短編
揺らめく水の中にいる鯉を見て姉が、綺麗ねぇと言った。
祭りに向かう途中にある立派な庭園にある池には鯉が住んでいる。姉が指さした先にいた白地に赤の斑模様柄の鯉は朝日に照らされて、きらきらと優雅に揺蕩んでいた。
近所の神社の大祭は義勇の誕生日に近い日付で行われる。たくさんの参拝客と共に姉と二人で毎年出かけるのが好きだった。神社の祭りに行けば、仲良しの友人にも会えるから神社へと向かう足取りも自然と軽くなる。
「姉さん、早く行こう!」
せがむ義勇の手に引っ張られながら姉の蔦子は仕方ないという表情で歩く足を早める。この日ばかりは少しばかり我儘を言っても許されるのだ。姉にぴったりと寄り添って歩く義勇は親鳥について歩くひな鳥のようだ。
姉の柔らかで温かい掌は義勇の小さな手をしっかりと握り返してくれる。喜びに弾む胸に手を当てればとくりとくりと小さく波打つ心音が聞こえた。
「義勇、迷子にならないようにね」
「うん!」
優しく微笑む姉に向かって元気よくそう答える。神社の出店に好物の鮭大根はないけれども、甘酒の振る舞いがあったり、おでんやすしといった見世はあるのだ。誕生日だからと小遣いだって今日は多めに貰った。
神社につくと色とりどりの出見世が立っている。縁日のような賑わいにはぐれないようにと姉が強く手を握るが、義勇の視線はあちらこちらへと移っていた。
金魚すくいでは蝶々の髪飾りをした可愛らしい姉妹が喋りながらどの金魚が良いかと言いながら話をしているし、鉄砲落としでは特徴的な髪型の男の子が周りにいる小さい子に囲まれながらも器用に景品を落としている。おでん屋の前ではこれまた目を惹く金髪の少年がうまいうまいとご飯を食べており、その傍らには彼の母親らしき人が少年を見て微笑んでいた。
あちらこちらに視線を泳がせる義勇の手を今度は蔦子が引っ張る。まずは先に挨拶をしないと、と奥の境内へと向かって歩いていく。
その道中にもお面屋でそっくりな双子の兄弟が楽しそうにひょっとこのお面を被っていたり、少し離れた場所の長椅子で蛇を連れた男と桃色の珍しい髪色をした女が仲睦まじそうに桜餅を食べていたり、目に付く人々は何故だか不思議とすべて知り合いのように思えた。
境内に辿り着くと少し前にお参りを終えたらしい大男が小さな子供を連れて、戻って来る姿が見えた。はしゃぐ子供たちは道中にあった見世の名を挙げて早く早くと男にせがみ、それをわかったわかったと嬉しそうに彼は応えて、境内を去っていく。その背を見つめるどこか不満そうな少年もいたが、その背を背の低い老人がばちんっと叩くとその人に連れられて違う方へと歩いて行った。
境内には授与所もあり、お守りを手にしている家族もいた。黒髪の優し気な男に寄り添う女性とその子どもらしき二人の少女。男は二人の少女にお守りを手渡し、彼女たちは喜んでそれを眺め、大切そうに仕舞う。
さてそろそろ自分たちがお参りをする番だ。自分たちの前に並ぶ3人くらいの青年は知り合い同士なのか、互いの肩を叩きながら楽しそうに話をしている。彼らの番が終わり、とうとう義勇の番になった。
立派なお社の奥は真っ暗で何も見えなかった。普段なら、大きい神様の像が見られたのだけれど、今日はそれがないことに首を傾げる。姉の蔦子が賽銭を自分の財布から取り出す。義勇もそれにならい、自分の財布から賽銭を取り出そうとし、ぱっとその手を握られた。
「錆兎!」
「間に合った……」
はぁはぁと息を切らした錆兎は宍戸色の髪をぼさぼさにしながら急いでやってきたようだ。しかし、錆兎に会えたのは嬉しいが、今はお参りの途中だ。割り込みをさせてはいけないと義勇は錆兎に掴まれたその腕を離そうとするが、錆兎は腕を掴んだまま義勇を列から引っ張り出す。
「何をするんだ、錆兎」
姉を置いて列から抜け出した義勇は錆兎に向かって文句を言う。またお参りのために列に並ばねばならない。今度は一体どれくらいかかるだろうか。目の前に並ぶ列はいつの間にか先が見えないほどの行列になっていた。
「忘れ物があるんじゃないか、お前」
ぱちりと錆兎の言葉に義勇は目を瞬かせた。
急いでやって来て錆兎の言う事がそれなのか。不思議に思ったけれども、義勇は錆兎の言う事は何か意味があってのことだとすぐに察して今ある荷物を確認した。
多めの小遣いの入った財布。今日は寒いからと貸してもらった姉がいつも使っている羽織。いつか貰った狐のお面。玩具の刀。折れて壊れてしまったその破片。木彫りの鴉。将棋の駒。それから。それから。
荷物の中には一体どうやって入っていたのかと不思議に思うほどの量のものが入っていた。どれも見覚えがある。大切な義勇の宝物だ。忘れたものなんて、一つとしてない。
けれど、足りない。何かが足りなかった。
焦る気持ちはとうとう荷物の入っていた袋をひっくり返し、すべてを地面に落とした。地面に落ちたすべてに目を通し、それでも見つからない大切なものに袋をばさりばさりと振る。軽くなった袋から、赤いびぃどろ一番最後に出てきた。
「あっ!」
地面に落ちたら割れてしまう。慌ててそれが地面に落ちる前に掌で救う。
ころりと掌に落ちたびぃどろはあちこちヒビが入ってしまっている。
そのヒビ欠けたびぃどろは義勇の大切なものの一つであった。
「錆兎、俺は……」
「義勇。忘れ物が何かわかったか?」
「ああ」
目の前に立つ少年は錆兎のままであったが、自分の掌は分厚く、切り傷だらけの大人の節くれだった男のものになっていた。
これが夢であることに気づいたのだ。錆兎も姉もとうの昔に失った。けれど今もずっと義勇の心の奥深くにある、大切な存在だ。そしてまだ一人失われていないものがある。命を賭けて守ると決めた存在があった。
「すまない、錆兎」
「義勇、お前は俺の意思も継いで戦ってくれた。それで十分だ。こちらに来るのはもう少し後でいい。その時に色々な話を聞かせてくれ」
錆兎は義勇の背をパシリと叩いた。そしてこの神社から出て行けと言わんばかりに鳥居の奥を指さした。彼に向かって頷き、参拝を終えたらしい姉が遠くからこちらを見守るように見ていることに気づく。微笑を浮かべながら、いってらっしゃいと手を振る姉に背を向けて走り出す。
立ち止まっていればここにずっと居たくなる。優しく温かな世界。
けれどこの場所に来るにはまだ早すぎる。
神社を抜けると景色は一気に山の奥深くへと変わる。あの時彼に出会ったのは冬の雪山ではあったが、雪が解けて春が来ていたのならこういう景色なのだろうなというのがすぐに想像できた。
青空に一つ白い煙が立っている。炭焼きを生業としていると言っていたから、大きな窯で炭を焼いている証なのかもしれない。煙が立つ方向へと足を向けると、小さな子供たちの声が聞こえてきた。
「兄ちゃん、遊んでよ」
「もうちょっとだけ、もうちょっとだけ、ね?」
「駄目よ!お兄ちゃんにはお兄ちゃんの仕事があるんだから!」
走って走って、走り抜けたその先には庭で遊んでいる小さな子供が四人とその子を見守るように小さな家の縁側で寄り添って座っている夫婦。そして間に立っている赤みがかった黒髪の少年。
「たんじろう」
少年がゆっくりと振り返る。義勇が守りたかったもの。一度は失われた命だが、最悪の奇跡と彼が紡いだ繋がりが彼を黄泉から掬い上げてくれた。ひび割れ、欠けながらも、それでも零れ落ちることなく、留まった義勇の大切なもの。
「義勇さん」
緑と黒の市松模様の羽織を纏った少年はすでにここが夢の中だと気づいていたらしい。毒で爛れた皮膚や傷痕はない。衝撃で吹っ飛ばされた左腕も夢の中にはあった。
とことこと義勇の傍に寄って来る炭治郎に彼の兄弟らしき子供たちを後をついてやってくる。義勇を見て首を傾げる子供に炭治郎は「大変お世話になった人なんだ。あとすっごく強くて、尊敬してる兄弟子だよ」と笑って説明する。その声に縁側の夫婦が揃って俺に向かって頭を下げた。
子供たちも物珍しそうに義勇の周りをくるくると回った後、炭治郎と禰豆子によく似た表情で目を輝かせた。口々にすごい、強いんだ!刀持ってるよ!とわあわあ一通り騒ぎ終わった後に、お兄ちゃんをよろしくお願いしますと礼儀正しくお辞儀をして、兄の背を押した。
「もうちょっとだけ我慢するから、お姉ちゃんにも元気でって伝えてね」
「私たちずっとずっとここで待ってるから。見守ってるからね」
「忘れちゃだめだよ」
「兄ちゃん、いってらっしゃい」
下の兄弟達に見送られて、炭治郎と一緒に山を下りていく。夢の中をこうして歩くのは不思議な感覚だ。一歩一歩進む度に山の景色が変わっていく。その移ろいに足を取られそうになる炭治郎の腕を取る。
「すみません、義勇さん」
「いや。構わない」
足元を気をつけろと言ったところで、ここは夢の中。気を付けるも何もあったものじゃない。移り変わる景色には浅草や電車の中、蝶屋敷の中と今までの訪れたことのある場所が順繰りに移っていく。
移ろう景色の中ところどころ、こちらに気づき意味ありげな視線を送る者がいた。ある者は大手を振って、頭を下げたり、感謝するようなそぶりを見せるものもいた。それに炭治郎と二人黙礼を返す。
巡り廻った炭治郎の紡いだ繋がりなのだろう。いずれはこの場所に返さなくてはいけないのだろうが今はまだ、そこには連れてはいけない。
移ろう景色が千年竹林へと変わる。どうやらここで終わりのようだ。
「炭治郎」
「はい、なんでしょうか」
静かな竹林に義勇と炭治郎の声だけが響く。ここは物静かな場所で義勇も気に入っている屋敷ではあった。けれど炭治郎がここに訪れるようになってからというもの、この静かさに少しの寂しさを感じるようになった。
いつか宿願が果たされたならば、もしすべてを終えたなら。その先をどう生きようかと考えた想像にはこの屋敷で慎ましやかに過ごす自分の姿を浮かべた。穏やかで、静かな、一人だけの暮らし。いや、縁側で静かに座る義勇の隣にはいつの間にかひょっこりと炭治郎が座っていて、炭治郎の妹の禰豆子が風呂敷を片手に訪れて、彼の同期の後輩や、恩師である鱗滝、同じ柱であったしのぶも継子を連れてやってくるし、炭治郎を気に入っている時透も刀鍛冶を連れて揃って顔を見せる。
静かとは真逆のいつも人で溢れかえり、人の声の絶えないそこで義勇は笑うのだ。幸せそうに。
この想像が義勇にとっての理想だ。一度は遠い先の叶わぬ夢と蓋に閉じ込めたのだが、それは夢ではなかったのかもしれない。
この夢のようなそれの景色の義勇の傍にはいつも炭治郎がいた。炭治郎が義勇を命の恩人だというのであれば、義勇にとって炭治郎は心の導き手である。
「共に最期まで……。いや、死してなお俺と共にいてくれるか」
「はい。お供させていただきます!」
にこりと赫灼の瞳を隠して炭治郎が笑う。お互い痣の寿命でそう長くは生きれないだろうが、それでも共に生きようと誓う。傍に。離れぬように。死がいつか二人を分かつだろうがそれでもそんなものでも断ち切れぬ絆が欲しい。
そう願う義勇の手に炭治郎の手がそっと重ねられる。いつか。きっとこの黄泉の夢に舞い戻っても二人揃っていられたらいい。
薬のつんっとした匂いが鼻をつく。ぼやける視界の中でごそりと何かが動く。一度目を閉じてもう一度目を開きなおすと、不鮮明であった視界が徐々に形をしっかりと映していく。
「おう、おはようさん」
「……宇髄か」
「あまり喋らなくていいぞ。体のあっちこっちまだ痛いだろ」
宇髄の言葉通り、身体のあちらこちらが痛かった。腕がくっついてるのか足はあるのか。よくわからない。口を開こうとすれば顔の皮膚が引きつっていたかった。ここは宇髄の言葉に甘えさせてもらおう。じっと目で宇髄を見つめると、彼は状況を説明しだした。
あの戦いで生き残った柱は義勇と不死川のみ。他の柱は途中で鴉の報告があったとおり戦死、もしくは鬼舞辻との戦いで負った致命傷や痣の後遺症で夜明け後に間もなく息を引き取ったとのこと。
甚大な被害を被りながらも生き残った隊士や隠しで今は事後処理を行っているらしい。亡くなられた鬼殺隊士はすでに葬儀をすべて終えていること、義勇や不死川の体調が回復次第、祝勝会とまとめてになってはしまうが改めて哀悼の会を開くことまで話し終わった宇随に、まだ話してないことがあるだろう、と強く目で訴えかける。それににやりと宇随は笑うとまぁまぁ、と気に障る笑みを浮かべて余裕を見せる。
「竈門は生きてるぜ。
胡蝶の薬が効いたみたいで問題なさそうだ。まぁ、一時は死んでたようなもんだからお前と同じように重症患者だ。あっちはまだ目を覚ましてない。不死川もまだだけどな。
まぁでもそろそろあいつらも目を覚ますだろう。
あ、あいつらの同期の善逸、伊之助、カナヲも生き残った。俺の言ったとおりだろ。ちゃんと俺たちの後継は育ってた。んでもって、生き残った。お前も褒めてやれよ」
宇髄はそう言うと義勇の肩を叩こうとして、止める。怪我人だということを思い出したのだろう。たくさんの命が奪われ、消えて行った一夜で無事生き残った馴染みのある顔ぶれに宇髄も少しだけ心が救われたのだろう。
動ける者がほとんどいない鬼殺隊の中で引退したとはいえ、直近まで柱を務めていた男だ。恐らく義勇や不死川に代わり事後処理のほとんどをこの男が取り仕切ったのだろう。憔悴しきっているその表情は炭治郎達の話をするときだけ少しだけ覇気を取り戻していた。
炭治郎が生きていることは分かっていた。けれど、宇髄の言葉を聞く時まで不安ではあったのだ。
義勇が炭治郎が無事だと聞いて優し気な笑みを浮かべたのに、宇髄も気付いたのか話はここで終わりだと立ち上がる。ゆっくり身体を休めろよと掌をひらひらと振って病室から出ていく宇髄を見送った。
少しの間、眠っているとまた扉が開く音がした。ひょこりと扉から顔を覗かせたのは禰豆子だ。義勇が目を開けると、顔満面に嬉しさを滲ませて駆け寄って来る。
「義勇さん!」
炭治郎の呼び方が移ったのか禰豆子は義勇の名を呼びながら近寄って来る。その手には小さい羽織の端切れが握られている。姉と錆兎の形見の羽織だ。あの戦いでボロボロになったのは覚えていたが、どうやら捨てられることはなかったらしい。
義勇の視線が自分の手元に注がれていることに気づいた禰豆子は包帯が巻かれている指でそれ羽織の布を広げた。
「ごめんなさい、義勇さん。この羽織、少しの間私が預かってもいい?」
目を閉じて構わないの意味を示す。どうやらうまくそれが伝わったようだ。良かったと禰豆子が喜ぶ。そして禰豆子は義勇の身体に糸を巻き付けては何かを測り始めた。だがものの数分でそれが終わると禰豆子はまた来ますね!お兄ちゃんが目を覚ましたらすぐに教えにきます!と言って病室を出て行った。
炭治郎によく似て明るい子だ。炭治郎が自慢にしていたのもよくわかるくらいにあの子は眩しかった。いや、炭治郎も十分に眩しい存在だが。あの兄妹はとてもかわいい。
禰豆子が人間に戻り、炭治郎と二人あの子達が普通の兄妹として今後過ごせることを思うと我がことのように嬉しかった。大切な命。希望。心の拠り所。きっと竈門兄妹は幸福と祈りで作られている。だから、彼らを思い浮かべるだけで心が暖かくなるのだ。
ほわほわと気持ちよい気分で寝ていると今度は鱗滝がやってきた。
「よくぞ、生きていた」
震える声で義勇を見て、そう言った。鱗滝にも随分心配をかけていたらしい。いつ訃報が届けられるかわからぬ時、鱗滝に残された弟子が二人とも元凶である鬼舞辻と戦い、その命を落とすことなく生き残ったのだ。
お前たちは自慢の弟子だと言われた。鬼舞辻がいなくなったから、もう鱗滝は弟子を取ることはないだろう。義勇と炭治郎が鱗滝にとっての最後の弟子だ。二人とも痣を出していたから残された時間は少ないし、もしかしたら鱗滝よりも先に逝ってしまうかもしれないけれど。
生き残ってくれたことが一番の恩返しだと言われて、義勇の目から一粒の涙が流れた。
取りこぼしてばかりの掌で、必死に掴んでいた大切なものの他にそっと上からさらにものを乗せられたようだった。いや。すべて取りこぼしたと思っていただけで実はずっとずっとその掌には大切なものがたくさん積み重なっていたのかもしれない。
義勇が目を覚ましたという話はその日の内に恐らく知れ渡ったのだろう。後日、義勇の様子を見に村田や、担当の刀鍛冶などが現れ、他にも見知らぬ猫を連れた男や胡蝶の継ぐ子などつぎつぎと病室にやってきては色々と話をしていく。掌に大切なものを積み重ねていく。
数日後には不死川が目を覚ましたらしい。この頃には身体を起こしても良いと言われたので、宇髄の手を借りて、不死川の病室を訪れるといつもより静かな様子でいる姿に思わず「珍しいな」と口走れば、「喧嘩売ってんのかァ」といつもの調子で返された。
静かな不死川は元気がなさそうで、怪我の後遺症のこともありきつく巻かれた頭の包帯が気になり「頭(の怪我)は大丈夫なのか」と言えば、絶対安静と言われているその身体を起こそうとするから吃驚した。宇髄にはお前は変な所で言葉を区切るのは止めた方がいいと苦言を呈された。
誤解を解き、怪我の状態を改めて聞けば心配されるほどじゃねぇよ、と覇気のない声が返ってきた。あの夜に不死川は弟を失くした。元気がないのも仕方がないだろう。かといって、元気づけられる言葉を持たない義勇と宇髄は話もそこそこに切り上げた。
義勇も宇随も家族を亡くしてはいるが、一人ではない。義勇には炭治郎がいるし、宇髄には嫁がいる。不死川に残されたものは一体何だろうか。彼の心に寄り添う人はいつか現れるだろうか。その掌に大切なものを載せてくれるような人が。いつかそんな人が現れたら、その人を彼は紹介してくれるだろうか。
とぼとぼと歩く廊下の後ろで、不死川の病室を開けて、失礼しますと元気よく挨拶する声が聞こえた。明るくて、元気な周りを照らすような声は。後ろを振り向いたが、彼女は既に病室の中に入ってしまっていたらしく姿が見えなかった。
あの子ならばあるいは。義勇があの子の兄に掬われたように、彼女が不死川に変化をもたらすキッカケになるかもしれない。あの子達は眩しいから。宇髄を見上げれば、彼もまた何かを期待するように不死川の病室を見つめていた。
義勇も不死川も一人で歩けるぐらいに回復した頃、ようやく炭治郎が目を覚ました。禰豆子から兄が目を覚ましました!病室に駆けこんで知らせてくれたので、義勇もすぐに服を着替えて炭治郎の病室へと向かった。
目を覚ましてない時にも炭治郎の病室へは毎日のように行っていたが、扉を開けてその瞳が義勇の姿を映すのを見て、ほっと息を吐いた。禰豆子が義勇さんこっちと右半身を支えながら炭治郎の傍へと背中を押してくれる。
「炭治郎、遅かったな」
「お待たせしてしまったようで、すみません」
眉を下げて申し訳なさそうな表情をする炭治郎に、構わないと返す。必ず、炭治郎は目を覚ますと信じていた。禰豆子は炭治郎と義勇の表情をしばらく見比べていたが、二人は仲がいいのねと唐突に言うと微笑んだ。
「え?なんだ禰豆子、藪から棒に……」
「ううん、お兄ちゃんから義勇さんは私たちの恩人で、兄弟子で、すごい人で、強い人だって聞いてたから。お兄ちゃんが義勇さんの事大好きだってことは分かってたの。
義勇さんも私が病室に行くとお兄ちゃんのことなんだか気にかけてるみたいだったから、二人とも仲良いいんだなぁとは思ってたんだけど。
改めて二人が揃ってるのを見たら、そう思って」
にこにこと禰豆子は嬉しそうに炭治郎と義勇を見る。禰豆子に仲が良いと言われて悪い気はしない。炭治郎との繋がりが俺には見えずとも禰豆子には見えているのではないか。そんなことを考えてしまう。
炭治郎の頬をそっと撫でる。包帯でぐるぐる巻きであちらこちらにまだたくさんの管が付いた痛々しい姿ではあるけれど、頬の温もりが大切な存在を教えてくれる。じわりじわりと自分より高い子の体温を掌に伝わる。
「ありがとう。炭治郎」
「えっと何がですか?」
「……生き残ってくれて」
きっと義勇は炭治郎が生きて居なければ、あの夢の世界で蔦子と共に暮らす日々を続けただろう。それはとても幸福で、炭治郎が生きてなければ現実へ戻ってこようとは思わなかった。けれど、戻ってきたのだ。
不思議そうな表情で炭治郎は義勇を眺めていたけれども、それはお互い様ですよと言って苦笑いをした。生き残っていて嬉しいのは誰もが同じだ。どれもすべからく尊い命だけれど、残念ながら命の重みはすべてが平等かと問われれば違う。
「生きないといけないな」
「はい」
姉と親友に掬われた命は、弟弟子の導きで心を取り戻し、そして身を挺してまでこの命を守ってくれた多くの隊士達。掌に収まりきらないほどの宝物がこの身体には残っている。命を、残り僅かな寿命であっても彼らのためにも夢のその先を生きねばならない。
「共に生きてくれるか」
「ええ、もちろん。ずっとお供しますよ」
にこりと夢で見たのと変わらない笑みを浮かべて炭治郎が応えてくれる。
きっとそう遠くない未来にいつか見た夢の果ては実現するだろう。命の果てのその先についてはわからないが。黄泉の世界で大切な人たちと再会する時には両手に抱えられないほどの宝物を持って会いに行けることだろう。
祭りに向かう途中にある立派な庭園にある池には鯉が住んでいる。姉が指さした先にいた白地に赤の斑模様柄の鯉は朝日に照らされて、きらきらと優雅に揺蕩んでいた。
近所の神社の大祭は義勇の誕生日に近い日付で行われる。たくさんの参拝客と共に姉と二人で毎年出かけるのが好きだった。神社の祭りに行けば、仲良しの友人にも会えるから神社へと向かう足取りも自然と軽くなる。
「姉さん、早く行こう!」
せがむ義勇の手に引っ張られながら姉の蔦子は仕方ないという表情で歩く足を早める。この日ばかりは少しばかり我儘を言っても許されるのだ。姉にぴったりと寄り添って歩く義勇は親鳥について歩くひな鳥のようだ。
姉の柔らかで温かい掌は義勇の小さな手をしっかりと握り返してくれる。喜びに弾む胸に手を当てればとくりとくりと小さく波打つ心音が聞こえた。
「義勇、迷子にならないようにね」
「うん!」
優しく微笑む姉に向かって元気よくそう答える。神社の出店に好物の鮭大根はないけれども、甘酒の振る舞いがあったり、おでんやすしといった見世はあるのだ。誕生日だからと小遣いだって今日は多めに貰った。
神社につくと色とりどりの出見世が立っている。縁日のような賑わいにはぐれないようにと姉が強く手を握るが、義勇の視線はあちらこちらへと移っていた。
金魚すくいでは蝶々の髪飾りをした可愛らしい姉妹が喋りながらどの金魚が良いかと言いながら話をしているし、鉄砲落としでは特徴的な髪型の男の子が周りにいる小さい子に囲まれながらも器用に景品を落としている。おでん屋の前ではこれまた目を惹く金髪の少年がうまいうまいとご飯を食べており、その傍らには彼の母親らしき人が少年を見て微笑んでいた。
あちらこちらに視線を泳がせる義勇の手を今度は蔦子が引っ張る。まずは先に挨拶をしないと、と奥の境内へと向かって歩いていく。
その道中にもお面屋でそっくりな双子の兄弟が楽しそうにひょっとこのお面を被っていたり、少し離れた場所の長椅子で蛇を連れた男と桃色の珍しい髪色をした女が仲睦まじそうに桜餅を食べていたり、目に付く人々は何故だか不思議とすべて知り合いのように思えた。
境内に辿り着くと少し前にお参りを終えたらしい大男が小さな子供を連れて、戻って来る姿が見えた。はしゃぐ子供たちは道中にあった見世の名を挙げて早く早くと男にせがみ、それをわかったわかったと嬉しそうに彼は応えて、境内を去っていく。その背を見つめるどこか不満そうな少年もいたが、その背を背の低い老人がばちんっと叩くとその人に連れられて違う方へと歩いて行った。
境内には授与所もあり、お守りを手にしている家族もいた。黒髪の優し気な男に寄り添う女性とその子どもらしき二人の少女。男は二人の少女にお守りを手渡し、彼女たちは喜んでそれを眺め、大切そうに仕舞う。
さてそろそろ自分たちがお参りをする番だ。自分たちの前に並ぶ3人くらいの青年は知り合い同士なのか、互いの肩を叩きながら楽しそうに話をしている。彼らの番が終わり、とうとう義勇の番になった。
立派なお社の奥は真っ暗で何も見えなかった。普段なら、大きい神様の像が見られたのだけれど、今日はそれがないことに首を傾げる。姉の蔦子が賽銭を自分の財布から取り出す。義勇もそれにならい、自分の財布から賽銭を取り出そうとし、ぱっとその手を握られた。
「錆兎!」
「間に合った……」
はぁはぁと息を切らした錆兎は宍戸色の髪をぼさぼさにしながら急いでやってきたようだ。しかし、錆兎に会えたのは嬉しいが、今はお参りの途中だ。割り込みをさせてはいけないと義勇は錆兎に掴まれたその腕を離そうとするが、錆兎は腕を掴んだまま義勇を列から引っ張り出す。
「何をするんだ、錆兎」
姉を置いて列から抜け出した義勇は錆兎に向かって文句を言う。またお参りのために列に並ばねばならない。今度は一体どれくらいかかるだろうか。目の前に並ぶ列はいつの間にか先が見えないほどの行列になっていた。
「忘れ物があるんじゃないか、お前」
ぱちりと錆兎の言葉に義勇は目を瞬かせた。
急いでやって来て錆兎の言う事がそれなのか。不思議に思ったけれども、義勇は錆兎の言う事は何か意味があってのことだとすぐに察して今ある荷物を確認した。
多めの小遣いの入った財布。今日は寒いからと貸してもらった姉がいつも使っている羽織。いつか貰った狐のお面。玩具の刀。折れて壊れてしまったその破片。木彫りの鴉。将棋の駒。それから。それから。
荷物の中には一体どうやって入っていたのかと不思議に思うほどの量のものが入っていた。どれも見覚えがある。大切な義勇の宝物だ。忘れたものなんて、一つとしてない。
けれど、足りない。何かが足りなかった。
焦る気持ちはとうとう荷物の入っていた袋をひっくり返し、すべてを地面に落とした。地面に落ちたすべてに目を通し、それでも見つからない大切なものに袋をばさりばさりと振る。軽くなった袋から、赤いびぃどろ一番最後に出てきた。
「あっ!」
地面に落ちたら割れてしまう。慌ててそれが地面に落ちる前に掌で救う。
ころりと掌に落ちたびぃどろはあちこちヒビが入ってしまっている。
そのヒビ欠けたびぃどろは義勇の大切なものの一つであった。
「錆兎、俺は……」
「義勇。忘れ物が何かわかったか?」
「ああ」
目の前に立つ少年は錆兎のままであったが、自分の掌は分厚く、切り傷だらけの大人の節くれだった男のものになっていた。
これが夢であることに気づいたのだ。錆兎も姉もとうの昔に失った。けれど今もずっと義勇の心の奥深くにある、大切な存在だ。そしてまだ一人失われていないものがある。命を賭けて守ると決めた存在があった。
「すまない、錆兎」
「義勇、お前は俺の意思も継いで戦ってくれた。それで十分だ。こちらに来るのはもう少し後でいい。その時に色々な話を聞かせてくれ」
錆兎は義勇の背をパシリと叩いた。そしてこの神社から出て行けと言わんばかりに鳥居の奥を指さした。彼に向かって頷き、参拝を終えたらしい姉が遠くからこちらを見守るように見ていることに気づく。微笑を浮かべながら、いってらっしゃいと手を振る姉に背を向けて走り出す。
立ち止まっていればここにずっと居たくなる。優しく温かな世界。
けれどこの場所に来るにはまだ早すぎる。
神社を抜けると景色は一気に山の奥深くへと変わる。あの時彼に出会ったのは冬の雪山ではあったが、雪が解けて春が来ていたのならこういう景色なのだろうなというのがすぐに想像できた。
青空に一つ白い煙が立っている。炭焼きを生業としていると言っていたから、大きな窯で炭を焼いている証なのかもしれない。煙が立つ方向へと足を向けると、小さな子供たちの声が聞こえてきた。
「兄ちゃん、遊んでよ」
「もうちょっとだけ、もうちょっとだけ、ね?」
「駄目よ!お兄ちゃんにはお兄ちゃんの仕事があるんだから!」
走って走って、走り抜けたその先には庭で遊んでいる小さな子供が四人とその子を見守るように小さな家の縁側で寄り添って座っている夫婦。そして間に立っている赤みがかった黒髪の少年。
「たんじろう」
少年がゆっくりと振り返る。義勇が守りたかったもの。一度は失われた命だが、最悪の奇跡と彼が紡いだ繋がりが彼を黄泉から掬い上げてくれた。ひび割れ、欠けながらも、それでも零れ落ちることなく、留まった義勇の大切なもの。
「義勇さん」
緑と黒の市松模様の羽織を纏った少年はすでにここが夢の中だと気づいていたらしい。毒で爛れた皮膚や傷痕はない。衝撃で吹っ飛ばされた左腕も夢の中にはあった。
とことこと義勇の傍に寄って来る炭治郎に彼の兄弟らしき子供たちを後をついてやってくる。義勇を見て首を傾げる子供に炭治郎は「大変お世話になった人なんだ。あとすっごく強くて、尊敬してる兄弟子だよ」と笑って説明する。その声に縁側の夫婦が揃って俺に向かって頭を下げた。
子供たちも物珍しそうに義勇の周りをくるくると回った後、炭治郎と禰豆子によく似た表情で目を輝かせた。口々にすごい、強いんだ!刀持ってるよ!とわあわあ一通り騒ぎ終わった後に、お兄ちゃんをよろしくお願いしますと礼儀正しくお辞儀をして、兄の背を押した。
「もうちょっとだけ我慢するから、お姉ちゃんにも元気でって伝えてね」
「私たちずっとずっとここで待ってるから。見守ってるからね」
「忘れちゃだめだよ」
「兄ちゃん、いってらっしゃい」
下の兄弟達に見送られて、炭治郎と一緒に山を下りていく。夢の中をこうして歩くのは不思議な感覚だ。一歩一歩進む度に山の景色が変わっていく。その移ろいに足を取られそうになる炭治郎の腕を取る。
「すみません、義勇さん」
「いや。構わない」
足元を気をつけろと言ったところで、ここは夢の中。気を付けるも何もあったものじゃない。移り変わる景色には浅草や電車の中、蝶屋敷の中と今までの訪れたことのある場所が順繰りに移っていく。
移ろう景色の中ところどころ、こちらに気づき意味ありげな視線を送る者がいた。ある者は大手を振って、頭を下げたり、感謝するようなそぶりを見せるものもいた。それに炭治郎と二人黙礼を返す。
巡り廻った炭治郎の紡いだ繋がりなのだろう。いずれはこの場所に返さなくてはいけないのだろうが今はまだ、そこには連れてはいけない。
移ろう景色が千年竹林へと変わる。どうやらここで終わりのようだ。
「炭治郎」
「はい、なんでしょうか」
静かな竹林に義勇と炭治郎の声だけが響く。ここは物静かな場所で義勇も気に入っている屋敷ではあった。けれど炭治郎がここに訪れるようになってからというもの、この静かさに少しの寂しさを感じるようになった。
いつか宿願が果たされたならば、もしすべてを終えたなら。その先をどう生きようかと考えた想像にはこの屋敷で慎ましやかに過ごす自分の姿を浮かべた。穏やかで、静かな、一人だけの暮らし。いや、縁側で静かに座る義勇の隣にはいつの間にかひょっこりと炭治郎が座っていて、炭治郎の妹の禰豆子が風呂敷を片手に訪れて、彼の同期の後輩や、恩師である鱗滝、同じ柱であったしのぶも継子を連れてやってくるし、炭治郎を気に入っている時透も刀鍛冶を連れて揃って顔を見せる。
静かとは真逆のいつも人で溢れかえり、人の声の絶えないそこで義勇は笑うのだ。幸せそうに。
この想像が義勇にとっての理想だ。一度は遠い先の叶わぬ夢と蓋に閉じ込めたのだが、それは夢ではなかったのかもしれない。
この夢のようなそれの景色の義勇の傍にはいつも炭治郎がいた。炭治郎が義勇を命の恩人だというのであれば、義勇にとって炭治郎は心の導き手である。
「共に最期まで……。いや、死してなお俺と共にいてくれるか」
「はい。お供させていただきます!」
にこりと赫灼の瞳を隠して炭治郎が笑う。お互い痣の寿命でそう長くは生きれないだろうが、それでも共に生きようと誓う。傍に。離れぬように。死がいつか二人を分かつだろうがそれでもそんなものでも断ち切れぬ絆が欲しい。
そう願う義勇の手に炭治郎の手がそっと重ねられる。いつか。きっとこの黄泉の夢に舞い戻っても二人揃っていられたらいい。
薬のつんっとした匂いが鼻をつく。ぼやける視界の中でごそりと何かが動く。一度目を閉じてもう一度目を開きなおすと、不鮮明であった視界が徐々に形をしっかりと映していく。
「おう、おはようさん」
「……宇髄か」
「あまり喋らなくていいぞ。体のあっちこっちまだ痛いだろ」
宇髄の言葉通り、身体のあちらこちらが痛かった。腕がくっついてるのか足はあるのか。よくわからない。口を開こうとすれば顔の皮膚が引きつっていたかった。ここは宇髄の言葉に甘えさせてもらおう。じっと目で宇髄を見つめると、彼は状況を説明しだした。
あの戦いで生き残った柱は義勇と不死川のみ。他の柱は途中で鴉の報告があったとおり戦死、もしくは鬼舞辻との戦いで負った致命傷や痣の後遺症で夜明け後に間もなく息を引き取ったとのこと。
甚大な被害を被りながらも生き残った隊士や隠しで今は事後処理を行っているらしい。亡くなられた鬼殺隊士はすでに葬儀をすべて終えていること、義勇や不死川の体調が回復次第、祝勝会とまとめてになってはしまうが改めて哀悼の会を開くことまで話し終わった宇随に、まだ話してないことがあるだろう、と強く目で訴えかける。それににやりと宇随は笑うとまぁまぁ、と気に障る笑みを浮かべて余裕を見せる。
「竈門は生きてるぜ。
胡蝶の薬が効いたみたいで問題なさそうだ。まぁ、一時は死んでたようなもんだからお前と同じように重症患者だ。あっちはまだ目を覚ましてない。不死川もまだだけどな。
まぁでもそろそろあいつらも目を覚ますだろう。
あ、あいつらの同期の善逸、伊之助、カナヲも生き残った。俺の言ったとおりだろ。ちゃんと俺たちの後継は育ってた。んでもって、生き残った。お前も褒めてやれよ」
宇髄はそう言うと義勇の肩を叩こうとして、止める。怪我人だということを思い出したのだろう。たくさんの命が奪われ、消えて行った一夜で無事生き残った馴染みのある顔ぶれに宇髄も少しだけ心が救われたのだろう。
動ける者がほとんどいない鬼殺隊の中で引退したとはいえ、直近まで柱を務めていた男だ。恐らく義勇や不死川に代わり事後処理のほとんどをこの男が取り仕切ったのだろう。憔悴しきっているその表情は炭治郎達の話をするときだけ少しだけ覇気を取り戻していた。
炭治郎が生きていることは分かっていた。けれど、宇髄の言葉を聞く時まで不安ではあったのだ。
義勇が炭治郎が無事だと聞いて優し気な笑みを浮かべたのに、宇髄も気付いたのか話はここで終わりだと立ち上がる。ゆっくり身体を休めろよと掌をひらひらと振って病室から出ていく宇髄を見送った。
少しの間、眠っているとまた扉が開く音がした。ひょこりと扉から顔を覗かせたのは禰豆子だ。義勇が目を開けると、顔満面に嬉しさを滲ませて駆け寄って来る。
「義勇さん!」
炭治郎の呼び方が移ったのか禰豆子は義勇の名を呼びながら近寄って来る。その手には小さい羽織の端切れが握られている。姉と錆兎の形見の羽織だ。あの戦いでボロボロになったのは覚えていたが、どうやら捨てられることはなかったらしい。
義勇の視線が自分の手元に注がれていることに気づいた禰豆子は包帯が巻かれている指でそれ羽織の布を広げた。
「ごめんなさい、義勇さん。この羽織、少しの間私が預かってもいい?」
目を閉じて構わないの意味を示す。どうやらうまくそれが伝わったようだ。良かったと禰豆子が喜ぶ。そして禰豆子は義勇の身体に糸を巻き付けては何かを測り始めた。だがものの数分でそれが終わると禰豆子はまた来ますね!お兄ちゃんが目を覚ましたらすぐに教えにきます!と言って病室を出て行った。
炭治郎によく似て明るい子だ。炭治郎が自慢にしていたのもよくわかるくらいにあの子は眩しかった。いや、炭治郎も十分に眩しい存在だが。あの兄妹はとてもかわいい。
禰豆子が人間に戻り、炭治郎と二人あの子達が普通の兄妹として今後過ごせることを思うと我がことのように嬉しかった。大切な命。希望。心の拠り所。きっと竈門兄妹は幸福と祈りで作られている。だから、彼らを思い浮かべるだけで心が暖かくなるのだ。
ほわほわと気持ちよい気分で寝ていると今度は鱗滝がやってきた。
「よくぞ、生きていた」
震える声で義勇を見て、そう言った。鱗滝にも随分心配をかけていたらしい。いつ訃報が届けられるかわからぬ時、鱗滝に残された弟子が二人とも元凶である鬼舞辻と戦い、その命を落とすことなく生き残ったのだ。
お前たちは自慢の弟子だと言われた。鬼舞辻がいなくなったから、もう鱗滝は弟子を取ることはないだろう。義勇と炭治郎が鱗滝にとっての最後の弟子だ。二人とも痣を出していたから残された時間は少ないし、もしかしたら鱗滝よりも先に逝ってしまうかもしれないけれど。
生き残ってくれたことが一番の恩返しだと言われて、義勇の目から一粒の涙が流れた。
取りこぼしてばかりの掌で、必死に掴んでいた大切なものの他にそっと上からさらにものを乗せられたようだった。いや。すべて取りこぼしたと思っていただけで実はずっとずっとその掌には大切なものがたくさん積み重なっていたのかもしれない。
義勇が目を覚ましたという話はその日の内に恐らく知れ渡ったのだろう。後日、義勇の様子を見に村田や、担当の刀鍛冶などが現れ、他にも見知らぬ猫を連れた男や胡蝶の継ぐ子などつぎつぎと病室にやってきては色々と話をしていく。掌に大切なものを積み重ねていく。
数日後には不死川が目を覚ましたらしい。この頃には身体を起こしても良いと言われたので、宇髄の手を借りて、不死川の病室を訪れるといつもより静かな様子でいる姿に思わず「珍しいな」と口走れば、「喧嘩売ってんのかァ」といつもの調子で返された。
静かな不死川は元気がなさそうで、怪我の後遺症のこともありきつく巻かれた頭の包帯が気になり「頭(の怪我)は大丈夫なのか」と言えば、絶対安静と言われているその身体を起こそうとするから吃驚した。宇髄にはお前は変な所で言葉を区切るのは止めた方がいいと苦言を呈された。
誤解を解き、怪我の状態を改めて聞けば心配されるほどじゃねぇよ、と覇気のない声が返ってきた。あの夜に不死川は弟を失くした。元気がないのも仕方がないだろう。かといって、元気づけられる言葉を持たない義勇と宇髄は話もそこそこに切り上げた。
義勇も宇随も家族を亡くしてはいるが、一人ではない。義勇には炭治郎がいるし、宇髄には嫁がいる。不死川に残されたものは一体何だろうか。彼の心に寄り添う人はいつか現れるだろうか。その掌に大切なものを載せてくれるような人が。いつかそんな人が現れたら、その人を彼は紹介してくれるだろうか。
とぼとぼと歩く廊下の後ろで、不死川の病室を開けて、失礼しますと元気よく挨拶する声が聞こえた。明るくて、元気な周りを照らすような声は。後ろを振り向いたが、彼女は既に病室の中に入ってしまっていたらしく姿が見えなかった。
あの子ならばあるいは。義勇があの子の兄に掬われたように、彼女が不死川に変化をもたらすキッカケになるかもしれない。あの子達は眩しいから。宇髄を見上げれば、彼もまた何かを期待するように不死川の病室を見つめていた。
義勇も不死川も一人で歩けるぐらいに回復した頃、ようやく炭治郎が目を覚ました。禰豆子から兄が目を覚ましました!病室に駆けこんで知らせてくれたので、義勇もすぐに服を着替えて炭治郎の病室へと向かった。
目を覚ましてない時にも炭治郎の病室へは毎日のように行っていたが、扉を開けてその瞳が義勇の姿を映すのを見て、ほっと息を吐いた。禰豆子が義勇さんこっちと右半身を支えながら炭治郎の傍へと背中を押してくれる。
「炭治郎、遅かったな」
「お待たせしてしまったようで、すみません」
眉を下げて申し訳なさそうな表情をする炭治郎に、構わないと返す。必ず、炭治郎は目を覚ますと信じていた。禰豆子は炭治郎と義勇の表情をしばらく見比べていたが、二人は仲がいいのねと唐突に言うと微笑んだ。
「え?なんだ禰豆子、藪から棒に……」
「ううん、お兄ちゃんから義勇さんは私たちの恩人で、兄弟子で、すごい人で、強い人だって聞いてたから。お兄ちゃんが義勇さんの事大好きだってことは分かってたの。
義勇さんも私が病室に行くとお兄ちゃんのことなんだか気にかけてるみたいだったから、二人とも仲良いいんだなぁとは思ってたんだけど。
改めて二人が揃ってるのを見たら、そう思って」
にこにこと禰豆子は嬉しそうに炭治郎と義勇を見る。禰豆子に仲が良いと言われて悪い気はしない。炭治郎との繋がりが俺には見えずとも禰豆子には見えているのではないか。そんなことを考えてしまう。
炭治郎の頬をそっと撫でる。包帯でぐるぐる巻きであちらこちらにまだたくさんの管が付いた痛々しい姿ではあるけれど、頬の温もりが大切な存在を教えてくれる。じわりじわりと自分より高い子の体温を掌に伝わる。
「ありがとう。炭治郎」
「えっと何がですか?」
「……生き残ってくれて」
きっと義勇は炭治郎が生きて居なければ、あの夢の世界で蔦子と共に暮らす日々を続けただろう。それはとても幸福で、炭治郎が生きてなければ現実へ戻ってこようとは思わなかった。けれど、戻ってきたのだ。
不思議そうな表情で炭治郎は義勇を眺めていたけれども、それはお互い様ですよと言って苦笑いをした。生き残っていて嬉しいのは誰もが同じだ。どれもすべからく尊い命だけれど、残念ながら命の重みはすべてが平等かと問われれば違う。
「生きないといけないな」
「はい」
姉と親友に掬われた命は、弟弟子の導きで心を取り戻し、そして身を挺してまでこの命を守ってくれた多くの隊士達。掌に収まりきらないほどの宝物がこの身体には残っている。命を、残り僅かな寿命であっても彼らのためにも夢のその先を生きねばならない。
「共に生きてくれるか」
「ええ、もちろん。ずっとお供しますよ」
にこりと夢で見たのと変わらない笑みを浮かべて炭治郎が応えてくれる。
きっとそう遠くない未来にいつか見た夢の果ては実現するだろう。命の果てのその先についてはわからないが。黄泉の世界で大切な人たちと再会する時には両手に抱えられないほどの宝物を持って会いに行けることだろう。