さよならを教えて
年末年始は実家のパン屋もお休みで、久しぶりに家族そろってゆっくり休むことができる。けれど、母親とその手伝いをするべく俺と禰豆子は三人そろって台所に立った。おせち料理である。
煮物に焼き魚、だし巻き卵など普段はパンを作る場所にせっせとおせち料理を作って並べていく。おせち料理は豆を煮たり時間も手間暇もかかる料理も多く、あちらこちらと台所を忙しく三人で交代に火の番をしたりして二日ほど時間をかけて出来上がる。
「そばできたから、みんな取りに来てー」
「はぁい」
禰豆子の言葉に竹雄がお盆と器を手にやってくる。器に蕎麦とだし汁を手際よく入れる俺に竹雄がそういえばと思い出したように声を上げる。
「冨岡さんから電話があったよ」
「冨岡先生から?」
幼馴染は俺にとってだけでなく兄弟にとっても幼馴染だ。クールでかっこいい幼馴染は下の弟たちにとっては憧れのお兄さんらしく、彼が来た日はいつも以上にはしゃいでいる。
「正月に一緒に初詣に行こうって」
「へぇ」
珍しい話だな、と思った。今はそうあまり遊んではないけれど、幼馴染と遊ぶときは大抵自分から誘っていた。小さい頃は一緒に行きたいと強請って連れて行ってもらう側だった。今考えるとやはり申し訳なさが募る。絶対に無理させてたよなぁ。
幼馴染だって友人がいるのだし、気の合う人たちと遊びたいと思うだろう。鬱陶しい、と言葉にされることはなかったが内心そう思われていたかもしれない。口数少ない幼馴染みは良い意味でも悪い意味でも自分の意思を口に出すことはなかった。
「明日、兄ちゃんも行くだろ?」
「え?
あ、すまん。言ってなかったか」
当然のように俺も一緒に行くよね、と言う竹雄に俺は眉を下げて謝る。
正月はすでに善逸や伊之助と初詣に行く約束をしてあるのだ。禰豆子も一緒に。母親には言ってあったけれど弟妹に話すのを忘れていた。
「えぇ?じゃあ、冨岡さんと俺たち四人で行くってこと?」
「悪いな。でも冨岡さんは先生だし、安心して六太達を任せられるから良かったよ」
「冨岡さんに兄ちゃんも一緒だって言っちゃったから、後で電話しておかないと」
「俺も一緒に?」
「そうだよ。冨岡さん、お兄ちゃんも一緒に行くかって確認してきたんだもん」
「そうかぁ……」
勘違いだったらとても申し訳ないのだけれど、ついてきたら嫌だなとかそういう意味合いで確認したわけではないよなと一瞬考えてしまう。すでに告白から一年が経とうとしている。もうすっかり先生と生徒の距離になっているが、それが自分の認識上でだけという可能性は、ある。
「それじゃあ、悪いけど冨岡さんに俺はいけないって伝えておいてもらえるか?」
「わかった。ちなみに兄ちゃんたちどこの初詣に行くの?」
「ああ、俺たちは隣町の神社だよ」
恋愛成就で有名なとこなんだとか。善逸が熱く語っていたのを覚えている。駅で伊之助と善逸と待ち合わせていく予定だ。他にも何人か誘っているので、人数はもう少し多くなる予定だ。
ふぅん、と竹雄はわかったというように頷いて蕎麦を持って帰っていく。花子と茂、六太にも蕎麦と出汁を注いでから、禰豆子と母親の分を用意して、居間へと持っていく。
年越しはみんなでこたつを囲むのが毎年の恒例行事だ。この日ばかりは夜更かししても怒られないので六太や茂は嬉しそうにしているが、年を越す前に二人とも寝てしまう。
そんな二人を隣の部屋に連れて行ったり、五人でテレビを見たり話をしている間に除夜の鐘の音が聞こえる。この町の寺では除夜になると鐘をちゃんと鳴らしてくれるのだ。
「……それじゃあ、今年もお世話になりました」
床に手をついてみんなで挨拶をする。今年が終わり、新しい一年がはじまる。
「今年もよろしくお願いします」
寝てる二人を起こさないようにみんなでふふっと笑い合う。
翌日、朝早くから禰豆子に着物を着せて一緒に駅へと向かった。
お兄ちゃんもおしゃれすればいいのにと頬を膨らませる可愛い妹に、近寄る不埒な男がいないとは限らない。いや、むしろいないはずがない。とはいえ、可愛い妹に並んで写真を撮りたいと言われれば変な服装で行くのも良くないので、あまり着ない余所行きの服を着た。
駅には伊之助と善逸がすでに待っていて、禰豆子を見るなり善逸が奇声を上げて文字通り飛び上がった。
「禰豆子ちゃん!かわいいね!まるでお姫様みたい!!」
「ありがとう、善逸さん」
お気に入りの着物が褒められてまんざらでもない禰豆子は善逸ににこりと微笑んだ。伊之助もじぃっと禰豆子の頭から足先まで眺めて、見事な変装だなと頷いた。恐らく誉め言葉だ。にこにこと禰豆子もお礼を言っていた。
駅で立ち話をしていたらお参りの時間が遅くなってしまう。話もそこそこに電車に乗り、神社の最寄り駅に降りると、初詣に行く人たちで道が混んでいた。
「迷子にならないように手を繋ごう」
禰豆子の手を取り、彼女が他の人にぶつからないように気を付けて進むが、途中で伊之助がはぐれたり、酒を飲んで酔っ払っている大人に絡まれたりと神社にたどり着くのが大変だった。こんなに人が多いと現地で待ち合わせしていた子達と会えるのだろうかと不安になる。
境内の鳥居で待ち合わせ、としているが神社内の初詣のお参りの列はすでに境内の枠内に収まっていない。鳥居の傍で四人立っているが、まだ待ち合わせ相手は来ていない。
「お兄ちゃん、私化粧室に行ってきてもいい?」
歩いている途中で乱れたらしい髪を撫でながら禰豆子が言う。別にそのままでも可愛いと思うがせっかくおしゃれしているのだから、禰豆子の言う通りにさせてあげよう。
「わかった。一緒に途中まで行こうか?」
「ううん、大丈夫」
禰豆子が心配する俺に向かってにこりと微笑んでその場を離れると、善逸もちょっと用を足しにと離れ、さらには伊之助は屋台がどうしても気になるのか、俺の待てと言う言葉を聞かずに走り出してしまった。
みんな用事を済ませたら早く戻ってきてくれるといいのだけれどと思って待っていると、隣の女性が何やら困った様子でいるのに気付く。どうやら鼻緒が切れてしまったらしいが、この人混みのなかしゃがむこともできず、右往左往している。
「大丈夫ですか?鼻緒が切れたんですよね」
にこりと安心させるように微笑んで女性に話しかける。ひとまずはこの人混みから脱出するのが先決だ。女性が歩けるように注意しながら先導して進む。道から少し外れて裏道へ来ると石垣に女性を座らせてハンカチと財布から取り出した5円玉で応急処置をする。
「ごめんなさい。あの、これお礼です」
「いえ、そんなもらえないです!」
「でも、ハンカチとか汚れてしまったし」
「安物のハンカチなので大丈夫です!それよりこれは応急処置なのでちゃんとした靴を買うとかした方がいいと思います。それでは」
千円札を差し出してくる女性を背に駆けだす。言ってることはすべて本当だし、それにもうそろそろ境内に誰か来ているかもしれないと思うとそちらの方が気になって仕方がなかった。
鳥居のところへ行くと待ち合わせの相手である友人が保護者同伴で立っていた。
「カナヲと玄弥、それに不死川先輩と胡蝶先輩も一緒に来てくださったんですね!」
「ふふ、また会いましたね炭治郎くん」
「わざわざ人が多い神社にお参りとかお前ら暇かァ」
「あら、意外とここの神社は願いがよく叶うと評判なんですよ。
どうですか?不死川先生も良かったらお一つお願いしてみては」
「俺は叶えてもらうもんなんか一つもねェよ」
楽しそうに保護者が会話している間にカナヲと玄弥に新年あけましておめでとうとあいさつをする。二人とはクラスが離れてしまっているので学校ではあまり話せてないが、一緒によく遊びに行く友人だ。
冬休みの宿題について話していると禰豆子が戻ってきて、善逸と伊之助も境内に来るとしのぶ先輩に感激の声を上げて、不死川先生に驚いて飛び上がった。
「新年早々先生の顔を見るなんて……」
「あァ?なんか言ったか我妻ァ」
「イエ、ナンデモアリマセン!」
「俺は先生に会えて嬉しいです!」
「お前は……いやもう疲れたからさっさとお参り済ませるぞ」
「ふふ、不死川先生照れてるみたいですね」
「兄ちゃん、怖がられてることが多いから炭治郎に嬉しいって言われて照れてるんだ」
「玄弥ァ、お前後で宿題増やす」
「えっ」
玄弥達のやりとりを見てカナヲ達がくすくすと笑う。話の元はしのぶ先輩なのだけれど、もう卒業生であるし口達者でもある先輩にはさすがの不死川先生もじろりと睨むだけで何も言えないようだ。
お参りの列は長かったけれど、みんなで話しているとあっという間に進んでいく。玉砂利が敷き詰められた参道を歩き、神前へと進んでいく。賽銭箱を前にお金を入れて事前に確認した通りに二拝二拍手一拝をしてお祈りをする。禰豆子を挟んだ先にいる善逸から悍ましい念が飛んでいるのが気になるが、無視して何を祈ろうかと考える。
神様。
数日前にした彼女との会話を思い出す。神様にお願いごとをするなら、彼女がこれ以上自傷することがなくなりますように、と祈った。あのときか細く言った彼女の言葉がなくなってしまえばいい。
世界が誰かにとって優しくなりますように。
ありきたりな願いをして目を開ける。すでに他の人も祈りが終わったようだ。不死川先生はそもそも祈らないと言っていたし、さっさと行くぞとまだぶつぶつと念を飛ばしている善逸を引っ張ってきた道を引き返した。
その後はおみくじを引いたり、ぜんざいを食べたり甘酒を呑んだりしてゆっくり過ごしていたが、人混みは全く減ることがなく増えるばかりだった。
「これだけ人が多くなるとはぐれたらどっかで待ち合わせすんのも難しそうだな」
「まぁ、そうなったら自主解散でいいんじゃないですか?
一応お参りは済ませましたし」
「そうだね。はぐれたらメールだけして」
「まぁ、今にもはぐれそうなやつがここにいんだけどな…」
玄弥の視線の先には焼きイカを頬張る伊之助がいる。道すがら屋台に売っている食べ物をおいしそうだと思えば立ち止まり、歩きながら食べている姿に何度不死川先生が注意をしたことか。
ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てろ、汚れた手で財布を触るな、口に物を入れたまま喋るな、食べ物をもったまま走るななど不死川先生さまさまである。
「禰豆子ちゃん、りんご飴美味しい?」
「うん、とっても!」
伊之助を不死川先生が注意してくれるおかげで善逸は禰豆子との会話に集中している。でれでれと頬を緩ませながらもしっかりと禰豆子が他の人とぶつからないように守っているところはさすが善逸というところだろうか。
俺もカナヲと玄弥としのぶ先輩と楽しく話していたが、わっと人波が押し寄せた時にみんなとはぐれてしまった。不死川先生の言っていた通り、一度はぐれてしまうとどこに誰がいるのかわからない。
しかたなくメールではぐれたので家に帰りますと連絡すると、カナヲとしのぶ先輩も家に帰ると連絡があった。玄弥は不死川先生と伊之助と一緒にもう少し見回るそうだ。完全に伊之助のお世話をしてもらって申し訳ない。
禰豆子は善逸と一緒だから心配しないでと連絡があった。善逸に陽が暮れるまでに禰豆子を家に送ってくれと言うと即座にわかったと連絡があった。こういうところはとても早い。
みんなに連絡を済ませたので駅まで歩いて帰ろうと踵を返した時、たくさんいる人の中で何故かその人物だけがはっきりと見えた。というか向こう側もこっちを見ていた。よくこんな人混みの中で自分を見つけられたなぁと驚く。一応きょろきょろと周りを見回したが、知り合いはいないし、まっすぐにこちらに向かってくるのでその場で立ち止まっていた。
目の前に立たれるとやはり見ていたのは自分で合っていたのか。幼馴染を見上げて新年あけましておめでとうございますと定型文を口に出すと、おめでとうと返された。
「冨岡先生、竹雄たちと初詣に行くんじゃなかったですか?」
「行ってきた」
「そうなんですか。早いですね」
深い青い瞳がまっすぐと炭治郎を見下ろしている。海の底みたいに真っ暗なその瞳は何を幼馴染の表情と同じく何を考えているのかよくわからなかった。
「お参りは終わったのか?」
「え?はい。一応終わりました。
あ、禰豆子と善逸と伊之助の他に今日はカナヲと玄弥、それにしのぶ先輩と不死川先生も一緒だったんですよ。お参りが終わった後はぜんざいと甘酒を飲んだんです。その後適当に歩いて話してたんですけど、この人混みなのではぐれてしまって……」
今一人でいる理由をぺらぺらと喋っていることに気づきはっと口を閉じる。ここに来たという事は幼馴染もお参りに来たに違いない。俺たちが来た時よりもお参りの列は長くなっているから、ここで話しているよりも早く列に並ぶべきだ。
「冨岡先生、お参りするなら早く列に並ばないと」
「いや、俺は……」
「俺はもうお参り済ませてるので一緒に並べませんけど、どうぞお気にせず!」
「炭治郎」
幼馴染の背をぐいぐいとお参りの列に向かって押そうとするとその手を掴まれた。そのまま人混みの雪崩に巻き込まれそうになるのを幼馴染の腕の中で過ごす。
心臓がざわっと飛び跳ねる音がする。さよならしたはずの恋心はまだ残っていたのか、掴まれた腕から、密着して胸に押し当てられた頬から、血が全身にめぐるように熱くなる。
「大丈夫か」
耳元に落ちる優しい声にはっと息を呑む。冷たい空気を早く吸ってこの熱を冷まさないと。そう思うのに先生と生徒という距離感ではない近さに頭がくらくらする。とにかく離れなくてはと、幼馴染の胸を手で押しのけると顔を下に向けたまま大丈夫です、と答えた。
未だ心配そうな香りを漂わせる幼馴染に適切な距離を保ってくれと押しのける。多分これは幼馴染の距離ではない。友人でもない。よくない。
ただいまと戻ってきてしまった恋心を慌てて追い出す。
「大丈夫なので、一度離れてもらっても良いでしょうか」
「何故だ」
「何故、って……」
いや、そんなのわかるでしょうと、大きく冷たい息を吸ってようやく落ち着いた心で顔を上げた。思ったよりも顔が近くにあってひゅっと息を呑んだ。綺麗よりも怖さの方が今回は勝った。
「心臓に、悪いので」
「病気でもあるのか?」
「いえ、ないですけど。いきなりは驚くじゃないですか」
病気でもあるのかと聞いた時にはわかりやすく焦った声を出したが、驚くのでやめてほしいと言うと小首を傾げた。この人大人のはずなのに、仕草が時々幼い弟に被って見える時がある。
「ちゃんと声はかけたが」
「そうですね……。えっとそれで冨岡先生はお参りは」
「しない」
「しないんですね」
口下手の幼馴染と話し合っていてもいつまでも平行線になりそうな気配がしたので話題を変えた。お参りへと誘導しようとしたらあっさりと断ち切られた。
では一体この人は何のためにここに来たのだろうか。じっと顔を見つめるとふいっと顔を逸らされた。聞かれたくない理由があるのかもしれない。
「あの、それじゃあ俺そろそろ帰ろうと思うんですけど」
そう言って離れようとするが腕がやはり掴まれたままだ。どうすればいいんだ、これは。ほとほと困り果てていると付き合え、と言われる。
「時間があるなら少し付き合え」
「はぁ……。いいですけど」
そのままぐいぐいと腕を引っ張られるがまま人混みの波をかき分けるように進んでいく幼馴染の後ろを歩く。この距離感はどう考えても先生と生徒でも幼馴染でもない気がしたが、この距離感にしているのは幼馴染の方なので、大人しく引っ張られるままにした。
幼馴染に連れて行かれた先は古い喫茶店だった。二人席に案内されて、向かい合わせに座る。
「オレンジジュースでいいか?」
「いえ、そのカフェオレでお願いします」
わかったと幼馴染は頷くと店員にコーヒーとカフェオレを注文する。付き合えと言った当の本人はじぃっと飲み物が来るまで何故か俺を見ているだけだった。前にも似たようなことがあったなぁと思いながらも今回はただひたすらに幼馴染が話してくれるのを待つ。
「怪我はしてないか?」
「へ?」
唐突に喋ったと思ったら、話題はいつかの生徒指導室と全く同じだった。今は長袖を着ているから見えないだろうが、どうやらじっと見てたのは腕のようだ。
俺は大丈夫ですよというように腕を振る。
「大した怪我はないので大丈夫です」
「怪我をするなと言ったはずだが」
「難しいと答えました!一応細心の注意は払ってます!」
幼馴染に言われてからとりあえず怪我をしないように気を付けてはいるのだ。ただ、どうしても彼女の件があるのでそれは仕方ないと思っている。
ふぅっと幼馴染が息を吐いた。
「胡蝶から話を聞いた。誰かに苛められているのか」
「え?」
「困ってるなら相談しろと言ったはずだ。
俺に言うのが嫌なら……嫌でも俺に言え。何とかする」
「いやいやいや、いじめられてるとかないですよ」
「だが、その傷は誰かから受けていると胡蝶は言っていたぞ」
さすがしのぶ先輩。怪我を見ただけで大体のことは把握できてしまうのか。すごいなぁと感心するけれどできれば幼馴染には言わないで欲しかった。
彼女のことを幼馴染に言うべきか迷う。話したらどうなるだろうか。少しずつ彼女は明るくなってきている。傷だって前に比べたら間隔が空いてきているのだ。このままでもきっと大丈夫だ。
「大丈夫ですよ。冨岡先生」
心配することは何一つないと俺は笑ったけれど、幼馴染の憂いを帯びた瞳はじぃっと疑うように俺を見つめていた。
冬休みが終わり、また学校生活が始まる。来年は自分たちも受験生かと緊張した面持ちの先輩たちを見つめながら善逸と伊之助とそろそろ自分たちの進路について考え始めた。
善逸は当然のように大学に進学する予定のようだ。伊之助も進学についてはどうしようかと考えているらしい。本人としては学校を卒業したらすぐにでも働きたいが、親は大学に行くことを望んでいるらしい。
カナヲは姉二人の背を見て医療系を目指すらしい。だが医療系と言っても種類はたくさんあるので、この一年で色々と考えるとのこと。玄弥は言わずもがな、大学進学だ。不死川先生に大学に行け、と言われてそこそこ有名な学校を目指しているらしい。
俺はというと実家にパン屋を継ぎたいとは思っているものの、親にはもう少し広い世界を見ておいでと言われている。パン屋を継ぎたいと言ってもらえるのは嬉しいけど、と眉を下げて言う母親に俺は悩んだ。
大学に行くとなるとお金が必要だ。禰豆子や竹雄、花子に茂、六太も大学に行きたいとなればさすがに女で一つで働いているパン屋のお金では足りない。働き手が必要になるはずだ。
どっか大手の企業に就職して仕送りをするのも一つの手ではある。どちらにしろ。この一年で一番良いと思える道を探さないといけない。
未来を考えるのは楽しいけれども、これからを大きく変えてしまう選択をしなければならないことに大きな不安がのしかかる。それしか選択肢がなければがむしゃらに頑張れるのだけれど。
とうとう渡された進路希望の紙を手に図書館に向かう。
「……おはよう、炭治郎。どうしたの」
「おはよう。へへ、やっぱり顔に出ちゃってた?」
彼女といつものように挨拶をするが、やはり陰鬱な気持ちは表情にも出ていたようで聞かれてしまった。進路相談の紙を彼女に見せながら、悩みを吐き出す。こればかりは自分の問題だから誰に聞いてもどうしようもなくて。周りの友達もみんなそんな感じに色々な人に話して、迷いながら選択肢を作っている。
「炭治郎は将来なりたいものとかないの?」
「将来なりたいもの、かぁ……。家族を守りたいって気持ちはあるけど、なりたい職業とかは考えたことないかな。パンとか、料理を作るのは好きだけど」
「ふぅん。まぁ、図書館にはいろいろな職業の本もあるから探してみれば。
なりたい職業が決まればどうすればいいかわかるだろうし」
「うん、そうだな。そうするよ」
彼女の言う通りだ。まずは自分のなりたいものがなんなのかを決めよう。職業で飲食関係のことについての本を探す。飲食関係と言っても料理を製造する側、レシピを作る人、専門家など多種多様にわたる。スポーツ選手のために栄養管理士がご飯を作ることだってあるみたいだし、意外と飲食関係と言っても色々な職業があるのだな。
俺がむむむと本と睨めっこするのを彼女はじぃっと見つめていた。
週末に何度も図書館に通ってようやくいくつか興味のある職業に絞ることはできた。実家のパン屋を継ぐためにも調理師免許は取得しておくべきだろうと短大の大学をいくつか記入する。あとは担任の先生に面倒見が良いから保育士などはどうだと言われたのでそちらも候補として一つ入れた。
こうして進路について考えると数年後には社会人になるんだなとしみじみしてしまう。
「書き終わった?」
「うん。相談に乗ってくれてありがとう」
彼女はいいよ、と微笑んだ。最初に会ったときのあの暗い表情は今となっては見る影もない。俺が紙を鞄にしまうと彼女は外に行こうと言った。冬のあの日以来、彼女は時々だが外に行こうと言うようになった。
目的地はやはりないので適当に歩き、いつものように橋につくと欄干に背中を預けて話した。
ニュースでは春の訪れを予想していたが、今日は季節外れの雪が降った。最後の冬の日だというようにちらつく白い雪は大きくてあっという間に地面を覆いつくした。
「綺麗だね」
「うん」
まるで冬に巻き戻ったかのような風景に俺も彼女も笑った。季節外れの雪のせいか道路を走る車も少なく、人通りも今日は少なかった。しんしんと降り積もる雪の中、俺と彼女は真っ白に染まる世界をじっと見つめていた。
「私、天使になりたいな」
ぽつりと彼女は言った。天使、とはどういう意味だろうか。看護師を白衣の天使と呼んでいたから看護師のことだろうか。彼女はじっと俺を見ていた。
「天使ってどうしたらなれると思う?」
「どうしたらって」
「ねぇ、知ってた?人は死んだら神様になれるんだよ。
だからね、炭治郎」
欄干の上に彼女が立つ。危ないと彼女に伸ばしたその手をぐいっと逆に引っ張られる。踏ん張ろうとした足は雪で滑り、彼女の力でふわりと上に持ち上げられる。
にこりと少女は嬉しそうに笑う。
「飛んだら、人は天使になれるんだよ」
二人で真っ白な雪と共に宙を舞う。下には川。受け身も何も取れない。顔を青くさせて少女を見た。歪んだ笑みを浮かべた少女の瞳はあの頃と変わらず、底なし沼のように真っ暗であった。
煮物に焼き魚、だし巻き卵など普段はパンを作る場所にせっせとおせち料理を作って並べていく。おせち料理は豆を煮たり時間も手間暇もかかる料理も多く、あちらこちらと台所を忙しく三人で交代に火の番をしたりして二日ほど時間をかけて出来上がる。
「そばできたから、みんな取りに来てー」
「はぁい」
禰豆子の言葉に竹雄がお盆と器を手にやってくる。器に蕎麦とだし汁を手際よく入れる俺に竹雄がそういえばと思い出したように声を上げる。
「冨岡さんから電話があったよ」
「冨岡先生から?」
幼馴染は俺にとってだけでなく兄弟にとっても幼馴染だ。クールでかっこいい幼馴染は下の弟たちにとっては憧れのお兄さんらしく、彼が来た日はいつも以上にはしゃいでいる。
「正月に一緒に初詣に行こうって」
「へぇ」
珍しい話だな、と思った。今はそうあまり遊んではないけれど、幼馴染と遊ぶときは大抵自分から誘っていた。小さい頃は一緒に行きたいと強請って連れて行ってもらう側だった。今考えるとやはり申し訳なさが募る。絶対に無理させてたよなぁ。
幼馴染だって友人がいるのだし、気の合う人たちと遊びたいと思うだろう。鬱陶しい、と言葉にされることはなかったが内心そう思われていたかもしれない。口数少ない幼馴染みは良い意味でも悪い意味でも自分の意思を口に出すことはなかった。
「明日、兄ちゃんも行くだろ?」
「え?
あ、すまん。言ってなかったか」
当然のように俺も一緒に行くよね、と言う竹雄に俺は眉を下げて謝る。
正月はすでに善逸や伊之助と初詣に行く約束をしてあるのだ。禰豆子も一緒に。母親には言ってあったけれど弟妹に話すのを忘れていた。
「えぇ?じゃあ、冨岡さんと俺たち四人で行くってこと?」
「悪いな。でも冨岡さんは先生だし、安心して六太達を任せられるから良かったよ」
「冨岡さんに兄ちゃんも一緒だって言っちゃったから、後で電話しておかないと」
「俺も一緒に?」
「そうだよ。冨岡さん、お兄ちゃんも一緒に行くかって確認してきたんだもん」
「そうかぁ……」
勘違いだったらとても申し訳ないのだけれど、ついてきたら嫌だなとかそういう意味合いで確認したわけではないよなと一瞬考えてしまう。すでに告白から一年が経とうとしている。もうすっかり先生と生徒の距離になっているが、それが自分の認識上でだけという可能性は、ある。
「それじゃあ、悪いけど冨岡さんに俺はいけないって伝えておいてもらえるか?」
「わかった。ちなみに兄ちゃんたちどこの初詣に行くの?」
「ああ、俺たちは隣町の神社だよ」
恋愛成就で有名なとこなんだとか。善逸が熱く語っていたのを覚えている。駅で伊之助と善逸と待ち合わせていく予定だ。他にも何人か誘っているので、人数はもう少し多くなる予定だ。
ふぅん、と竹雄はわかったというように頷いて蕎麦を持って帰っていく。花子と茂、六太にも蕎麦と出汁を注いでから、禰豆子と母親の分を用意して、居間へと持っていく。
年越しはみんなでこたつを囲むのが毎年の恒例行事だ。この日ばかりは夜更かししても怒られないので六太や茂は嬉しそうにしているが、年を越す前に二人とも寝てしまう。
そんな二人を隣の部屋に連れて行ったり、五人でテレビを見たり話をしている間に除夜の鐘の音が聞こえる。この町の寺では除夜になると鐘をちゃんと鳴らしてくれるのだ。
「……それじゃあ、今年もお世話になりました」
床に手をついてみんなで挨拶をする。今年が終わり、新しい一年がはじまる。
「今年もよろしくお願いします」
寝てる二人を起こさないようにみんなでふふっと笑い合う。
翌日、朝早くから禰豆子に着物を着せて一緒に駅へと向かった。
お兄ちゃんもおしゃれすればいいのにと頬を膨らませる可愛い妹に、近寄る不埒な男がいないとは限らない。いや、むしろいないはずがない。とはいえ、可愛い妹に並んで写真を撮りたいと言われれば変な服装で行くのも良くないので、あまり着ない余所行きの服を着た。
駅には伊之助と善逸がすでに待っていて、禰豆子を見るなり善逸が奇声を上げて文字通り飛び上がった。
「禰豆子ちゃん!かわいいね!まるでお姫様みたい!!」
「ありがとう、善逸さん」
お気に入りの着物が褒められてまんざらでもない禰豆子は善逸ににこりと微笑んだ。伊之助もじぃっと禰豆子の頭から足先まで眺めて、見事な変装だなと頷いた。恐らく誉め言葉だ。にこにこと禰豆子もお礼を言っていた。
駅で立ち話をしていたらお参りの時間が遅くなってしまう。話もそこそこに電車に乗り、神社の最寄り駅に降りると、初詣に行く人たちで道が混んでいた。
「迷子にならないように手を繋ごう」
禰豆子の手を取り、彼女が他の人にぶつからないように気を付けて進むが、途中で伊之助がはぐれたり、酒を飲んで酔っ払っている大人に絡まれたりと神社にたどり着くのが大変だった。こんなに人が多いと現地で待ち合わせしていた子達と会えるのだろうかと不安になる。
境内の鳥居で待ち合わせ、としているが神社内の初詣のお参りの列はすでに境内の枠内に収まっていない。鳥居の傍で四人立っているが、まだ待ち合わせ相手は来ていない。
「お兄ちゃん、私化粧室に行ってきてもいい?」
歩いている途中で乱れたらしい髪を撫でながら禰豆子が言う。別にそのままでも可愛いと思うがせっかくおしゃれしているのだから、禰豆子の言う通りにさせてあげよう。
「わかった。一緒に途中まで行こうか?」
「ううん、大丈夫」
禰豆子が心配する俺に向かってにこりと微笑んでその場を離れると、善逸もちょっと用を足しにと離れ、さらには伊之助は屋台がどうしても気になるのか、俺の待てと言う言葉を聞かずに走り出してしまった。
みんな用事を済ませたら早く戻ってきてくれるといいのだけれどと思って待っていると、隣の女性が何やら困った様子でいるのに気付く。どうやら鼻緒が切れてしまったらしいが、この人混みのなかしゃがむこともできず、右往左往している。
「大丈夫ですか?鼻緒が切れたんですよね」
にこりと安心させるように微笑んで女性に話しかける。ひとまずはこの人混みから脱出するのが先決だ。女性が歩けるように注意しながら先導して進む。道から少し外れて裏道へ来ると石垣に女性を座らせてハンカチと財布から取り出した5円玉で応急処置をする。
「ごめんなさい。あの、これお礼です」
「いえ、そんなもらえないです!」
「でも、ハンカチとか汚れてしまったし」
「安物のハンカチなので大丈夫です!それよりこれは応急処置なのでちゃんとした靴を買うとかした方がいいと思います。それでは」
千円札を差し出してくる女性を背に駆けだす。言ってることはすべて本当だし、それにもうそろそろ境内に誰か来ているかもしれないと思うとそちらの方が気になって仕方がなかった。
鳥居のところへ行くと待ち合わせの相手である友人が保護者同伴で立っていた。
「カナヲと玄弥、それに不死川先輩と胡蝶先輩も一緒に来てくださったんですね!」
「ふふ、また会いましたね炭治郎くん」
「わざわざ人が多い神社にお参りとかお前ら暇かァ」
「あら、意外とここの神社は願いがよく叶うと評判なんですよ。
どうですか?不死川先生も良かったらお一つお願いしてみては」
「俺は叶えてもらうもんなんか一つもねェよ」
楽しそうに保護者が会話している間にカナヲと玄弥に新年あけましておめでとうとあいさつをする。二人とはクラスが離れてしまっているので学校ではあまり話せてないが、一緒によく遊びに行く友人だ。
冬休みの宿題について話していると禰豆子が戻ってきて、善逸と伊之助も境内に来るとしのぶ先輩に感激の声を上げて、不死川先生に驚いて飛び上がった。
「新年早々先生の顔を見るなんて……」
「あァ?なんか言ったか我妻ァ」
「イエ、ナンデモアリマセン!」
「俺は先生に会えて嬉しいです!」
「お前は……いやもう疲れたからさっさとお参り済ませるぞ」
「ふふ、不死川先生照れてるみたいですね」
「兄ちゃん、怖がられてることが多いから炭治郎に嬉しいって言われて照れてるんだ」
「玄弥ァ、お前後で宿題増やす」
「えっ」
玄弥達のやりとりを見てカナヲ達がくすくすと笑う。話の元はしのぶ先輩なのだけれど、もう卒業生であるし口達者でもある先輩にはさすがの不死川先生もじろりと睨むだけで何も言えないようだ。
お参りの列は長かったけれど、みんなで話しているとあっという間に進んでいく。玉砂利が敷き詰められた参道を歩き、神前へと進んでいく。賽銭箱を前にお金を入れて事前に確認した通りに二拝二拍手一拝をしてお祈りをする。禰豆子を挟んだ先にいる善逸から悍ましい念が飛んでいるのが気になるが、無視して何を祈ろうかと考える。
神様。
数日前にした彼女との会話を思い出す。神様にお願いごとをするなら、彼女がこれ以上自傷することがなくなりますように、と祈った。あのときか細く言った彼女の言葉がなくなってしまえばいい。
世界が誰かにとって優しくなりますように。
ありきたりな願いをして目を開ける。すでに他の人も祈りが終わったようだ。不死川先生はそもそも祈らないと言っていたし、さっさと行くぞとまだぶつぶつと念を飛ばしている善逸を引っ張ってきた道を引き返した。
その後はおみくじを引いたり、ぜんざいを食べたり甘酒を呑んだりしてゆっくり過ごしていたが、人混みは全く減ることがなく増えるばかりだった。
「これだけ人が多くなるとはぐれたらどっかで待ち合わせすんのも難しそうだな」
「まぁ、そうなったら自主解散でいいんじゃないですか?
一応お参りは済ませましたし」
「そうだね。はぐれたらメールだけして」
「まぁ、今にもはぐれそうなやつがここにいんだけどな…」
玄弥の視線の先には焼きイカを頬張る伊之助がいる。道すがら屋台に売っている食べ物をおいしそうだと思えば立ち止まり、歩きながら食べている姿に何度不死川先生が注意をしたことか。
ゴミはちゃんとゴミ箱に捨てろ、汚れた手で財布を触るな、口に物を入れたまま喋るな、食べ物をもったまま走るななど不死川先生さまさまである。
「禰豆子ちゃん、りんご飴美味しい?」
「うん、とっても!」
伊之助を不死川先生が注意してくれるおかげで善逸は禰豆子との会話に集中している。でれでれと頬を緩ませながらもしっかりと禰豆子が他の人とぶつからないように守っているところはさすが善逸というところだろうか。
俺もカナヲと玄弥としのぶ先輩と楽しく話していたが、わっと人波が押し寄せた時にみんなとはぐれてしまった。不死川先生の言っていた通り、一度はぐれてしまうとどこに誰がいるのかわからない。
しかたなくメールではぐれたので家に帰りますと連絡すると、カナヲとしのぶ先輩も家に帰ると連絡があった。玄弥は不死川先生と伊之助と一緒にもう少し見回るそうだ。完全に伊之助のお世話をしてもらって申し訳ない。
禰豆子は善逸と一緒だから心配しないでと連絡があった。善逸に陽が暮れるまでに禰豆子を家に送ってくれと言うと即座にわかったと連絡があった。こういうところはとても早い。
みんなに連絡を済ませたので駅まで歩いて帰ろうと踵を返した時、たくさんいる人の中で何故かその人物だけがはっきりと見えた。というか向こう側もこっちを見ていた。よくこんな人混みの中で自分を見つけられたなぁと驚く。一応きょろきょろと周りを見回したが、知り合いはいないし、まっすぐにこちらに向かってくるのでその場で立ち止まっていた。
目の前に立たれるとやはり見ていたのは自分で合っていたのか。幼馴染を見上げて新年あけましておめでとうございますと定型文を口に出すと、おめでとうと返された。
「冨岡先生、竹雄たちと初詣に行くんじゃなかったですか?」
「行ってきた」
「そうなんですか。早いですね」
深い青い瞳がまっすぐと炭治郎を見下ろしている。海の底みたいに真っ暗なその瞳は何を幼馴染の表情と同じく何を考えているのかよくわからなかった。
「お参りは終わったのか?」
「え?はい。一応終わりました。
あ、禰豆子と善逸と伊之助の他に今日はカナヲと玄弥、それにしのぶ先輩と不死川先生も一緒だったんですよ。お参りが終わった後はぜんざいと甘酒を飲んだんです。その後適当に歩いて話してたんですけど、この人混みなのではぐれてしまって……」
今一人でいる理由をぺらぺらと喋っていることに気づきはっと口を閉じる。ここに来たという事は幼馴染もお参りに来たに違いない。俺たちが来た時よりもお参りの列は長くなっているから、ここで話しているよりも早く列に並ぶべきだ。
「冨岡先生、お参りするなら早く列に並ばないと」
「いや、俺は……」
「俺はもうお参り済ませてるので一緒に並べませんけど、どうぞお気にせず!」
「炭治郎」
幼馴染の背をぐいぐいとお参りの列に向かって押そうとするとその手を掴まれた。そのまま人混みの雪崩に巻き込まれそうになるのを幼馴染の腕の中で過ごす。
心臓がざわっと飛び跳ねる音がする。さよならしたはずの恋心はまだ残っていたのか、掴まれた腕から、密着して胸に押し当てられた頬から、血が全身にめぐるように熱くなる。
「大丈夫か」
耳元に落ちる優しい声にはっと息を呑む。冷たい空気を早く吸ってこの熱を冷まさないと。そう思うのに先生と生徒という距離感ではない近さに頭がくらくらする。とにかく離れなくてはと、幼馴染の胸を手で押しのけると顔を下に向けたまま大丈夫です、と答えた。
未だ心配そうな香りを漂わせる幼馴染に適切な距離を保ってくれと押しのける。多分これは幼馴染の距離ではない。友人でもない。よくない。
ただいまと戻ってきてしまった恋心を慌てて追い出す。
「大丈夫なので、一度離れてもらっても良いでしょうか」
「何故だ」
「何故、って……」
いや、そんなのわかるでしょうと、大きく冷たい息を吸ってようやく落ち着いた心で顔を上げた。思ったよりも顔が近くにあってひゅっと息を呑んだ。綺麗よりも怖さの方が今回は勝った。
「心臓に、悪いので」
「病気でもあるのか?」
「いえ、ないですけど。いきなりは驚くじゃないですか」
病気でもあるのかと聞いた時にはわかりやすく焦った声を出したが、驚くのでやめてほしいと言うと小首を傾げた。この人大人のはずなのに、仕草が時々幼い弟に被って見える時がある。
「ちゃんと声はかけたが」
「そうですね……。えっとそれで冨岡先生はお参りは」
「しない」
「しないんですね」
口下手の幼馴染と話し合っていてもいつまでも平行線になりそうな気配がしたので話題を変えた。お参りへと誘導しようとしたらあっさりと断ち切られた。
では一体この人は何のためにここに来たのだろうか。じっと顔を見つめるとふいっと顔を逸らされた。聞かれたくない理由があるのかもしれない。
「あの、それじゃあ俺そろそろ帰ろうと思うんですけど」
そう言って離れようとするが腕がやはり掴まれたままだ。どうすればいいんだ、これは。ほとほと困り果てていると付き合え、と言われる。
「時間があるなら少し付き合え」
「はぁ……。いいですけど」
そのままぐいぐいと腕を引っ張られるがまま人混みの波をかき分けるように進んでいく幼馴染の後ろを歩く。この距離感はどう考えても先生と生徒でも幼馴染でもない気がしたが、この距離感にしているのは幼馴染の方なので、大人しく引っ張られるままにした。
幼馴染に連れて行かれた先は古い喫茶店だった。二人席に案内されて、向かい合わせに座る。
「オレンジジュースでいいか?」
「いえ、そのカフェオレでお願いします」
わかったと幼馴染は頷くと店員にコーヒーとカフェオレを注文する。付き合えと言った当の本人はじぃっと飲み物が来るまで何故か俺を見ているだけだった。前にも似たようなことがあったなぁと思いながらも今回はただひたすらに幼馴染が話してくれるのを待つ。
「怪我はしてないか?」
「へ?」
唐突に喋ったと思ったら、話題はいつかの生徒指導室と全く同じだった。今は長袖を着ているから見えないだろうが、どうやらじっと見てたのは腕のようだ。
俺は大丈夫ですよというように腕を振る。
「大した怪我はないので大丈夫です」
「怪我をするなと言ったはずだが」
「難しいと答えました!一応細心の注意は払ってます!」
幼馴染に言われてからとりあえず怪我をしないように気を付けてはいるのだ。ただ、どうしても彼女の件があるのでそれは仕方ないと思っている。
ふぅっと幼馴染が息を吐いた。
「胡蝶から話を聞いた。誰かに苛められているのか」
「え?」
「困ってるなら相談しろと言ったはずだ。
俺に言うのが嫌なら……嫌でも俺に言え。何とかする」
「いやいやいや、いじめられてるとかないですよ」
「だが、その傷は誰かから受けていると胡蝶は言っていたぞ」
さすがしのぶ先輩。怪我を見ただけで大体のことは把握できてしまうのか。すごいなぁと感心するけれどできれば幼馴染には言わないで欲しかった。
彼女のことを幼馴染に言うべきか迷う。話したらどうなるだろうか。少しずつ彼女は明るくなってきている。傷だって前に比べたら間隔が空いてきているのだ。このままでもきっと大丈夫だ。
「大丈夫ですよ。冨岡先生」
心配することは何一つないと俺は笑ったけれど、幼馴染の憂いを帯びた瞳はじぃっと疑うように俺を見つめていた。
冬休みが終わり、また学校生活が始まる。来年は自分たちも受験生かと緊張した面持ちの先輩たちを見つめながら善逸と伊之助とそろそろ自分たちの進路について考え始めた。
善逸は当然のように大学に進学する予定のようだ。伊之助も進学についてはどうしようかと考えているらしい。本人としては学校を卒業したらすぐにでも働きたいが、親は大学に行くことを望んでいるらしい。
カナヲは姉二人の背を見て医療系を目指すらしい。だが医療系と言っても種類はたくさんあるので、この一年で色々と考えるとのこと。玄弥は言わずもがな、大学進学だ。不死川先生に大学に行け、と言われてそこそこ有名な学校を目指しているらしい。
俺はというと実家にパン屋を継ぎたいとは思っているものの、親にはもう少し広い世界を見ておいでと言われている。パン屋を継ぎたいと言ってもらえるのは嬉しいけど、と眉を下げて言う母親に俺は悩んだ。
大学に行くとなるとお金が必要だ。禰豆子や竹雄、花子に茂、六太も大学に行きたいとなればさすがに女で一つで働いているパン屋のお金では足りない。働き手が必要になるはずだ。
どっか大手の企業に就職して仕送りをするのも一つの手ではある。どちらにしろ。この一年で一番良いと思える道を探さないといけない。
未来を考えるのは楽しいけれども、これからを大きく変えてしまう選択をしなければならないことに大きな不安がのしかかる。それしか選択肢がなければがむしゃらに頑張れるのだけれど。
とうとう渡された進路希望の紙を手に図書館に向かう。
「……おはよう、炭治郎。どうしたの」
「おはよう。へへ、やっぱり顔に出ちゃってた?」
彼女といつものように挨拶をするが、やはり陰鬱な気持ちは表情にも出ていたようで聞かれてしまった。進路相談の紙を彼女に見せながら、悩みを吐き出す。こればかりは自分の問題だから誰に聞いてもどうしようもなくて。周りの友達もみんなそんな感じに色々な人に話して、迷いながら選択肢を作っている。
「炭治郎は将来なりたいものとかないの?」
「将来なりたいもの、かぁ……。家族を守りたいって気持ちはあるけど、なりたい職業とかは考えたことないかな。パンとか、料理を作るのは好きだけど」
「ふぅん。まぁ、図書館にはいろいろな職業の本もあるから探してみれば。
なりたい職業が決まればどうすればいいかわかるだろうし」
「うん、そうだな。そうするよ」
彼女の言う通りだ。まずは自分のなりたいものがなんなのかを決めよう。職業で飲食関係のことについての本を探す。飲食関係と言っても料理を製造する側、レシピを作る人、専門家など多種多様にわたる。スポーツ選手のために栄養管理士がご飯を作ることだってあるみたいだし、意外と飲食関係と言っても色々な職業があるのだな。
俺がむむむと本と睨めっこするのを彼女はじぃっと見つめていた。
週末に何度も図書館に通ってようやくいくつか興味のある職業に絞ることはできた。実家のパン屋を継ぐためにも調理師免許は取得しておくべきだろうと短大の大学をいくつか記入する。あとは担任の先生に面倒見が良いから保育士などはどうだと言われたのでそちらも候補として一つ入れた。
こうして進路について考えると数年後には社会人になるんだなとしみじみしてしまう。
「書き終わった?」
「うん。相談に乗ってくれてありがとう」
彼女はいいよ、と微笑んだ。最初に会ったときのあの暗い表情は今となっては見る影もない。俺が紙を鞄にしまうと彼女は外に行こうと言った。冬のあの日以来、彼女は時々だが外に行こうと言うようになった。
目的地はやはりないので適当に歩き、いつものように橋につくと欄干に背中を預けて話した。
ニュースでは春の訪れを予想していたが、今日は季節外れの雪が降った。最後の冬の日だというようにちらつく白い雪は大きくてあっという間に地面を覆いつくした。
「綺麗だね」
「うん」
まるで冬に巻き戻ったかのような風景に俺も彼女も笑った。季節外れの雪のせいか道路を走る車も少なく、人通りも今日は少なかった。しんしんと降り積もる雪の中、俺と彼女は真っ白に染まる世界をじっと見つめていた。
「私、天使になりたいな」
ぽつりと彼女は言った。天使、とはどういう意味だろうか。看護師を白衣の天使と呼んでいたから看護師のことだろうか。彼女はじっと俺を見ていた。
「天使ってどうしたらなれると思う?」
「どうしたらって」
「ねぇ、知ってた?人は死んだら神様になれるんだよ。
だからね、炭治郎」
欄干の上に彼女が立つ。危ないと彼女に伸ばしたその手をぐいっと逆に引っ張られる。踏ん張ろうとした足は雪で滑り、彼女の力でふわりと上に持ち上げられる。
にこりと少女は嬉しそうに笑う。
「飛んだら、人は天使になれるんだよ」
二人で真っ白な雪と共に宙を舞う。下には川。受け身も何も取れない。顔を青くさせて少女を見た。歪んだ笑みを浮かべた少女の瞳はあの頃と変わらず、底なし沼のように真っ暗であった。