短編

 新年を言祝ことほぐ人々を見つめながら渡された甘酒を喉奥へと押し込む。神社でお参りする人々の顔は一様に明るい。きっと彼らと同じように自分もその新しい一年を祝うべきなのだろう。けれど、何故か祝う気にはなれない。
 渋い顔で空っぽになった杯を見ていると背を叩かれた。振り向かなくてもわかる。痛いほどに強く自分の背を叩く相手など、一人しかいない。
「そんな時化しけた顔でどうした」
 別にそんな顔はしていないと睨めば、自覚がないのかと返された。
 祝う気にはなれないのは確かだが、楽しそうに騒いでいる人を見るのは好きだ。だが、渋い顔をしていたのは確かなので否定の言葉を飲み込む。
「考え事をしていた」
「考え事?」
 こくりと頷き、先ほどまで考えていたことに意識を戻す。視界の先に世話になっている道場の主が神社の神主と話をしている姿を捉えながら、胸のずっと奥底に沈んでいる空虚を掬おうとする。
 この空虚は寂しいという感情に少し似ている。しかし寂しいとは違う何かだ。
 病死した両親を看取った時、姉が嫁いだ日、学校を卒業した日、寂しいと思うことは今までの人生多々あった。今だって、こうして人々が騒いでいる渦中を過ぎればその騒がしさをきっと恋しく思うだろう。
 けれど、そういった寂しさではなかった。
 心の奥底に沈んでいるその感情は正しく『空虚』なのだ。何もない。
 存在しない何かを、けれどもどこかでそれを知っている何かが求めて止まない。忘れてやるものかと、心が手放したくないと言っているようにそれは無意識の時、しかもそれはほんのわずかな一瞬の間だけ感じさせてくれる。
 その『空虚』がちょうど一年くらい前から後悔と苦しさに変わった。
「何か悩みがあるなら、神頼みでもしてみたらどうだ?」
 ぐいっと錆兎が顎で本殿を示す。本殿の前では人々が熱心に何かを祈り、手を合わせている。新年の祝いにと道場のみんなで神社に来たが、鳥居を潜って早々に町の知り合いに皆話しかけられまだお参りを済ませていなかった。
 先生も真菰もまだ知り合いに掴まったままで、彼らが解放されるのにはしばらく時間がかかりそうだった。錆兎に二人を待たなくていいのかと訊けば、構わないと返された。それならばと二人で長い列に並ぶ。
「錆兎はいつも何を祈っているんだ」
「別に。今年も健康に皆過ごせられるようにとか、それくらいだな。
 叶えたい願いは自分の力でどうにかする」
 自分がいつも新年に願っていたこととそう変わらない答えが返って来る。大体新年に祈ることなどそういったことぐらいだろう。健康成就、学業成就、恋愛成就、社務所にて売られる御守と似た願いを皆祈るぐらいだろう。
「気にするな。お前の分も含めて今年は皆が健やかに過ごせるようにと俺が祈っておく。
 お前はその悩み事について願っておけ」
 ばしばしと無遠慮に叩かれる背中が痛い。口をへの字に曲げて睨むように錆兎を見つめればふんと鼻で笑われた。学校で知り合った一番の友である錆兎はそれこそ学業も運動も義勇に引け劣らぬ成績だった。明朗快活なその性格は誰からも好かれ、頼りにされた。好ましい、と自分も彼を慕ったし、彼から最終学年時に共に知り合いの道場を手伝ってくれないかと誘われた時は嬉しかった。
 町の人々も錆兎に声を掛けていく。今年もよろしくと何度も聞いたその言葉にこちらこそと返し、本殿までの道を一歩、また一歩と前に進んでいく。
 きっちりと頭を下げて神へと祈る人々はさながら救いを求める人々のようにも見えた。今回の祈りの内容が個人的なものだからそう錯覚したのかもしれないが。
 前の人達が祈りを終えて脇に避けると俺と錆兎は一歩前に進む。懐に入れた財布から賽銭を取り出すとそれをお賽銭箱へと静かに入れる。
 二拝二拍手一拝。そして手を重ねて、目を閉じ祈る。
 しかしそこで祈ることに悩んでしまう。空虚を俺はどうしたいのか。空虚の理由を知りたいのか。それとも空虚をなくしたいのか。
 いや、その空虚を俺は煩わしいと思ったことはない。喪いたくないからきっとそれを忘れさることができないのだろう。
 ならば、願うことは。祈ることは。叶えたいのは。
 決まった願事に深く深く、息を吐いてそれだけを一心に思い浮かべた。
 穏やかな、細波一つない水面に沈んでいる空虚。それを掬い上げる掌を。

 この星を照らす太陽の寿命はおよそ100億年らしい。どこかの偉い学者が言ったという嘘か真かわからぬことが左耳から右耳へと通り過ぎる。そんなこと、たった数十年しか生きられぬ生き物にとっては途方もなく長い時間ということしかわからない。
「100億年もあれは燃え続けるということか」
「さぁ、それはどうでしょう」
 空に輝く太陽を指させば、星の一生を見届けたものはいませんから、と穏やかに長い黒髪を揺らしながら彼女は笑った。
 道場に常備している薬が切れたから、いつも頼んでいる店に追加を頼めばやってきたのはその薬屋の娘たちだった。重そうな鞄を手に持ちながらも、顔には疲労の一つも浮かべずに道場の門戸を叩いたその女性は俺とそう変わらぬ年に見えた。
 薬箱に足りぬ薬を足しながら、世間話をと彼女が勝手に語り出したのは星の寿命だ。語り終わった彼女は夜に星を見るのが最近趣味で、と説明する。
「冨岡さんも、星にご興味は?」
「いえ……夜は寝るばかりなので」
「そうなのですか。これだけ静かな山でしたら、夜はさぞ綺麗に星を見れることでしょう。
 退屈な話だったかもしれませんが、気が向いた時にでも見て頂けると嬉しいです」
「そんな、つまらないことは……」
 表情に出ていただろうか。ただ途方にもつかない話で、想像できなかっただけだ。面白い、つまらないという感想にもたどり着けなかった。彼女は構わないと言って、そっと指を口元に寄せた。
「ではこちらの話を聞いてくれた優しい貴方にもう一つお話をさせてください。
 このお話はまだ妹にもしてないので内緒にしてくださいね」
 まるで悪戯っ子のようにいう彼女は少女のように幼く見える。耳を澄まして遠くから聞こえる真菰ともう一人の声に彼女たちがこちらに注意をしていないことがわかると彼女は話し出した。
「空に輝く星と私たちが生きているこの星はずっとずっと遠くに離れていて、光ってるのは今この時のように見えてもそうじゃないんです。ずっとずっと昔の、光ったそれがこの一瞬に届いているんですよ」
 どうですか、浪漫のある話でしょうと耳を擽るような彼女の柔らかな優しい声に俺は頷いた。途方もない時間はわからないけれども、この空のどこかで輝いている星の光はずっと昔のものだと言われると何故だか心が惹かれた。
 俺が素直に頷いたのを見て彼女はにこりと微笑んで、薬箱を閉じた。薬の補充が終わったらしい。紙面に補充した薬を記入し、俺に手渡した。それにかかる代金はまた後で店に支払いに来て欲しいと言って立ち上がる。
 仕事が終わった彼女を部屋の外に案内すると、それに庭で話していた少女二人が気づく。気の強そうなきりっとした眉をした少女は庭に出てきた姉を見ると破顔させて駆け寄った。
「姉さん、仕事は終わったの?」
「ええ。しのぶも、ついてきてくれてありがとう」
「お礼なんかいいわよ!
 それに義兄さんから姉さんのことを頼むって言われてるもの」
 仲睦まじい姉妹だなと眺めていると音を出さぬように近づいてきていた真菰が俺の手から紙を取った。さらさらとその紙面に視線を落とし、うんうんと頷いている。
「ありがとう、カナエちゃん。
 ちょうど傷薬の他にも色々と備えなくちゃと思ってたの」
「良かったわ。お節介だったらどうしようかと思ったんだけど、他の薬も少し減ってたみたいだから足したんだけど彼には何も言われなかったから」
 六つの目に見つめられていると気づくと、俺は視線を足元に向けた。確かに薬が足されていることには気づいていた。だが、それを特段言う必要はないと思っていたのだけれど、この反応から見るに違ったらしい。
「すまない。ご厚意で足してくれたのだろうと思っていた。紙面にはちゃんとその分の代金も記載があったから別に良いかと」
「ううん、いいのよ。多分そうだろうなぁとは思ってたの。
 でも、実際に口にしてくれると問題ないってわかって嬉しいわ」
「もう姉さん、また勝手にやったのね!お人好しが過ぎるとまた兄さんが心配するから程々にしないと駄目よ!」
「二人とも心配性ねぇ」
「あはは、しのぶちゃんはカナエちゃんのことが大好きだからねぇ。
 二人とも、帰り道は気を付けるんだよ。怪しい人にはついて行かないようにね」
「はーい」
 幼い子供に言うような真菰の言葉にカナエはにっこりと返事をし、しのぶと呼ばれた少女は子供じゃないわよ、と返す。
 道場の門まで二人を送り出しながら、町の途中まで送ろうかと俺が言えばしのぶが即座に大丈夫ですと拒否を示した。まぁまぁとしのぶの背を撫でたカナエもまだ日が高いので心配は不要ですと答え、二人は来た時と同じように手を繋いで道場を背にする。
「仲のいい姉妹だね」
「うん」
 二人の姿が見えなくなるまで門で見守っていると、真菰がぽつりと言葉を漏らした。真菰はそういえば一人っ子だったか。ちらりと横に立つ女性を見る。道場の手伝いをするこの女性は元はここの門下生だったらしい。ここで一緒に生活するうちによく話すようにはなったものの、彼らの家庭事情などは聞いてない。
 姉よりは若いがもうすでに結婚適齢期であろう。
 どこぞの家に嫁いだりせずにこのままこの道場で居続けるのだろうかと考える。
「どうしたの?」
 思案する義勇の様子に真菰は気付いたのか、率直に訊ねてくる。
「真菰、お前はけっ」
「ん?」
 結婚しないのか、と言いかけた途端に真菰の無言の圧がかかる。
 言うな、と言外に笑みを浮かべさらに圧をかける真菰に視線を逸らす。
「健康そうだな」
「元気だよ~。今年は誰も風邪とかひかないといいねぇ」
 足された薬には解熱剤など病に飲ませる薬なども増えていた。錆兎も真菰も俺もここ数年は病にかかってはいないが、門下生の中には流行り病で熱を出していた者もいた。薬はないよりかはあったほうがいい。だが、一番なのは薬を使わなくていい状態であること、だ。
「そうだな」
 真菰は俺の声に満足そうに頷くと、紙を手に道場に戻っていく。その背が戸の奥へと消えていくのを見送った後、空を見上げる。まだ空は明るかったが、一つ二つとあおの中に浮かぶ白い光が見えた。

 ずっとずっと昔の、光ったそれがこの一瞬に届いているんですよ。

 少女の声が蘇る。100年か、それよりも昔か、遠い遠い星の光が今この時に届いているのだと思うと不思議で仕方がない。ずっと遠くというなら阿僧祇あそうぎのその先、那由他なゆたの先にだって届くかもしれない。
「お前にも届くのだろうか」
 ぽつりと呟いた言葉はきっと、届くことがない。
 新年に祈った願事は神様の目に止まったのか、初夢として叶った。空虚なそれは一体何なのか教えて欲しいという願いは、長い長い一つの小説を読んでいるかのようで、荒唐無稽の夢物語のようだった。
 鬼なんて存在はそれこそ子供に言い聞かせる話の中でしか聞いた事がない。それが実在したと言われても素直には信じられないだろう。
 けれど夢の中では鬼はいて、その鬼は義勇の大切な人を傷つけ、奪い、喰らった。その鬼は最終的に討伐されるのだが、そこから話は不思議な事にずっと昔に遡った。最初に鬼となった男が、一人の少年と共に贖罪行脚の旅を始めたのだ。
 それに付き従う少年は、その鬼を倒すことに貢献した一人でその世界では義勇の弟弟子であった。明るく、お人好しで、優しい少年はどこか誰かに似ている。友である錆兎にも、あの薬屋のカナエにも、よく喋る姿は真菰にも似て見えた。
 元鬼の男と少年は贖罪の旅を続け、鬼のいない世界でただひたすらに命を救い続けた。それがこの世界で、彼は男の傍で食材を見届ける役目を受けたためにこの世界には生まれることはできなかったそうだ。
 つまるところ、この空虚というのは本来生まれるはずだったこの少年がいないことが原因なのだ。

 そんな馬鹿な。

 目を覚ました時に思ったことはその一言だった。思っただけでなく口にも出していた。
 何故、見ず知らずの少年がいないだけでこんなにも空虚に陥るのだろうか。錆兎が遅いと部屋に来るまでずっと布団の中で考え込んでいた。その日はずっとそのことばかりを考えて道場の仕事も手につかず、呆れ果てた錆兎から今日は休めと言い渡された。
 一人、じっと自室で夢の内容を考えていた。
 鬼のいる世界では己の腹をかけてまでかの少年とその妹に可能性を見出していた。命を投げ捨ててもいいから守りたいと、大事にも思っていた。それは理解できる。だが、この世界にもその気持ちが残っていると?
 そこまで考えて、ふと気づいたのだ。
 この世界に少年は生まれていない。しかし彼の知り合いすべてつつがなく、この世界にいるのだ。鬼に脅かされることのないこの世界はそれこそ、あの世界で傷つき苦しみ藻掻いていた人々にとっては夢のような世界だっただろう。
 その世界をきっとあの少年だって夢見たはずだ。しかし、見れはしてもこの世界に少年を関わる人は一人を除いていないのだ。
 自分だったら、どうだろうか。目の前に姉がいたとしてただじっとそれを見続けるだけでいいだろうか。声をかけても届かない。手を振っても、反応がない。
 幸せはそこにあるのにその中に自分だけがないという孤独は、想像するに余りある苦しく辛いものだったのではないか。
 それをあの少年一人に背負わせるのは、あの世界で腹を賭けていた男にとって耐えがたいものだったのだろう。
 震える手をぎゅっと握り締める。わかる。自分自身のことだから、ありありと気持ちがわかる。
 少年は俺にとって錆兎と姉と同列に語れるくらいに大事な人だったのだ。その存在を消してまで生まれたこの世界に価値などないとは言えない。その覚悟を、想いを思えばこそ言ってはならない。
 それはそれだとしても、見えなくても会えなくとも俺は本当の意味で彼の存在を消したくはなかったのだろう。それが俺の心の空虚だ。

 ふざけるな。馬鹿にするな。お前の存在はそう簡単に消えるような柔なものではない。

 それを表すように命より大事だった存在は心の奥底に沈殿し続けている。確かにここに記憶していると。
 今の時代に彼と会うことができないのであればいつか未来で、この世界に生まれてきて欲しい。鬼がいなくともこの世界には苦しいことも辛いこともあって、皆が皆幸せになれる世界ではないけれど。
 此岸でしか俺は生きられないだろうから。
 空に輝く星のようにずっとずっと遠くに居てもいつか届くなら、俺もいつか届くと信じてそれまで待つから。
 ここにお前を覚えている男がいて、会いたいと願っていることを。
 この命が潰えても、その先で生まれる命がきっと覚えているだろうから。
 137億を超えてずっと先の先、阿僧祇あそうぎ那由他なゆたのその先の先まで。いつまでもきっと心のこれは消えない。

 この此岸の先でどこかで待っていて。いつか会いに行くから。
8/8ページ
スキ