短編

 村に着くころには昼を過ぎていた。暑い日差しにも関係なく歩く人々に声を掛ける行商の姿は昨日と変わった様子はなく、村は活気に溢れている。
 昨日うどん屋があった通りを歩いてみたが昼は店を出していないのか、見つからなかった。他の誰かに話を訊ねてみようかと辺りを見回す。
 忙しなく歩いている旅姿の者に話を聞いても山神の話は聞けないだろう。話を聞くなら店を出している者か、確実なのは村人だろう。子供が帰ってきたという家の者に一度話も聞きに行くべきか。
 目に入った茶屋に入ると団子を一つ頼むついでに山神と行方不明になった子供の件を聞く。山神の情報は特に目新しいものはなかったが、行方不明の子供の家はわかった。
 秋月家。
 この村で金物修理を行っている家だそうだ。その家までの道も聞いて団子を食べるとすぐにそこへと向かった。人々が行きかう忙しい通りを二つほど越えて静かな家が並ぶ方へと歩く。
 青々としたツツジの低木が並ぶ道にある二つ目の家が目的の家だった。カンカンと金属を叩く音を頼りにその家に近づくと、家先で作業をしていた男が胡乱気な顔で義勇を見てきた。頭を下げると作業していた手を止めて男が近づいてくる。
「うちに何か用でも?」
 客でもなさそうな義勇に男は不信感を抱いている様子だった。不信感を隠さない男に義勇は簡潔に炭治郎のことを確認すると、男は少しだけ警戒心を和らげた。
「うちの子を探しに来たやつねェ……。あの時はなりふり構わずいろんなところに話をしたもんで、あまり覚えてないんですよ。
 子供が見つかった日にはささやかな礼として食事は振る舞いましたけど、名前とか聞いてませんでしたから」
「そうか。
 ……子供は誰が見つけたんだ?」
「いえ、うちの子はいつの間にか庭に立ってたんですよ」
 ほら、そこです、と言って男が指したのは家の裏庭。ちょうど山が見える位置だ。
「最初に見つけたのはうちの家内でして。目を丸くして立ってる子供を見つけて大声で叫んだもんだから何事かと思いましたよ。
 うちの子に今までどうしてたんだって聞いても、何も答えてくれなくて。
 ただ山神様に会ったって」
 山神様がどんな人かは知らないが、子供を返してくれたんだからありがたい神様に違いない。今日も家内は山神様にお供え物をしに山の下にある祠に行っている。
 恐らくもう何度も誰かに説明したのであろう。男はぺらぺらと手慣れた様子で事の経緯を話し続けた。
 男の話を聞きながら情報を整理していく。
 山神様の祠は山の裏手の方にある。
 山の中腹にあった社から御神体は他所へ移したが、その欠けた一部は山の裏手にある祠に移動させた。
 今でもそこへお参りに行く人は何人かいる。
「あの子は山神様の手で神隠しにあったのかもしれねぇなぁ。
 あんたの知り合いもうちの子と同じように神隠しにあったのかもしれないな。山神様にお願いすれば返して貰えるんじゃないか」
「……」
「ありゃ、そんな渋い顔するなんて悪かったよぅ。
 大丈夫さ。あんたの知り合いもきっと見つかるさ」
 不服が顔に出ていたらしく、男は申し訳なさそうに視線を地面に落とした。悪気があって言ったわけではないことはわかっていた。
 これ以上この男に聞く話はなさそうだ。ただ、もし竈門炭治郎という男が訪ねてきたらここへ連絡して欲しいとだけ男に伝えて家を出る。
 山神様という情報は少しだけ手に入った。今から行くとなると夕暮れ前になるだろうか。いや、裏手側と言っても詳細な道は教えて貰ってない。何人かが祠にお参りしているから少なくとも道はあるはずだが……。
「お兄さん」
 考えながら歩いていると道脇にある井戸の影から声が聞こえた。ひょこりとその影からこちらを覗く小さな子供が一人、手招きをしていた。
 辺りに自分以外の人がいないことを確認した後にその子供へと近づくと、服の裾を引っ張り井戸の影へと連れ込んだ。
「お兄さん、お兄ちゃんを探してるの?」
「お兄ちゃん?いや、俺には兄は……」
「赤みがかった髪の、額に痣のあるお兄ちゃんでしょ?」
 子供の言葉に言葉を詰まらせると、子供はやっぱりと嬉しそうに笑った。
「僕、知ってるよ」
「知ってるのか?炭治郎はどこにいるんだ」
「山神様のとこ!」
 子供は元気よく答えたかと思うと少しだけ不安そうに多分と付け足した。
「僕もね、僕のお兄ちゃんを探して山に入ったんだ。その時に赤毛のお兄ちゃんに会って一緒に山の中を探したんだ。いつも僕が一人で山に入るとお兄ちゃんがやってきて一人は危ないよって言って一緒に探してくれたんだ」
 この子供は行方不明になった子の弟らしい。拙い子供の説明にうんうんと頷きながら耳を傾ける。確かに炭治郎だったら山に子供が一人いるのを見たら声を掛けずにはいられなかっただろう。
 山の中をこの子と炭治郎は何度も行方不明の子を探して歩き回ったそうだ。ちょうど山の裏手側を探していた時に偶然山神様の祠を見つけたらしい。その山神様の祠の先にはさらに奥に続く道があり、その先には大穴があった。その大穴を覗いた後、そこから先は記憶がないのだという。
「記憶がない?」
「うん。気がついたら僕も家の前に立っててお母さんの声がしたと思ったらお兄ちゃんが帰って来てたんだ」
「?すまない。意味がよくわからない」
「僕もよくわからない。
 でも山神様のとこにお兄ちゃんと一緒に行ったのは本当だよ!」
 真剣に話す子供の表情を見れば、それが嘘ではないということはわかる。だが、突拍子もない話だ。いや、既に突拍子もないことは自分の身にもすでに起きている。
「……明日、山神様の祠の奥に行ってみる」
「うん!そうした方がいいと思う!」
 子供はお兄ちゃんを見つけたらよろしくねと言って、家の方へと走って去っていく。賑やかな子供だった。どこか炭治郎にも似ているような気がする。
 そういえばあの子の名前を訊きそびれてしまった。炭治郎ならあの子の名前も知っているだろうか。炭治郎を見つけたらその時に会いに行けばいいだろうか。
 そう考えながら通りに戻る。昔であればすぐにでも山に行き祠を探していただろうが、前より衰えた身体では山に行くのは難しい。それにあの子供が言っている言葉に嘘はないとはいえ、若干怪しい箇所がいくつかあった。
 表通りを歩きながら、あの家の子供について訊く。

 神隠しにあった子の家?あそこはただの家出だって聞いたよ。
 お兄さんがいなくなって、弟君も大分気落ちしてたようだったけど……。数日姿を見せなかったかと思ったらお兄さんが返って来る前にけろっとした表情で帰ってきたよ。
 山の裏に祠?そういえば子供たちがよく遊び場に使ってたなぁ。あそこはようカブトムシが採れるから、朝早くから子供たちが出かけるんだ。あの兄弟も、よくそこへ虫取りに出かけてたよ。けど、祠なんてあったかなぁ。
 
 何人かの村人たちは頭を悩ませながらもそう答えてくれた。あの家の親曰く、たくさんの人に協力してもらったと言っていたが、話を知っている人はそう多くなさそうだ。食い違う話に、違和感を覚えつつも、昨日と同じように道の端で干し柿を売る老婆を見かけ、その前で立ち止まる。
「山の裏にある祠について、何か知ってないか」
「あんた、山の神様について調べてるのかい?」
「……ああ」
 老婆は義勇の立ち姿をじぃっと眺める。何かを見定めるかのようなその視線にただじっと耐えていると老婆はそっと干し柿を差し出してきた。
「少しだけ長い話になる」
「買おう」
 商売の邪魔をしているのだから、差し出された干し柿だけではなく売りに出されていた干し柿をすべて買い取る。自分で食べきれない分は宇髄か不死川にでも送ればいいだろう。
 袂から財布を取り出すと金を支払うと老婆は義勇に座れと空いている木箱を指差した。その木箱に座ると老婆は山に背を向けたまま話始めた。
「山の裏側に祀ってある祠の神様は、山の神様とは少し違うんだよ。
 あの山には神様が二人いて、二人で一つの神様だった。山の中腹あたりにある社は二人のためのものだったけれど、祠はそれぞれ別の所に用意されていたんだよ」
 山の裏側にある祠と、山の表側にある祠。その両方から一名ずつ村の代表の男女が黒と白の衣装を着て、山の中腹の社まで練り歩く。神様に秋の豊作を願い、作物を捧げ、神楽を奉納し、村人皆で祈りを捧げる。この小さい頃はそれを毎年やっていた。
「山の神様は皆の願いを叶えてくれる有難い存在だった。
 けれど、何の対価もなく願いを叶えてくれる存在ではないんだよ」
 そう言う老婆の瞳は神様に対する感謝というよりも畏れが滲んでいた。昨日感じた違和感の理由がわかり、義勇はそうかと応えて老婆に話の先を促す。
「ある時、私は神様にお参りついでに祈ったんだ。この村から出て都会へ行けますようにって。
 若い、何も知らない小娘の願いだ。何もない村よりも、都会はきっと夢や希望に溢れてるとそう思っていた愚かな小娘の願いを、神様は叶えてくれた。土砂崩れがおきてお社がなくなった時、うちの家族もその土砂崩れに巻き込まれて亡くなってねぇ。
 私は親戚の都会に住む家に転がり込むことになったんだよ。
 都会は無知な少女が夢見ていたようなものではなくて、家族もいなくて失意の最中、村から追いかけてきた旦那がいたから私はこの村に戻って来ることができた。それからもう、神様に滅多なお願いをすることはしなくなったよ。
 ……私の話はまぁ、これ以上はどうでもいいことだね。山の裏側の祠の神様だろう。
 あそこには願いを叶えて貰うための対価を放り込むための穴があるんだ。祭の酒や料理、作った作物を放り込んで、神様に村の平穏を願う、そういうことをしていた。
 土砂崩れが起きた時に表側の祠はなくなり、残ったのは裏側の祠だけ。裏側は土砂崩れの被害にはあわなかったからね。でも、不思議なことに祠の神様はいなくなってしまったんだ。だから、今じゃあの山は神無し山だってほとんどの人はお参りしない。
 あの子供を失くしたところの奥さんは対価を払って子供を返してもらったのかねぇ……。それとも、それはこれからなのかねぇ……」
 山神様と裏の祠、そして願いと対価。大体の全容がこの老婆の話で理解した。
「対価を払ったら必ず願いは叶えられるのか?」
「いいや。何でも願いが叶うならもう少しちゃんと祀られてるだろうさ。何を叶えるかはすべて神様の気分次第なんじゃないかねぇ」
 老婆の言う通りだ。神様が何でも叶えてくれるならきっともっと良い場所で祀られている。そうではない、ということだ。
「山の裏の祠の神様が願いを叶えてくれるなら、表の神はなんだ?願いは叶えてはくれないのか?」
「願いを叶えてくれるよ。村ではいつも表の神様に豊穣を祈ってた。でも、今はもういないからねぇ。形だけだよ。
 山神様が力を使えるのはその山だけ。その山を離れてしまえば、力を使うことさえできないだろう」
「……そうか」
「話はこれで十分かい?」
 老婆にそう問われて、考える。確かに山神のことは大体わかった。願いを叶えてくれる存在。行方不明になった子共が帰ってきたのはこの山神のおかげだということ。
 炭治郎もその山神の祠に子供と一緒に行ったということ。つまり、錆兎が現れたのは炭治郎がそう願ったから?けれど錆兎が現れたのは義勇の前だ。だが義勇は願ってはいない。
 では、一体誰の願いが?
「……もう一つ、聞きたいことがある」
「なんだい?」
「……ここ最近、願いが叶ったとかそういう話をよく聞くだろうか」
 老婆は少しだけ驚いたように目を見開き、手元に視線を戻す。
「偶然が重なったには少し多すぎるぐらいにはあるね」
「そうか」
 老婆の返事に立ち上がる。これ以上聞くことはない。背を向けて去る義勇の背に向けて老婆は一つ礼をしていたが、義勇は振り向くこともなかったのでその姿を見ることはなかった。



 老婆の話も終わった頃には陽が暮れ始めており、昨日も泊まった宿に宿泊の延長を頼みに行こうと急いでいると大きな声で「半々羽織!」と呼ばれて立ち止まる。周囲の人々が驚いた形相でいるのを確認しつつ、振り返ると想像した通りの猪頭を被った少年がいた。
「約束通り戻って来たぜ」
 鼻息荒く踏ん反り帰る様子を見ると、どうやら昨日宣言した通り一度戻り、その上でまた来たのだろう。禰豆子は伊之助を引き留めなかったのか。
「何故きた」
「紋次郎を見つけるために決まってるだろォが!子分を探すのも親分の仕事だからな!」
「禰豆子にはちゃんと会ってきたのか」
「おう。門逸にも会ってきた。
 あいつはちゃんと俺が見つけてくるからって言っておいたのに、まったく心配性な奴らだぜ」
 伊之助は飄々とした様子で義勇の隣へやって来る。当然のように炭治郎を見つけて戻すと言う伊之助はそれが絶対に叶うと信じているようだった。そのことに少しだけ心が軽くなった。
 そういえば、炭治郎の傍にいた同期は炭治郎が死にそうになっても生きることを励まし続けていた。鬼になっても彼が人間に戻ることを諦めなかった。彼の妹がそうであったように。彼自身だってそうなれると。
 鬼殺隊としては駄目なこと。甘い。命取りになること。でも、それが炭治郎を救った。今度ももしかしたらそうなるかもしれない。
 腹減ったとぼやく伊之助は珍しくご飯も食べずに走り続けてきたのだろう。あちらこちらの店をきょろきょろと覗き込んでは、一つの店を見て止まる。
「あの店で食べるか」
「飯か!」
「夕刻ではあるし、良い時間だろう。俺が今日聞き込みで得た情報を話す。
 お前も何か話していないことがあれば言ってくれ」
「わかった」
 店に入り、個室の部屋を用意してもらう。伊之助が見ていた天麩羅御膳を二人分頼むと義勇は昨日と今日で知った話を伊之助にした。炭治郎と善逸と一緒にいる時の伊之助は落ち着きのない子供だと思っていたが話をしている時は真面目にこちらを見て聞いていた。
 錆兎の話は伏せ、すべてを話し終わると伊之助はふんと鼻をならした。
「すべてを叶えてくれる山神様だと?」
「この土地ではそういうものがいるらしい」
「上等!俺様が本物の山の神だってことを教えてやるぜ!んでもって、その神様が炭治郎を連れてったかもしれねぇってことだろ?」
「……連れて行った、わけではないと思う」
 今までの話を考える限り、炭治郎は誰かに騙されて裏の山の祠に対価として捧げられてしまったのではないか。穴の中に入れられてしまったなら、もしかしたらその穴が思ったよりも深く出られないのかもしれない。
 とにかく明日は山の裏側にある祠に行くつもりだと伊之助に説明すれば、当然のように俺も行くぜと伊之助は名乗り上げる。隻腕となった身では、穴に入るのも登るのも確かに一苦労だから伊之助が来てくれるのは有難い。
「お食事、お持ちしました」
「入ってくれ」
 部屋の中に持ち込まれた膳には山菜や近くの沢で取れた魚の天麩羅がたくさん載っている。それを見て目を輝かせ、箸も持たずに手を出す伊之助に給仕の者が驚く。その給仕にすまないと謝りつつ、少しだけ多めの御代を払えばごゆっくりと言って急いで部屋を出ていった。
「嘴平、箸を使え」
「あぁ?箸ぃ?」
 面倒そうに箸を握る伊之助にそうじゃないと言って正しい持ち方を教えようとすると、じろりと睨まれた。俺はいいんだよと言って手掴みで天麩羅を口に運ぶ伊之助にため息を吐く。炭治郎はどうやってこの同期達と付き合っていたのか。思い出す姿もただ楽しそうに笑ってるところしか出てこない。
 豪快に飲み込むように天麩羅を食べ続ける伊之助に義勇は箸使いを注意することを諦め、少しだけ量の減っている天麩羅の乗った皿に慣れぬ左手で持った箸を近づけた。
 夕飯を食べた後は伊之助を連れて昨日宿泊した宿に戻った。急に増えた宿泊者にも宿の者は嫌な顔をせず、泊めてくれた。有難いと思いつつも、この村の妙な気前の良さというものに少しだけ居心地の悪さを感じる。
 伊之助がいびきをかいて寝ているのを確認した後、小声で錆兎と名前を呼ぶ。青白い炎が部屋の隅に現れたかと思うとそれはすぐさま知っている人の形になる。
「……名前を呼べば確かにどこにでも行くと言ったが、村の中で俺を呼ぶとは」
「連れが出来た。明日山に行くつもりだが、先に伝えておこうと思った」
「なるほど。
 ……若いが、そいつも鬼殺隊か?」
「ああ。炭治郎の同期だ」
 寝相悪く足で布団を蹴とばしながら寝ている伊之助を見て、錆兎が少しだけ呆れたような顔をした。情けない、と思っているのだろう。男ならば、と言わないのは初対面の相手だからか、それとも脇に置かれた猪の被り物を見てか。
「山の中だが、一通り人が通れそうな場所を探してみたが炭治郎はいなかったぞ」
「……山の裏側にある祠には行ったか?」
「祠?
 そういえばそれらしきものが山の裏側にあったな」
「その祠の奥に大穴があるらしいんだが、そこには?」
「いや。その奥には行ってないな。
 その大穴が怪しいのか?」
 こくりと頷けば錆兎は少し考えた後、先行して俺が行って来ても構わないがと言ってきたがそれには首を横に振る。錆兎が先に行ったところで炭治郎に触れないのだし、見えるのかどうかも怪しい。
「怪我を負って前のように動けはしない。万全を期すためにも早朝になったら山に向かう。
 祠までの道だけ調べておいてくれ」
「わかった」
 錆兎は頷き、だがその場をすぐに立ち去らなかった。じっと義勇を見つめたままだ。何か言いたいことがあるのかと錆兎を見つめ返すと、藤色の瞳を少しだけ細めた。
「出会った時は勢いで未熟者と言ってしまったが……。
 義勇、お前は強くなったんだな」
「何を藪から棒に」
「いや。こうして話せる機会など二度とないかもしれないと思って不意にな。
 俺が死んだ後、義勇はどうしているかと少しは心配していたんだ。お前は甘いところがあったからな。鬼とはいえ、元は人であった者を斬ることに最初躊躇いを覚えていただろう」
「一体どれだけ昔の話をするつもりだ」
「どれだけ昔、か」
 自嘲するように錆兎は笑う。義勇にとっては何年も昔の前の話であっても、錆兎の中ではそうではないらしい。
「俺にとってはつい昨日のことのように思える。
 成長したお前を見ると、不思議な気持ちだ」
「……それはこっちだって同じことだが」
「だろうな!
 だが、安心したよ。お前はちゃんと前を向いて生きてる。義勇、お前は強くなった。心配など無用だったな」
 そう少しだけ誇らしげに言う錆兎に義勇は首を横に振った。違う。それは違うのだ。前を向いて歩けるようになったのはつい最近で、強くなどはない。いろんな人に守られてばかりの命だ。
「俺は強くなどはない。
 ただ必死に生きているだけだ」
「そうか。そうかもしれないな。
 だが、生きようと思っているならば、それでいい」
 錆兎が優し気な眼差しでこちらを見てくるのに耐え切れず視線を逸らす。本物の錆兎なら、言うような事をこの錆兎も同じことを口にする。その優しさに溺れてしまえば以前のように考えてしまう。
「では、山で待っている」
「ああ」
 音もなく消えた光に、ほっと息を吐く。
 錆兎と話すのは昔を思い出して懐かしいけれど、どこか緊張して息がしにくい。隣の布団でぐぅぐぅと呑気に寝ている綺麗な顔の子供を見て、その気ままさに少しだけ笑ってから暖かな布団に潜り込んだ。
 夜に寝るという習慣も最初は慣れなかったのに今では普通の人と同じように眠れるようになったのだ。

◇ ◆ ◇

 戦後の定期健診のために何回目かの蝶屋敷を訪れた時のことだった。
 午後に蝶屋敷を訪れた義勇とは違い、炭治郎達は午前中からすでに蝶屋敷に行っており健診はすべて終わっていたようだ。門で入れ違いになりそうになった所を炭治郎が義勇の名を呼んで引き留めた。
「お久しぶりです!義勇さん」
「半々羽織じゃねぇか!元気にしてたか!」
「こら、伊之助。義勇さんだろう」
「いい」
 名前をちゃんと呼ばない伊之助を炭治郎が叱る。とはいえ幼い子供に言い聞かせるような叱り方だから、あまり効果はなさそうだ。現に伊之助は怒られながらもそっぽを向いている。
 そんな伊之助に仕方がないなぁと頬を掻いて、炭治郎は義勇の方を向く。
 今日は健診ですか?という問いに義勇が頷くと炭治郎はそうなんですね!俺達も健診で来ていて……とくるくると表情を変える。表情豊かに変わるその顔を見ながら、彼の言葉に耳を傾ける。
 彼の口から出てくるのは些細な平凡な日常の話だが、頬が緩んだり眉が上がったり、優し気に細められる瞳に、こちら側まで身体の中がほわっと温かくなるようだった。故郷の雲取山に帰っても元気そうな炭治郎の姿を見て安心する。右目と左腕という後遺症を負いながらも、その輝きがまだ失われていないことに。
 数分の世間話をした後に、あっと声を上げて炭治郎が門で引き留めてしまったことを謝る。
「すみません、これから健診だというのにここで引き留めてしまって……」
「いや、構わない」
「でも、きっとアオイさんとカナヲが待ってますよ」
 二人も義勇さんと会うの楽しみにしていました!とにこにこ笑顔の弟弟子の表情を見て、喉に出かかる何かを飲み込む。炭治郎の世間話に早々興味を失くした伊之助は近くを飛ぶ蝶々を視線で追っている。そんな伊之助を見て炭治郎はそれではとここを去るための言葉を告げるために口を開いた。
 去る。いなくなる。
 一瞬過ぎる喪失感に気が付けばその手を咄嗟に握っていた。
「……」
「義勇さん?」
 突然掴まれたことに驚きつつも、炭治郎はどうしたのだろうと首を傾げている。
 何かを言わないといけない。手を掴んだ理由を。一瞬の熟考。遅いと言われる前に。熟考しながらも口を開く。
「昼を……」
 昼飯を食べに行かないか。口から出たのはそんな言葉だった。
 もうすでに昼過ぎの時間。これから健診もあるというのに、何を誘っているのだと自分でも思った。
 だが、熟考している時に出てきたのはいつかの炭治郎と一緒に蕎麦を食べた時の事。あの時のように、食事をし、話をできないかと思ったのだ。
 奇妙な義勇の誘いを炭治郎はぱちりと目を瞬かせた後、少しだけ申し訳なさそうにその目を伏せた。
「すみません。お昼ご飯はカナヲ達と一緒に食べてしまって……」
 断りの言葉としては当然である。ならばと他の誘いを考えようとしたが炭治郎は言葉の続きを口にした。
「なので、おやつを一緒にしてもいいでしょうか?
 前に善逸に美味しい団子屋さんがあるって教えて貰ったんです。
 あ、もちろん義勇さんの健診が終わったらで大丈夫です」
「……ああ。それで構わない」
「良かった!
 伊之助も、それでいいか?」
「団子か、いいぜ」
 嬉しそうに笑う炭治郎に心がふわふわと軽くなるのがわかる。
 また後でと蝶屋敷の門で分かれる。その後に久しぶりにあった胡蝶の継子に健診をしながら良い事がありましたかと訊かれたのに素直に頷く。余程浮かれた気持ちが顔に出ていたのだろう。胡蝶の継子の隣にいた女子にも前よりも表情豊かになりましたねと言われた。
 手慣れた様子で胡蝶の継子達はあっというまに採血など健診に必要なことをテキパキと進めて一時間ほどで終えてくれた。最後の問診で、以前のように身体を鍛えるようなことをせず、無理しないでくださいと言われるのに了承する。
 最後の戦いでボロボロになった身体はその言葉通りだった。鍛えることも、無理をすることも、すべては命を縮める行為に繋がる。
 だから義勇も最低限の機能改善のための訓練をした後は身体を鍛えることはしていない。悪戯に命を縮める行為は誰も望んでいないし、必要もないからだ。
 素直に義勇が頷いたことに胡蝶の継子も隣の女子も曖昧な笑みを浮かべる。どうしたと訊けば、皆さん返事だけは良いけれどいざとなったら無茶をするでしょう、と言われて言葉に詰まる。そんなことはない、と否定できることはできなかった。
 バツの悪そうな顔をする義勇に胡蝶の継子はくすりと笑った。
 大丈夫ですよ、そんな人だってわかってましたから。
 そんな人、というのは恐らく義勇を指しているようで他の人を指しているようにも思えた。きらりと輝く髪飾りを揺らしながらこれで健診は終わりですと胡蝶の継子は立ち上がる。次回の健診日について伝えられて、蝶屋敷を出ると門の外で待っていたらしい炭治郎と伊之助がすぐに駆け寄って来る。
 まさか一時間も外で待っていたのか。それを聞くよりも早く炭治郎が「健診お疲れさまです」と口を開いた。
「カナヲもアオイさんも義勇さんに会えて嬉しがったでしょう?」
「そうだろうか」
「そうですよ!」
 そう言われて胡蝶の継子とその隣にいた女子の言葉を思い返してみるが、会えて嬉しいと言われたことはなかった。お元気でしたかと訊かれて、いつも通りだと答えた時にほっとしたような安心したような表情をしていたことは覚えているが。
 だが、歓迎しているというのであればこうして門で待っている炭治郎の方がよっぽどかそれらしい。
「では、さっそくですがお団子屋さんまで行きましょう。
 どうやらそこの団子屋さんはみたらし餡にこだわりがあってですね……」
 義勇の隣に立つと団子屋のことを話しながら歩き出す。伊之助もそんな炭治郎の横を歩きながら、団子の説明を聞いている。ところどころ変な擬音を挟みながらも楽しそうに話をする炭治郎の姿を見ているとそれだけで幸せだった。
「ね、義勇さんもみたらし楽しみでしょう?」
「うん」
 頷くと、たくさん食べましょうねと言う炭治郎。大食い競争だな!負けねぇぞ!と言う伊之助のはしゃぐ声も賑やかで良い。
 話しながら歩いていればすぐにその団子屋のある町まで着いた。団子屋に着くなり、とにかく育ち盛りの伊之助と炭治郎はたくさん食べるだろうと三十本とりあえず頼む。
「足りなければ後で頼もう」
「え?いえ、その結構な量だと思いますが?」
「そうか?」
 皿に盛られたみたらしを見て首を傾げる。これぐらいの量、甘露寺だったらあっという間に食べていただろうし、胡蝶以外の柱なら余裕で食べられる量だろう。
 だが、そういえば鬼殺隊を止めてから食も普通の人くらいになったのだったかと思い直す。柱を辞した後も義勇も、実弥も少し食は細くなったが、それなりの量を食べるから忘れていた。
「俺様が紋次郎の食べきれなかった分も食べてやるから、心配いらねーぜ」
 山盛りのみたらしを前に炭治郎が戸惑っていると、伊之助が両手に二本、三本とみたらしを持って次々と口の中に団子を入れていく。あの様子なら三十本なんてあっという間だろう。追加も必要かもしれない。
「ここは俺が奢る。
 足りなかったら注文しろ」
「おう!」
「そんな!俺もお金をだします!」
「いい。これくらい、大したことない」
 袖から財布を取り出そうとする炭治郎の腕を掴むが、だめですと炭治郎は引こうとしなかった。こうなると炭治郎は意地でも譲らない。
「禰豆子へのお土産代はお前出せ」
「それは当然です!ですが、それだけでは気がすみません!」
 意固地な炭治郎の姿に眉を寄せる。この頑固さにはほとほと苦労している。毎回こちらが折れているような気がする。代わりの提案をしようと考えていると、周りが暗くなっていることに気が付いた。腕を握った先の炭治郎の顔が見えないくらいに、周りが暗い。
「では、義勇さんの願いを俺が叶えます」
 淡々とした感情が抜け落ちた炭治郎の声が聞こえた。
 握った腕が冷たくなっていく。はっと息を吐き、炭治郎の腕を引っ張り、その身体を引き寄せようとした。だが、腕を掴むその指を誰かが解いていく。炭治郎、と叫ぼうとする口を何かが塞ぐ。口を塞ぐそれを嚙み千切って、腕に絡みつく煩わしいそれを乱暴に振り払い、離れていく炭治郎に手を伸ばす。
 宿敵を倒すあの時も、炭治郎から離されてしまった。義勇の心に反して離れていく身体。やめてくれ。取り上げないでくれ。願いなんて叶えなくていい。
 真っ暗になった世界でぱちりと瞬きする。

 天井の木目が見えた。窓から入って来る薄明かりが部屋をほんのりと照らしていた。
 ゆっくりと身体を起こし、部屋を確認する。酷い寝汗をかいていたようだ。詰まるようなむしっとした空気の中で、深く呼吸を繰り返す。
 あれは夢だ。
 炭治郎と健診で会ったのは確かに記憶があるが、その後一緒に団子屋には行かなかった。軽く蝶屋敷の前で話をして別れた。
 門の前で会った時、何か誘えばよかったなと少しだけ後悔したことだけは覚えている。あの時の後悔と現状が重なってあんな悪夢を見たんだろうと冷静に分析する。
 願いなんて叶えなくなっていい。
 夢の中の自分はそう思っていた。目が覚めた今でもそう思っている。この世は願えば何でも叶えてくれるような優しい存在なんていない。だから必死にもがいて生きていくしかない。
 今までもこれからもずっと。痛みと一緒に生きていく。それが託された側の、生き残った者の宿命だからだ。
 深呼吸を一つ、最後にして窓を見る。薄白けた空が、朝がやってきたことを教えてくれていた。

 伊之助が起きるのを待ってからすぐに森へと出発した。道中伊之助がやたらと辺りを気にしていたが何も言って来ないので先に目的地に向かう。
 森の手前に辿り着く直前になってようやく伊之助が「なぁ」と声を上げた。その声に足を止めて伊之助の方を振り返る。
「お前、怒ってねぇのか」
「怒る?」
「俺様や、炭治郎にむかむかとか、ぐぁーって」
「怒ってない」
 義勇の言葉に伊之助は眉を寄せた。だけど、と続けられた言葉はピリピリしてるという感覚的なものだった。怒っている、緊張している、そういった感情が義勇から感じるらしい。
 前に炭治郎から伊之助はそういった感覚に優れていると聞いた。聞いていたが、実際にそれの話や目で見るのは炭治郎以外では初めてな気がする。
「お前たちには、怒っていない」
 言葉にした通り、伊之助や炭治郎に対して怒ってはいない。この苛立ちはよくわからない山神に対してだ。錆兎を義勇の前に現わせたのも、きっとそうだ。義勇を戸惑い、迷わせるため。
 しかし、迷わせて一体どうする?何が目的だ。
「おい、半々羽織。山に着いたぞ」
 考え込んでいたらすぐに山の入り口まで来てしまっていた。ここからどうすんだ?と訊いてくる伊之助に待てと言って、山を見上げる。木の枝に錆兎が腰かけている。義勇の視線に気づくと錆兎は枝から降りてあっちだと道を指し示してくれた。
「昨日のうちに調べておいた。なるべく負担のない道を選んだが、もし厳しいようだったらそいつの肩でも貸してもらえ」
「感謝する」
 咄嗟に言葉が出てしまった義勇を見て、錆兎があーあと肩を竦める。慌てて伊之助の方を見ると伊之助はじっと錆兎がいる場所を見つめていた。
「見えるのか?」
「見えねぇ。けど、なんかいるのはわかる」
 錆兎がほう、と言って伊之助を感心したように見つめる。試しに錆兎が横にずれてみれば、伊之助の視線もそれを追う。
「なるほど。嘘は言ってなさそうだな」
「半々羽織!お前見えてんだろ!そこにいるやつはなんだ!強いやつか!?」
 言って良いものか一瞬迷ったが、この山で錆兎に色々と訊くこともあるだろう。それを考えれば説明しておいた方が後々楽になるような気がした。 
 こんな世迷言、言っても信じるのだろうかと思いながらも拙い言葉で説明すれば意外と伊之助は驚きもせず錆兎の存在を信じた。義勇の同門だがすでに亡くなっており、ここには意識としてのみ存在している。そんなあやふやな説明に伊之助は頷く。
「鬼殺隊になれなかったやつか!ってことは俺より下ってわけだ」
「……その通りだが、下と言われると腹が立つな」
 不服そうに口を曲げる錆兎の姿が、昔鱗滝に叱られていた時と変わらない。その様子に少し笑ってしまえば錆兎からは抗議の声が上がり、伊之助からは頭がおかしくなったのか?と距離を取られた。
 生きていれば、こんな姿も見られたのかもしれない。
 そんな考えを、だが一瞬に消し去る。そんなものは必要ない。
「炭治郎を探しに行く」
 改めてそう伝えると、錆兎がこっちだと案内を始める。それを伊之助が追い、義勇もその後ろを歩いた。山の裏側に行く道は雑草が有象無象に生えている。その草を伊之助が踏んで地をならし、歩きやすくしてくれていた。
 こんな道を女性が一人お詣りに来るとは思えない。
「山を遠回りして裏の祠へ行く道もあったが、そっちの道は少し時間がかかりすぎる。
 祠に行き、その先を調べるための時間を考えるなら、多少獣道でも山道を行った方が早い」
 こちらの考えを読むように錆兎が答える。祠が目的地ではない。そこからさらに探すことを考えれば錆兎の言う通り、獣道だろうとその道を行くべきだろう。
 幸い伊之助は山道に慣れているようだし、先陣を切って歩いてくれるのは頼もしい。錆兎が見えないとはいえ、錆兎の入る方角をしっかりと伊之助は理解して進んでいる。これほど頼もしい仲間はいない。
 獣道を歩き続けて数十分。錆兎がここだ、と足を止めた場所には確かに大きな鳥居が立っていた。手入れされていないせいで柱の根元が腐っているが、原型は留めている。大きくはないが、苔むした木板で作られた祠も残っている。
 間違いない。これが山神とやらの祠だろう。
「ご神体はまだこの中にあるのか」
「だろうな」
 義勇の問いに錆兎が答える。この祠を壊せばいいのか腕を回しながら近づこうとする伊之助を止め、祠の前に置かれたお供え物を見る。
 昨日、行方不明になった子の母親がここに参りに来たはずだ。だからお供え物は間違いなくそこにあるはずだった。
 しかし、そこに置かれている饅頭はどう見ても何日か経って干からびているものしかない。とても昨日置かれたものとは思えない。
「ここ、そこにある箱以外なんもねぇぞ」
「そうだな」
「紋次郎の気配もここにはねぇ」
「そうか」
「……」
「……」
 じっとこちらを睨むような伊之助の視線は無視して考える。苔むしてはいるものの、祠自体は頑丈そうで、草木に覆われていないことを考えると誰かが手入れをしているのは間違いなさそうだ。
 あの男は間違いなく山神に対して感謝の念を抱いているようだったし、その妻の姿は見ていないが嘘を吐かれたのか。それとも、一日で饅頭が干からびるような何かがあるのか。
「だぁああああああ!おい、半々羽織!
 今日はここだけで終わりなのかよっ!」
「いや。祠の裏にある大穴を探しに行くつもりだ」
「じゃあ、そっち探しに行こうぜ!
 ここに紋次郎がいないことはわかってんだからな!」
「そう、だな」
 伊之助が羽織を引っ張ろうとするの手を払い、祠の裏を見る。草木に覆われていてとても道があるようには見えない。
「祠の裏にあるということは言葉通り裏の方をずっと歩けばいいのだろうか」
「わからんぞ。田舎の裏手という言葉は言葉通りではないこともあるからな」
 錆兎が肩を竦めて、先行して安全そうな道を探すと言うのに頷こうとしたのを今度は伊之助が止める。
「しょうがねぇなぁ!俺様が今度は道を探してやる」
「できるのか?」
「俺様にできねぇことはねぇ!」
 胸をどんっと一度叩くと、伊之助は地面に膝を付けて腕を左右一杯に広げる。掌を広げて目を閉じて静かに集中する姿に見入る。彼が身に纏っている空気が変わる。見つけた。静かに告げられた言葉が本当に伊之助の口から出てきたものかどうなのか一瞬わからなかった。
「この先だ。穴がある」
「本当なのか?」
「間違いねぇ。向こうの方から変な気配がびんびんするぜ」
 変な気配と言われて錆兎と目配せする。
「鬼ではないな?」
「鬼じゃねぇ。トゲトゲした感じじゃなくてこう……ぐわんぐわんしてる感じだ!」
「ぐわんぐわん……」
「義勇、こいつの言ってることわかるのか?」
「いや。だが、そこに行ってみよう」
 伊之助の勘は良く当たる。
 記憶にある彼の言葉を信じて、伊之助の後について歩いていく。祠の裏には道という道は存在しない。先ほどよりももっと酷い草藪の中を歩いていく。
 日が昇る時間になると木々で日差しが遮られていようと蒸し暑いことに変わりない。髪が額に張り付いて鬱陶しくて仕方がない。じわじわと聞こえる虫の声も耳障りでしかない。
 もう四半刻ほどずっと歩いている。山の中の景色は変わることなく、時折伊之助が立ち止まり、あっちだという道を上ったり下がったりしている。見知らぬ人が見れば伊之助のてんで出鱈目な歩き方は大丈夫かと問いただしているだろう。実際錆兎が先ほどから本当にこのままこいつについてっていいのかと口出ししている。
「今はあいつについて行く」
「山の中で迷っても知らないぞ」
「そうなったら、その時はお前を頼る」
「お前なぁ……」
 若干呆れたような物言いだが、少しだけ頼られて嬉しいのか仕方がないと肩を竦める錆兎。
 伊之助はそんな義勇たちの会話さえ気にならない様子できょろきょろと辺りを見回しながら迷いなく歩いている。
 義勇が伊之助の後を歩いてるのは彼が一切迷った素振りをしていないからだった。迷いなく歩いている、ということはまだ伊之助が何かをまだ感じ取っているということだ。
 ざくざくと名も知らぬ草花を踏みしめて、湧き水にぬかるんだ土に足を沈めて、ただひたすら歩いていく。
「もし、俺が生きて鬼殺隊に入っていたのならお前とこうして任務に行くことがあったんだろうな」
「そうだな」
 ぽつり。呟くような錆兎の声に義勇は頷いた。
 鱗滝の元で修行していた頃は試験に合格して鬼殺隊に入ったらとそんな事を話すこともあった。錆兎はお互い違う任務に就くことがあっても、必ず連絡を取り合おうと言い、義勇は錆兎と一緒の任務があったらいいなとそんな夢物語をしていた。
 叶わない夢を見ていた。今もそんな夢を話している。
「錆兎が生きていたら、俺の代わりに水柱になっていたかもしれないな」
「そうかもしれない。だが、案外試験で受かった後、任務で俺は命を落としていたかもしれん」
「そうだろうか。錆兎は強いから」
「強くはない。強くなかったら負けたんだ(死んだんだ)」
 錆兎は自分は死人だということを忘れるなというように強く言った。けれど。その言葉に強く反論したくなる。だが言葉が上手く出てこない。
「前を見ろ。置いていかれるぞ」
 錆兎に諭されて前を見る。伊之助の姿が気が付くと遠くなっていた。この山の中ではぐれるのは良くないと錆兎に背中を突かれて今はその後を追うことだけに集中した。
 半刻ほど歩いた先でようやく伊之助が足を止めた。
「……ここだ」
 伊之助の横に並び、その視線の先を見る。大きな木の根の下に空洞がある。なるほど。確かに大穴である。底が見えない。試しに足元にあった小石を蹴って大穴の中に落としてみる
 カツン、コツンと音がしばらく反響してから消えた。深そうだ。
「俺が見てくるか?」
 錆兎の言葉に首を振る。彼が一人降りたところでこの暗さだ。まともに探し物ができるとは思えない。
「縄と手燭(てしょく)を持ってきた。
 近くの木に繋いで、俺が下りる」
「その腕じゃ、降りるのも登るのも苦労するだろ。
 明かりは俺が持ってく」
 伊之助はそう言うなり、木に縄を締めてそれが解けないのを確認すると勢いよく降りていった。大穴の底に着地すると早速手燭(てしょく)に火をつけたのか、明かりがぽっと点いた。
「あいつ、いいやつだな」
「だろう」
 伊之助の事を少し見直したらしい錆兎に少し自慢げに微笑むと、縄に手をかけて降りていく。戦前であれば縄など必要なかっただろうが、この身体ではふとした瞬間にバランスを崩してしまいそうだった。細心の注意を払いながら、それでも早く降りていく。
 空が若干見えるくらいまでになってようやく底に辿り着く。明かりを持った伊之助が辺りを照らしていたおかげで溜まった水に足を取られても大丈夫だった。
「水が溜まってるみたいだな。足を取られねぇように気を付けろよ」
「ああ」
 伊之助の言う通り、山の湧き水の一部がこの大穴に流れてきているようだ。そのせいで足首まで水に浸かってしまっている。日差しがここにはほとんど届かないせいか茹だるような暑さはなく、むしろ冷えすぎて肌寒いくらいだった。左手で自分の身体を抱くように一度擦り、辺りを見渡す。
手燭(てしょく)の明かりでは全体を照らすことはできない。
「奥へ行ってみよう」
「おう」
 若干言葉数少ない伊之助を訝しみながら奥へ進んでみる。こんな場所にあの子供が来たとは思えないが、炭治郎ならば調べてみようと入るかもしれない。
 ここにいてくれればいいのだが。
 そんな期待を込めて、ざぶざぶと足元の水を蹴るようにして先を歩いていく。
「義勇」
 その足を止めさせたのは、錆兎だった。
 後ろを振り返るこの暗闇の中では錆兎の姿もうっすらとしか見えない。闇に浸食されていくように手燭(てしょく)を持って進む伊之助から離れれば離れるほど錆兎が消えていく。
 何をしているんだ。早くこっちへ来い。と視線で伝えるが錆兎はこちらへやってこない。
「その先へ行くのは止めないか」
 それどころか引き返せと言ってくる。何故引き返さないといけないのか、その意味を問い質そうとして足を一歩錆兎の方へと踏み出す。
 ばちりと音が鳴ったと思うと目の前が暗くなった。いや、手燭(てしょく)の明かりがなくなったのだ。
「伊之助」
 先行して歩いていた彼の名前を呼ぶ。どうして火が消えたのか。何かあったのか。振り返った義勇の視線の先にはただ暗い空間しかなかった。
 肩を叩かれる。
「戻ろう、義勇」
 錆兎の声だ。肩に置かれた手が腕に降りていき、義勇の腕を引く。その言葉通り、引き返せと言うようにぐいぐいと後ろへと引っ張る。
 戻ろう。戻ろう。戻ろう。
 繰り返される言葉は淡々としており、声は確かに錆兎だった。だが錆兎ではない。
 後ろを振り返るが錆兎の姿はなくただ、虚空な空間だけが続いている。
「お前は誰だ」
 真っ暗な闇の中誰かが笑ったような気がした。
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