと思わせる魅力があった。今度パンケーキ食べてみようかな、とあまり甘いものが得意でない俺がそう思ってしまうくらいには美味しそうに頬張っているのだ。
「できたぞ」
次々と出来上がるパンケーキをテーブルに運ぶ。女性は目を輝かせて運ばれてきたパンケーキを見るので、本当に好きなんだなと思う。紅茶のお代わりもお願いしますと言われて、空になったティーカップを下げて新しい紅茶を準備する。
その後も二皿ほどパンケーキを、紅茶は三杯お代わりして、ようやく女性は満足したようだ。バターとメープルシロップの甘ったるい空気がファミレスに充満しているような気がする。
「あ~お腹いっぱい!お話聞いてくれてありがとうね!」
「いえ、少しでも気分が晴れたなら良かったです」
「うん!元気いっぱいのいつもの私になりました!
なんかちょっと不安になってたみたい。来世でも私は私で、あの人はあの人だもんね。
記憶があってもなくても多分、私あの人のことを好きになると思う。約束とか、関係なくきっと」
女性は元気いっぱいぐるぐると腕を回す。にっこりと笑う顔に影はない。少年もその通りです!と頷いた。
「きっと、二人なら大丈夫です」
「えへへ。そうかなぁ。ううん、大丈夫にする!頑張れ私!頑張ろう私!」
気合を入れた女性はそのままお会計お願いしますと俺に向かって手を振る。元気になった女性は多分もうこのファミレスに深夜訪れないのだろうな。そう思うくらいにこにこと笑顔だ。手紙をじっと見つめてため息を吐いていた女の姿はもう思い出せないくらいに。
レジスタでパンケーキの個数と紅茶の値段を打ち込んでいると、少年の分のドリンクバーも払うよと言って追加していった。女性の勢いに断り切れなかった少年の分のドリンクバー代も追加し、それなりの値段になったが女性はコイントレーに値段分のお札と硬貨を置いていく。レシートを返すと女性はそれを受け取り、扉を開けてぶんぶんと少年に手を振りながら朝焼けの向こう側へと向かってしまった。それを見送った少年も一度だけこちらを振り帰ってから一礼して扉の向こうへと行ってしまう。
少年の背を見届けていると、やはりちょうどその頃合いでジャージ姿の男がレジにやってくる。いつも少年が来る少し前にやってくるこの男は一体何なんだろう。ガタイはいいので何かスポーツをしているのかもしれないが、選手はやってないだろう。そっと差し出される会計表を見て、男が注文した品をレジに打つ。表示された値段を見て、男がポケットから取り出した財布からのろのろと硬貨を取り出す。
「あ」
財布から落ちた花札によく似た模様のピアスに思わず声を上げてしまった。それと同じものを少年が持っていたのを思い出したのだ。思わず声を上げた俺を深い蒼が射貫く。
「いや、そのすみません」
「……これを知っているのか」
「へ?」
ジャージ姿の男に詰め寄られて、俺は視線を彷徨わせながら最近それ流行ってるんですかねぇ、さっきの少年もしてたしとか何とか口走ればぐいっと胸元を掴まれた。力任せに引き寄せられる。
美形は美形でもできれば男ではなく女に詰め寄られたかった。
突き刺さる圧にそんな見当違いな事を考えていると、ジャージの男は「おい」と低い声で言った。
「そいつに会わせろ」
「は?」
【三】
なんでこいつら同じファミレスの中にいるのに初めてあったような顔をするんだ、と思っていたらどうやら本当にお互いの姿が見えていないらしい。いや、少なくとも少年の方は見えているが、それ以外は見えていないのだ。
あのジャージ姿の男に詰め寄られた後、俺は明日会わせるのでと言って帰ってもらった。厨房の同僚からはお前何やってんだと呆れた顔で見られたが、仕方ないだろう。そう言わなければ胸倉をずっと掴まれたままだったと思う。皺が寄ってしまった胸元を手で伸ばし、代わりにやってきたアルバイトと交代してそそくさと家に帰った。深夜バイトがこれほど憂鬱になったことなどない。
いつもよりもおどおどと震えながら給仕をしていても時は過ぎていく。がらん、というベルの音と共に今日もあのジャージ姿の男がやってきた。まずはいつもの定席に案内して、コーヒーの注文を受ける。
じろっと睨みつけるような視線に「まだ、来てないので」と答える。そうかと存外あっさりとした声が返ってきたのに驚いた。
おや、と思いつつも厨房に注文を伝えて少年が来るのを待っていると、少し遅れて少年がやってくる。やはりいつもの席に案内してドリンクバーを注文する少年に、申し訳なさそうに眉を下げて言った。
「大変申し訳ないんですけど、あちらのお客さんが会いたいって言ってるんですが」
ちらりとジャージ男の方を見て言うと、少年はその男を見て目を丸くさせた。ぎゆうさん、と呟く少年に知り合いですかと聞くと、彼は頷いた。大丈夫です、と少しだけ緊張した面持ちで答える少年に心の中でごめんと謝罪しつつ、プラスチックのコップを持ってから男の席に行く。
「彼、来ましたよ」
がたりと立ち上がるジャージ男に「どこに」と詰め寄られながら「こちらに」と少年が座るテーブルへと案内する。そんなに遠くはない。昨日の女性の会話だって、小さければラジオの音にかき消されていたかもしれないけれど笑い声は厨房にまで聞こえていたくらいだからその声が聞こえる方を見ればきっと少年が見えていただろうに。
テーブルに案内して少年が座る真向かいにジャージ男を座らせて、少年の前にいつものドリンクバーのコップを置くと男が目を驚きに瞬かせた。
「お久しぶりです、義勇さん」
「……炭治郎。本当に炭治郎なのか」
「ええ、はい。竈門炭治郎です」
男ははっと息を吐いて背中を椅子に預けた。何でこんなに驚いてんだか、と白ける目で見る俺の前でばっとジャージ男は身体をテーブルに乗り出してぺたぺたと少年の顔を触り始める。
「生きている……?」
「生きてはないです」
少年の言葉にジャージ男だけでなく、俺もは?と声を漏らしてしまった。揃って少年を見れば頬を掻いて気まずそうにしている赤い瞳と目があった。
厨房からコーヒーができあがったと声がかかり、少年のことが気にながらもコーヒーを取りに行く。砂糖とミルクとマドラーをコーヒーとセットにして、あのテーブルに行けばジャージ男は少年を見つめていた。片時も逃がさないというように瞬きすらせずにまっすぐと射貫くその視線に気まずそうにしているのは少年の方だった。注文の品を置いて少し離れたところに立つと、男が物言いたげな目とは反対に緩慢な動作で口を開いた。
「何故」
「何故、と言れても。
なんででしょう」
端的に出てきた男の二語に本当にわからないというように少年は首を傾げる。男の言いたいことはわかるが、その答えは少年にない。
寂しくはないのかと男が問えばゆるゆると少年は首を横に振る。
「寂しくはないです。たまにですけど、来世にいけない人とかがいてその人と話してるので寂しいとは」
あとここのファミレスもありますし、と少年のコップには並々とリンゴジュースが入っている。リンゴジュースをちびちびと飲みながら少年は目の前に座る男に向かって話しかける。
「義勇さんは、来世を生きてるんでしょう。どうですか。他のみんなには会えましたか」
「会えた。錆兎にも。胡蝶にも」
「そうですか。良かっ」
「だが、お前がいない」
良かったと言おうとした少年の言葉を上から被せるように男が口早に言う。良くはない。少年の言葉を否定するように。穏やかに笑う少年を真っ向から見据えて男は言った。しかし、そんなことを言われても困るのは少年の方だ。いない、と言われてもそこに行けないのだ。
「過去を見ないでください。今ある人を見てください。
大切な人がいるなら、その人の為に生きてください」
「大切にしている。
……けれど、お前のことを忘れそうで怖いんだ」
平和な日々だけれども、それなりに忙しい日々を送っている。ふとした瞬間に前世のことを忘れかける。その忘却を男は恐れた。忘れたくないと少年に縋るように言う。前世を覚えていられる奇跡はそう何度とあるわけではないだろう。テーブルの上に置かれたコーヒーは一口もつけられず、冷めてしまっている。淹れたての心地良い匂いも薄れてしまった。
「忘却は許しです。
人はすべての記憶を背負って生きていけるほど強くはないです」
「忘れたくない」
「忘却は罪でもあります。
大切なものを忘れて、苦しみ彷徨い、過ちを再度犯すことにもなる」
「忘れたくないんだ」
「どうしてですか」
今度は少年が問う。ジャージの男になんで忘れたくないのかと、聞く。俺がずっとずっと覚えていますと少年が言うのに、それじゃ駄目なんだと男は言う。
「俺が覚えていたい。
お前が、いなかったら来世も、その先もずっと俺はお前を好きになれない。あの一度限りの人生で終わってしまう。それは嫌だ」
お前が生きているなら、たとえ忘れてしまってもどこかの人生で好きになれる。いつかは、きっと。けれど、ここにずっといるのならば忘れてしまえばもう会えなくなる。他人になる。こうして会えているのも、まだ俺に記憶があるからで、なければお前から話しかけてはくれないんだろう。
矢継ぎ早に男が言うのに少年は答えない。沈黙から答えは是であることがわかる。
「俺はですね、輪の中に入れなくてもこうしてみんなが幸せに暮らしてるなってのがわかればそれで充分なんです」
少年が長い沈黙の後に言った言葉は少し前に言った言葉と似ている。
「過去に留まってるのはお前の方じゃないか」
「俺にとっての今はここなので」
「俺にとっても、今がここだ」
両者ともにらみ合っても意見は平行線のまま。
「義勇さん、折れてはくれませんか」
「俺は前に一度折れた。今度はお前の番だろう」
不公平だと男は言う。いい歳した男なのに、何故か小さい子供かのように拗ねた口調で言えば、少年は眉を下げた。困り果てている。
「折れてはあげたいのですが、残念ながら来世に行く方法がわからないんです」
「……それなら、一緒に行けるか試せばいい」
男は左手を出す。お手て繋いで外に出るってことか。少年もそれがわかったのか、うーんと唸りながらもわかりましたと答えた。多分恐らく無理だと思っているのだろう。
「できるまで、ずっと試すからな」
「わかりました」
男は少年が頷くのを見て、コーヒーカップを呷った。一気に飲み込めば会計をと俺の方を見てきた。はいはいとレジの方へ向かう。
コーヒー代を叩けば、こいつの分もだと少年の分のドリンクバー代も含めて会計するように言う。大人しく言われた通りにレジを叩くと表示されたお金をコイントレーに男は置いた。
レシートを手渡すと、男は隣に立つ少年に手を出した。少年はその手を握り返すと、男はその手を繋いだまま扉を開けた。
扉の先はまだ暗い。男に連れられて歩く少年はこちらを振り向いて、頭を一度下げて男と共に暗闇の中に消えていった。
あの二人がまた来るかどうかはわからない。でも、ファミレスにはカタカタとノートPCを前に打ち込み続ける男もいる。夜明けまでまだあと数時間。
テーブル上の食器を片付けて、取れていなかった休憩を交代の人がくるまで取ることにする。俺も何か飲み物でも飲もうかなとプラスチックのコップを手に取る。なにしろ、ここにはドリンクバーがあるのだから好きな飲み物は飲み放題なのだ。
「天王寺さんも何か飲みますか」
厨房に向かって声をかけると水でいいと返ってきた。相も変わらず、ストイックな人だ。
【零】
真っ暗な闇夜を手を引かれながら歩く。
この暗い中、鬼を殺す為に刀を握り締め、走り回っていたことを思い出す。あの頃に背負っていた命よりも大事なものは今はない。もうずっと前に見送ったのだ。
真っ暗な闇夜の中、気が付いた時には兄妹二人で彷徨っていたのだ。何時間、いや何日かはわからぬ時を二人で話をしながら適当に歩いていた時にこのファミレスを見つけた。
暗闇ばかりを見ていた目にはその店はとても奇妙で、明るくて、暖かくて、気が付けば店の中に入っていた。従業員らしき一人の男がこちらを見て驚くような顔をしていたのをよく覚えている。店に入ったものの、お金のない俺たちはどうしようかと立ち竦んでいると、こちらに男が近づいてくると空いている席へと案内しようとしてくる。お金がないことをその男に言ったが、彼は無言で席へと案内する。俺と彼女が席に座ると紙切れを机の上に置いていった。
ドリンクバー、無料券。
ミシン目が入ったその紙にはそんな文字が書かれていた。
「ドリンクバー、二つだな」
「えっ」
「飲み終わったら、会計にその紙を二枚出せ」
男はそう言い終わるなり、店の奥の方へと引っ込んでプラスチックのコップを持ってきた。簡単な説明と、ドリンクバーという機械の使い方を説明すると男はまたどこかへ行ってしまった。
見覚えのあるような、ないような。声に聞き覚えがあるような、ないような。
向かいに座る彼女とむーんと唸って首を傾げる。けれど、すぐには答えは出てこなくて、彼が教えてくれたドリンクバーとやらで飲み物を飲んでみた。
りんごのジュース。しゅわしゅわした甘いソーダ。真っ黒なコーヒー。いろんな飲み物を二人で淹れて楽しんだ。
何杯か飲んだ後に、そろそろ出ようかと話をした。ここは居心地がとても良かったけれど、でもここはきっと俺達が長く居座っていてはいけない場所だ。なんとなくではあるが、そう思った。だから、二人して言われた通りに紙を二枚差し出して、店の外に出た。
会計をしたのも席に案内してくれた男だった。「ありがとう」と男にお礼を言うと「別に」とそっけない口調で返された。けれど彼から匂ってくるのは優しい香りでこちらを気遣ってくれていることがわかった。帰り際に、またドリンクバーの紙を渡される。無料では貰えない、と首を横に振ろうとしたが、問答無用と言わんばかりに押し付けられた。
「俺が持っててもゴミになるだけだから」
そう言って、ちらりとゴミ箱を見る彼に俺が本当に返せばゴミ箱に入れようとしていることが分かった。だから、素直にありがとう、と受け取ると「また来いよ」と頭をくしゃりと撫でられた。
それからというもの、二人で真っ暗な夜を歩いていても何故かあの店にたどり着くことが何回かあった。あの店を見つけたら中に入る。それが俺たちの中での決まりになった。店に入ると決まってあの男の人がいて、たまに他の店員もいた。ドリンクバーばかり頼む俺たちはきっと他の人たちには奇妙に見えただろう。けれど、誰も何も言わなかった。
俺達もその頃にはわかっていたのだ。
ある日、妹は声が聞こえると言って真っ暗な道を迷わず歩いて行った。俺には声が聞こえなかったけれど、妹は声がする方へと目を輝かせて嬉しそうにそちらに駆けて行く。俺の手を握ったまま、もうすぐだよ、お兄ちゃん!と言っていたのを最後に妹は消えていた。
握っていた手も、その感触だけを残して一瞬の間に消えていた。
あぁ、妹は彼らの輪の中に還っていったのだ。漠然と感じていた答えが俺の中でようやく形となった瞬間だった。
人の命は、生まれ変わると言われている。頸を斬った鬼達にも来世があるなら、その時は普通の人間に生きられますように、と祈っていたそれは確かに存在したのだ。
生まれ変わるまでの間の時間を俺と妹は一緒に過ごしていた。なんで二人だけなのかはわからないけれど、きっと俺が一人にならぬようにと妹はついてきてくれたのだろう。そしてここでの過ごし方もようやくわかり始めた頃に妹にお迎えがきた。ただ、それだけのことだ。
けれど、真っ暗な道を一人で歩くのは退屈だった。考えることといえば、生まれ変わった妹は幸せに過ごしているだろうか。また他の家族と出会えただろうか。仲間達も。そう、共に一緒に背中を預け、戦った仲間達も生まれ変わっているだろうか。
考えることはいつも大切な人たちのことばかりで、それを考えている時に限ってあの店にたどり着くのだ。もうすでに何回ここに来ただろうか。店員の顔も、前より少し変わっている。けれど、あのドリンクバーの無料券をくれた人だけは変わらずにいる。最近は厨房で料理を作っているらしく、前みたいに席に案内はしてくれないけれど、ドリンクバーの無料券が無くなりそうになると机の近くにやってきては置いていってくれる。
やっぱりどこか、見覚えがあるような気がする。
頬杖をつきながら、アイスティーを飲む。店に流れる音楽は聞きなれない曲ばかりで新鮮だ。時々、明日の天気を伝えてくれるのも便利だ。お店に置いてある新聞や、雑誌も手に取ってみたけれど読めたのは少しだけだ。まるで外国に来てしまったようだ。
妹がいなくなってからもう何日も、何年も過ぎたような気がしたけれど、辺りは真っ暗だから実際の時間はわからない。
きっと来世の迎えはきっと俺にはやってこない。行く方法もわからない。
完全い輪から外れてしまった。けれど、そこまで悲観しているわけでもない。ここにはたまにだけれど、本当にたまにだけれど、知り合いと会うこともあるのだ。彼らは同じように暗闇を歩いてここにたどり着く。その時の彼らは自分と同じ記憶を持っている人もいれば、そうでもない人もいた。
記憶はなくとも来世に行くまでの時間はあるので、ちょっとした息抜きだ、と柔和な笑みを浮かべて昔のように話をしてくれた人も、大好きな家族の話をする人もいた。俺のことを覚えていても、覚えていなくとも彼らの話を聞くだけでよかった。俺がそこにいなくともみんなの時間は過ぎていくし、幸せになったのならそれでいい。
そう、次の人生までの息抜きにみんなの話が聞ければそれで十分だ。
だからいつか、きっとこの人にだって会える。
どんな人生を送って、誰かを好きになったとか、結婚したとか。子供ができたとか、可愛かったとか。そういう普通の人生を送った話をいつか聞ければいい。
けれど、俺の手を強く握り締めたまま歩き続けるこの人はそれが嫌らしい。絶対に手を離さない、というように握る手の力は強く、痛いくらいだ。けれどそれを口に出すことはしない。
さきほどからずっとどこかへ向かって歩いているが、残念ながら辺りは真っ暗で変わることがない。手を握られているという感触はあるけれども、暗闇では握る相手の輪郭がぼんやりとしかわからない。この手を握る強い痛みがなければ、誰に引かれているのかすら忘れてしまいそうだった。
「あの……」
「なんだ」
声が返ってきたことに安心する。暗闇の中をてちてちと歩く音が聞こえる。土ではなく、固い何かの上を歩いている。
「どこに向かっているんですか?」
「家に向かっている」
「そうなんですね」
家、と言われて思い浮かべるのは千年竹林の奥にある物静かな屋敷だった。あのような屋敷に今も住んでいるのかと訊けば、違うと返ってきた。
今は『あぱーと』と呼ばれる少し大きめの建物の一室で暮らしているらしい。独り身の成人男性のほとんどはそういった建物に部屋を借りて住んでいるそうな。部屋は小さいけれど、ちゃんと浴室も厨房もあり、寝食には困らないそうだ。
へぇ、と感心しながら声に耳を傾ける。あの店のように24時間空いている店もあり、中には無人の店もあるとか。飛行機にだって今は普通の人だって乗ることができるし、日本の裏側にある国だって行けると教えてくれた。落ち着いた声から聴ける話は、驚くようなことばかりで。それが『普通』の日常になっていることに隔たりを感じる。手を握ってもらってはいるものの、その存在はずっと遠い。
「義勇さん、もう大丈夫ですよ」
俺は足を止めて、手を握り続ける相手に向かって言った。寡黙であった彼が少しずつ話す日常の話はそう短いものではない。それなのに未だ彼が語る家に辿り着かないのはきっと俺がいるせいだ。俺がどこにも行けないから。そのせいで義勇さんもずっと家に辿り着くことができない。無理だとわかっていたのは、店を出る前から知っていた。
「いや、まだだ」
諦め悪く、俺の手を引っ張って前に進もうとするその手をもう片方の手で掴む。これ以上、義勇さんをこの場に留まらせてはいけない。
「義勇さんを待つ人たちの元へ、行ってください」
「いやだ」
「お願いします」
幼子のように我儘を言う彼の声に、縋るように頼む。ぎりぎりと掴む手の強さに眉を下げながら、その手の指一本一本を剥がしていく。だが、それを拒むようにもう一本の手が伸びてくる。この手のつながりが消え去ってしまえば、きっと彼は『普通』の日々に戻れる。傷つけるようなことはしたくないし、相手もそれは同じだろう。けれど爪を立てるように離れたがろうとしない手に対抗するためにはこちらもその甲に爪を立てねばならない。もしくは腕を切ってしまえば、あっさりと決着がつくかもしれない。
「そろそろ帰らないと」
「俺はお前を連れて帰る」
「……駄目ですよ。義勇さん」
諦めが悪すぎる。叶えてあげたいのは、一緒にいたいのは、自分だってそうだ。けれど自分と彼の生きる場所は違う。
苛立つような匂いがする。諦めの悪いそれは段々と薄くなる。お別れの時が近いのだ。それが彼の方からもわかるのだろう。焦りに混ざって恐怖の匂いもする。握られている手の感触は確かにあるけれど、温もりが徐々に失われていく。
「絶対に、連れて行く」
声とともに執着の匂いが腕に絡みつき、消える。手を握っていた痛みもなくなり、ちょっとした寂しさを覚えながらもほっと息を吐く。
もし彼らの場所へ生まれ変われることが出来たなら、その時は親と子くらいに年齢の差が出来ているだろう。彼らの子供たちと幼少期を過ごすこともあるかもしれない。
それはそれで楽しそうだと暗闇の中でくすりと笑う。
何度も連れてくと、取りこぼした全てを今度こそは一つも見逃さないつもりの義勇には悪いけれど。前世などという記憶は来世になど持っていく必要のないものだ。過去の歴史は、書に記されるだけで、気持ちを持ち越すことなどしなくていい。
ずっとできるまで試すという義勇の気持ちはありがたいし、彼にはそれこそ背負いきれないほどの恩がある。だから那由他の時を得た今となっては彼が求めるのであればその間はずっとずっと付き合おうと思う。
彼が望むなら、永久に過去に添い遂げよう。
忘れられる彼らと違って忘れられないのはこちらの方なのだから。
【ずぅっと一緒】
充血した目を隠すことなく、冨岡義勇は珈琲を啜った。
碌に眠れていない顔は白く生気がなく、目の下に隈を作り、普段からぼさぼさの髪の毛をさらにぼさぼさにしてしまっている。
見るからに不健康な様相を隠すこともなく過ごしていれば義勇の姉である蔦子だけでなく、周囲の人々が心配するのも当然で、職場に向かって早々に同僚から家に帰れ、休めと言われてしまった。
問題ない。大丈夫だ。と言い張ったが、不健康な顔を指摘され、病院に行きますか?それとも家で休みますか?と二択を迫られれば休みを取るしかなかった。
大人しく家に帰ったものの、寝る気にはなれず、パソコンを開く。カチカチとドキュメントフォルダから炭治郎と名前の書かれたフォルダを開くと中に入っているデータを整理していく。
錆兎や真菰、蔦子といったフォルダの中には写真と彼らの情報が何百とデータが詰め込まれているがこの炭治郎のフォルダにはただただテキストフォルダだけが詰まっているだけだ。
前世の炭治郎との記憶を書き記したデータ。彼を探して各地を渡り歩いたデータ。
昨日の夢のような出来事を書き記したデータを間違って消さないように避けてから、不要なデータを削除する。見つけたのだから、もう各地を渡り歩く必要はない。
コーヒーを飲んだおかげで眠気はない。
インターネットブラウザを立ち上げると、『幽霊 連れ出す方法』『輪廻転生』など思いつく限りの単語を叩いてはそれに関する情報を集めていく。
駄目ですよ、義勇さん。
諦めた顔をした潔い顔の弟弟子を思い出し、ぎりっと奥歯を噛みしめる。これでは諦めの悪さが俺に移ったようではないか。妹が鬼になってもお前は決して人間に戻ると信じ続けたのに。俺がお前を連れ戻すという言葉は信じないのか。
蔦子がいて、錆兎がいて、冨岡義勇の人生は確かに幸せに溢れている。けれど、ここには命を賭けて守ると誓った子はいない。彼が生きていて、妹と共に幸せに過ごしていてくれたなら彼とたとえ前のように兄弟弟子のような関係でなくともよかった。
けれど彼がまだ暗闇で一人彷徨い続けているのであれば話は違う。
彼がたった一人で暗闇にいるのは許せない。
あの子には常に人がいて、暖かい陽の下で笑っているのが似合っている。あの子がいるべき場所はあんな場所じゃない。
俺が忘れたら、あの子はずっと暗闇で彷徨い続けるかもしれない。他の誰かがあの子を連れ出してくれるとは思わない。他人に願ったところで、それが叶うとは限らない。何より俺がそう願うのだから俺がそうするべきだろう。
幸せになってくれと願うなら、お前がいなければ苦しいと伝えよう。
忘れろと言うなら、執着心の塊でそれを縛り付けてでも覚え続けよう。
腕を切ってでも俺の手を離そうというなら、離れないように腕を縫い付ければいい。
一緒には生きられないと笑うなら、ずっと一緒にいてくれと縋ろう。
繋がりはできたのだから、この先は消耗戦だ。
ドキュメントフォルダにはきっとこれから無意味な文字の羅列は増えない。過去の記憶だけではなくこれからの記憶も増えていく。
冨岡義勇の記憶の一生をかけてお前を連れ出す。いつか散々お前が俺の後を追いまわしたように今度はお前が俺の手を取って一緒に生きるまで、続けよう。
深夜3時のファミレスにいるような人たちは大体疲れたような顔をしている。
24時間営業のファミレスともなると俺の他にもう一人いる店員もやる気がなく、たとえファミレスにどう考えても未成年だと思わしき少年がいたとしても面倒くさいという理由で通報をしなかった。少年の方もパトカーが巡回に来る曜日だけは必ず来ないから、十中八九確信犯だと思っている。
そんな夜間に居座る少年は毎度ドリンクバーを頼む。コップさえ用意すれば後はセルフなので正直有難いが、ただただ本当に飲み物を飲んで終わりなのでこの少年は一体何しにこのドリンクバーに来ているのだろうと思う。確かに安価でいろんな飲み物を飲めるドリンクバーは値段と手頃さを考えれば魅力的ではあるけれど、正直コンビニでペットボトルを適当に買い込んでしまった方が楽なんじゃないだろうか。そう思っても口は出さないのは一応お客様として少年を認識しているからである。ちょっとした打算を込めるのであれば、誰かにこの少年に言われた時に未成年だとは気づきませんでしたと言い張るためにだ。好奇心は猫をも殺すという言葉もあることだし。
少年が座るのは決まって窓側の奥の席。四人掛けの良く言えばアンティーク、悪く言えば使い込んだダイニングソファに座って真っ暗な外をじっと眺めている。ドリンクバー用のプラスチックのコップを少年の前に置いてそそくさと立ち去る。少年はコップを手に持ち、ドリンクバーの前で少し悩んだ後にアイスティーのボタンを押した。
一人の客をじっと見つめるのはよくないので、少年の姿を背に店内を見渡す。今日の客は少年を除けば、何やら一心不乱にノートPCのキーボードをカタカタと打ち鳴らしている目の下の隈がやばい男と、手紙をじっと見つめてため息を吐いている髪色が奇抜な女。あとは何やら本を読んでしかめっ面をしているジャージ姿の男だ。誰も彼もがただならぬ雰囲気を醸し出しているので近寄りたくない。まぁ、ただの店員だから話しかけることもないのだけれど。
そう思っているとがらんっと扉につけたベルの音がする。いらっしゃいませ、と控えめな声で入り口を見るとファミレスに似つかわしくない恰好をした男がいた。白いジャケットに黒いシャツを着た男は一度自分の方をちらりと視線を寄越してからつかつかと歩いていく。そしてそのまま少年のいる机にやってくるとその反対側のソファにドカリと座った。他にも席があるのにわざわざ相席!?と驚きに目を瞬かせたが、じろりと男の赤い瞳に睨まれて慌てておしぼりとお冷を用意する。お盆にその二つを乗せて、少年と男のいる席へと歩いていく。
テーブルにおしぼりとお冷を置きながら男の方を見ると、男はメニューを開いていた。つつっと男の不健康なまでに白く細い指先がメニューをなぞっていく。コーヒーの文字の所で止まる。
「ご注文ですか?」
こくりと頷かれる。いや、声に出せよ。そう出しかけた言葉を笑みの裏側に隠し、承知しましたと注文を紙に書き込む。世の中電子化の流れが来ているのにうちではまだ注文を紙に書いているのだ。支払いだってクレジットカードはできるけれど電子マネーなどは使えなくてまるでこの店は時代に乗り遅れているというか取り残されているような店だ。
心の中で愚痴をつきながら、厨房にいるもう一人の店員にコーヒーの注文が入った事を伝える。もう一人の店員は怠け者だが料理をする腕は俺よりも手慣れているし、作る料理もうまい。この男がいるからこそこのファミレスも24時間営業できているというものだ。厨房から薫るコーヒーの匂いを嗅ぎながら、聞こえる話し声にそっと耳を澄ませる。当然のことながら、話し相手がいるのはあの相席となった席しかない。静かなファミレスではあったが、ラジオがかかってはいるし、あの席は他の客がいる席より少し遠い。壁にひっそりと立ち、聞き耳を立てている俺以外には恐らく聞こえないだろう。
「どうして、ここに」
「忘れたのか。お前を今際へと戻したのは私だぞ。……を追えば簡単にお前など見つけられる」
「そうなのか」
少年と男は知り合いのようだ。だが、どことなく偉そうな男の物言いが鼻につく。友達とか少なさそうだなと思いながらラジオから流れるクラリネットの曲を音色を背に耳を澄ませた。
「ふん。久しぶりに顔を合わせて見ればどのような表情をするかと思えば対して面白みのない顔だな」
「……俺が怒ったり、怖がったりするとでも思ったのか」
「少し期待していた。
だが、お前がどんな奴かは他のから聞いていたから予想はできていた。
地獄では人気の男ではあったよ、お前は。一番は違う奴だが」
「そうか」
「あっさりとしているな」
「誰にも恨まれてないとは思ってないからな。一生懸命にできることをやってきたけれども、それでもいつも最善ではなかったような気がする。だと言っても今となっては謝る相手すらいないんだが」
「だからこうして、ぼんやりと過ごしているのか」
「自分を振り帰るにはいい時間なんだ」
少年はそう言ってアイスティーをストローで一度、回す。男と少年が話している内容はよくわからないが、『自分を振り帰るにはいい時間だ』という言葉には何故か納得した。
朝の光はまだ遠く、真っ暗な外の世界は明かりがなければ何も見えない。目を閉じているのと同じだ。そこに静けさを加えれば、世界にはまるで自分一人しかいないのではと錯覚してしまいそうだ。そんな一人しかいない空間は、どうしても色々と物事を考えてしまう。明日への不安。過去への後悔。見えない道に不安を覚え、自分を見つめ直すにはぴったりな時間だ。とはいえ、寂しさを覚えてファミレスのアルバイトをしているのが自分なのだけれど。
「私は一万回死んできた。償いを終えたので、先に進もうと思う」
「わかった。次は道を間違えるなよ」
「私は道を間違えたとは思わない。……だが学びの多い人生だった。次は活かそうと思う」
「反省してるのかどうかわからないな」
少年が苦言を呈しているのに男は飄々とした顔で受け流している。コーヒーを口に含み、眉を寄せる。苦い、と小さく呟いたのが聞こえた。少年がぷっと笑う。男は少年を睨みつけるがふと良いことを思い浮かんだというように笑った。
「反省しているかどうか気になるなら、ずっと俺を見張っていればいい」
「お前を見張る?」
目を丸くする少年に男はそうだ、と答えた。良い提案をしたと男は思ったのだろう。くつくつと笑うと男は待っているぞと少年の答えを待たずに席を立った。
慌ててレジスターの前に立ち、男の飲んだコーヒーの値段を伝える。硬貨がちゃりんちゃりんと皮のコイントレーに落ちる。伝えた値段ちょうどの数の硬貨がトレーにあるのを確認して、ありがとうございますの言葉と共にレシートを手渡すと、レシートはすぐ近くにあるごみ箱へと捨てられた。
変な男ではあったけれど多分、あの男はもうこのファミレスには来ないだろう。何となく、そんな予感がした。俺がレジスターの前に立っていると少年もやってきた。ドリンクバー頼んだのに結局飲んだのはアイスティー一杯だけ。これぐらいならコンビニのペットボトルでもいいだろうにという言葉を飲み込んで、値段を伝える。少年はファミレスのドリンクバーの無料券を差し出してきた。なるほど。これがあるなら確かにコンビニよりも安いに違いない。券を受けとり、ありがとうございましたと伝えると少年もありがとうございましたと律儀に挨拶して扉を押して外へ出て行ってしまった。不思議な客だ。
ぼけっと突っ立っていると、ジャージ姿の男がやってきて、清算を済ませる。ちらりと横にある置時計を見れば、4時近く。新聞配達員がそろそろ朝刊を持って住宅街を駆け回る頃だ。この時間になると朝の気配につられて少しずつ外が活発になってくる。
まるで夜の住人たちのようなお客は朝が来る前にさっと消えてしまう。その代わり、朝の散歩のついでにと訪れるご年配がやってくるのだ。その頃になればアルバイトの時間も終わりだ。
交代の人たちがやってきたのを確認して、バックヤードから外に出る。うっすらと寒くて湿った空気を肺一杯に取り入れながら伸びをする。今日も良い一日になりそうだ。
【二】
深夜バイトは時給が高いが、やる人はそこまで多くない。と言うのもここのファミレスが若干駅から遠く、駐車場もそう多くない土地なのが起因しているのだろう。立地が悪すぎる。でも客はそんなんでも入るし、なんならこのファミレスは地域のご高齢の人にとっては憩いの場である。近くの喫茶店の方が勿論にぎわってはいるが、あの店のように人が来られたらこのファミレスは潰れてしまうだろう。人材不足で。なのでちょうど良い塩梅なのだろう、この人の少なさはとバイト仲間と話しながら過ごしていると今日もまたあの少年がやってきた。
いつもの席に案内してドリンクバーですか?と訊けば、少し驚いたした顔をした後に「はい!」と笑顔を返された。いつもどおりのプラスチックのコップを机に置くとありがとうございますと感謝された。ほわほわと少しだけ癒されながら厨房近くの壁に立つ。
つい先日までは頑なにかの少年に関わるまいと心に決めていたのだけれど、あの男との会話を聞いてからふと興味が出たのだ。と言っても顔見知りの客と店員という程度で知り合いと言うにも烏滸がましい程度の付き合いだ。毎回ドリンクバーを頼むのはわかっているし、支払いはいつも無料券だから客に言わせるよりもこちらから聞いた方が早いのだ。なんて言い訳を心の中でしつつ、あの一夜から時々ではあるが少年が座るボックス席に相席する人が度々現れた。
この前は黒髪ボブの声の優し気な男性と楽しそうに会話をしていて、その前は顔に傷のある物騒な男と話していた。今日はあの奇抜な髪の女性が少年の前に座っている。どうやら少年と女性は知り合いのようで、度々同じファミレスにいたというのにまるで初対面かのように女性は少年に少し遅れてファミレスに入ってくるとああああ!と大きな声を上げて、少年のいる席へと駆け寄った。
「久しぶりだね!」
「はい、お久しぶりです。お元気そうで良かった」
にこにこと二人は笑うと女性はすいませーんと三段重ねのパンケーキを注文した。こんな真夜中にパンケーキだなんて、と思うかもしれないがこれもいつも通りの注文だったので驚かなかった。厨房に伝えればすぐに甘い匂いが漂い始める。
「あのね、来世になったら結婚しましょうって約束したの」
「そうなんですね!おめでとうございます!」
「うん、ありがとう」
少年の祝いの言葉に女性ははにかみながら返す。だが、浮かない表情と歯切れの悪い声に少年がこてんと首を傾げた。
「どうしましたか?」
「えっとね……来世では、きっと鬼もいない平和な世界だと思うの。
だからきっとあの人も前よりずっと良い場所で生きてるはずだわ」
「そうですね。あの時苦労した分、皆さんには幸せになってもらいたいですから」
「でも、でもね。
そんな幸せな人生に私が入り込んじゃっていいのかなって少し不安になるの。
約束はしたけれど、本当に私でいいのかしらって。
きっと昔と違ってたくさんいろんなものを選べる時代になっているはずだもの。でも前世からの約束ってだけで他の選択肢を奪ってしまわないか少し不安だわ」
それに期待してしまった分、もし駄目だと言われたら寂しいわ。
そう続けられた女性の声は少しだけ震えている。少年は眉を寄せた。今日のお話は恋愛相談かと肩を落とす。かれこれ彼女いない歴=年齢を更新し続けている自分にとっては程遠い話だ。だが、程遠いと言っても自分の未来の教訓にもなり得るかもしれないとじっと耐える。いつかこのファミレスにやってきた良い感じの女性客とそういう可能性もあるかもと店内を見渡す。
ジャージ姿の男と目が合ったが、すぐに目を逸らす。まぁ、そういい相手なんて早々いないよな。そもそも夜のファミレスに出会いなんかを求めるのが間違っている。
「辛い記憶が多い過去を思い出さないでほしいって思うのは当然ですよね。
苦しませたくないし、悲しむ姿を見たくないし、大切な人にはいつだって笑っていてほしいですもん」
「ええ。そうなの」
「でも、貴方が言った通りたくさんのことが選べる人生なんだから、前世との約束だけがすべてで他の選択肢が消えるわけじゃないと思います。それを叶えても別に他の選択肢が消えるなんて、そんなことはないです」
「そうかしら」
「約束したから結婚したいんじゃなくて、その人のことが好きだから結婚したいんでしょう?」
少年の言葉にはっとしたように女性は目を丸めた。
「そう。好きなの」
「それなら来世も好きな人と結婚するって思えばいいんですよ。きっと前世でも好きだったんだから、来世でも好きになるだけです。
あと、それとあの人から貴方に言伝を預かってるんです」
「それって」
頬を赤らめて、女性が口の前で小さな指先を揃える。期待に揺れる瞳に少年は優しく微笑む。
「約束を覚えていたら、君にあの時の言葉をもう一度伝える。覚えてなくとも俺はきっとまた君のことが好きになる。
だから君の傍に来世も、その先もずっと居させてほしい。
一足先に、待っている」
「ぃ……ろっさん……」
女性は目に涙をためて感極まったように誰かの名前を呼ぶ。そんな感動的なシーンらしい場面で厨房からできたよと声を掛けられた。ほかほかと湯気の立つパンケーキの上でバターとメープルシロップが絡み合いながら重力に従って落ちていく。早く届けなければ、と思うのだけれどあの空気の中でそっとこの皿を差し出すのを少しだけ躊躇う。
けれど、出来上がった料理に罪はないし、パンケーキはあつあつで食べるのが一番だ。ごくりと唾を飲み込み、テーブルに向かい、女性の方に向かってご注文の品です、とそっとパンケーキを置いた。
「紅茶、頼んでもいいですか?」
少年が泣く女性の代わりに追加で注文をする。パンケーキを食べるなら紅茶が一番なんですよね?と少年が女性に聞くとうんうんと頭を上下に振る。
「ストレートティーでいいですか?」
「いえ、ミルクティーで」
「わかりました」
ミルクティーなら俺にでも作れる。注文を受けて、厨房に戻ると電気ケトルの電源を入れる。茶葉をティースプーンで量り、ポットとティーカップを用意する。厨房でせかせかと俺がミルクティーの準備をしている間に少年と女性の笑い声が聞こえてきた。あの湿っぽくて甘ったるい空気はもうどこかへ行ってしまったようだ。茶葉をティーポットに入れて、適温になったお湯を注ぐと茶葉がゆらゆらとポットの中で踊る。しばらく蒸らして出来上がった紅茶を持っていけば、パンケーキの一番上の段がなくなっていた。
「ミルクティーです」
「ありがとうございます!あ、あともう三皿パンケーキ頼んでもいいですか?」
「三皿ですか?」
聞き間違いかと復唱すれば、はいと笑顔で女性は答え、やっぱり五皿でもいいですか?ともじもじ恥ずかしそうに言った。いくら甘い物好きな大人でも五皿は食べられないと思うのだが、注文は注文だ。わかりましたと額に汗をかきながら答える。少年の方を見れば止めもせずににこにこ笑顔だ。厨房に向かってパンケーキ五皿と言えば、五皿?!と驚いた声が返ってきた。間違えてるんじゃないのかと睨まれたが聞き間違えじゃないと答えれば、渋々とパンケーキを焼き始める。
少年たちの方を見れば、女性が美味しいわ美味しいわと言いながらパンケーキを頬一杯にして満面の笑みで食べている。それを少年もいつの間にかドリンクバーで入れてきたのだろうか、しゅわしゅわのメロンソーダを飲みながら良かったですねぇなんて言っている。女性の食べっぷりはほれぼれするほどで、見ていて美味しそうだなと思わせる魅力があった。今度パンケーキ食べてみようかな、とあまり甘いものが得意でない俺がそう思ってしまうくらいには美味しそうに頬張っているのだ。
「できたぞ」
次々と出来上がるパンケーキをテーブルに運ぶ。女性は目を輝かせて運ばれてきたパンケーキを見るので、本当に好きなんだなと思う。紅茶のお代わりもお願いしますと言われて、空になったティーカップを下げて新しい紅茶を準備する。
その後も二皿ほどパンケーキを、紅茶は三杯お代わりして、ようやく女性は満足したようだ。バターとメープルシロップの甘ったるい空気がファミレスに充満しているような気がする。
「あ~お腹いっぱい!お話聞いてくれてありがとうね!」
「いえ、少しでも気分が晴れたなら良かったです」
「うん!元気いっぱいのいつもの私になりました!
なんかちょっと不安になってたみたい。来世でも私は私で、あの人はあの人だもんね。
記憶があってもなくても多分、私あの人のことを好きになると思う。約束とか、関係なくきっと」
女性は元気いっぱいぐるぐると腕を回す。にっこりと笑う顔に影はない。少年もその通りです!と頷いた。
「きっと、二人なら大丈夫です」
「えへへ。そうかなぁ。ううん、大丈夫にする!頑張れ私!頑張ろう私!」
気合を入れた女性はそのままお会計お願いしますと俺に向かって手を振る。元気になった女性は多分もうこのファミレスに深夜訪れないのだろうな。そう思うくらいにこにこと笑顔だ。手紙をじっと見つめてため息を吐いていた女の姿はもう思い出せないくらいに。
レジスタでパンケーキの個数と紅茶の値段を打ち込んでいると、少年の分のドリンクバーも払うよと言って追加していった。女性の勢いに断り切れなかった少年の分のドリンクバー代も追加し、それなりの値段になったが女性はコイントレーに値段分のお札と硬貨を置いていく。レシートを返すと女性はそれを受け取り、扉を開けてぶんぶんと少年に手を振りながら朝焼けの向こう側へと向かってしまった。それを見送った少年も一度だけこちらを振り帰ってから一礼して扉の向こうへと行ってしまう。
少年の背を見届けていると、やはりちょうどその頃合いでジャージ姿の男がレジにやってくる。いつも少年が来る少し前にやってくるこの男は一体何なんだろう。ガタイはいいので何かスポーツをしているのかもしれないが、選手はやってないだろう。そっと差し出される会計表を見て、男が注文した品をレジに打つ。表示された値段を見て、男がポケットから取り出した財布からのろのろと硬貨を取り出す。
「あ」
財布から落ちた花札によく似た模様のピアスに思わず声を上げてしまった。それと同じものを少年が持っていたのを思い出したのだ。思わず声を上げた俺を深い蒼が射貫く。
「いや、そのすみません」
「……これを知っているのか」
「へ?」
ジャージ姿の男に詰め寄られて、俺は視線を彷徨わせながら最近それ流行ってるんですかねぇ、さっきの少年もしてたしとか何とか口走ればぐいっと胸元を掴まれた。力任せに引き寄せられる。
美形は美形でもできれば男ではなく女に詰め寄られたかった。
突き刺さる圧にそんな見当違いな事を考えていると、ジャージの男は「おい」と低い声で言った。
「そいつに会わせろ」
「は?」
【三】
なんでこいつら同じファミレスの中にいるのに初めてあったような顔をするんだ、と思っていたらどうやら本当にお互いの姿が見えていないらしい。いや、少なくとも少年の方は見えているが、それ以外は見えていないのだ。
あのジャージ姿の男に詰め寄られた後、俺は明日会わせるのでと言って帰ってもらった。厨房の同僚からはお前何やってんだと呆れた顔で見られたが、仕方ないだろう。そう言わなければ胸倉をずっと掴まれたままだったと思う。皺が寄ってしまった胸元を手で伸ばし、代わりにやってきたアルバイトと交代してそそくさと家に帰った。深夜バイトがこれほど憂鬱になったことなどない。
いつもよりもおどおどと震えながら給仕をしていても時は過ぎていく。がらん、というベルの音と共に今日もあのジャージ姿の男がやってきた。まずはいつもの定席に案内して、コーヒーの注文を受ける。
じろっと睨みつけるような視線に「まだ、来てないので」と答える。そうかと存外あっさりとした声が返ってきたのに驚いた。
おや、と思いつつも厨房に注文を伝えて少年が来るのを待っていると、少し遅れて少年がやってくる。やはりいつもの席に案内してドリンクバーを注文する少年に、申し訳なさそうに眉を下げて言った。
「大変申し訳ないんですけど、あちらのお客さんが会いたいって言ってるんですが」
ちらりとジャージ男の方を見て言うと、少年はその男を見て目を丸くさせた。ぎゆうさん、と呟く少年に知り合いですかと聞くと、彼は頷いた。大丈夫です、と少しだけ緊張した面持ちで答える少年に心の中でごめんと謝罪しつつ、プラスチックのコップを持ってから男の席に行く。
「彼、来ましたよ」
がたりと立ち上がるジャージ男に「どこに」と詰め寄られながら「こちらに」と少年が座るテーブルへと案内する。そんなに遠くはない。昨日の女性の会話だって、小さければラジオの音にかき消されていたかもしれないけれど笑い声は厨房にまで聞こえていたくらいだからその声が聞こえる方を見ればきっと少年が見えていただろうに。
テーブルに案内して少年が座る真向かいにジャージ男を座らせて、少年の前にいつものドリンクバーのコップを置くと男が目を驚きに瞬かせた。
「お久しぶりです、義勇さん」
「……炭治郎。本当に炭治郎なのか」
「ええ、はい。竈門炭治郎です」
男ははっと息を吐いて背中を椅子に預けた。何でこんなに驚いてんだか、と白ける目で見る俺の前でばっとジャージ男は身体をテーブルに乗り出してぺたぺたと少年の顔を触り始める。
「生きている……?」
「生きてはないです」
少年の言葉にジャージ男だけでなく、俺もは?と声を漏らしてしまった。揃って少年を見れば頬を掻いて気まずそうにしている赤い瞳と目があった。
厨房からコーヒーができあがったと声がかかり、少年のことが気にながらもコーヒーを取りに行く。砂糖とミルクとマドラーをコーヒーとセットにして、あのテーブルに行けばジャージ男は少年を見つめていた。片時も逃がさないというように瞬きすらせずにまっすぐと射貫くその視線に気まずそうにしているのは少年の方だった。注文の品を置いて少し離れたところに立つと、男が物言いたげな目とは反対に緩慢な動作で口を開いた。
「何故」
「何故、と言れても。
なんででしょう」
端的に出てきた男の二語に本当にわからないというように少年は首を傾げる。男の言いたいことはわかるが、その答えは少年にない。
寂しくはないのかと男が問えばゆるゆると少年は首を横に振る。
「寂しくはないです。たまにですけど、来世にいけない人とかがいてその人と話してるので寂しいとは」
あとここのファミレスもありますし、と少年のコップには並々とリンゴジュースが入っている。リンゴジュースをちびちびと飲みながら少年は目の前に座る男に向かって話しかける。
「義勇さんは、来世を生きてるんでしょう。どうですか。他のみんなには会えましたか」
「会えた。錆兎にも。胡蝶にも」
「そうですか。良かっ」
「だが、お前がいない」
良かったと言おうとした少年の言葉を上から被せるように男が口早に言う。良くはない。少年の言葉を否定するように。穏やかに笑う少年を真っ向から見据えて男は言った。しかし、そんなことを言われても困るのは少年の方だ。いない、と言われてもそこに行けないのだ。
「過去を見ないでください。今ある人を見てください。
大切な人がいるなら、その人の為に生きてください」
「大切にしている。
……けれど、お前のことを忘れそうで怖いんだ」
平和な日々だけれども、それなりに忙しい日々を送っている。ふとした瞬間に前世のことを忘れかける。その忘却を男は恐れた。忘れたくないと少年に縋るように言う。前世を覚えていられる奇跡はそう何度とあるわけではないだろう。テーブルの上に置かれたコーヒーは一口もつけられず、冷めてしまっている。淹れたての心地良い匂いも薄れてしまった。
「忘却は許しです。
人はすべての記憶を背負って生きていけるほど強くはないです」
「忘れたくない」
「忘却は罪でもあります。
大切なものを忘れて、苦しみ彷徨い、過ちを再度犯すことにもなる」
「忘れたくないんだ」
「どうしてですか」
今度は少年が問う。ジャージの男になんで忘れたくないのかと、聞く。俺がずっとずっと覚えていますと少年が言うのに、それじゃ駄目なんだと男は言う。
「俺が覚えていたい。
お前が、いなかったら来世も、その先もずっと俺はお前を好きになれない。あの一度限りの人生で終わってしまう。それは嫌だ」
お前が生きているなら、たとえ忘れてしまってもどこかの人生で好きになれる。いつかは、きっと。けれど、ここにずっといるのならば忘れてしまえばもう会えなくなる。他人になる。こうして会えているのも、まだ俺に記憶があるからで、なければお前から話しかけてはくれないんだろう。
矢継ぎ早に男が言うのに少年は答えない。沈黙から答えは是であることがわかる。
「俺はですね、輪の中に入れなくてもこうしてみんなが幸せに暮らしてるなってのがわかればそれで充分なんです」
少年が長い沈黙の後に言った言葉は少し前に言った言葉と似ている。
「過去に留まってるのはお前の方じゃないか」
「俺にとっての今はここなので」
「俺にとっても、今がここだ」
両者ともにらみ合っても意見は平行線のまま。
「義勇さん、折れてはくれませんか」
「俺は前に一度折れた。今度はお前の番だろう」
不公平だと男は言う。いい歳した男なのに、何故か小さい子供かのように拗ねた口調で言えば、少年は眉を下げた。困り果てている。
「折れてはあげたいのですが、残念ながら来世に行く方法がわからないんです」
「……それなら、一緒に行けるか試せばいい」
男は左手を出す。お手て繋いで外に出るってことか。少年もそれがわかったのか、うーんと唸りながらもわかりましたと答えた。多分恐らく無理だと思っているのだろう。
「できるまで、ずっと試すからな」
「わかりました」
男は少年が頷くのを見て、コーヒーカップを呷った。一気に飲み込めば会計をと俺の方を見てきた。はいはいとレジの方へ向かう。
コーヒー代を叩けば、こいつの分もだと少年の分のドリンクバー代も含めて会計するように言う。大人しく言われた通りにレジを叩くと表示されたお金をコイントレーに男は置いた。
レシートを手渡すと、男は隣に立つ少年に手を出した。少年はその手を握り返すと、男はその手を繋いだまま扉を開けた。
扉の先はまだ暗い。男に連れられて歩く少年はこちらを振り向いて、頭を一度下げて男と共に暗闇の中に消えていった。
あの二人がまた来るかどうかはわからない。でも、ファミレスにはカタカタとノートPCを前に打ち込み続ける男もいる。夜明けまでまだあと数時間。
テーブル上の食器を片付けて、取れていなかった休憩を交代の人がくるまで取ることにする。俺も何か飲み物でも飲もうかなとプラスチックのコップを手に取る。なにしろ、ここにはドリンクバーがあるのだから好きな飲み物は飲み放題なのだ。
「天王寺さんも何か飲みますか」
厨房に向かって声をかけると水でいいと返ってきた。相も変わらず、ストイックな人だ。
【零】
真っ暗な闇夜を手を引かれながら歩く。
この暗い中、鬼を殺す為に刀を握り締め、走り回っていたことを思い出す。あの頃に背負っていた命よりも大事なものは今はない。もうずっと前に見送ったのだ。
真っ暗な闇夜の中、気が付いた時には兄妹二人で彷徨っていたのだ。何時間、いや何日かはわからぬ時を二人で話をしながら適当に歩いていた時にこのファミレスを見つけた。
暗闇ばかりを見ていた目にはその店はとても奇妙で、明るくて、暖かくて、気が付けば店の中に入っていた。従業員らしき一人の男がこちらを見て驚くような顔をしていたのをよく覚えている。店に入ったものの、お金のない俺たちはどうしようかと立ち竦んでいると、こちらに男が近づいてくると空いている席へと案内しようとしてくる。お金がないことをその男に言ったが、彼は無言で席へと案内する。俺と彼女が席に座ると紙切れを机の上に置いていった。
ドリンクバー、無料券。
ミシン目が入ったその紙にはそんな文字が書かれていた。
「ドリンクバー、二つだな」
「えっ」
「飲み終わったら、会計にその紙を二枚出せ」
男はそう言い終わるなり、店の奥の方へと引っ込んでプラスチックのコップを持ってきた。簡単な説明と、ドリンクバーという機械の使い方を説明すると男はまたどこかへ行ってしまった。
見覚えのあるような、ないような。声に聞き覚えがあるような、ないような。
向かいに座る彼女とむーんと唸って首を傾げる。けれど、すぐには答えは出てこなくて、彼が教えてくれたドリンクバーとやらで飲み物を飲んでみた。
りんごのジュース。しゅわしゅわした甘いソーダ。真っ黒なコーヒー。いろんな飲み物を二人で淹れて楽しんだ。
何杯か飲んだ後に、そろそろ出ようかと話をした。ここは居心地がとても良かったけれど、でもここはきっと俺達が長く居座っていてはいけない場所だ。なんとなくではあるが、そう思った。だから、二人して言われた通りに紙を二枚差し出して、店の外に出た。
会計をしたのも席に案内してくれた男だった。「ありがとう」と男にお礼を言うと「別に」とそっけない口調で返された。けれど彼から匂ってくるのは優しい香りでこちらを気遣ってくれていることがわかった。帰り際に、またドリンクバーの紙を渡される。無料では貰えない、と首を横に振ろうとしたが、問答無用と言わんばかりに押し付けられた。
「俺が持っててもゴミになるだけだから」
そう言って、ちらりとゴミ箱を見る彼に俺が本当に返せばゴミ箱に入れようとしていることが分かった。だから、素直にありがとう、と受け取ると「また来いよ」と頭をくしゃりと撫でられた。
それからというもの、二人で真っ暗な夜を歩いていても何故かあの店にたどり着くことが何回かあった。あの店を見つけたら中に入る。それが俺たちの中での決まりになった。店に入ると決まってあの男の人がいて、たまに他の店員もいた。ドリンクバーばかり頼む俺たちはきっと他の人たちには奇妙に見えただろう。けれど、誰も何も言わなかった。
俺達もその頃にはわかっていたのだ。
ある日、妹は声が聞こえると言って真っ暗な道を迷わず歩いて行った。俺には声が聞こえなかったけれど、妹は声がする方へと目を輝かせて嬉しそうにそちらに駆けて行く。俺の手を握ったまま、もうすぐだよ、お兄ちゃん!と言っていたのを最後に妹は消えていた。
握っていた手も、その感触だけを残して一瞬の間に消えていた。
あぁ、妹は彼らの輪の中に還っていったのだ。漠然と感じていた答えが俺の中でようやく形となった瞬間だった。
人の命は、生まれ変わると言われている。頸を斬った鬼達にも来世があるなら、その時は普通の人間に生きられますように、と祈っていたそれは確かに存在したのだ。
生まれ変わるまでの間の時間を俺と妹は一緒に過ごしていた。なんで二人だけなのかはわからないけれど、きっと俺が一人にならぬようにと妹はついてきてくれたのだろう。そしてここでの過ごし方もようやくわかり始めた頃に妹にお迎えがきた。ただ、それだけのことだ。
けれど、真っ暗な道を一人で歩くのは退屈だった。考えることといえば、生まれ変わった妹は幸せに過ごしているだろうか。また他の家族と出会えただろうか。仲間達も。そう、共に一緒に背中を預け、戦った仲間達も生まれ変わっているだろうか。
考えることはいつも大切な人たちのことばかりで、それを考えている時に限ってあの店にたどり着くのだ。もうすでに何回ここに来ただろうか。店員の顔も、前より少し変わっている。けれど、あのドリンクバーの無料券をくれた人だけは変わらずにいる。最近は厨房で料理を作っているらしく、前みたいに席に案内はしてくれないけれど、ドリンクバーの無料券が無くなりそうになると机の近くにやってきては置いていってくれる。
やっぱりどこか、見覚えがあるような気がする。
頬杖をつきながら、アイスティーを飲む。店に流れる音楽は聞きなれない曲ばかりで新鮮だ。時々、明日の天気を伝えてくれるのも便利だ。お店に置いてある新聞や、雑誌も手に取ってみたけれど読めたのは少しだけだ。まるで外国に来てしまったようだ。
妹がいなくなってからもう何日も、何年も過ぎたような気がしたけれど、辺りは真っ暗だから実際の時間はわからない。
きっと来世の迎えはきっと俺にはやってこない。行く方法もわからない。
完全い輪から外れてしまった。けれど、そこまで悲観しているわけでもない。ここにはたまにだけれど、本当にたまにだけれど、知り合いと会うこともあるのだ。彼らは同じように暗闇を歩いてここにたどり着く。その時の彼らは自分と同じ記憶を持っている人もいれば、そうでもない人もいた。
記憶はなくとも来世に行くまでの時間はあるので、ちょっとした息抜きだ、と柔和な笑みを浮かべて昔のように話をしてくれた人も、大好きな家族の話をする人もいた。俺のことを覚えていても、覚えていなくとも彼らの話を聞くだけでよかった。俺がそこにいなくともみんなの時間は過ぎていくし、幸せになったのならそれでいい。
そう、次の人生までの息抜きにみんなの話が聞ければそれで十分だ。
だからいつか、きっとこの人にだって会える。
どんな人生を送って、誰かを好きになったとか、結婚したとか。子供ができたとか、可愛かったとか。そういう普通の人生を送った話をいつか聞ければいい。
けれど、俺の手を強く握り締めたまま歩き続けるこの人はそれが嫌らしい。絶対に手を離さない、というように握る手の力は強く、痛いくらいだ。けれどそれを口に出すことはしない。
さきほどからずっとどこかへ向かって歩いているが、残念ながら辺りは真っ暗で変わることがない。手を握られているという感触はあるけれども、暗闇では握る相手の輪郭がぼんやりとしかわからない。この手を握る強い痛みがなければ、誰に引かれているのかすら忘れてしまいそうだった。
「あの……」
「なんだ」
声が返ってきたことに安心する。暗闇の中をてちてちと歩く音が聞こえる。土ではなく、固い何かの上を歩いている。
「どこに向かっているんですか?」
「家に向かっている」
「そうなんですね」
家、と言われて思い浮かべるのは千年竹林の奥にある物静かな屋敷だった。あのような屋敷に今も住んでいるのかと訊けば、違うと返ってきた。
今は『あぱーと』と呼ばれる少し大きめの建物の一室で暮らしているらしい。独り身の成人男性のほとんどはそういった建物に部屋を借りて住んでいるそうな。部屋は小さいけれど、ちゃんと浴室も厨房もあり、寝食には困らないそうだ。
へぇ、と感心しながら声に耳を傾ける。あの店のように24時間空いている店もあり、中には無人の店もあるとか。飛行機にだって今は普通の人だって乗ることができるし、日本の裏側にある国だって行けると教えてくれた。落ち着いた声から聴ける話は、驚くようなことばかりで。それが『普通』の日常になっていることに隔たりを感じる。手を握ってもらってはいるものの、その存在はずっと遠い。
「義勇さん、もう大丈夫ですよ」
俺は足を止めて、手を握り続ける相手に向かって言った。寡黙であった彼が少しずつ話す日常の話はそう短いものではない。それなのに未だ彼が語る家に辿り着かないのはきっと俺がいるせいだ。俺がどこにも行けないから。そのせいで義勇さんもずっと家に辿り着くことができない。無理だとわかっていたのは、店を出る前から知っていた。
「いや、まだだ」
諦め悪く、俺の手を引っ張って前に進もうとするその手をもう片方の手で掴む。これ以上、義勇さんをこの場に留まらせてはいけない。
「義勇さんを待つ人たちの元へ、行ってください」
「いやだ」
「お願いします」
幼子のように我儘を言う彼の声に、縋るように頼む。ぎりぎりと掴む手の強さに眉を下げながら、その手の指一本一本を剥がしていく。だが、それを拒むようにもう一本の手が伸びてくる。この手のつながりが消え去ってしまえば、きっと彼は『普通』の日々に戻れる。傷つけるようなことはしたくないし、相手もそれは同じだろう。けれど爪を立てるように離れたがろうとしない手に対抗するためにはこちらもその甲に爪を立てねばならない。もしくは腕を切ってしまえば、あっさりと決着がつくかもしれない。
「そろそろ帰らないと」
「俺はお前を連れて帰る」
「……駄目ですよ。義勇さん」
諦めが悪すぎる。叶えてあげたいのは、一緒にいたいのは、自分だってそうだ。けれど自分と彼の生きる場所は違う。
苛立つような匂いがする。諦めの悪いそれは段々と薄くなる。お別れの時が近いのだ。それが彼の方からもわかるのだろう。焦りに混ざって恐怖の匂いもする。握られている手の感触は確かにあるけれど、温もりが徐々に失われていく。
「絶対に、連れて行く」
声とともに執着の匂いが腕に絡みつき、消える。手を握っていた痛みもなくなり、ちょっとした寂しさを覚えながらもほっと息を吐く。
もし彼らの場所へ生まれ変われることが出来たなら、その時は親と子くらいに年齢の差が出来ているだろう。彼らの子供たちと幼少期を過ごすこともあるかもしれない。
それはそれで楽しそうだと暗闇の中でくすりと笑う。
何度も連れてくと、取りこぼした全てを今度こそは一つも見逃さないつもりの義勇には悪いけれど。前世などという記憶は来世になど持っていく必要のないものだ。過去の歴史は、書に記されるだけで、気持ちを持ち越すことなどしなくていい。
ずっとできるまで試すという義勇の気持ちはありがたいし、彼にはそれこそ背負いきれないほどの恩がある。だから那由他の時を得た今となっては彼が求めるのであればその間はずっとずっと付き合おうと思う。
彼が望むなら、永久に過去に添い遂げよう。
忘れられる彼らと違って忘れられないのはこちらの方なのだから。
【ずぅっと一緒】
充血した目を隠すことなく、冨岡義勇は珈琲を啜った。
碌に眠れていない顔は白く生気がなく、目の下に隈を作り、普段からぼさぼさの髪の毛をさらにぼさぼさにしてしまっている。
見るからに不健康な様相を隠すこともなく過ごしていれば義勇の姉である蔦子だけでなく、周囲の人々が心配するのも当然で、職場に向かって早々に同僚から家に帰れ、休めと言われてしまった。
問題ない。大丈夫だ。と言い張ったが、不健康な顔を指摘され、病院に行きますか?それとも家で休みますか?と二択を迫られれば休みを取るしかなかった。
大人しく家に帰ったものの、寝る気にはなれず、パソコンを開く。カチカチとドキュメントフォルダから炭治郎と名前の書かれたフォルダを開くと中に入っているデータを整理していく。
錆兎や真菰、蔦子といったフォルダの中には写真と彼らの情報が何百とデータが詰め込まれているがこの炭治郎のフォルダにはただただテキストフォルダだけが詰まっているだけだ。
前世の炭治郎との記憶を書き記したデータ。彼を探して各地を渡り歩いたデータ。
昨日の夢のような出来事を書き記したデータを間違って消さないように避けてから、不要なデータを削除する。見つけたのだから、もう各地を渡り歩く必要はない。
コーヒーを飲んだおかげで眠気はない。
インターネットブラウザを立ち上げると、『幽霊 連れ出す方法』『輪廻転生』など思いつく限りの単語を叩いてはそれに関する情報を集めていく。
駄目ですよ、義勇さん。
諦めた顔をした潔い顔の弟弟子を思い出し、ぎりっと奥歯を噛みしめる。これでは諦めの悪さが俺に移ったようではないか。妹が鬼になってもお前は決して人間に戻ると信じ続けたのに。俺がお前を連れ戻すという言葉は信じないのか。
蔦子がいて、錆兎がいて、冨岡義勇の人生は確かに幸せに溢れている。けれど、ここには命を賭けて守ると誓った子はいない。彼が生きていて、妹と共に幸せに過ごしていてくれたなら彼とたとえ前のように兄弟弟子のような関係でなくともよかった。
けれど彼がまだ暗闇で一人彷徨い続けているのであれば話は違う。
彼がたった一人で暗闇にいるのは許せない。
あの子には常に人がいて、暖かい陽の下で笑っているのが似合っている。あの子がいるべき場所はあんな場所じゃない。
俺が忘れたら、あの子はずっと暗闇で彷徨い続けるかもしれない。他の誰かがあの子を連れ出してくれるとは思わない。他人に願ったところで、それが叶うとは限らない。何より俺がそう願うのだから俺がそうするべきだろう。
幸せになってくれと願うなら、お前がいなければ苦しいと伝えよう。
忘れろと言うなら、執着心の塊でそれを縛り付けてでも覚え続けよう。
腕を切ってでも俺の手を離そうというなら、離れないように腕を縫い付ければいい。
一緒には生きられないと笑うなら、ずっと一緒にいてくれと縋ろう。
繋がりはできたのだから、この先は消耗戦だ。
ドキュメントフォルダにはきっとこれから無意味な文字の羅列は増えない。過去の記憶だけではなくこれからの記憶も増えていく。
冨岡義勇の記憶の一生をかけてお前を連れ出す。いつか散々お前が俺の後を追いまわしたように今度はお前が俺の手を取って一緒に生きるまで、続けよう。