短編

 真っ白な箱の中には何もない。
 綺麗な、染み一つない真っ白な箱を閉じてはまた開くを繰り返す。何度確かめようとその箱の中には何も入ってない。
 本来この箱の中には物が入っているはずだった。姉夫婦の子供が山で拾った団栗や松ぼっくりとかそういったもの。叔父に送りたいという子供たちの言葉に箱を姉夫婦は用意し、その箱の中に入れなさいねと子供には言い聞かせたらしい。だが、箱の中には団栗どころか落ち葉の一片すら入っておらず、入れ忘れたのかそれともやはり止めてしまったのか。仔細はわからない。ただ同封されている手紙には箱の中身について記載があったことだけは確かだ。
 この箱を捨てるべきか、否か。
 屋敷の縁側でぼうっとしながら手の中にある白い箱の処遇について考える。幸いな事に今日は仕事が休みである。そんな日はただひたすら縁側に座り、一日のほとんどをそこで過ごしている。
 小さい頃はそこまでぼうっと過ごしてはいなかった。早くに両親が病死したが、姉弟二人で寄り添って生きてきた。姉が両親の代わりとなり、働くその細い背に幼い心ながら彼女の助けになれるようにと頑張ってきたつもりだ。ぼうっとする暇などない。姉が結婚した後は姉の勧めで学校近くの親戚の家に世話になりながらも学校に通った。運動神経も悪くない、勉強だってできる、教師からは将来は立派な軍人にと勧められたが、どうしても武器を持つ気にはなれなかった。学校で親しくしていた友人の一人が実家の道場の手伝いが足りないと言っていたのを聞いて、卒業を機にその道場へと転がり込んだ。
 静かな山の麓にあるその道場は門下生はそこそこだが、近隣の町からは駆け込み寺の如く頼りにされているためにそれなりに忙しい。道場の主である天狗の面をつけた主人は今日は道場が休みにも関わらず、最近畑を荒らす猪がいると聞き、わざわざその畑へと足を運んでいるのだ。道場の留守は友が預かっている。
 故に今日は久々の一人なのだ。道場の隣の空き家に友と二人で住んでいるが、二人で住むには少し大きな屋敷だ。空き部屋となっている部屋が三つ四つあるほどに。友も自分もそこまで荷物を溜め込む性格ではないから、小ざっぱりと必要最低限の物しかない部屋だ。その部屋を自分は寂しいと思うことはなかったけれど、この前遊びに来た姉夫婦に片付けられた良い部屋ねと眉を下げられて言われた時に殺風景なのだなとその時に初めて理解した。
 だからこそ、姉夫婦の子供たちの贈り物だったのだろう。真っ白な箱の中身には何もないが、それは恐らくこの部屋を気にした小さいながらも出来た子供の気遣いだったのだ。
 箱だけでも飾るべきか。それとも箱を捨てるべきか。姉夫婦に中身がなかったことを告げるべきだろか。幸い、団栗と松ぼっくりならこの山でも採れるから拾ってきて、何かの容れ物に入れて棚に飾ってしまってもいい。次にもし姉夫婦が来た時にちゃんと入ってましたよと嘯くのは悪いことか、良いことか。
 頭の中で考える内に時間が経つ。庭に植えた梅の花がはらはらと風に舞ってどこかへ飛んでいくのをぼうっと見つめる。深紅の花びらが空のあおに溶けて消えていく。
 穏やかな、平和な時間。士官学校に進んだ友人たちは陸軍、海軍の軍人として今頃立派にお役目に励んでいるだろうに。目を細めて褒める教師の姿を思い出す。素晴らしいと手を打つ音。上背もあるから陸軍でも海軍でも好きな方を推薦しよう。その提案は誇らしくて、学生に与えられる中では最上の賛辞だったのだろう。けれど、その時の俺は刀をもう持ちたくないと思ったのだ。誰も傷つけたくないし、奪いたくもないし、奪われたくもない。気が付いた時には頭を下げて、教師の推薦を取り下げるようにお願いしていた。未熟故に、それはもっと相応しい人にと固辞した。刀を握った覚えもなければ、それを誰かに振るった覚えもなかったのに、生々しいほどまでにその重さと肉を切る感触と血の匂いを思い出したのだ。あのようなことはもう二度と御免だ。魂のどこかでそれを覚えているのかもしれない。前世は足軽として戦乱の世を生きていたのだろうかとそんな事を考える。
 そしてそれと同時に何か大切なものを喪ったのではないかと考えてしまう。心の空虚。けど、それが何なのかはわからない。
 大切であったと、それだけはわかるのに、その心の空虚はすごく曖昧でふとした瞬間にしかそれを思い出せない。覚えてなくていい。忘れてしまえというように思い出させることを否定するようにそれはぼうっと何も考えないようにしなければあることすらわからなくなってしまう。
 これは本当に忘れていいのだろうか。
 後悔と苦しさが入り混じった空虚は何も答えない。
「義勇ー、少し手伝ってくれ」
 隣接の道場から友の声が聞こえる。その声に立ち上がり、道場の方へと足を向ける。もう空虚のことも真っ白な中身の入っていない箱のことすら忘れてしまっていた。

◇ ◇ ◇

 真っ暗な闇夜の方が安心すると男は語った。その男に並んで歩きながら、俺はもう何度も口にし馴染んでしまった男の名を少し怒りの感情を乗せて呼ぶ。
「無惨、もう少し言い方があるんじゃないか」
「何がだ」
 昨今帝都で流行りの真っ白な洋装と帽子、それに外套を着た美丈夫の男は苛つきを隠そうともせずに言葉を返してきた。反省の色もなければ、反抗の意思すらあるそれに俺はため息を吐いた。もう何年も、それこそ千年くらいずっともう隣にいるけれどもこの男は本当に償う気があるのだろうかと不安になる。
「先ほどのおばあさんが重い病気を患っているとしても、その家族に葬儀の準備をするか私に治療させるかの二択をさせるのは些か人情味がたりないのではないだろうか!」
「ああ言えば、たとえ不審者であろうと私の治療を受ける気になるだろう」
「結果的にはそうなったけれども!」
 気遣いが足りないと叫べば、うるさいと無惨は耳を塞いだ。無惨の目は赤いままで不健康な肌の白さはそのままだけれども、牙もなければ瞳孔も猫のように縦細になってはいない。つまるところ、今の鬼舞辻無惨は人間である。明治の後半に生まれ、今年で齢32歳。日々新たな技術を磨き、薬を作りながら各地を行脚しているただの闇医者だ。
 口は悪いし、愛想もないが、これまでの千年間何度も生まれ直しを繰り返しながら培ってきた知識と腕で無惨が救ってきた人の数は四桁を超えているだろう。
 俺が何故それを知っているかというとそれはただ俺が無惨の目付け役であるから他ならない。
 かつて鬼であった鬼舞辻無惨は地獄に落ち、今まで行ってきた所業を償うために今までの人生のやり直しをするように命じられたのだ。鬼としてその奪ってきた分の命を救済せよと、その命令に従いただひたすらに命を救ってきた。命に背けばまた阿鼻地獄に落とすぞと言われれば無惨も渋々と従うしかなかった。そしてその命に付き従うお目付け役に選ばれたのが俺だった。
 お目付け役を選ぶ時に鬼舞辻無惨からの希望でもあったし、俺も益のある話だったので一二もなく請け負った。
 そうして始まった償いを続ける日々。無惨は人として生まれたが、お目付け役である俺は幽霊としてずっと傍にいるだけだった。声も姿も彼にしか見えない。生きている人々に干渉することは許されず、ただ無惨の行動を見守るだけのお役目だ。
 無惨が生まれた時代から始まり、戦乱時代を生き抜いて、ずっとずっと人を救い続けてきた。
 救えた命もあったし、救えない命もあった。
 鬼が生まれなかったので継国家の長男は侍になり、どこかの戦いで武勲を飾りつつも命を落としたと風の噂で聞いた。次男は山で慎ましやかに暮らしていた。兄が死んだという訃報も次男には届かず、畑仕事をしてこじんまりと暮らしていた。ただ熊が人里から離れたその家に押し入り、その怪我で妻が怪我をするなんてことはあったが命を落とすことはなかった。何故ならその怪我を治療したのがこの無惨だったからだ。怪しい男ではあったが、縁壱さんもその奥さんも治療を無惨に任せてくれて、その家に立ち寄る時には泊まって行けと言ってくれるくらいに仲良くなった。無惨は微笑みを浮かべるいつかの宿敵に気持ち悪くて仕方がないと腕に鳥肌を浮かべていたが。
 徒手空拳の道場にもお邪魔し、毒薬を飲んだ親子を救ったこともある。血を吐く親子にさすがに間に合わないかと思ったが、幸いな事に未来で学んでいたこの時代には早すぎる治療法のおかげで二人の命を助けられた。高名なお医者様なのだろうと町民に囲まれそうになったが、間一髪のところで逃げ出した。親子の毒は確かに取り除いたがその後どうなったかは聞いていない。だが、数年後におしどり夫婦がいる道場が話題になっていたから、恐らく無事だったのだろう。
 珠代さんは一生懸命薬を処方したけれど治すことはできなかった。苦心の中、延命処置で伸びた寿命はわずか1年程度。しかし、穏やかな家族揃っての時間が過ごせたと言って無惨に感謝して息を引き取った。
 かつて鬼であった人が今度は人として生きて死んでいく。治療しても、いつか人は死んでいく。それに対して無惨はこんな不毛なことはあるかと何度も何度も呟いた。助けた命が次の日に事故で失われてしまったことだってある。救った命が直後に戦いで奪われたことだってある。無惨はその度にほら見たことかと俺を見る。
 人への嘲りや醜さ、愚かさといった負の感情でぐずぐずに煮込まれた視線の奥底には落胆があるように思えた。
 落胆の裏返しは人への期待である。
 無惨の背を叩いて俺たちはただひたすらに消えそうな命の灯が潰えぬようにと救うことだけをしてきた。
 そうしてやり直しと償いを続けておおよそ何百年。ようやく竈門炭治郎が生まれた大正の時代へと移り変わった。鎖国が終わり、洋装を身に纏う人も増えてきた頃。無惨は炭治郎が初めて目にした時の洋装への姿になると「矢張りこの服が一番落ち着く」と息を吐いた。
 お医者様として真っ黒の鞄を手にあちこちと歩く。大正時代に変わると俺にとっても見覚えのある景色が増え、そういう人たちにも出会えた。
 樵をしている時透くんの家に行き、母親の病気を治した後は道場を営んでいる煉獄家に行き、そちらでも病に伏せる奥方に薬を出し、かつて敵であった人たちの家に行って彼らの命も救っていった。
 薬を処方している間は炭治郎も暇なので、昔の記憶を頼りにお世話になった人々がどう暮らしているかを確認しに行った。
 鬼のいない世界ではしのぶさんたちは家族仲良く過ごしていて、錆兎も真菰も、義勇さんも家族と一緒に住んでいて、悲鳴嶼さんも寺子屋で子供たちと細々とけれど幸せに過ごしていて、不死川さんの長屋では彼ら家族は貧しい生活ながらも互いに助け合って生活をしていた。
 気になるのは善逸とカナヲ、伊之助のことだった。善逸はそもそも親がいないと言っていたし、カナヲは親から暴力を受けていたと言っていた。伊之助も親の事を覚えていないと言っていた。彼らはこの鬼のいない世界でも幸せに過ごしているだろうか。
「どうした」
 心配がそのまま顔に出ていたのだろう。この町の人々の治療が終わり、しばらくお世話になっていた宿を出る時に俺がいつもと違って口数少ないと無惨は気付いたようだった。
「喋ることしか能がない奴が珍しく黙っていると不気味だな。いつもならきゃんきゃん煩いぐらいに喚く癖に」
「喚くって……」
「大方、昔の知り合いがどう過ごしているか気になっているんだろう。
 はぁ、この世界はお前がいた世界ではないというのに。赤の他人になったそいつらがまだ気になるか」
「当然だろう。俺にとっては他人なんかじゃない」
 知り合うことのなかった彼らはきっと竈門炭治郎のことなんて覚えてない。怨敵であった鬼舞辻無無惨のことだって知らない。名も顔も知らぬ赤の他人だ。それでも俺は知っている。大事な友人で幸せになって欲しい人たちだ。
 無惨はふぅっとため息を吐くと「どこだ」と端的に言った。
「どこって……」
「お前の知り合いの、生まれた場所だ。探してやる」
「えっ⁉本当か!?」
「人の償いもあと数年だ。それにそいつらを救うことも償いの内には入るだろう」
 あくまでも仕事の一環だというように無惨は言ったけれども、その言葉には炭治郎の気遣いが見えた。
 あの無惨が。血も涙もないと思われていたあの無惨が!俺に気やさ遣しさいを見せている!
 ほろりと思わず、無惨の成長を感じて涙を流す。子供ではないが、1000年近くずっと傍で見守ってきたのだ。何度人に優しくと諭してきたことか。ようやく俺の想いが彼に伝わったのだと思うと感慨深くなった。
 そんな俺を見てちっと舌を打つ無惨にいつもの調子が戻った俺は「行儀が悪い!」と言えば無惨はそっぽを向いて「今のはお前が悪い」と返す。
「俺はお前の成長を喜んでだな……!」
「私の成長をお前が喜ぶ必要はない。というか私は別に成長はしてないし、いつだって寛大な心で治療にあたっている」
「寛大な心でっていうのはそうかもしれないけれど!お前の場合打算とかそういうのが見えるんだよなぁ」
「治療を円滑で行う上で必要であれば当然だろう」
 確かに治療の上で愛想笑いが必要だと言えば無惨は笑みを浮かべるし、優しい声で手を差し伸べることだってする。ただそれは治療を円滑に行うためだけである。人を救えと言われたが、その心に寄り添えとは言われてはいない、というのが無惨の言い分だ。反省している感じが一切しない。
 こいつに必要なのは償いではなく道徳心ではないだろうか。しかしその道徳心はどうやって育めばいいのか。だが、炭治郎はずっと無惨に付き添ってきたことから一つだけ確信していることがある。
 この無惨はもう鬼にはならない。
 元々は彼だって望んで鬼になったわけではないのだ。健康体で、普通の人のように過ごしたい。最初の願いはただそれだけだった。この償いの日々でそれを思い出した彼はもう前のような鬼にはならないだろう。永遠の存在が何たるかを彼は前の生で知っている。
 彼の救った命が、少なくとも今もなおこの世界には続いているのだ。
「さっさと案内しろ」
 俺の憂いがある場所へ連れて行けと尊大な態度で無惨が言う。俺はその態度に苦言を呈そうとしたが、口を噤つぐんだ。彼なりの優しさに苦言で返すのは良くはない。こういう時はこう返すべきだろう。
「ありがとう、無惨」
 素直に感謝を述べると、ふんと鼻を鳴らしそっぽを向く無惨に俺は笑いかける。
 幽霊になった俺にこの世界のみんなは助けられない。ただ見守ることしかできない俺の話を聞き、答え、願いを叶えてくれるのは無惨だけだ。
 そう、竈門炭治郎はこの世界には存在しないのだ。

 神様はお目付け役を申し出た竈門炭治郎に一つの注意点を教えてくれた。
 無惨をずっと見張るために竈門炭治郎の精神は償いが終わるまで彼の魂に結び付けることになること。それはすなわち、無惨の償いが終わるまでこの世界に竈門炭治郎という存在は生まれない。
 竈門家の長子は長女である禰豆子になるし、長男は竹雄になる。
 貴方の存在そのものがなかったことになるがそれでも構わないかという問いに俺は数秒の間を空けて頷いた。俺一人の存在が消えただけでそれ以外の多くの命が救えるならこの上ないことだ。寂しいという一抹の寂しさはけれど、彼らの幸せな姿が見えるのならという願いに比べたらそれは些細なものだった。

 無惨のやり直しの償いの旅は炭治郎の希望の世界だったのだ。

 刀を握ることなく、高潔な命を落とすことなく、己の無力さに嘆く事無く、兄弟仲が不和になることもなく、あるべくしてあるべき姿になった世界。それは必ずとも幸せばかりだけではなかったし、理不尽な不幸もあったけれども、彼らはそれでも生きていた。
 前の彼らの生き方を否定するつもりはない。彼らは彼らで必死にその世界で自分たちの信念と想いを糧に生き抜いていた。
 ふざけるな。
 そんなものは望んでいない。
 自己満足だ。
 罵詈雑言の誹りを受けようと、それでも俺が見たかった世界はこれだったから。自己満足も勝手もその通りだ。けれどその言葉を発する人はこの世界に誰一人と存在しない。それが少しだけ寂しい。
「どうした、炭治郎」
「いや、何でもない」
 頭を振り、浮かび上がった寂しいという感情を心の奥底に沈める。
 弱気になるな、竈門炭治郎!これはお前の見たかった世界だろう!ならばしっかりとこの世界を見届けないと!
 心の中で自分を鼓舞し、頬をぺちりと叩く。隣にいる無惨が胡乱な目で見つめてくるのを無視して過去の記憶を思い出す。
 昔善逸と交わした他愛のない会話を思い出しながら、無惨をその町へと案内すればぎゃんぎゃん喚く金髪の派手な髪色の子供を見つけた。無惨はその金髪の子供を助手として連れまわし、口減らしに売られそうになっていた少女も今まで稼いだ金をその売人に頬を打つようにして叩き渡して彼女も助手にした。金髪の子供はやたらきゃんきゃん煩かったけれど、無惨の足りない言葉を補って客にちゃんと薬の説明をしてくれたし、黒髪の少女は無口だったが目が良く、無惨の教えた技術をするすると吸収していった。
 流れの腕の良い旅の闇医者は子連れの闇医者へと代わり、無惨は最初こそ煩そうに子供たちを見ていたけれども数年過ごす内に気遣いを見せ始めた。善逸が怪我をしたことを隠せばすぐに見破り、カナヲが欲しいものを汲んで与えるようになった。
 あの無惨が!あの無惨が人の世話をするようになったのだ!
 今まで無惨のお世話をし続けてきた炭治郎はようやく彼は人間らしくなりましたよ!とどこかで見守ってくれているだろう神様に向かって腕を振り上げた。もう償いの旅は終わったようなものである。
 なかなか見つからなかった伊之助を見つけたのはそれから数年後だった。伊之助は母親と一緒に裏長屋に住んでいた。父親から酷い暴行を受けていた伊之助の母は身体のあちこちに青痣を付けており、それを見た無惨は何も言わずに彼女を治療した。裏長屋には他にも怪我や病気をした人たちがいて、わずかな金銭だけを受け取って無惨は彼らの治療を続けた。
 高い金を受け取らず、しかし親身になって怪我や病気の治療をしてくれる無惨達をその長屋の人たちは気に入った。無惨の高慢な物言いすらも笑顔で受け入れてくれる温かな優しい人々に囲まれてずるずると無惨もその場所に一か月二か月、半年と長く滞在する。
 善逸もカナヲも伊之助と仲良くなり、揃って笑顔を見せて笑い合い、勉強をするようになると無惨も彼らを思ってこの地にとうとう根を下ろすことを決めた。
 もう、本当に償いの旅の終わりは近い。
 善逸とカナヲと伊之助が笑いながら細い裏路地を駆けて行く。彼らは彼らだけで笑顔を取り戻し、生きていく。刀もなく、鬼もなく、新しい家族と周りの人々と一緒に。
 無惨と二人、長屋の軒先で彼らを見守る。穏やかで優しい風が吹いている。
「炭治郎」
「なんだ?」
 無惨は最近優し気な笑みを浮かべている。善逸と伊之助を叱る時は鬼のような形相を見せるが、そこには確かに彼らに対する想いがある。慈しみの心がある。
「お前もそろそろ自分の行きたい場所に行けばいい」
「いや、そういうわけには」
「お前に言い渡された役目は私の目付けだろう。
 私はここからどこかに行くつもりはない」
 そう言う無惨の視線の先には善逸たちの他、長屋に住む他の人々の姿がある。炭治郎がずっと寄り添って生きてきた1000年よりも何よりもこの暮らしで無惨は変わったようだ。それが少しだけ悔しく思うが、無惨の表情を見ればその気持ちも霧散した。
「いいのか?」
「構わないって言ってるだろう。
 長く私に付き合わせてしまってすまないな」
「いいよ」
 謝罪を述べる無惨には俺は首を横に振った。感謝したいのは俺だって同じだ。こんな世界を見て見たかったのだ。この世界に、俺もいられたならと少しだけ思うけれどそれは我儘な話だろう。
「ありがとう、無惨。
 俺にこの世界を見させてくれて」
 無惨は少しだけ目を見開いて俺を見つめた後、目を細めて頷いた。
 俺は立ち上がると無惨に頭を下げた後に、一人で長屋を出ていく。善逸とカナヲと伊之助とすれ違っても彼らは俺を見ることない。当然だ。彼らに俺は見えない。誰も俺を見ることはできない。
 だけれど、俺は彼らを見ることができるから願うのだ。どうか幸せに。命が続く限り、長く一刻でも長くその時が続きますようにと。
 長屋を出て、伊黒さんと甘露寺さんが二人で逢引きしている姿を見つけた。あっと声を思わず上げてしまったけれどその声は彼らに届く事無く、仲良く手を繋いだ二人は雑踏に混ざって消えていく。
 夜に河原沿いを歩いていると花火を見ている宇随さんとそのお嫁さん達を見つけた。派手な音と光に宇随さんは目を輝かせて空を見上げていて、お嫁さん達はたーまやーと空に打ちあがる光に声をかけていた。賑やかに笑い合う姿を見て、俺も笑みを浮かべると彼らが立つ後ろを静かに通り過ぎた。
 村田さんが商いを営んでいる店の前を通り過ぎ、後藤さんの落ち着いた活弁の声を聞き、車に乗る産屋敷家の皆さんを見送り、いつか任務で訪れた街々を訪れてはその場を後にしていく。
 彼らの声はどんな喧騒の中でもはっきりと聞こえるし、おーいと呼ぶ声が聞こえれば振り向いてしまう。けれど彼らが呼ぶのは自分ではない。その先にいる誰かだ。振り返る度に彼らの浮かべる表情に良かったという言葉と寂しさだけが積もっていく。
 とうとう故郷の雲取山へと戻ってきた。大正に年号が変わって間もない頃に無惨と共に故郷に行った時以来だ。無惨は炭十郎の病を償いの一環で治してくれた。
 やせ細っていた父が日々元気になっていく様子に母も家族も喜んでいたのを昨日のように思い出す。家族を殺した相手が自分の家族を救うその姿を見て、その時は複雑な感情が渦巻いたのだけれども。今となってしまえばこれがきっと正しい世界の在り方なのだと思えるようになった。
 久々に実家を見れば、父さんは元気に炭焼きをしていて、それを竹雄が手伝っていた。禰豆子も母を手伝っている。炭焼き小屋の隣にはもう一つ家が建っていて、そこには縁壱さんそっくりのご家族が住んでいた。
 二つの家族は山で仲良く睦まじく住んでいた。彼らの家にお邪魔しますと言って上がり、楽しく話すそれに耳を傾ける。会話に入れなくとも、彼らの暖かな会話は聞いているだけで不思議と目に涙が浮かんでくる。
 嬉しさと寂しさが織り交ざってぽろぽろと涙が流れる。彼らの中に、本当はいたかった。幸せなこの世界の一員になりたかった。
 押し潰したはずの寂しさが償いの終わりになって浮かび上がって来てしまった。覆い隠すまでの後悔は今まで見てきた幸せな彼らの姿を見たせいで重石の役割がなくなってしまったのだ。
 幸せな家族を見るのはうれしいけれど、それと同時に辛い。
 けれど無惨の場所へ戻るつもりもなかった。彼にはもう償いは必要ない。それに彼にはこの世界にちゃんと居場所があった。俺と違って。彼は善逸にカナヲに慕われている。長屋の人たちに必要とされている。
 必要ないのは炭治郎だった。

 償いの終えたこの世界でただ一人いらないもの。

 最期はここでと思っていた雲取山を炭治郎は結局三日ほどで去った。それからはただひたすら風の向くまま気の向くままに歩き続けた。償いが終われば炭治郎は消える。
 いつ終わってもいい。全部見終えたから。
 そのままふらふらと数年西へ東へと放浪して、久しぶりに狭霧山を訪れた。鱗滝は育手であったがこの世界でも道場主として人々を育てる仕事を生業としていた。それを真菰と錆兎が手伝い、義勇も手伝っていたことには少し驚いてしまった。
 彼らはそれぞれ別の場所で暮らしていたはずなのに、ここに集うのかと彼らの絆に思わず笑ってしまう。それと同時に自分にはその絆がないんだなぁと少ししょげてしまったが。
 門下生を男なら!と叱っている錆兎と、優しくわかりやすい指導をしている真菰を見ていると昔の彼らの事を思い出してしまう。あの時とは逆になってしまうがもしかしたら彼らには見えるのではと少しだけ期待して彼らに向けて声を掛けてみたが、彼らの視線がこちらに向くことはなかった。義勇さんに至っては視線どころかこちらを見向きすらしない。
 まぁ、幽霊と言ってもあの世界では彼らも生きていた人だ。俺はこの世界で生まれてすらいない。前提が違うのだ。彼らが見えなくても仕方がない。
 けれども、もしかしたらと一縷の希望を捨てることができずずるずるとその場に居続けてしまった。
 主が留守をしているらしい道場の縁側で座っていると、隣に義勇さんが座る。
 今日は道場の留守は義勇さんが預かっているらしい。昔と違って柔らかい雰囲気を持つ義勇さんは、けれど昔と変わらず優しいままだ。門下生の男の人がこの前うちの娘と結婚しないかと話しかけられて困った笑みを浮かべていたのを覚えている。
 こんな優しい表情をしていればきっと前もこの人の周りにはたくさんの人で溢れていただろうなと思う。誤解もなく、不死川さんや柱の人たちと仲良くやっていたかもしれない。
 まぁ、でもこの鬼のいない世界では柱が知り合うなんてことそう滅多にはないわけで。数か月ほど道場に居座り続けても彼に会う人は近隣の町の人だけで、届く手紙もいつか聞いた彼の姉からだけだった。
 鱗滝さんが営む道場にお世話になって季節が一巡りする。相変わらず、彼らの目に映ることはないけれど、賑やかな彼らの道場に混ざれば少しだけ寂しさが紛れた。
 刀を握ることのない彼の竹刀の素振りは前よりも洗練さはない。当然だ。そんな強さはもう必要ないから。
 くふくふと微笑みながら兄弟子達の修行の様子を見守り、ただ終わりの日が来るのを待つ。償いの日が終わり彼岸に行ったところで待ってくれる人は誰もいない。いや、神様だけはお役目ご苦労様と声を掛けてくれるだろうか。
 幸せな、穏やかな世界なのに、何度も夢見た世界なのに今ではもう終わることをだけを願った。寂しさだけが積もり続けてどうかなりそうだった。お役目なんて引き受けなければ良かったと後悔しそうになった。
 一人でいてもただ寂しさは積もり、たくさんの人の行き交う雑踏に混ざっても孤独は消えず、どこに行っても炭治郎の場所はこの世界のどこにも存在しないのだ。
 けれども自分を律し続けることができたのは前の恩師や兄弟子達のおかげだろう。水の呼吸は特に心を平静に保つこと、波風立たず在ることを求められた。岩柱で行った修行のおかげもあるのだろう。だから、たとえ寂しくても我慢できた。
 病から復帰した父と一緒に炭を作ることもなくとも。
 禰豆子と竹雄と彼らの頭を撫でることをなく、母と一緒に掃除や料理を手伝うこともなく、善逸と伊之助と一緒に肩を並べて歩けず、玄弥とカナヲと笑顔で他愛のない言葉を交わすことができなくとも。その場所に居たかったと願う心はどれだけ強くとも叶わないことは知っていた。
 もうすぐ、無惨と戦ったあの夜がやってくる。
 償いの旅は彼の一生分まで。無惨は今までよく人の命を救ってきた。きっと神様だって許してくれるだろう。この先の未来を俺は見る必要がない。
 この道場には桜や梅の木、ツツジ、紫陽花や、山茶花など季節折々の木々が植えてあるから花が散る毎にこれで見納めかぁとそれらを見つめる。狂い咲きの藤もこの世界には存在しない。藤は藤が咲く季節にしか見れない。
 真っ白な山茶花の蕾が開き始めた頃、今日も道場の庭で修行に励む彼らを見つめていた。春頃にやってきた小さな子供たちは鱗滝に作ってもらった自分用の竹刀を正しい姿勢で素振りをできるようになったことに成長を感じる。
「無惨も元気にしてるかなぁ」
 彼の傍を離れて一年。時々様子を見に行ってはいるが長屋の穏やかな雰囲気は変わらず、善逸もカナヲも伊之助も前の背丈と同じくらい伸びていた。寂しさはまだ積もりつつもそれはすでに諦めという境地に至っていた。
 今日もじっと彼らの日常を見つめる。門下生と、指導を行うこの道場の主の鱗滝。それを手伝う義勇と錆兎と真菰。いつも仲良く過ごしている三人の一人がふとこちらを見たような気がした。きっと気のせいだろうけど、勘違いであっても構わないとそちらに向かって手を振った。
 少しだけ細められた目はこちらを視認しようとしているように見えて少しだけ嬉しかった。
「義勇?どうかした」
「いや……。雨がそろそろ降ってきそうだな、と思って」
「確かに!外に干してた布団を家の中に入れなくちゃ!」
 空に広がる暗雲を見て、彼らはそっと道場の中に身を翻していく。雨が降りそうだといった彼らの言葉通り、雨の匂いが近づいている。俺は雨にいくら濡れても大丈夫だけど。
 空をじっと眺めていると、間もなく雨が降ってきた。小粒だった雨はすぐにざあざあ降り変わった。門下生の人たちが雨に慌てて傘を持って、それぞれ家に戻っていく様子を眺めていると、不意に自分の上に傘が広げられた。
 後ろを振り返れば義勇さんが立っていた。なんという偶然か。俺の立っている場所に彼が来るなんて。
 にこにこと笑顔でありがとうございますと言って、彼の差す傘に一緒に入れてもらう。声は聞こえてないだろうし、姿も見えてないから彼が意図を持ってやってくれたとは思えない。けれども嬉しかったのだ。
 まるで、この世界に自分もいるように思えた。
 優しい兄弟子は、鬼がいてもいなくても変わらずそのままなのだ。やはり自分の寂しいという気持ちは押し潰して然るべきものだった。
「貴方達の幸せをずっと、ずっと祈っています」
 託すものなんて本当は一つとしてないだろうけども、そう、もしこの声が届いていたなら。この鬼のいない世界でも彼らが幸せに生き抜いてくれればいい。時折立ち止まってもいいし、後ろを向いてもいいけれども、前へ進むことだけは止めないで。
 義勇さんの差す傘から一歩外へと歩き出す。ざあざあの雨の中にその身体を晒す。雨ですら自分の身体を通り過ぎて行く。これでいい。
 一瞬だけでもこの世界にいた気持ちを味わえた。
 あれだけ寂しいと思った気持ちは今はもう穏やかに凪いでいる。
 本人にその気はないだろうけど、俺の心を救ってくれた義勇さんの表情をじっと見つめる。深い蒼の瞳は俺を見ているようでどこを見ているのかはわからない。ただじっと前だけを見つめている。
 彼が見る先を俺も見つめる。
 静かな山々が続くこの景色を、この世界を彼も綺麗だと思ってくれたらいい。
 鬼も何も知らない子供であった俺がずっと続くだろうと夢見ていたその世界なのだ。

 穏やかに続く日々は何事も無く過ぎ、終わりの夜も静かなままで。夜明けもいつもと同じようにやってきた。
 償いの日が終わったことを知るのはそれを背負って生きてきた一人の医者だけで、この世界を夢見た亡霊はその日に消えたことを知るのもその一人だけだった。
 きっとあの亡霊は幼い自分へこの世界の話をしていることだろう。一人きりの彼岸で。
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