短編

 竈門炭治郎は恋と言うものを知っている。母親が父親がお互いを一等大事に見つめているそれは自分や弟妹とは違うそれであったことを覚えている。
 それは麓の山でも見ることもあったし、遊郭で見かけることもあった。幸せそうなそれもあれば悲しそうな、腐った匂いのするようなそれもあった。
 善逸が禰豆子を見る時にするそれはあった。人は誰も彼も恋をしている。そう思うくらいに近くにあって恋とはどういうものかを炭治郎は知っていた。
 知っていただけで、恋をしたことはなかった。
 恋などする暇がなかったとも言えるかもしれない。
 鬼になった妹を人間に戻すために取った刀は炭治郎の手の中で少しずつ重くなっていった。人間に戻したいという思いは今も変わらずだけれど、刀を振るう腕に、吐く息に、どくりどくりと波打つ心臓には誰彼の想いが黒いタールのように沁み込んでしまっている。時々自分以外の意思が動いているのでは思うくらいに、足が早く動くことがある。自分の考えではないように誰かの意識が入り込んだかのように知識が入ってくることがある。
 何度も何度も死線を越えた炭治郎の身体は恐らく黒く染まっている。もうどこにもいないのだ。刀を握っていなかった自分はどこにも。鬼の頸を切ることに躊躇した自分も今となっては遠い存在だ。
 ただそれでも我武者羅に目標のために刀を振り続けたけれど、すべてを守れるほどの力はなく、振り返った道のりにはたくさんの血と肉と骨が転がっていた。絶望しようとしても、刀を握れと耳鳴りがした。骨が折れようと血反吐を吐こうと後ろに進むことは許されず、ただ前へと走らされた。
 その先に立っている人が居てくれたのは救いだった。一人だけで立ち向かっていればとっくの昔に折れていたかもしれない。走って走って、走りきったその先に立っていた人はわずかで、その事がとても悲しかったけれどもようやく刀から手を離せることにほっと安堵した。重いそれは落ちるとからん、と軽い音をして地に落ちた。
「炭治郎」
 よく戻った。
 命からがらに生き延びた自分を妹と善逸と伊之助が泣いて抱きつく中で、その少し後ろで涙を流しながらほっとした顔の兄弟子を見て安心させるように笑った。生きている。まだ残っている。
 少しだけ離れている兄弟子へ手を伸ばすと、おずおずとその手を兄弟子が握ってくれた。ちゃんと生きてますよ、と残った力で握り返すと兄弟子はほろりとまた涙を流した。みんなの流す涙が身体に落ちてきて、真っ黒に染まった身体が少しだけ綺麗になったような気がした。

 鬼殺隊の悲願を達成した後に、炭焼きに戻ろうと思った炭治郎は過去の知識を思い出そうとして思い出せないことに驚いた。それでも優しい思い出から父が教えてくれたことを引っ張り出し、たどたどしい手つきで窯に火をつけて炭を作った。
 最初の出来は散々だった。
 首を傾げながら、妹と一緒に二度三度と何回かやり直して五度目には記憶のある炭ができた。それでも父の作っていた炭には程遠いのだけれど。炭を作れたことにほっと安堵した。
 タール塗れの身体でも炭は作れた。
 黒く汚れた手のその下の血肉にでも優しい思い出は眠っていたらしい。窯に火を灯せば血が通うように身体が熱くなり、炭作りのやり方を思い出させてくれた。
 炭の作り方が身体に馴染んだ頃にその人はやってきた。
「炭治郎」
「義勇さん!お久しぶりです!」
 清い水のようなわかりにくい匂いのする人は突然やってきて、息災かとこれまたしばらく会ってない親戚かのような話をしてきたのに驚いた。今までお世話になった人や縁がある人には定期的に手紙を出しているのだ。だから、元気なことや近況についてはすでに伝わっているものだと思っていた。
「義勇さん、もしかして手紙届いてませんでしたか?」
「いや、ちゃんと受け取った」
 義勇が懐から出す手紙の封筒の色は確かに見覚えのあるもので、炭治郎はほっと息を吐いた。あの手紙には禰豆子が拾った綺麗なモミジの葉や伊之助が大事にしていた団栗が入っていたのだ。義勇に渡そうとしていたそれらが迷子になっていたら彼らに顔向けができないと思っていたのでちゃんと彼の手に渡っていたことに安心した。
 であれば義勇の息災かという言葉も久しぶりに会う人への定句だということを理解し、みんな元気ですよと笑って返した。善逸、伊之助と禰豆子と四人暮らしは毎日騒がしくて楽しくて、優しい記憶と取って代わらないほどの日々だ。
「そうか」
 けれど、不思議なことに義勇が少しだけ寂しそうな匂いを一瞬させた。それにん?と首を傾げて義勇を見上げる。義勇からも何通か手紙をもらったことはあるが生き残った同僚と鰻を食べたとか温泉に行ったとか、そんな楽しそうな近況が綴られていたからきっと義勇も楽しく過ごしていると思ったのだ。
「何かありましたか?」
「いや、何も」
 正直に思った事を口に出して聞けば、義勇は何もと言った後口を噤んでしまった。言葉数が少なければ匂いも薄い義勇を理解するのは炭治郎でも難しかった。
 わからぬそれをそのままにし、違う話題を振ればぽつりぽつりと義勇が言葉を返した。そうしているうちに霧雨が降ってきた。山の天候は変わりやすい。今はただの霧雨だがいつ本降りがやってくるかもわからない。帰ると言う義勇の腕を引っ張ると家の中に入れた。
 狭い家の中に義勇を押し込むと、彼は畳と少しの明かりと机と箪笥しかない部屋を見て視線を少し彷徨わせた後に禰豆子はと言った。
「禰豆子なら昨日から蝶屋敷にお手伝いに。伊之助もそれについて行って、善逸は宇随さんの所に行ってます」
「そうか」
 家の中が静かで禰豆子達がいないことを残念に思ったのだろうか。それを素直に謝れば、気にするなと言われた。そんな物珍しいものは何もありはしないだろうに、義勇は狭い家の中をじっくりと見渡しては傷のある柱を見て撫でていた。身長を測っていたいた柱だ。そこには家族のものだけではなく新しく伊之助の身長の傷も刻まれている。
 小さな子供のままの兄弟の傷跡はどれだけ時が経とうとそこから変わることはない。それに寂しく思っていると炭治郎、と義勇に呼ばれた。
 なんですかと近くに寄ると柱の前に立つように言われる。いや、まさかと思いながら柱の前に立つ。傷はそれに刻まれなかったけれども、柱にある古い炭治郎という名の傷跡と高さを見比べて大きくなったなと呟かれた。
「義勇さん、まるで父さんのような事を言いますね」
「……時間の流れを感じていた」
「そうですか」
 炭を焼くことと家族の優しさだけで囲まれていた時間が残っている傷跡を上書きしたくなくて柱にはまだ身長を刻めないでいる。柱に新しい傷跡をつければ否が応でも変わってしまった自分を見なければならなくなる。黒く汚れた自分を、優しい思い出の家族の隣に立たせたくない。
「炭治郎」
「なんですか、義勇さん」
 蒼い瞳と目が合う。この人は炭焼きの息子で優しい家族に囲われていただけの自分も、黒く汚れていく自分も見ている。大きくなった、とは言っていたけれどそれは良いことなのだろうか。蒼い瞳の中でぐにゃりと紅が歪む。あっと思った時には腕の中だった。どくんどくんと動悸する心臓の音が聞こえる。
「知っているだろう」
 静かな声が落ちてくる。何を、と言うよりも前に聞こえているだろうと言われる。目を閉じて聞こえる音だけに集中する。風の音、雨の音、そして心臓の音。知っていると言えばその音を知っているし、聞こえているといえば聞こえている。だが、義勇の言葉の意味はわからない。
「お前は、知っている筈だ。
 聞こえている筈だ」
 重ねて言われて、顔を見上げる。濡羽色の髪が湿気で重たい影を綺麗な義勇の顔に落としている。気休め程度の行灯がゆらゆらと揺れて義勇の顔を、瞳を照らす。
 数秒ほど、見つめ合ってその眼差しに見覚えがあることを思い出す。昔、見た覚えがある。それは父が母を見る目で。母が父の背を微笑みながら見る眼差しで。蒼い瞳に映る赫灼の瞳もまた同じように見つめている。
「え」
 その瞳が自分のものだと気づいた時、背中に回された腕に力が込められる。

―知っている筈だ。
 聞こえている筈だ。

 先ほど言われた言葉に顔が熱くなる。はくはくと口を開けて、言葉にならない悲鳴をあげる。
 確かに知っているけれども。聞こえているけれども。それがどういうものか、見てきたけれども。経験は一度もしたことはない。
「偶像ではないからな」
「ひぇ」
 最期の戦いから碌に鍛えていない身体では片腕だけの拘束も解けそうにない。助けを呼ぼうともこの家の中は義勇と自分しかいない。なので、逃げ場のない炭治郎はただ義勇と見つめ合うことしかできない。
 この目の前にいる男は町で噂の沼男なのではないか。見目がよく似た別人じゃないのかなどと考えるが鬼のいなくなった今ではあり得ないと残念な結論を出す。脳がいっそのこと都合の良い夢を見ていると勘違いしているのであれば良いのにと思うがやはりこれも鬼のいない今となってはあり得ない。
 そもそもいつか出会った鬼はもう少し優しい夢を見させてくれたのだから、いくらなんでも生き恥のようなこんな夢は見させないだろう。後悔もしなければただただ憤慨するだけの夢だ。幸せとも悲しみとも程遠い。
「炭治郎」
 顔が近づき、頬にさらりと髪が落ちる。見目麗しいといつか誰かが言っていたのを頷いて聞いていたけれど、これだけ近くで見てしまうと綺麗だという前に暴力だと思う。この時は善逸のイケメン滅びろ、という言葉に理解を示した。滅びろとまではいかないけれども不用意に近づかないで貰いたい。
 義勇のものなのか自分のものなのかわからぬくらい心臓がどくん、どくんと動悸している。煩い。静かにしろ、と言おうとも黒く染まった身体はこんな時は動かない。それもそうだ。だってもうこの手に刀はない。終わった後だ。
「炭治郎」
 自分を呼ぶ声はとてつもなく優しく黒い身体に降ってくる。黒いそれを塗り返すように、押し流すように、ただただ名前を呼ぶ人の顔を見続ける。
 一体いつから自分はこの人をこんな目で見るようになっていたんだろう。いつそれに貴方は気づいたんですか。どうしてそんな目で見るんですか。それは勘違いではないですか。夢ではありませんか。
 投げかけたい言葉はいっぱいあったけれど、そのどれもこれもが言葉にならない。言葉になる前に塞がれてしまったのだ。目の前がぐるぐると回る。止まってほしい。何もかもを止めて欲しい。
 けれども時間が止まることはない。我武者羅に生き続けた時と同じようにただ世界は彼らをその時に置いてさっさと続いていく。だから考えるしかない。何も知らないわけではないし、答え自体はすでに出てしまっている。ただ言葉に出さなければそれはあるかどうかわからない。
 恐らく義勇は炭治郎からその言葉を引き出すためにこうして行動しているのだ。だからこそその言葉を口に出していいのか迷ってしまった。

 それを口にしてしまえば、可塑性の竈門炭治郎という形を変わってしまうのだから。
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