さよならを教えて
部活を終えて、明日の授業の準備を終えて、くたびれたリュックサックを手に取るとぶるるっと震える振動にリュックの中からスマホを取り出した。親友の錆兎からのメッセージだ。
宇髄と煉獄に色々と言われた後でとりあえず記憶に留めていた頼りになる男、という言葉だけを錆兎に送っておいたのだ。前後の脈絡もなくただそれだけの言葉に錆兎からの返信は『話の前後をちゃんと言語化しろ』というものだった。頼りになる男は指示も的確だ。
教室の戸締りをした後に車に乗り込み、近くのコンビニの駐車場で泊まった後にその指示通りに言葉を送信していく。
『炭治郎が最近怪我をよくしている』
『怪我は大した事がないようだが、治りかけになると新たに怪我を一つ増やしている』
『心配だ』
『怪我をする理由を炭治郎に聞いてみたが教えてもらえなかった』
『困ったことがあれば相談しろと言ったが、まだ相談してもらえていない』
『相談されるような男になるためにはどうしたらいいか』
送る度に既読がピッピッとつくのに安心する。錆兎からの返信はいつ来るだろうかと思っていると着信の文字と共にスマホが手の上で踊った。慌ててボタンを押して出ると、『馬鹿なのかお前は』といきなり散々な言葉が投げかけられた。
「俺は馬鹿ではない」
『いいや、お前は馬鹿だ。お前、去年のちょうど今頃炭治郎に告白されたと連絡してきただろう。そしてそれを断ったと。
断ったのはお前の判断だし、それは間違ってないと思う。だが、振った相手に不必要に近寄るのはいかがなものか』
「心配するぐらいいいだろう」
『心の中で秘めるのであれば、な。
いいか。お前の言いたいことはつまりこういう事だろう。
炭治郎が自分の知らぬところで怪我をしてるのが気に食わない。また、それを理由を言わないのも、相談に来ないのも、腹立たしい』
「錆兎」
『袖にしたというのも、お前があいつの傍にいるのを恐れたからだろう。
教師と生徒という立場であれば公にするのは良くはないが、それでも言い方があっただろう。卒業するまで待ってくれとか。教師という立場がある以上今は答えられないとか。理由をなくすまないだけでは、受け取りはどうとでもできる。
炭治郎はよく考える子供だ。思慮も深い。お前が何か理由があって断ったことは考えられても、自分を好きだなど己惚れるような勘違いはしない男だ』
否定の言葉を口にしようとしても遮られる。だが、錆兎の言うことは正しい。間違っていない。だからこそ痛い。核心を突かれている。
『お前が炭治郎を突き放したから、炭治郎もお前から離れたんだ。
それを今更何様の顔をして近づこうとする?心配?教師として?友としてか?
教師としてならお前に頼らずとも担任の先生がいるだろう。怪我であれば保険医か。友としてなら学校の友人がいるだろう。それもお前よりもよっぽどか気心の知れた友がな。家族だってあそこは仲が良い。お前に何故相談しなければならない。お前でなければならない理由はあるのか』
「錆兎」
もう止めてくれ、と掠れた声で名前を呼ぶと電話口から長い長い溜息が聞こえた。ぐさりぐさりと錆兎の言葉が脆い自分の心を刺していく。けれどそれは、ちゃんと自分を思っての言葉だと理解している。
『いい加減、腹を括れ。ちゃんと自分自身と向き合え』
「だが、俺は」
『言い訳をするな、冨岡義勇。
手放したのはお前だ。離れることができないなら、覚悟をして何度でも手を伸ばせ。
拒絶されても、苦しんでも、手を伸ばし続けろ。お前にできるのはそれだけだ』
その覚悟ができたなら、協力してやる。
錆兎の言葉に即座に反応できなかった。
傍にいたい。けれど俺にその価値はあるのか。もっとふさわしい者がいる。俺はただあの子の幸せを守れればいい。でも手の届く範囲に今、あの子はいない。傍にいればあの子をもっと守れる。手を伸ばしていいのか。
「俺は……」
からからに乾いた声で、スマホに向かって話す。
手放せない。そんなこと、とっくの昔にわかっていた。捨てられるものならば捨てていた。手放せないから、ずっとずっと苦しんでいた。嫌ってくれればいいのに。あの子は俺を恨みもしなければ憎しむこともせずに近くにいてくれた。手を伸ばしてくれて、それを突っぱねたのに彼は変わらず少しだけ遠い距離で優しく微笑んでくれている。
好きだ。恋しい。いつも、いつだってこの恋は自分をおかしくさせる。優しい暖かな気持ちだけではなく根底には冷たく暗いおぞましい感情が眠っている。傍にいれば必ずそのドロドロとした感情が湧き上がってくる。抑えられる自信がない。そんなものをあの子に見せていいのか。
臆病な心はこんな時に役に立たない。いや、それでも離れる方が怖いのか。この手の届かない場所に行ってしまうのが嫌だとわかっている。比べるまでもなく、二つの背反してた感情は一つに向かっている。
「手放せない」
『よく言った』
その言葉が出るまでに五分もかかっていたが、錆兎は電話を切らずに待っていてくれた。すまないと謝ると、本当になと笑って返された。
『ここで手放すとかなんとか言ってたら家にカチコミを決めるとこだった。そうならなくてよかった』
「今は夜だ。やめてくれ」
『自分に素直になれないお前が悪い。
大体、お前のその腑抜けた心がずっと気に食わなかった。一度俺はそれでお前にキレたことがあるが、近頃もうじうじと同じようなことで悩みだして、いつその心根を叩きなおすか鱗滝さんとも話をしていたところだ』
「すまない」
『そう思うなら今度道場に来い。鱗滝さんと一緒にお前の話を聞いてやる。
炭治郎は俺にとっても可愛い弟弟子のようなものだ。気にならないわけがない』
「わかった。明日行く」
どうしたって自分は炭治郎を手放せられないと心が決まると、くるくると頭が回り始めた。
一度、またちゃんと話をした方がいいだろう。錆兎の言っていた通り今は教師と生徒だから公に付き合うのは世間体が悪いから付き合うのであれば隠すこと。それができないようであれば卒業してから付き合おう。そう言おう。
一年前の告白から経っていたけれどまだ炭治郎は自分を好きだろうか。他に好きな人ができていないだろうか。気になることが他にも出てきた。とりあえず炭治郎と一緒にいる友達から情報を集めよう。
家族にも反対されないように少しずつアピールをした方がいいだろうか。
『義勇、あまり暴走するなよ』
「もちろん、わかっている」
電話口から聞こえる言葉に頷いた。こういうことは計画的に、ちゃんと順序だててすることが大切だ。
ちゃんと意味が伝わってるのかとぼやくような声が聞こえたような気がしたが、大分長く電話をしていることに気づいてそれだけ謝ると通話終了ボタンを押した。
しかし、忘れてはいけないのが気を持ち直したからといって今までの性格がすぐに直るかというと否という事である。先生と生徒という立場もあって学校では話しかけられないし、かといって炭治郎の実家が営んでいるパン屋に行ったとしても長時間会話できるわけでもない。
事務的なやり取りとちょっとした今日の天気などそれくらいしか話題がない。それでも、注意深く今までよりもしっかりと炭治郎を見ていた。炭治郎の同級生である喧しい生徒にそれとなく付き合っている人物はいないのかと聞いたが、いないらしい。薄く笑みを浮かべる俺に職権乱用じゃないですか、とかジト目でそいつに言われたが無視した。
怪我についても錆兎や恩師である鱗滝に相談し、そちらからもそれとなく聞いてもらったが手がかりはなかった。手詰まりだ。いっそのこと見張るかと言ったらストーカーとして通報されるからやめた方がいいと二人に説得された。良い案だと思ったのに。
これといった情報もなく、かといって炭治郎との仲も特に進展がなくあっという間に日々は過ぎ去って、冬休みになってしまった。クリスマスに誘おうかと思ったが恋人でもないのに誘うのはおかしいのではと相談した錆兎に諭されて、代わりに初詣に誘ってはどうだと言われた。
初詣であれば友人家族で出かけることもあるし、幼馴染として誘ったとしてもそこまで違和感はなかろうとのこと。さすがは錆兎だ。言う事に説得力がある。メモ帳を片手にアドバイスを走り書きする。
十分ほどの作戦会議をしてから通話を切ってからメモ帳を前に誘い文句を脳内で反復する。言葉がすんなり口から出てくることを確認してから、電話をしようとしたタイミングでスマホが鳴った。スマホ画面に浮かぶ名前に疑問を抱きつつも、通話ボタンを押して出る。
『もしもし、冨岡先生ですか?』
「胡蝶……妹の方か」
『……先生、もしかしてまだ苗字だけで登録してるんですか?』
「……」
俺が黙っていると電話口の向こうではぁっと盛大にため息を吐かれた。
しのぶが学生時代所属していたフェンシング部の顧問が流行り病にかかった時に顧問の代わりを引き受けたことがあった。その際に当時のフェンシング部の部長とその副部長であった胡蝶しのぶの連絡先をアドレス帳に登録したのだが、手間を怠った俺は苗字しか登録しなかったのだ。
そのせいで二、三回ほど同僚の姉の方に電話をかけようとして妹にかけてしまったことがあるのだ。その度に名前まで登録してくださいね、と釘を刺さされるのだが未だに実行はできていない。
『まぁ、いいでしょう。電話をした目的を話します』
「なんだ」
『炭治郎君の怪我については把握してますか?』
想像の範囲外の話を振られ、動揺して持っていたメモ帳を床に落としてしまった。慌てて拾いながらも気になるのは胡蝶の話だ。
「している」
『そうですか。良かったです。
今日、図書館に行って炭治郎君を見かけまして、その時に腕の怪我をみたんです』
炭治郎が週末は図書館で勉強していることは知っている。竈門家では弟妹がたくさんいるから集中できないだろうと図書館で勉強しているんだとパンを買った際に話をされたのを覚えてる。一度、図書館に行くその後ろ姿をつけたこともある。
「長袖じゃなかったのか」
『腕を捲っていたんですよ。
その時に炭治郎君の傍に一人女の子がいたんですけど、あの子ちょっと危ない感じがします』
「危ない?」
『直接会話したわけではないので何とも言えませんが……。注意深く、炭治郎君をみててあげてくださいね。
何かあれば私か冨岡先生に連絡するように伝えましたが、恐らく炭治郎君は電話してこないと思いますので』
「……その女子は」
『さぁ、少なくとも炭治郎君たちと同じ学校の生徒ではないと思いますよ。多分ですが炭治郎君の怪我の原因はあの子だと思います』
「なんでわかる?」
『冨岡先生、私は医術を学んでいるんですよ?それなりにそういう傷を見てきています。
恐らく保険医の先生もお気づきのはずです。ですが、口に出さないということはそういうことです』
真相について知っていると言うように話しながら、しのぶの話は核心を迫る言葉ははぐらかしているようだった。苛立ちを隠せずに「話せ」というと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
『ふふふ、さすがの冨岡先生も好きな子が関わると形無しですねぇ』
「話せ、と言っている」
『わかりましたよ。恐らくですが、あの女子は心の病気を抱えてます。自傷行為、と言えばさすがの冨岡先生も理解頂けますか?』
理解も何もそう言われれば何故怪我するのが腕ばかりなのか納得する。つまりあれは彼女の自傷行為に炭治郎が付き合ってる、という事だろう。さすがに自ら望んで腕を傷つけるような性格を炭治郎はしていない。それに将来は実家のパン屋を継ぎたいと言ってたから腕は大事なはずだ。
「その女子の特徴を話せ。探す」
『やめてください。通報されますよ』
「ストーカーになるつもりはない」
『ストーカーって……会って一体どんな話をするつもりです?』
「炭治郎には会うなと伝える」
『冨岡さん、心の病気についてちゃんと理解をしていますか?』
先生ではない呼び方にしのぶが真面目な話をしているということに気づく。黙っているとしのぶは淡々と話し始めた。炭治郎とあの少女を離すのには賛成だがそれにはある程度順序立てて行わなければならない。少女は炭治郎に大分心を開いており、それは依存にも近い状態ではないかとしのぶは推察していると告げる。
そんな中で下手に少女に関わればどうなるかわからない。依存相手を巻き込んで事件を起こす可能性もある。何よりその少女が傷つけば恐らく炭治郎も悲しむだろうとしのぶは話した。
『わかりますか、冨岡さん。
これはとても、とてもデリケートなお話です。姉にも私の方からそれとなく話しておきますから、勝手に突っ走ったりなどはしないようお願いしますね』
「わかった」
不承不承に答えると、再度お願いしますねと念押しされて、電話が切られた。
デリケートな話だと言われても、それでも自分にとって一番大事なのは炭治郎で、傷つけられるのはたとえ心の病気であっても許せなかった。炭治郎が許しているとしても、その優しさに付け込んでるだけではないか。
得体の知れぬ女の影に苛つきに初詣の誘いの電話をすることすら忘れてその日は寝てしまった。初詣について気づいたのは大晦日になり、慌てて電話をすることになったのだった。
初詣の誘いは失敗した。当の炭治郎が友人たちと初詣に出かける上に、別日に誘うという手段も忘れてしたため出来なかったのだ。そのため、竹雄たちと約束通り初詣を済ませた後に炭治郎達が向かったという隣町の神社まで車を飛ばした。
地元の神社より隣町の神社は人気らしく人混みがすごかったので近くのパーキングエリアに車を停めると人波に沿って神社へと向かう。
「今年こそは告白できるようにお祈りしといた!」
「お前さぁ、受験生だってこと忘れてる?模試まであと何日だと思ってんの?」
「だって卒業したらもう会えなくなるかもしれないからさぁ」
「あれ?その下駄どうしたの?」
「途中で鼻緒が切れたんだけど、優しい子が直してくれたの。お礼にお金渡そうとしたんだけど受け取ってもらえなくて……」
「へぇ、そんな優しい子がいたんだ!良かったね」
「うん。でも、その後知らない子にずっと睨まれて怖かった」
雑踏に紛れていろんな声が聞こえては通り過ぎていく。初詣のお参りだけあって、老若男女問わずたくさんの人が歩いている。けれど、何故か炭治郎だけは絶対に見つけられる自信があった。どれだけここにたくさんの人がいようと、その姿だけは絶対に見違えない。
「見つけた」
一人ぼんやりと人混みの中に立っている。その瞳がこちらを向いた時に一瞬驚いたように目が見開かれた。その後にきょろきょろとあたりを見回している姿が年相応に子供っぽくて口元が緩んだ。そちらへ一直線に向かうと、「新年あけましておめでとうございます」と開口一番言われた。
「おめでとう」
「冨岡先生、竹雄たちと初詣に行くんじゃなかったですか?」
「行ってきた」
「そうなんですか。早いですね」
にこりと微笑む炭治郎が今日も眩しくて可愛い。いつもの制服やパン屋の制服でもなくて、グレーのタートルネックに真っ白のダウンジャケットは見慣れない姿であったが、年頃の男の子という感じの雰囲気だ。
「お参りは終わったのか?」
とりあえず、まずはお参りを済ませたかどうかを聞こう。それによっては長い列に並ぶ必要も出てくるだろうし、そもそも禰豆子と一緒にいないのも気になる。俺が尋ねると炭治郎はすでにお参りを済ませており、禰豆子や善逸などとはぐれてしまってちょうど一人になった所なのだと説明してくれたかと思えば、急に口を閉ざしてはっとした顔になると俺の背をぐいっと押した。
「冨岡先生、お参りするなら早く列に並ばないと」
「いや、俺は……」
「俺はもうお参り済ませてるので一緒に並べませんけど、どうぞお気にせず!」
「炭治郎」
わっと人混みが動くのが見える。それに合わせて波のような動きが周囲で起こる。咄嗟に炭治郎の腕を取り、引き寄せる。咄嗟の事で抱きしめるような形になってしまったが、この人混みの中で迷子になったら大変そうだ。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
腕の中の炭治郎は顔を俯かせていた。本当に大丈夫なのだろうか。咄嗟に腕を掴んで引き込んだ際に足をくじかせてしまったのではないか。不安になって、顔を覗き込もうとする。
「大丈夫なので、一度離れてもらっても良いでしょうか」
「何故だ」
「何故、って……」
顔を上げた炭治郎と目が合う。大きな赤い瞳に自分の顔が映っている、とそんなことをぼんやり考えたのもつかの間、ぽつりと呟かれた言葉に頭が真っ白になる。
「心臓に、悪いので」
「病気でもあるのか?」
「いえ、ないですけど。いきなりは驚くじゃないですか」
驚きのあまり肩を掴んでしまった。病気があるなんて誰も言ってなかった。知らないという焦りはその後続けられた言葉で落ち着いた。確かに驚くのは心臓に悪い。先ほどの言葉で理解できた。けれど。
「ちゃんと声はかけたが」
一応、こちらとしては声を掛けてから腕を取ったし、大丈夫かという確認もした。それなら一体何に驚いたのか。それが理解できなくて問うと眉を下げて困った様子で炭治郎はまごつく。
「そうですね……。えっとそれで冨岡先生はお参りは」
「しない」
「しないんですね」
わかりやすい話題の変え方にこれ以上は藪蛇かとその話題に乗っかる。別に困らせたくないわけではなかったので腕の力を緩めると炭治郎がするりと腕を抜けたが、腕はしっかりと掴んだままである。俺の顔をうかがうように見上げた炭治郎と視線が合う。
赤い瞳でじっと見つめられると、心臓が煩く騒ぐのに耐え切れずふいと目を逸らした。危なくもう一度抱きしめそうになった。耐えろ。
「あの、それじゃあ俺そろそろ帰ろうと思うんですけど」
帰るという言葉に困ると口走りそうになったのを抑える。炭治郎の視線は腕を掴む手に注がれてる。このまま帰るとなると話をする機会がない。
何とか引き留める方法を探していると屋台から漂うおいしそうな匂いでふとまだ昼食を食べていなかったことを思い出す。屋台で先ほど何かを食べたと言っていたが、飲み物くらい何か腹に入るだろう。
「時間があるなら少し付き合え」
「はぁ……。いいですけど」
炭治郎から色の良い返事がもらえたので、ほくほくとこの町で知り合いのやっている喫茶店に向かう。席についてとりあえずコーヒーと小さい頃の癖でオレンジジュースを頼もうとして、一応訊ねるとカフェオレを頼まれた。オレンジからカフェオレにと成長したことを微笑ましく思うべきか、コーヒーはまだ飲めないことに可愛いと思えばいいのか。
ダウンジャケットを綺麗に折りたたみ、机の下のボックスに入れた炭治郎を見て、その腕を見つめる。タートルネックのセーターは手首辺りまですっかり隠しているので腕に絆創膏が未だ貼られているのか確認はできない。
「怪我はしてないか?」
「へ?大した怪我はないので大丈夫です」
言葉にして確認すると、炭治郎から大丈夫だという返事が返ってくる。否定されてないところを見ると未だ怪我はしているのだろう。胡蝶の話から図書館に炭治郎が行くときはそこそこの距離をとって見張っているのだが、まだその女子に会えてはいない。
「怪我をするなと言ったはずだが」
「難しいと答えました!一応細心の注意は払ってます!」
元気だけは良い声に違うそうじゃないと言いたかったが、言葉は口から出てこなかった。代わりに思いため息が出る。
大体、女子が怪しいと胡蝶は言っていたが本当に自傷行為なのか。まだ幼い弟妹をネタに強請られて怪我をしているという方が信憑性がある。
「胡蝶から話を聞いた。誰かに苛められているのか」
「え?」
「困ってるなら相談しろと言ったはずだ。
俺に言うのが嫌なら……嫌でも俺に言え。何とかする」
相談するのが俺以外でも構わないような気がしたが、宇髄や煉獄に相談する姿を浮かべて頭を振った。あいつらを頼るくらいなら俺を頼ってほしい。狭量な考えだと思ったが、手放したくないと自覚した以上、他にやるものかと思いのままに言う。
「いやいやいや、いじめられてるとかないですよ」
「だが、その傷は誰かから受けていると胡蝶は言っていたぞ」
いじめられてない、と言う炭治郎に俺は追い詰めるように言う。
誰がお前を傷つけている。それを教えてくれ。
「大丈夫ですよ。冨岡先生」
けれど返ってくるのはやはり、大丈夫の一点だけで。俺が聞きたい言葉はそれじゃないと炭治郎を見つめるが、にこりと微笑まれればその顔に弱い俺は口を閉ざすしかなかった。
二週間だけの冬休みが終わり、授業がはじまると教師陣は一斉に忙しくなる。受験シーズンの始まりだからだ。生徒に入試の申し込みは済んだのか、合否はどうなのか。3年生のクラスを担当している先生は忙しく慌ただしい。その先生たちの補助に体育教師や美術教師が駆り出されることとなった。しかも休みの日に関わらず、だ。
1、2年生の授業に追加して、3年生の先生の担当の授業の補佐だ。毎日ぎりぎりまで学校に残って作業になる。
「まったく。既に進学先を決めた奴らは呑気でいいなぁ。仕事を増やさなければいいんだが。
そろそろ2年生も進路先を決める時期だろ」
「うむ!悲鳴嶼先生がすでに進路相談の紙を生徒たちに配っていた!早い子は既に志望校を決めているらしい!」
美術教師と手が空いているからと手伝っている歴史教師の会話に耳を傾ける。小さい頃はパン屋さんになりたいと言っていたから、やはり料理系の専門学校に行くのだろうか。担任の悲鳴嶼に手伝いを申し出たら、見せてもらえたりなどはしないだろうか。
「ところで冨岡センセは竈門の怪我の方は進展あったの?」
「あった」
「まぁ、そうだよなそう簡単に……ってあったのかよ。言えよ。相談しろって言っただろうが」
宇髄の煩い声に眉を寄せる。眉間に皺を寄せる冨岡先生は最近ちょっとおかしいらしいと生徒達に噂になっているぞと言われて、おかしいの意味が分からず首を傾げた。
「学生たちは意外と感情の機微に敏感だからなぁ。俺はお前のそういう顔に見慣れちまったからわかんねぇけど、何かしら違うんだろ」
「俺も最近の冨岡は少し迷いが晴れたような顔をすると思っていた。思い切りがよくなったというか」
「そうか?」
「うむ!言葉をよく返してくれるようになったとも思う!」
そんなに返しているだろうか。もしかしたら錆兎とした考えたことを言葉にする修行の成果かもしれない。問題はこれをちゃんと炭治郎に伝えることができるかということだ。
言うタイミングもなかなか無ければ腕の怪我も気になって仕方がない。さらに仕事も忙しいとなればなかなか身動きできない状態に眉間の皺が増えるだけである。
宇髄に炭治郎の怪我の件を詳細に話せと言われて、ぽつりぽつりと説明をする。端的に、なるべくわかりやすく話すと宇髄はちゃんと話せるんじゃねぇかと呆気にとられつつも、心の病気ねぇ、とぼやいた。
「デリケートな問題だわな、そりゃ竈門も話したがらないわけだ」
「心の病気というのは厄介だと俺も聞いている!治し方は人それぞれで薬もあまり効きにくいと!」
「そうそう。数学の公式のようにわかりやすい解決方法があるわけでもねぇし、一律にどうすればよかったかなんてわからねぇもんだ。こればっかりはどうしようもねぇな」
「竈門少年は眩しいからな。心が弱った時に一緒にいてくれるとこちらも元気になるから、そういった者たちが寄るのもよくわかる」
「……」
そうだ。炭治郎は優しい。誰にでも満遍なく。分け隔てなく屈託ない笑顔で接してくれる。その笑顔にどれだけ救われたことか。
前世の苛酷な出来事ばかりに神経を擦り減らす日々の中での癒しは本当に今思えば些細なもので、でもそのささやかな事が自分を支え、奮い立たせた。信念と義務と使命と責任の重圧は自分を強く戦場へと駆り立たせ、命さえ燃やしたが、そんな日々ではすぐに潰れてしまう。自分が最後まで戦場で立ち続けられていたのは守るべき大事なものが傍でずっと共に戦ってくれていたからだろう。
「だが、その優しさに甘えて食いつぶすような輩がいたのであれば許せまいな」
煉獄の冷やりとした声に顔を上げる。こんな表情をした煉獄は初めて見る。いつも溌溂と大きな声で話している姿が見ていなかったから、今隣にいる男が全く違う生き物に見えた。
俺と宇髄が驚くように煉獄を見ていると、目を二回ほど瞬かせた後いつもの表情に戻った。
「すまない。竈門少年には思い入れがあるがために、もしそうであればと思ったら感情が溢れてしまった」
「いや、別に謝る必要はないぜ。記憶があるやつは多かれ少なかれあいつに救われた覚えがあるからな。大事に思ってるやつがないがしろにされて、怒ることの何が悪い」
「俺も同意見だ」
「だが、私情による怒りだ。相手の立場を理解せずにただ感情のままに言うのは良くない」
「それもそうだが、俺たちも教師と言ってもただの人間だ。完璧な存在じゃないし、感情だってある。ただ己を律することがうまくなっただけの子供とそう変わりはない。
感情をうまくコントロールできなくてもそう責めなさんさ。ここには生徒もいないことだしな」
宇髄の言葉に煉獄はううむと唸ったが数秒後に己の中で考えがまとまったのか「それもそうだな」と頷いた。
「お前もだぞ、冨岡」
「何の話だ」
「俺たちと話すときは同僚とか教師とかそんな立場気にすんなってことだよ。
自分じゃどうしようもない時に変に抱え込もうとするな。頼れ。お前は大体考えが後ろ向きな事が多い。もっと前を向け。顔を上げろ。お前が思っているよりもお前の周りには人がいる。
お前が助けてくれって言えば、みんな手を差し出す。いいか。損得とか考えるな。お前にはその価値があるんだ」
錆兎と同じことを宇髄も言うんだなと眺める。煉獄がはははと笑って宇髄のことをさすがだと褒め称えると、宇髄はまぁなとその称賛をどや顔で受け取る。
そうか。こんな身近に頼ってもいい存在がいたのかと思うとぱっと視野が広がったような気がする。
「不死川も伊黒もお前のことは気にかけてたぜ。特に去年の……」
宇髄の言葉を遮るように無機質な電話のコール音が鳴り響いた。休日の学校にいるのは休み返上で仕事をしている教員だけ。一番電話口に近い教師が受話器を取る。この時期は受験の申し込み等の電話も殺到していたから、この電話もきっとそれだろうと思った。
煉獄と宇髄も一瞬だけちらりと電話口に出た教師を見てから、声を潜めて話の続きをしようとした。しかし、緊迫そうな声で「うちの生徒ですか?」「はい」「わかりました」「確認します」と聞こえる言葉に三人そろって顔を見合わせた。電話対応をしている教師の傍に寄ると、一度受話器を保留にした教師は俺たちに向かってこう言った。
今日の昼過ぎ頃にうちの生徒が他の学校の生徒と一緒に橋から川に飛び降りたらしい。親には既に連絡が行っているが、確認のために今から誰か行ってくれないか。
嫌な予感がする。心が冷めていく。嫌な予感を振り払おうとする俺に変わり、宇髄が聞いた。
「誰が飛び降りたって?」
「2年の生徒だ。君たちもよく知ってる子だよ」
竈門炭治郎、と続けられた言葉によもやと煉獄が唸る声が聞こえた。それからどうなったかは記憶があまり定かではない。覚えていることとすれば、電話に出た教師に詰め寄る俺を宇髄が必死に止め、病院の連絡先をその教師から聞き出した後、車で向かおうとした俺の肩を煉獄が掴んだことは覚えているが、そこから先についてはほとんど記憶がない。
気付いたら頬が痛かった。殴られたのだろう、とぼんやりとする頭で考える。霞む目であたりを見回す。
真っ白な白い壁。明るい電光灯。消毒液の匂い。真っ白なベッド、に横たわる少年。
「ぁ……」
たんじろう、と声を出したつもりが言葉にならなかった。ベッドの外に出された冷たい手に手を重ねる。ピッピッと電子音が鳴っている。あの子の心臓の音だ。まだ死んでない。生きてる。
けれど、少年の顔は青白く、いつもの笑顔がそこにはなかった。
「義勇くん」
「葵枝さん」
後ろから掛けられる声に振り返ると、炭治郎の母親が立っていた。禰豆子や竹雄などの弟妹はいないようだ。椅子から立ち上がろうとするとそのままでいいわと微笑まれた。若干疲れたような顔をしている。
「炭治郎についていてくれてありがとうございます」
「いえ……」
記憶もあやふやでどうしてここに座っているのかわからない俺はどう返事をしたものかと目を彷徨わせた。病院にいるということは、恐らく煉獄か宇髄に車でここまで連れてきてもらったのだろう。教師で、良い大人だというのにこんなにも取り乱してしまっている。服装だっていつもの体育時に着るジャージのままで、靴なんて室内履きのままだった。
前世で隠しにまずは傷の手当てをと言われたのにそれを押しのけて炭治郎を探しに行った時と同じことをしている。あの頃から自分の一番はずっと炭治郎だった。
「とりあえず、一命は取り留めたそうです。でも、ここから目を覚ますかどうかはわからないと医者に言われました」
「……そう、なんですね」
「このまま数か月この状態が続く場合は延命治療も視野に入れてくださいと言われました」
葵枝の顔を見上げる。涙を出すまいと堪えているが、堪えきれずその目尻には一つの雫が跡を作り落ちていた。早くに旦那を亡くし、息子は一命を取り留めながらも目を覚ますかわからない状況だ。心を乱さないでいろというのは酷な話だ。
自分だって、未だ受け入れられていない。
「治療代、俺にも出させてください」
「できないわ。そんなこと……」
「出させて、ください」
首を横に振る葵枝に俺は頭を深く下げて嘆願した。炭治郎のことが好きなのだと伝える。炭治郎のためにできることならすべてしたい。どうにかしてもう一度笑顔をみたい。そのためならばどんなことでもする。
感情のままに好きなんです、と葵枝に再度伝えると彼女は驚いたように目を丸くさせた。炭治郎によく似た丸い瞳が優しく細められた。
「義勇くん、うちの炭治郎のこと好きだったのね」
「……ずっと、ずっと好きでした」
「炭治郎もね、義勇くんのこと好きだったの。知ってる?」
義勇くん、朝にうちの店の前を走るでしょう?炭治郎ってば毎朝窓に貼りついて貴方のことを見ていたわ。貴方の背が見えなくなるまで、ずっと。最近はちょっとお休みしてたみたいだけど、同じ時間になると窓の方を気にしてたの。
葵枝がふふっと嬉しそうに笑った。
「炭治郎が目を覚ましたら、一番に言ってあげてね」
「必ず伝えます」
好きだと、伝えたい。伝えさせてほしい。藁にもすがる思いで炭治郎の目が覚ますことだけを祈り続ける。あの時だって起きたじゃないか。奇跡が起きたから、きっと今度だって大丈夫だ。
大丈夫だと自分より小さく、豆もタコもない手を握り続けた。
手離せないのだ。どうしようもなく、この子がいないと息ができないくらいに。だから早く目を覚ましてくれ。それだけを願い続けた。
炭治郎が病院に入院してから毎日欠かさずに病室に行ってはその手を握り続けた。面会時間ギリギリまで病室で過ごした後は部屋に戻り、パソコンで情報を集めた。
川で飛び降りた学生の名は報道されなかったが、人の口に戸は立てられぬとはよく言ったものでネットの海には炭治郎の名前ともう一人の名が上がっていた。やれ痴情の縺れだ、心中などと下らぬ嘘を流す妄言者に怒りを募らせながらも、少女のことを調べる。
近隣の高校生で自傷癖がある。同級生の評判もあまり良くないらしい少女はいつかこんなことをすると思ってたとか、やっぱりそうだったんだとか事件についても嫌な意味で肯定的な意見が多かった。同じ病院に少女も入院しているようだが、そちらもまだ目を覚ましていないらしい。
スマホが震える。錆兎からの定期連絡だ。
炭治郎が入院してからというもの、私生活が疎かになりつつある俺を思ってか錆兎が定期的に連絡をするようになったのだ。飯を食えとか、寝てるのかとか、煩い小姑のような連絡に返信を入れないでいたら家に押し掛けてくるなり、殴りかかられたのでちゃんと連絡するようにしている。
ご飯を食べたのかというメッセージにコンビニのおにぎりの写真を返すと既読がついた。次いで別のメッセージが届く。今度は宇髄からだ。
『とりあえず竈門の悪い噂に関しては火消ししといた。日頃から優良生徒だもんで校長も事情を知る警察もちゃんと理解してくれたよ』
『助かる』
『いいってことよ。まァ、相手側の方は前科があるから難しいんだけどな』
『竈門少年に非はないからな!彼をよく知る生徒達も今回の事件のことを知り業を煮やしていたようだ!!』
『お人好しが過ぎるのが悪い。相談せずに一人で抱え込むのが悪い。
非がないと言えど、いくらでも対策は取れただろう。この前の職員会議でのことを忘れたのか』
『だが、伊黒!お人好しが過ぎるというが、あれは竈門少年の良い個性というものだ!
それを悪いと言うのはいかがなものか!!』
『時と場合を考えろってことだろォ?』
ぴこんぴこんとメッセージが立て続けに送られてくる。前世を覚えているメンバー達のみで作られたグループでは軒並み炭治郎の事を心配するメッセージが上がっている。
俺が毎日病院に通って炭治郎の様子を見に行ってることを知っている宇髄はそれを書き込めとつつかれ、変わらず眠る炭治郎のことを書けば、甘露寺も胡蝶も心配ですねと返した。
『二日後に一般病棟に移る予定だ』
『じゃあ、こんどあいつら連れて行くわ。会わせろってうるせぇんだよ』
『待て。他の患者に迷惑だろう。連れて行くならしっかりと躾をしてから行け』
『迷惑でなければ私も行きたいわ!』
『カナヲも心配してるみたいだし、私たちも今度行こうと思います』
『おはぎ持ってってやるか』
『南無……花を持っていこう』
土産に花よりも食べ物を選ぶのは皆、炭治郎がきっとすぐ目を覚ますと信じてるからだ。まだ医者の言葉は伝えられていない。いつ覚ますかわからないけれど、きっとすぐに目を覚ましてくれる。皆の信じる気持ちを消したくなくてそのままにしておいた。
だが、そんな願いは一か月経っても、二か月経っても叶えられなかった。
春が来て、梅雨が来て、夏が来ても炭治郎は目を覚まさなかった。
それでも炭治郎の病室には毎日誰かが訪れている。
いつものように学校の仕事を終えた後に病室に行くと、新しい花が花瓶に刺さっていた。果物の隣に置いてあるドングリは同期の生徒か。最近は炭治郎が後輩になっちゃうかもとか彼らが寂しいと話しているのを聞いた気がする。
無一郎や禰豆子は炭治郎と同級生になるかもねぇ、と少しだけ寂しさの中に期待するような言葉を呟いた。錆兎や鱗滝も病室には顔を見せていたし、厄除けだと鱗滝お手製の面を置いていった。
姉である蔦子も義勇がそんなに気にかけている子なんだと病室に訪れたこともあった。俺に寂しそうな顔をしていると言って、早く目を覚ますといいわねと頭を撫でられた。ついでに目を覚ましたら一度家に紹介に来なさいとも。
こんなにもずっとずっとたくさんの人たちに見守られているのに炭治郎は未だ目を覚まさない。面会時間ぎりぎりまで手を握り続ける。
炭治郎の目尻を下げて嬉しそうに笑う顔も、優しく名前を呼ぶ声も、目を瞬かせて驚く顔も、真剣に瞳を見つめて怒る声も、いくらでも思い出せれるのに最近はずっと無表情に目を閉じて眠る顔しか見れていない。声もなく、規則正しく小さく呼吸をするだけの音。
「……」
まだ誰も諦めてはいないのに、もしこの子がもう二度と目を覚まさなかったらと考えてしまう。
そんな時に思い出すのはいつも炭治郎が告白をしてきた日のことだ。あの時にそれを受け入れていたのであれば、こうしてベッドに眠らずにずっと傍で笑ってくれていたのではないかと。そんなことを考える。
「……炭治郎、好きだ」
眠る炭治郎にこの言葉が届くように。もう何度口に出したかは覚えていない。もしこの言葉が目に見えていたなら病室の一面をとっくに溢れ返していただろう。それくらい何度も口に出した。
炭治郎が目を覚ました時にこの積もり積もった好きの言葉の残骸が見えればいいのに。
そっと炭治郎の頬を撫でた後に目を瞑る瞼に唇をそっと落とす。
早くその瞼が開きますように。紅い瞳がまた自分を映してくれますように。炭治郎の髪を撫でてから立ち上がる。
面会時間を5分だけ過ぎていたが、これくらいならば看護師は目を瞑ってくれる。
病室から出ると薄紅色の患者服を来た少女が立っていた。
目を瞬かせてよく見たが、やはり少女の背には白い小さな翼があった。無機質な目でこちらを見る少女は俺を無視して炭治郎の病室に入ろうとする。その手を咄嗟に掴む。
ぎりっと力任せに握ったその腕を少女は無表情で見ている。そして真っ黒な目で俺を見上げた。
「……あんたがいるせいで天使になれない」
言ってる意味がわからない。だが、炭治郎にこの少女を近づけてはいけないと漠然と思い、握った腕を引っ張り炭治郎の病室から少女を遠ざける。彼女が恨みがましそうに病室を睨んでいる。
「どうして、邪魔をするの」
「邪魔?」
「ようやく一緒に逝ってくれる人をみつけたのに」
彼女の言葉に目を細める。そうか。彼女が。そういうことか。理解したと同時に湧き上がる怒りを抑えきれずに彼女の腕を思いっきり握った。ばさりと握った場所がつぶれたと思うと羽が舞い上がる。
よく見ると彼女の身体が薄く白んでいた。空気に溶け込むように薄れつつある身体で少女は俺をちらりと睨んでから、残った手を炭治郎のいる病室へと縋るように伸ばした。
「ずっと一緒にいたかったなぁ」
ぽつりと呟いて少女は羽をぶわりとあたりにまき散らして消えた。その羽も床に落ちる前に空気に溶けていった。
少女が消えると同時に看護師がこつこつと歩く音が聞こえた。恐らく、面会時間の終了を告げに回っている年配の看護師だろう。俺は握っていた手をぱっと開く。小さな傷が掌にできている。
ばたばたと看護師が騒がしく、どこかの病室に駆けていくのを見て俺も帰ろうと踵を返した時に年配の看護師がやってきた。今日はもう少しだけいても大丈夫ですよ、と笑って言うのに俺は帰りかけた足を止める。
「もうあの子が入院してから半年ですからね。毎日、先生来てくれてるでしょう?
あの子の部屋は一番最後に見回るので、その時までいらっしゃっても大丈夫ですよ」
目尻を下げて微笑む看護師に、ありがとうございますと頭を下げて病室に戻る。先ほどの少女のこともあり、気になったのが本音だ。少女が言った事は全く理解できなかったが、彼女が恐らく炭治郎の腕を傷つけていた子だろう。
人ではなさそうに見えたが、あれはもしかしたら少女を恨む心が生んだ妄想だったのかもしれない。けれど、少女が消える直前に見せた表情を見て浮かんだ感情は哀れみだけだった。
炭治郎もこのような気持ちで少女と向き合っていたのだろうか。病室に戻り、またその手を取った。相変わらず目を瞑ったまま眠り続ける炭治郎の顔を見る。
そういえば、昔話の一つに眠り続ける少女を起こすのにキスをする話があったような気がする。病室を見渡し、誰もいないことを確認してから、薄く開く唇にそっと重ねる。食むように上唇に歯を押し当てると、ふっと息がはかれた。
唇が動く。呼吸をするのではなく、小さな言葉を吐くような動きにいつの間にか閉じていた目を開けると、紅の瞳が見返していた。吃驚して唇を離す。
「炭治郎」
「……そういうの……好きな人とするものですよ」
小さな声でそう言われてどこか眠たそうな呆れたような顔をする炭治郎に俺は間違ってないからいいと答える。意味を理解してなさそうな炭治郎に、何度も告げた言葉を口に出す。
「好きだ、炭治郎」
すんなりと出てきた言葉と共にもう一度唇を近づけるとはぁっとため息を吐かれながらも触れ合わせた。
面会時間終了を告げる看護師が部屋に来た時に炭治郎が目を覚ましたことを伝えるとすぐに先生を呼びに行ってくれた。その間に俺も炭治郎の母親に電話を連絡し、知り合いという知り合いに炭治郎が目を覚ましたことを伝えた。うっすらと目を開けた炭治郎の写真だけを送れば、すぐさまスマホから通知音が何度も鳴り響いた。メッセージも何もない写真に冨岡泣いてんのか、感極まってるのかもとかそんな返信がついたが、気にはしていられない。
葵枝がパン屋のエプロンそのままに病室に駆けこんで、病院の先生に弱弱しくはあるが受け答えをしている息子の姿に涙を浮かべるのを禰豆子や他の弟妹達が支えた。家族の様子に炭治郎はごめんと謝罪をしたが、それにみんなわんわんと泣いてその身体に抱き着いた。
先生の話では意識の混濁もあまりなく、身体についてもすでに回復してるから軽いリハビリをしたらすぐに退院できることを伝えると、これにはみんな喜んだ。
目を覚ました炭治郎の病室にはみんな訪れて、リハビリに付き合ったりしながら退院したらどこに行こうかと気の早い話をしている。それは俺も同じで、葵枝さんに許しを貰って退院する日を一日貰った。それに特に炭治郎の同期はずるいと騒いだが、退院日の付き添いができる大人という身分を出して黙らせた。
夏の終わる頃によろよろといくらか足取りの怪しい炭治郎の腕を引いて病院を後にする。半年寝たきりだった炭治郎の筋力はすっかり落ちてしまっていて、さらに身体の免疫もいくらか弱まっているから感染症などには特に気を付けるように退院際に先生に言われた。
「冨岡先生、すみません」
「構わない。……それより、その先生というのはやめないか」
「ううん、でも冨岡先生っていうの慣れちゃって」
車に着替えなどを入れて、助手席に炭治郎を座らせる。眉を下げて困ったように言う炭治郎に俺も同じように眉間に皺を寄せた。
炭治郎が目を覚めた後にも毎日病室に通い、好きだと伝えているのに炭治郎は未だに好きだと返してくれないし、名前も呼んでくれない。キスだって、あの時以来はしてない。
「俺はこんなにも炭治郎が好きなのに、名前も呼んでくれないのか」
「その言い方はちょっとずるくないですか!?」
「ずるくない」
「ずるいですよ!だって、先に告白したのは俺ですよ?それなのに冨岡先生断るから」
諦めるの大変だったんですよ、とぶつぶつ文句を言う炭治郎に俺はじゃあ、もう俺のこと好きじゃないのかと訊けば、それがずるいんですよ!と怒られた。
「大体、なんで俺のことが好きなんですか。同情心ならやめて頂きたいのですが!」
「同情心ではない。好きだから好きだと言っている」
「だから、どこを!」
「丸ごとすべて」
頭から爪先まですべてが愛おしいと言うとんんっと唸る声が聞こえた。答えになってないともごもごと呟かれたが、全部愛おしいのだから仕方がない。
昔であれば、炭治郎に否定されていれば大人しくそれをそのまま受け入れただろうが、注意深く炭治郎を見つめていたおかげかこの子がまだ自分を好いていること、素直になれないことがわかった。そしてそれは錆兎の見解も同じようで、さらに貰ったアドバイスは男なら自分の想いを貫きとおせ!だったので、以前にも増して自分の想いを言葉にすることをした。
「冨岡先生が俺の知ってる冨岡先生と違う……」
「残念ながら同じ冨岡義勇だ」
「本当ですか?本物ですか?」
「本物だ」
未だに信じられないという顔をする炭治郎に俺は未だ溢れ続ける想いを言葉にする。いくら告げてもこんこんと生まれ続けるその想いは本当に底なしで際限を知らない。
「好きだ」
「……前見てくださいね」
むぅと口を尖らせる炭治郎はやはり返事をしてくれなかったけれど、嫌いだともダメとも言わないのが可愛いかった。本人は恐らく気づいてはいないだろうが、否定しないということはつまりそういうことなのだろう。
「……やっぱりこの想いにさよならはできないってことかぁ」
「なんだ?」
「いいえ、冨岡先生。なんでもないですよ」
そう言って笑う炭治郎の表情はどこか吹っ切れていて、好きだとまた言えば今度は笑顔を返してくれた。太陽のような、きらきら眩しくて一等愛しい笑顔だった。
宇髄と煉獄に色々と言われた後でとりあえず記憶に留めていた頼りになる男、という言葉だけを錆兎に送っておいたのだ。前後の脈絡もなくただそれだけの言葉に錆兎からの返信は『話の前後をちゃんと言語化しろ』というものだった。頼りになる男は指示も的確だ。
教室の戸締りをした後に車に乗り込み、近くのコンビニの駐車場で泊まった後にその指示通りに言葉を送信していく。
『炭治郎が最近怪我をよくしている』
『怪我は大した事がないようだが、治りかけになると新たに怪我を一つ増やしている』
『心配だ』
『怪我をする理由を炭治郎に聞いてみたが教えてもらえなかった』
『困ったことがあれば相談しろと言ったが、まだ相談してもらえていない』
『相談されるような男になるためにはどうしたらいいか』
送る度に既読がピッピッとつくのに安心する。錆兎からの返信はいつ来るだろうかと思っていると着信の文字と共にスマホが手の上で踊った。慌ててボタンを押して出ると、『馬鹿なのかお前は』といきなり散々な言葉が投げかけられた。
「俺は馬鹿ではない」
『いいや、お前は馬鹿だ。お前、去年のちょうど今頃炭治郎に告白されたと連絡してきただろう。そしてそれを断ったと。
断ったのはお前の判断だし、それは間違ってないと思う。だが、振った相手に不必要に近寄るのはいかがなものか』
「心配するぐらいいいだろう」
『心の中で秘めるのであれば、な。
いいか。お前の言いたいことはつまりこういう事だろう。
炭治郎が自分の知らぬところで怪我をしてるのが気に食わない。また、それを理由を言わないのも、相談に来ないのも、腹立たしい』
「錆兎」
『袖にしたというのも、お前があいつの傍にいるのを恐れたからだろう。
教師と生徒という立場であれば公にするのは良くはないが、それでも言い方があっただろう。卒業するまで待ってくれとか。教師という立場がある以上今は答えられないとか。理由をなくすまないだけでは、受け取りはどうとでもできる。
炭治郎はよく考える子供だ。思慮も深い。お前が何か理由があって断ったことは考えられても、自分を好きだなど己惚れるような勘違いはしない男だ』
否定の言葉を口にしようとしても遮られる。だが、錆兎の言うことは正しい。間違っていない。だからこそ痛い。核心を突かれている。
『お前が炭治郎を突き放したから、炭治郎もお前から離れたんだ。
それを今更何様の顔をして近づこうとする?心配?教師として?友としてか?
教師としてならお前に頼らずとも担任の先生がいるだろう。怪我であれば保険医か。友としてなら学校の友人がいるだろう。それもお前よりもよっぽどか気心の知れた友がな。家族だってあそこは仲が良い。お前に何故相談しなければならない。お前でなければならない理由はあるのか』
「錆兎」
もう止めてくれ、と掠れた声で名前を呼ぶと電話口から長い長い溜息が聞こえた。ぐさりぐさりと錆兎の言葉が脆い自分の心を刺していく。けれどそれは、ちゃんと自分を思っての言葉だと理解している。
『いい加減、腹を括れ。ちゃんと自分自身と向き合え』
「だが、俺は」
『言い訳をするな、冨岡義勇。
手放したのはお前だ。離れることができないなら、覚悟をして何度でも手を伸ばせ。
拒絶されても、苦しんでも、手を伸ばし続けろ。お前にできるのはそれだけだ』
その覚悟ができたなら、協力してやる。
錆兎の言葉に即座に反応できなかった。
傍にいたい。けれど俺にその価値はあるのか。もっとふさわしい者がいる。俺はただあの子の幸せを守れればいい。でも手の届く範囲に今、あの子はいない。傍にいればあの子をもっと守れる。手を伸ばしていいのか。
「俺は……」
からからに乾いた声で、スマホに向かって話す。
手放せない。そんなこと、とっくの昔にわかっていた。捨てられるものならば捨てていた。手放せないから、ずっとずっと苦しんでいた。嫌ってくれればいいのに。あの子は俺を恨みもしなければ憎しむこともせずに近くにいてくれた。手を伸ばしてくれて、それを突っぱねたのに彼は変わらず少しだけ遠い距離で優しく微笑んでくれている。
好きだ。恋しい。いつも、いつだってこの恋は自分をおかしくさせる。優しい暖かな気持ちだけではなく根底には冷たく暗いおぞましい感情が眠っている。傍にいれば必ずそのドロドロとした感情が湧き上がってくる。抑えられる自信がない。そんなものをあの子に見せていいのか。
臆病な心はこんな時に役に立たない。いや、それでも離れる方が怖いのか。この手の届かない場所に行ってしまうのが嫌だとわかっている。比べるまでもなく、二つの背反してた感情は一つに向かっている。
「手放せない」
『よく言った』
その言葉が出るまでに五分もかかっていたが、錆兎は電話を切らずに待っていてくれた。すまないと謝ると、本当になと笑って返された。
『ここで手放すとかなんとか言ってたら家にカチコミを決めるとこだった。そうならなくてよかった』
「今は夜だ。やめてくれ」
『自分に素直になれないお前が悪い。
大体、お前のその腑抜けた心がずっと気に食わなかった。一度俺はそれでお前にキレたことがあるが、近頃もうじうじと同じようなことで悩みだして、いつその心根を叩きなおすか鱗滝さんとも話をしていたところだ』
「すまない」
『そう思うなら今度道場に来い。鱗滝さんと一緒にお前の話を聞いてやる。
炭治郎は俺にとっても可愛い弟弟子のようなものだ。気にならないわけがない』
「わかった。明日行く」
どうしたって自分は炭治郎を手放せられないと心が決まると、くるくると頭が回り始めた。
一度、またちゃんと話をした方がいいだろう。錆兎の言っていた通り今は教師と生徒だから公に付き合うのは世間体が悪いから付き合うのであれば隠すこと。それができないようであれば卒業してから付き合おう。そう言おう。
一年前の告白から経っていたけれどまだ炭治郎は自分を好きだろうか。他に好きな人ができていないだろうか。気になることが他にも出てきた。とりあえず炭治郎と一緒にいる友達から情報を集めよう。
家族にも反対されないように少しずつアピールをした方がいいだろうか。
『義勇、あまり暴走するなよ』
「もちろん、わかっている」
電話口から聞こえる言葉に頷いた。こういうことは計画的に、ちゃんと順序だててすることが大切だ。
ちゃんと意味が伝わってるのかとぼやくような声が聞こえたような気がしたが、大分長く電話をしていることに気づいてそれだけ謝ると通話終了ボタンを押した。
しかし、忘れてはいけないのが気を持ち直したからといって今までの性格がすぐに直るかというと否という事である。先生と生徒という立場もあって学校では話しかけられないし、かといって炭治郎の実家が営んでいるパン屋に行ったとしても長時間会話できるわけでもない。
事務的なやり取りとちょっとした今日の天気などそれくらいしか話題がない。それでも、注意深く今までよりもしっかりと炭治郎を見ていた。炭治郎の同級生である喧しい生徒にそれとなく付き合っている人物はいないのかと聞いたが、いないらしい。薄く笑みを浮かべる俺に職権乱用じゃないですか、とかジト目でそいつに言われたが無視した。
怪我についても錆兎や恩師である鱗滝に相談し、そちらからもそれとなく聞いてもらったが手がかりはなかった。手詰まりだ。いっそのこと見張るかと言ったらストーカーとして通報されるからやめた方がいいと二人に説得された。良い案だと思ったのに。
これといった情報もなく、かといって炭治郎との仲も特に進展がなくあっという間に日々は過ぎ去って、冬休みになってしまった。クリスマスに誘おうかと思ったが恋人でもないのに誘うのはおかしいのではと相談した錆兎に諭されて、代わりに初詣に誘ってはどうだと言われた。
初詣であれば友人家族で出かけることもあるし、幼馴染として誘ったとしてもそこまで違和感はなかろうとのこと。さすがは錆兎だ。言う事に説得力がある。メモ帳を片手にアドバイスを走り書きする。
十分ほどの作戦会議をしてから通話を切ってからメモ帳を前に誘い文句を脳内で反復する。言葉がすんなり口から出てくることを確認してから、電話をしようとしたタイミングでスマホが鳴った。スマホ画面に浮かぶ名前に疑問を抱きつつも、通話ボタンを押して出る。
『もしもし、冨岡先生ですか?』
「胡蝶……妹の方か」
『……先生、もしかしてまだ苗字だけで登録してるんですか?』
「……」
俺が黙っていると電話口の向こうではぁっと盛大にため息を吐かれた。
しのぶが学生時代所属していたフェンシング部の顧問が流行り病にかかった時に顧問の代わりを引き受けたことがあった。その際に当時のフェンシング部の部長とその副部長であった胡蝶しのぶの連絡先をアドレス帳に登録したのだが、手間を怠った俺は苗字しか登録しなかったのだ。
そのせいで二、三回ほど同僚の姉の方に電話をかけようとして妹にかけてしまったことがあるのだ。その度に名前まで登録してくださいね、と釘を刺さされるのだが未だに実行はできていない。
『まぁ、いいでしょう。電話をした目的を話します』
「なんだ」
『炭治郎君の怪我については把握してますか?』
想像の範囲外の話を振られ、動揺して持っていたメモ帳を床に落としてしまった。慌てて拾いながらも気になるのは胡蝶の話だ。
「している」
『そうですか。良かったです。
今日、図書館に行って炭治郎君を見かけまして、その時に腕の怪我をみたんです』
炭治郎が週末は図書館で勉強していることは知っている。竈門家では弟妹がたくさんいるから集中できないだろうと図書館で勉強しているんだとパンを買った際に話をされたのを覚えてる。一度、図書館に行くその後ろ姿をつけたこともある。
「長袖じゃなかったのか」
『腕を捲っていたんですよ。
その時に炭治郎君の傍に一人女の子がいたんですけど、あの子ちょっと危ない感じがします』
「危ない?」
『直接会話したわけではないので何とも言えませんが……。注意深く、炭治郎君をみててあげてくださいね。
何かあれば私か冨岡先生に連絡するように伝えましたが、恐らく炭治郎君は電話してこないと思いますので』
「……その女子は」
『さぁ、少なくとも炭治郎君たちと同じ学校の生徒ではないと思いますよ。多分ですが炭治郎君の怪我の原因はあの子だと思います』
「なんでわかる?」
『冨岡先生、私は医術を学んでいるんですよ?それなりにそういう傷を見てきています。
恐らく保険医の先生もお気づきのはずです。ですが、口に出さないということはそういうことです』
真相について知っていると言うように話しながら、しのぶの話は核心を迫る言葉ははぐらかしているようだった。苛立ちを隠せずに「話せ」というと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
『ふふふ、さすがの冨岡先生も好きな子が関わると形無しですねぇ』
「話せ、と言っている」
『わかりましたよ。恐らくですが、あの女子は心の病気を抱えてます。自傷行為、と言えばさすがの冨岡先生も理解頂けますか?』
理解も何もそう言われれば何故怪我するのが腕ばかりなのか納得する。つまりあれは彼女の自傷行為に炭治郎が付き合ってる、という事だろう。さすがに自ら望んで腕を傷つけるような性格を炭治郎はしていない。それに将来は実家のパン屋を継ぎたいと言ってたから腕は大事なはずだ。
「その女子の特徴を話せ。探す」
『やめてください。通報されますよ』
「ストーカーになるつもりはない」
『ストーカーって……会って一体どんな話をするつもりです?』
「炭治郎には会うなと伝える」
『冨岡さん、心の病気についてちゃんと理解をしていますか?』
先生ではない呼び方にしのぶが真面目な話をしているということに気づく。黙っているとしのぶは淡々と話し始めた。炭治郎とあの少女を離すのには賛成だがそれにはある程度順序立てて行わなければならない。少女は炭治郎に大分心を開いており、それは依存にも近い状態ではないかとしのぶは推察していると告げる。
そんな中で下手に少女に関わればどうなるかわからない。依存相手を巻き込んで事件を起こす可能性もある。何よりその少女が傷つけば恐らく炭治郎も悲しむだろうとしのぶは話した。
『わかりますか、冨岡さん。
これはとても、とてもデリケートなお話です。姉にも私の方からそれとなく話しておきますから、勝手に突っ走ったりなどはしないようお願いしますね』
「わかった」
不承不承に答えると、再度お願いしますねと念押しされて、電話が切られた。
デリケートな話だと言われても、それでも自分にとって一番大事なのは炭治郎で、傷つけられるのはたとえ心の病気であっても許せなかった。炭治郎が許しているとしても、その優しさに付け込んでるだけではないか。
得体の知れぬ女の影に苛つきに初詣の誘いの電話をすることすら忘れてその日は寝てしまった。初詣について気づいたのは大晦日になり、慌てて電話をすることになったのだった。
初詣の誘いは失敗した。当の炭治郎が友人たちと初詣に出かける上に、別日に誘うという手段も忘れてしたため出来なかったのだ。そのため、竹雄たちと約束通り初詣を済ませた後に炭治郎達が向かったという隣町の神社まで車を飛ばした。
地元の神社より隣町の神社は人気らしく人混みがすごかったので近くのパーキングエリアに車を停めると人波に沿って神社へと向かう。
「今年こそは告白できるようにお祈りしといた!」
「お前さぁ、受験生だってこと忘れてる?模試まであと何日だと思ってんの?」
「だって卒業したらもう会えなくなるかもしれないからさぁ」
「あれ?その下駄どうしたの?」
「途中で鼻緒が切れたんだけど、優しい子が直してくれたの。お礼にお金渡そうとしたんだけど受け取ってもらえなくて……」
「へぇ、そんな優しい子がいたんだ!良かったね」
「うん。でも、その後知らない子にずっと睨まれて怖かった」
雑踏に紛れていろんな声が聞こえては通り過ぎていく。初詣のお参りだけあって、老若男女問わずたくさんの人が歩いている。けれど、何故か炭治郎だけは絶対に見つけられる自信があった。どれだけここにたくさんの人がいようと、その姿だけは絶対に見違えない。
「見つけた」
一人ぼんやりと人混みの中に立っている。その瞳がこちらを向いた時に一瞬驚いたように目が見開かれた。その後にきょろきょろとあたりを見回している姿が年相応に子供っぽくて口元が緩んだ。そちらへ一直線に向かうと、「新年あけましておめでとうございます」と開口一番言われた。
「おめでとう」
「冨岡先生、竹雄たちと初詣に行くんじゃなかったですか?」
「行ってきた」
「そうなんですか。早いですね」
にこりと微笑む炭治郎が今日も眩しくて可愛い。いつもの制服やパン屋の制服でもなくて、グレーのタートルネックに真っ白のダウンジャケットは見慣れない姿であったが、年頃の男の子という感じの雰囲気だ。
「お参りは終わったのか?」
とりあえず、まずはお参りを済ませたかどうかを聞こう。それによっては長い列に並ぶ必要も出てくるだろうし、そもそも禰豆子と一緒にいないのも気になる。俺が尋ねると炭治郎はすでにお参りを済ませており、禰豆子や善逸などとはぐれてしまってちょうど一人になった所なのだと説明してくれたかと思えば、急に口を閉ざしてはっとした顔になると俺の背をぐいっと押した。
「冨岡先生、お参りするなら早く列に並ばないと」
「いや、俺は……」
「俺はもうお参り済ませてるので一緒に並べませんけど、どうぞお気にせず!」
「炭治郎」
わっと人混みが動くのが見える。それに合わせて波のような動きが周囲で起こる。咄嗟に炭治郎の腕を取り、引き寄せる。咄嗟の事で抱きしめるような形になってしまったが、この人混みの中で迷子になったら大変そうだ。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫です」
腕の中の炭治郎は顔を俯かせていた。本当に大丈夫なのだろうか。咄嗟に腕を掴んで引き込んだ際に足をくじかせてしまったのではないか。不安になって、顔を覗き込もうとする。
「大丈夫なので、一度離れてもらっても良いでしょうか」
「何故だ」
「何故、って……」
顔を上げた炭治郎と目が合う。大きな赤い瞳に自分の顔が映っている、とそんなことをぼんやり考えたのもつかの間、ぽつりと呟かれた言葉に頭が真っ白になる。
「心臓に、悪いので」
「病気でもあるのか?」
「いえ、ないですけど。いきなりは驚くじゃないですか」
驚きのあまり肩を掴んでしまった。病気があるなんて誰も言ってなかった。知らないという焦りはその後続けられた言葉で落ち着いた。確かに驚くのは心臓に悪い。先ほどの言葉で理解できた。けれど。
「ちゃんと声はかけたが」
一応、こちらとしては声を掛けてから腕を取ったし、大丈夫かという確認もした。それなら一体何に驚いたのか。それが理解できなくて問うと眉を下げて困った様子で炭治郎はまごつく。
「そうですね……。えっとそれで冨岡先生はお参りは」
「しない」
「しないんですね」
わかりやすい話題の変え方にこれ以上は藪蛇かとその話題に乗っかる。別に困らせたくないわけではなかったので腕の力を緩めると炭治郎がするりと腕を抜けたが、腕はしっかりと掴んだままである。俺の顔をうかがうように見上げた炭治郎と視線が合う。
赤い瞳でじっと見つめられると、心臓が煩く騒ぐのに耐え切れずふいと目を逸らした。危なくもう一度抱きしめそうになった。耐えろ。
「あの、それじゃあ俺そろそろ帰ろうと思うんですけど」
帰るという言葉に困ると口走りそうになったのを抑える。炭治郎の視線は腕を掴む手に注がれてる。このまま帰るとなると話をする機会がない。
何とか引き留める方法を探していると屋台から漂うおいしそうな匂いでふとまだ昼食を食べていなかったことを思い出す。屋台で先ほど何かを食べたと言っていたが、飲み物くらい何か腹に入るだろう。
「時間があるなら少し付き合え」
「はぁ……。いいですけど」
炭治郎から色の良い返事がもらえたので、ほくほくとこの町で知り合いのやっている喫茶店に向かう。席についてとりあえずコーヒーと小さい頃の癖でオレンジジュースを頼もうとして、一応訊ねるとカフェオレを頼まれた。オレンジからカフェオレにと成長したことを微笑ましく思うべきか、コーヒーはまだ飲めないことに可愛いと思えばいいのか。
ダウンジャケットを綺麗に折りたたみ、机の下のボックスに入れた炭治郎を見て、その腕を見つめる。タートルネックのセーターは手首辺りまですっかり隠しているので腕に絆創膏が未だ貼られているのか確認はできない。
「怪我はしてないか?」
「へ?大した怪我はないので大丈夫です」
言葉にして確認すると、炭治郎から大丈夫だという返事が返ってくる。否定されてないところを見ると未だ怪我はしているのだろう。胡蝶の話から図書館に炭治郎が行くときはそこそこの距離をとって見張っているのだが、まだその女子に会えてはいない。
「怪我をするなと言ったはずだが」
「難しいと答えました!一応細心の注意は払ってます!」
元気だけは良い声に違うそうじゃないと言いたかったが、言葉は口から出てこなかった。代わりに思いため息が出る。
大体、女子が怪しいと胡蝶は言っていたが本当に自傷行為なのか。まだ幼い弟妹をネタに強請られて怪我をしているという方が信憑性がある。
「胡蝶から話を聞いた。誰かに苛められているのか」
「え?」
「困ってるなら相談しろと言ったはずだ。
俺に言うのが嫌なら……嫌でも俺に言え。何とかする」
相談するのが俺以外でも構わないような気がしたが、宇髄や煉獄に相談する姿を浮かべて頭を振った。あいつらを頼るくらいなら俺を頼ってほしい。狭量な考えだと思ったが、手放したくないと自覚した以上、他にやるものかと思いのままに言う。
「いやいやいや、いじめられてるとかないですよ」
「だが、その傷は誰かから受けていると胡蝶は言っていたぞ」
いじめられてない、と言う炭治郎に俺は追い詰めるように言う。
誰がお前を傷つけている。それを教えてくれ。
「大丈夫ですよ。冨岡先生」
けれど返ってくるのはやはり、大丈夫の一点だけで。俺が聞きたい言葉はそれじゃないと炭治郎を見つめるが、にこりと微笑まれればその顔に弱い俺は口を閉ざすしかなかった。
二週間だけの冬休みが終わり、授業がはじまると教師陣は一斉に忙しくなる。受験シーズンの始まりだからだ。生徒に入試の申し込みは済んだのか、合否はどうなのか。3年生のクラスを担当している先生は忙しく慌ただしい。その先生たちの補助に体育教師や美術教師が駆り出されることとなった。しかも休みの日に関わらず、だ。
1、2年生の授業に追加して、3年生の先生の担当の授業の補佐だ。毎日ぎりぎりまで学校に残って作業になる。
「まったく。既に進学先を決めた奴らは呑気でいいなぁ。仕事を増やさなければいいんだが。
そろそろ2年生も進路先を決める時期だろ」
「うむ!悲鳴嶼先生がすでに進路相談の紙を生徒たちに配っていた!早い子は既に志望校を決めているらしい!」
美術教師と手が空いているからと手伝っている歴史教師の会話に耳を傾ける。小さい頃はパン屋さんになりたいと言っていたから、やはり料理系の専門学校に行くのだろうか。担任の悲鳴嶼に手伝いを申し出たら、見せてもらえたりなどはしないだろうか。
「ところで冨岡センセは竈門の怪我の方は進展あったの?」
「あった」
「まぁ、そうだよなそう簡単に……ってあったのかよ。言えよ。相談しろって言っただろうが」
宇髄の煩い声に眉を寄せる。眉間に皺を寄せる冨岡先生は最近ちょっとおかしいらしいと生徒達に噂になっているぞと言われて、おかしいの意味が分からず首を傾げた。
「学生たちは意外と感情の機微に敏感だからなぁ。俺はお前のそういう顔に見慣れちまったからわかんねぇけど、何かしら違うんだろ」
「俺も最近の冨岡は少し迷いが晴れたような顔をすると思っていた。思い切りがよくなったというか」
「そうか?」
「うむ!言葉をよく返してくれるようになったとも思う!」
そんなに返しているだろうか。もしかしたら錆兎とした考えたことを言葉にする修行の成果かもしれない。問題はこれをちゃんと炭治郎に伝えることができるかということだ。
言うタイミングもなかなか無ければ腕の怪我も気になって仕方がない。さらに仕事も忙しいとなればなかなか身動きできない状態に眉間の皺が増えるだけである。
宇髄に炭治郎の怪我の件を詳細に話せと言われて、ぽつりぽつりと説明をする。端的に、なるべくわかりやすく話すと宇髄はちゃんと話せるんじゃねぇかと呆気にとられつつも、心の病気ねぇ、とぼやいた。
「デリケートな問題だわな、そりゃ竈門も話したがらないわけだ」
「心の病気というのは厄介だと俺も聞いている!治し方は人それぞれで薬もあまり効きにくいと!」
「そうそう。数学の公式のようにわかりやすい解決方法があるわけでもねぇし、一律にどうすればよかったかなんてわからねぇもんだ。こればっかりはどうしようもねぇな」
「竈門少年は眩しいからな。心が弱った時に一緒にいてくれるとこちらも元気になるから、そういった者たちが寄るのもよくわかる」
「……」
そうだ。炭治郎は優しい。誰にでも満遍なく。分け隔てなく屈託ない笑顔で接してくれる。その笑顔にどれだけ救われたことか。
前世の苛酷な出来事ばかりに神経を擦り減らす日々の中での癒しは本当に今思えば些細なもので、でもそのささやかな事が自分を支え、奮い立たせた。信念と義務と使命と責任の重圧は自分を強く戦場へと駆り立たせ、命さえ燃やしたが、そんな日々ではすぐに潰れてしまう。自分が最後まで戦場で立ち続けられていたのは守るべき大事なものが傍でずっと共に戦ってくれていたからだろう。
「だが、その優しさに甘えて食いつぶすような輩がいたのであれば許せまいな」
煉獄の冷やりとした声に顔を上げる。こんな表情をした煉獄は初めて見る。いつも溌溂と大きな声で話している姿が見ていなかったから、今隣にいる男が全く違う生き物に見えた。
俺と宇髄が驚くように煉獄を見ていると、目を二回ほど瞬かせた後いつもの表情に戻った。
「すまない。竈門少年には思い入れがあるがために、もしそうであればと思ったら感情が溢れてしまった」
「いや、別に謝る必要はないぜ。記憶があるやつは多かれ少なかれあいつに救われた覚えがあるからな。大事に思ってるやつがないがしろにされて、怒ることの何が悪い」
「俺も同意見だ」
「だが、私情による怒りだ。相手の立場を理解せずにただ感情のままに言うのは良くない」
「それもそうだが、俺たちも教師と言ってもただの人間だ。完璧な存在じゃないし、感情だってある。ただ己を律することがうまくなっただけの子供とそう変わりはない。
感情をうまくコントロールできなくてもそう責めなさんさ。ここには生徒もいないことだしな」
宇髄の言葉に煉獄はううむと唸ったが数秒後に己の中で考えがまとまったのか「それもそうだな」と頷いた。
「お前もだぞ、冨岡」
「何の話だ」
「俺たちと話すときは同僚とか教師とかそんな立場気にすんなってことだよ。
自分じゃどうしようもない時に変に抱え込もうとするな。頼れ。お前は大体考えが後ろ向きな事が多い。もっと前を向け。顔を上げろ。お前が思っているよりもお前の周りには人がいる。
お前が助けてくれって言えば、みんな手を差し出す。いいか。損得とか考えるな。お前にはその価値があるんだ」
錆兎と同じことを宇髄も言うんだなと眺める。煉獄がはははと笑って宇髄のことをさすがだと褒め称えると、宇髄はまぁなとその称賛をどや顔で受け取る。
そうか。こんな身近に頼ってもいい存在がいたのかと思うとぱっと視野が広がったような気がする。
「不死川も伊黒もお前のことは気にかけてたぜ。特に去年の……」
宇髄の言葉を遮るように無機質な電話のコール音が鳴り響いた。休日の学校にいるのは休み返上で仕事をしている教員だけ。一番電話口に近い教師が受話器を取る。この時期は受験の申し込み等の電話も殺到していたから、この電話もきっとそれだろうと思った。
煉獄と宇髄も一瞬だけちらりと電話口に出た教師を見てから、声を潜めて話の続きをしようとした。しかし、緊迫そうな声で「うちの生徒ですか?」「はい」「わかりました」「確認します」と聞こえる言葉に三人そろって顔を見合わせた。電話対応をしている教師の傍に寄ると、一度受話器を保留にした教師は俺たちに向かってこう言った。
今日の昼過ぎ頃にうちの生徒が他の学校の生徒と一緒に橋から川に飛び降りたらしい。親には既に連絡が行っているが、確認のために今から誰か行ってくれないか。
嫌な予感がする。心が冷めていく。嫌な予感を振り払おうとする俺に変わり、宇髄が聞いた。
「誰が飛び降りたって?」
「2年の生徒だ。君たちもよく知ってる子だよ」
竈門炭治郎、と続けられた言葉によもやと煉獄が唸る声が聞こえた。それからどうなったかは記憶があまり定かではない。覚えていることとすれば、電話に出た教師に詰め寄る俺を宇髄が必死に止め、病院の連絡先をその教師から聞き出した後、車で向かおうとした俺の肩を煉獄が掴んだことは覚えているが、そこから先についてはほとんど記憶がない。
気付いたら頬が痛かった。殴られたのだろう、とぼんやりとする頭で考える。霞む目であたりを見回す。
真っ白な白い壁。明るい電光灯。消毒液の匂い。真っ白なベッド、に横たわる少年。
「ぁ……」
たんじろう、と声を出したつもりが言葉にならなかった。ベッドの外に出された冷たい手に手を重ねる。ピッピッと電子音が鳴っている。あの子の心臓の音だ。まだ死んでない。生きてる。
けれど、少年の顔は青白く、いつもの笑顔がそこにはなかった。
「義勇くん」
「葵枝さん」
後ろから掛けられる声に振り返ると、炭治郎の母親が立っていた。禰豆子や竹雄などの弟妹はいないようだ。椅子から立ち上がろうとするとそのままでいいわと微笑まれた。若干疲れたような顔をしている。
「炭治郎についていてくれてありがとうございます」
「いえ……」
記憶もあやふやでどうしてここに座っているのかわからない俺はどう返事をしたものかと目を彷徨わせた。病院にいるということは、恐らく煉獄か宇髄に車でここまで連れてきてもらったのだろう。教師で、良い大人だというのにこんなにも取り乱してしまっている。服装だっていつもの体育時に着るジャージのままで、靴なんて室内履きのままだった。
前世で隠しにまずは傷の手当てをと言われたのにそれを押しのけて炭治郎を探しに行った時と同じことをしている。あの頃から自分の一番はずっと炭治郎だった。
「とりあえず、一命は取り留めたそうです。でも、ここから目を覚ますかどうかはわからないと医者に言われました」
「……そう、なんですね」
「このまま数か月この状態が続く場合は延命治療も視野に入れてくださいと言われました」
葵枝の顔を見上げる。涙を出すまいと堪えているが、堪えきれずその目尻には一つの雫が跡を作り落ちていた。早くに旦那を亡くし、息子は一命を取り留めながらも目を覚ますかわからない状況だ。心を乱さないでいろというのは酷な話だ。
自分だって、未だ受け入れられていない。
「治療代、俺にも出させてください」
「できないわ。そんなこと……」
「出させて、ください」
首を横に振る葵枝に俺は頭を深く下げて嘆願した。炭治郎のことが好きなのだと伝える。炭治郎のためにできることならすべてしたい。どうにかしてもう一度笑顔をみたい。そのためならばどんなことでもする。
感情のままに好きなんです、と葵枝に再度伝えると彼女は驚いたように目を丸くさせた。炭治郎によく似た丸い瞳が優しく細められた。
「義勇くん、うちの炭治郎のこと好きだったのね」
「……ずっと、ずっと好きでした」
「炭治郎もね、義勇くんのこと好きだったの。知ってる?」
義勇くん、朝にうちの店の前を走るでしょう?炭治郎ってば毎朝窓に貼りついて貴方のことを見ていたわ。貴方の背が見えなくなるまで、ずっと。最近はちょっとお休みしてたみたいだけど、同じ時間になると窓の方を気にしてたの。
葵枝がふふっと嬉しそうに笑った。
「炭治郎が目を覚ましたら、一番に言ってあげてね」
「必ず伝えます」
好きだと、伝えたい。伝えさせてほしい。藁にもすがる思いで炭治郎の目が覚ますことだけを祈り続ける。あの時だって起きたじゃないか。奇跡が起きたから、きっと今度だって大丈夫だ。
大丈夫だと自分より小さく、豆もタコもない手を握り続けた。
手離せないのだ。どうしようもなく、この子がいないと息ができないくらいに。だから早く目を覚ましてくれ。それだけを願い続けた。
炭治郎が病院に入院してから毎日欠かさずに病室に行ってはその手を握り続けた。面会時間ギリギリまで病室で過ごした後は部屋に戻り、パソコンで情報を集めた。
川で飛び降りた学生の名は報道されなかったが、人の口に戸は立てられぬとはよく言ったものでネットの海には炭治郎の名前ともう一人の名が上がっていた。やれ痴情の縺れだ、心中などと下らぬ嘘を流す妄言者に怒りを募らせながらも、少女のことを調べる。
近隣の高校生で自傷癖がある。同級生の評判もあまり良くないらしい少女はいつかこんなことをすると思ってたとか、やっぱりそうだったんだとか事件についても嫌な意味で肯定的な意見が多かった。同じ病院に少女も入院しているようだが、そちらもまだ目を覚ましていないらしい。
スマホが震える。錆兎からの定期連絡だ。
炭治郎が入院してからというもの、私生活が疎かになりつつある俺を思ってか錆兎が定期的に連絡をするようになったのだ。飯を食えとか、寝てるのかとか、煩い小姑のような連絡に返信を入れないでいたら家に押し掛けてくるなり、殴りかかられたのでちゃんと連絡するようにしている。
ご飯を食べたのかというメッセージにコンビニのおにぎりの写真を返すと既読がついた。次いで別のメッセージが届く。今度は宇髄からだ。
『とりあえず竈門の悪い噂に関しては火消ししといた。日頃から優良生徒だもんで校長も事情を知る警察もちゃんと理解してくれたよ』
『助かる』
『いいってことよ。まァ、相手側の方は前科があるから難しいんだけどな』
『竈門少年に非はないからな!彼をよく知る生徒達も今回の事件のことを知り業を煮やしていたようだ!!』
『お人好しが過ぎるのが悪い。相談せずに一人で抱え込むのが悪い。
非がないと言えど、いくらでも対策は取れただろう。この前の職員会議でのことを忘れたのか』
『だが、伊黒!お人好しが過ぎるというが、あれは竈門少年の良い個性というものだ!
それを悪いと言うのはいかがなものか!!』
『時と場合を考えろってことだろォ?』
ぴこんぴこんとメッセージが立て続けに送られてくる。前世を覚えているメンバー達のみで作られたグループでは軒並み炭治郎の事を心配するメッセージが上がっている。
俺が毎日病院に通って炭治郎の様子を見に行ってることを知っている宇髄はそれを書き込めとつつかれ、変わらず眠る炭治郎のことを書けば、甘露寺も胡蝶も心配ですねと返した。
『二日後に一般病棟に移る予定だ』
『じゃあ、こんどあいつら連れて行くわ。会わせろってうるせぇんだよ』
『待て。他の患者に迷惑だろう。連れて行くならしっかりと躾をしてから行け』
『迷惑でなければ私も行きたいわ!』
『カナヲも心配してるみたいだし、私たちも今度行こうと思います』
『おはぎ持ってってやるか』
『南無……花を持っていこう』
土産に花よりも食べ物を選ぶのは皆、炭治郎がきっとすぐ目を覚ますと信じてるからだ。まだ医者の言葉は伝えられていない。いつ覚ますかわからないけれど、きっとすぐに目を覚ましてくれる。皆の信じる気持ちを消したくなくてそのままにしておいた。
だが、そんな願いは一か月経っても、二か月経っても叶えられなかった。
春が来て、梅雨が来て、夏が来ても炭治郎は目を覚まさなかった。
それでも炭治郎の病室には毎日誰かが訪れている。
いつものように学校の仕事を終えた後に病室に行くと、新しい花が花瓶に刺さっていた。果物の隣に置いてあるドングリは同期の生徒か。最近は炭治郎が後輩になっちゃうかもとか彼らが寂しいと話しているのを聞いた気がする。
無一郎や禰豆子は炭治郎と同級生になるかもねぇ、と少しだけ寂しさの中に期待するような言葉を呟いた。錆兎や鱗滝も病室には顔を見せていたし、厄除けだと鱗滝お手製の面を置いていった。
姉である蔦子も義勇がそんなに気にかけている子なんだと病室に訪れたこともあった。俺に寂しそうな顔をしていると言って、早く目を覚ますといいわねと頭を撫でられた。ついでに目を覚ましたら一度家に紹介に来なさいとも。
こんなにもずっとずっとたくさんの人たちに見守られているのに炭治郎は未だ目を覚まさない。面会時間ぎりぎりまで手を握り続ける。
炭治郎の目尻を下げて嬉しそうに笑う顔も、優しく名前を呼ぶ声も、目を瞬かせて驚く顔も、真剣に瞳を見つめて怒る声も、いくらでも思い出せれるのに最近はずっと無表情に目を閉じて眠る顔しか見れていない。声もなく、規則正しく小さく呼吸をするだけの音。
「……」
まだ誰も諦めてはいないのに、もしこの子がもう二度と目を覚まさなかったらと考えてしまう。
そんな時に思い出すのはいつも炭治郎が告白をしてきた日のことだ。あの時にそれを受け入れていたのであれば、こうしてベッドに眠らずにずっと傍で笑ってくれていたのではないかと。そんなことを考える。
「……炭治郎、好きだ」
眠る炭治郎にこの言葉が届くように。もう何度口に出したかは覚えていない。もしこの言葉が目に見えていたなら病室の一面をとっくに溢れ返していただろう。それくらい何度も口に出した。
炭治郎が目を覚ました時にこの積もり積もった好きの言葉の残骸が見えればいいのに。
そっと炭治郎の頬を撫でた後に目を瞑る瞼に唇をそっと落とす。
早くその瞼が開きますように。紅い瞳がまた自分を映してくれますように。炭治郎の髪を撫でてから立ち上がる。
面会時間を5分だけ過ぎていたが、これくらいならば看護師は目を瞑ってくれる。
病室から出ると薄紅色の患者服を来た少女が立っていた。
目を瞬かせてよく見たが、やはり少女の背には白い小さな翼があった。無機質な目でこちらを見る少女は俺を無視して炭治郎の病室に入ろうとする。その手を咄嗟に掴む。
ぎりっと力任せに握ったその腕を少女は無表情で見ている。そして真っ黒な目で俺を見上げた。
「……あんたがいるせいで天使になれない」
言ってる意味がわからない。だが、炭治郎にこの少女を近づけてはいけないと漠然と思い、握った腕を引っ張り炭治郎の病室から少女を遠ざける。彼女が恨みがましそうに病室を睨んでいる。
「どうして、邪魔をするの」
「邪魔?」
「ようやく一緒に逝ってくれる人をみつけたのに」
彼女の言葉に目を細める。そうか。彼女が。そういうことか。理解したと同時に湧き上がる怒りを抑えきれずに彼女の腕を思いっきり握った。ばさりと握った場所がつぶれたと思うと羽が舞い上がる。
よく見ると彼女の身体が薄く白んでいた。空気に溶け込むように薄れつつある身体で少女は俺をちらりと睨んでから、残った手を炭治郎のいる病室へと縋るように伸ばした。
「ずっと一緒にいたかったなぁ」
ぽつりと呟いて少女は羽をぶわりとあたりにまき散らして消えた。その羽も床に落ちる前に空気に溶けていった。
少女が消えると同時に看護師がこつこつと歩く音が聞こえた。恐らく、面会時間の終了を告げに回っている年配の看護師だろう。俺は握っていた手をぱっと開く。小さな傷が掌にできている。
ばたばたと看護師が騒がしく、どこかの病室に駆けていくのを見て俺も帰ろうと踵を返した時に年配の看護師がやってきた。今日はもう少しだけいても大丈夫ですよ、と笑って言うのに俺は帰りかけた足を止める。
「もうあの子が入院してから半年ですからね。毎日、先生来てくれてるでしょう?
あの子の部屋は一番最後に見回るので、その時までいらっしゃっても大丈夫ですよ」
目尻を下げて微笑む看護師に、ありがとうございますと頭を下げて病室に戻る。先ほどの少女のこともあり、気になったのが本音だ。少女が言った事は全く理解できなかったが、彼女が恐らく炭治郎の腕を傷つけていた子だろう。
人ではなさそうに見えたが、あれはもしかしたら少女を恨む心が生んだ妄想だったのかもしれない。けれど、少女が消える直前に見せた表情を見て浮かんだ感情は哀れみだけだった。
炭治郎もこのような気持ちで少女と向き合っていたのだろうか。病室に戻り、またその手を取った。相変わらず目を瞑ったまま眠り続ける炭治郎の顔を見る。
そういえば、昔話の一つに眠り続ける少女を起こすのにキスをする話があったような気がする。病室を見渡し、誰もいないことを確認してから、薄く開く唇にそっと重ねる。食むように上唇に歯を押し当てると、ふっと息がはかれた。
唇が動く。呼吸をするのではなく、小さな言葉を吐くような動きにいつの間にか閉じていた目を開けると、紅の瞳が見返していた。吃驚して唇を離す。
「炭治郎」
「……そういうの……好きな人とするものですよ」
小さな声でそう言われてどこか眠たそうな呆れたような顔をする炭治郎に俺は間違ってないからいいと答える。意味を理解してなさそうな炭治郎に、何度も告げた言葉を口に出す。
「好きだ、炭治郎」
すんなりと出てきた言葉と共にもう一度唇を近づけるとはぁっとため息を吐かれながらも触れ合わせた。
面会時間終了を告げる看護師が部屋に来た時に炭治郎が目を覚ましたことを伝えるとすぐに先生を呼びに行ってくれた。その間に俺も炭治郎の母親に電話を連絡し、知り合いという知り合いに炭治郎が目を覚ましたことを伝えた。うっすらと目を開けた炭治郎の写真だけを送れば、すぐさまスマホから通知音が何度も鳴り響いた。メッセージも何もない写真に冨岡泣いてんのか、感極まってるのかもとかそんな返信がついたが、気にはしていられない。
葵枝がパン屋のエプロンそのままに病室に駆けこんで、病院の先生に弱弱しくはあるが受け答えをしている息子の姿に涙を浮かべるのを禰豆子や他の弟妹達が支えた。家族の様子に炭治郎はごめんと謝罪をしたが、それにみんなわんわんと泣いてその身体に抱き着いた。
先生の話では意識の混濁もあまりなく、身体についてもすでに回復してるから軽いリハビリをしたらすぐに退院できることを伝えると、これにはみんな喜んだ。
目を覚ました炭治郎の病室にはみんな訪れて、リハビリに付き合ったりしながら退院したらどこに行こうかと気の早い話をしている。それは俺も同じで、葵枝さんに許しを貰って退院する日を一日貰った。それに特に炭治郎の同期はずるいと騒いだが、退院日の付き添いができる大人という身分を出して黙らせた。
夏の終わる頃によろよろといくらか足取りの怪しい炭治郎の腕を引いて病院を後にする。半年寝たきりだった炭治郎の筋力はすっかり落ちてしまっていて、さらに身体の免疫もいくらか弱まっているから感染症などには特に気を付けるように退院際に先生に言われた。
「冨岡先生、すみません」
「構わない。……それより、その先生というのはやめないか」
「ううん、でも冨岡先生っていうの慣れちゃって」
車に着替えなどを入れて、助手席に炭治郎を座らせる。眉を下げて困ったように言う炭治郎に俺も同じように眉間に皺を寄せた。
炭治郎が目を覚めた後にも毎日病室に通い、好きだと伝えているのに炭治郎は未だに好きだと返してくれないし、名前も呼んでくれない。キスだって、あの時以来はしてない。
「俺はこんなにも炭治郎が好きなのに、名前も呼んでくれないのか」
「その言い方はちょっとずるくないですか!?」
「ずるくない」
「ずるいですよ!だって、先に告白したのは俺ですよ?それなのに冨岡先生断るから」
諦めるの大変だったんですよ、とぶつぶつ文句を言う炭治郎に俺はじゃあ、もう俺のこと好きじゃないのかと訊けば、それがずるいんですよ!と怒られた。
「大体、なんで俺のことが好きなんですか。同情心ならやめて頂きたいのですが!」
「同情心ではない。好きだから好きだと言っている」
「だから、どこを!」
「丸ごとすべて」
頭から爪先まですべてが愛おしいと言うとんんっと唸る声が聞こえた。答えになってないともごもごと呟かれたが、全部愛おしいのだから仕方がない。
昔であれば、炭治郎に否定されていれば大人しくそれをそのまま受け入れただろうが、注意深く炭治郎を見つめていたおかげかこの子がまだ自分を好いていること、素直になれないことがわかった。そしてそれは錆兎の見解も同じようで、さらに貰ったアドバイスは男なら自分の想いを貫きとおせ!だったので、以前にも増して自分の想いを言葉にすることをした。
「冨岡先生が俺の知ってる冨岡先生と違う……」
「残念ながら同じ冨岡義勇だ」
「本当ですか?本物ですか?」
「本物だ」
未だに信じられないという顔をする炭治郎に俺は未だ溢れ続ける想いを言葉にする。いくら告げてもこんこんと生まれ続けるその想いは本当に底なしで際限を知らない。
「好きだ」
「……前見てくださいね」
むぅと口を尖らせる炭治郎はやはり返事をしてくれなかったけれど、嫌いだともダメとも言わないのが可愛いかった。本人は恐らく気づいてはいないだろうが、否定しないということはつまりそういうことなのだろう。
「……やっぱりこの想いにさよならはできないってことかぁ」
「なんだ?」
「いいえ、冨岡先生。なんでもないですよ」
そう言って笑う炭治郎の表情はどこか吹っ切れていて、好きだとまた言えば今度は笑顔を返してくれた。太陽のような、きらきら眩しくて一等愛しい笑顔だった。