さよならを教えて
早朝、店の外を走る年上の幼馴染をこっそりと見ていた。まだ陽が登る前にジョギングするのが日課らしい幼馴染は無造作に髪の毛を結び、首筋に流れる汗を拭うことなく走り抜けていく。
その背を目で追う。声をかけることはしない。
この恋心にさよならをすることに決めたからだ。
幼馴染への恋心に気づいたのは何年前だったのかはもう覚えていない。気が付いたらいつも目で追っていたし、その顔も声も、優しく頭を撫でてくれる手も全部全部好きだった。
恋心は年を重ねる毎に大きくなり、一昨日にとうとう割れてしまった。
幼馴染ではあったが、同時に教師と生徒の関係でもあった俺たちはその日たまたま放課後の教室に二人きりになることがあって、膨らみ大きくなりすぎた恋心に押されて告白をした。言うなら今のタイミングしかないと思った。
「冨岡先生のことが好きです」
「……すまない」
しんと静まり返る教室の中で自分の心臓の音だけがうるさかった。目をそらした幼馴染の言葉に心がぎゅっと掴まれたように痛かったけれど、同時にやっぱりなと思った。両想いになれるとは思ってもみなかった。受け入れられる姿が想像できなかった。
「大丈夫です。俺が言いたくて言ったことなので」
幼馴染がバツの悪そうな顔をしたのに、にこりと俺は笑う。
好きだと思う心は積もりすぎてて若干キャパオーバーなところがあったので、ここで一掃できてよかった。聞いてもらえただけでも十分だったのに答えてもらったのだから悔いはない。
その後はとりとめもない普通の話をした。あまりにも俺が普通過ぎたのか幼馴染はああ、とかうんとかいつもよりも口下手がしか言わなかったけれど、別れる頃には普通に戻っていた。
「じゃあ、先生。また明日」
そう言って手を振って別れた。我ながら潔い身の引き方だったと思う。ちゃんと告白してフラれた。あとは忘れるだけ。この恋にさよならをするだけ。
窓の外の幼馴染が去っていくその背から目を逸らす。
いつまでも未練たらしくいるのは男らしくないぞと頬を叩き、今日も店の扉を開けたのだった。
朝の登校からピアスの件でいつものように風紀委員の先生である幼馴染と追いかけっこをしてから教室に滑り込む。良かった。今日はなんとかホームルーム前に教室に入れた。
「炭治郎、今日も元気だねぇ」
「そういう善逸は元気がなさそうだな。どうしたんだ?朝食でも食べ忘れたのか?」
ご飯は毎日三食食べないとダメだぞと言うと、善逸は違いますぅと語尾を伸ばして否定する。じっくりと善逸を観察すると目元に隈ができている。ということは夜遅くまで夜更かしをしていたのだろう。
「夜更かしはよくないぞ」
「どうしても見たいテレビがあってさぁ。気が付いたら朝の3時くらいだった」
眠たそうに欠伸をする善逸はすごく眠たそうだった。勉強は大事だが身体を壊しては意味がない。保健室に行くか?と炭治郎が聞くと善逸は首を横に振る。曰く、休憩中はずっと寝ることにするらしい。授業中に寝る羽目になりそうだなとも思いながらも、体調が悪くなったら保健室に行くんだぞと言っておく。
そう話しているうちにホームルームが始まる。担任の悲鳴嶼先生が出席を取り、その後早速1時間目の授業が始まる。科学の授業だ。科学の先生である胡蝶先生は優しいからもし善逸が寝てしまったとしてもそのままにしてくれるだろう。
案の定、授業が始まって数分でうつらうつらし始めた善逸を横目に見ながら、窓の外を見た。
用務員の鱗滝さんと冨岡先生が二人で何かを話してる。あの二人も昔馴染みという話は冨岡先生の親友である錆兎から聞いていた。いいなぁと少しだけ二人を羨ましく思う。
幼馴染という関係はすごくあやふやだ。親友と言うには遠すぎて、友人と呼ぶには少し距離が近いかもしれないが、いつでも傍に居られる存在ではない。過去に数年一緒に育った記憶があるだけの存在だ。未来が約束されているものではない。
近所のお兄さんだったけれど、家族ではなかったし、困ったときは相談してくれとも言われたが気軽に相談できる相手でもない。近いようでそう近くない。この距離についてどうしようかとまだ考えあぐねている。
学生のうちはまだ先生と生徒の距離感ではいられるけど、それが終わったらこの距離感はどうすればいいのだろう。目下の悩みはそれだった。
学校を卒業すれば今よりも会う頻度は減るかもしれないが、近所に住んでいるから会う可能性は十分にある。地元から離れればきっと会うことはなくなるのだろうけれど、亡くした父親に代わり家族を守りたい思いはあるので遠くにいこうとも思わなかった。
幼馴染の適切な距離感とは何なのだろう。
窓の外を見て考え事をしている間に黒板には様々な文字が書かれていた。慌ててノートに書き写す。意味も内容も理解はできなかったけれど、記憶すること自体は得意だ。
胡蝶先生が黒板のチョークを消そうとするが、すやすやと眠る善逸を見て困ったような笑みを浮かべる。優しい先生はちらりと俺の方を見て後でノートを見せてあげてね、と言うと白い文字を綺麗に消した。
二限目の悲鳴嶼先生の授業では授業開始直後に悲鳴嶼先生がパァンっと手を打ち鳴らすと善逸が飛び起きた。一時間まるまると寝れたせいか眠気は大分収まったらしい善逸を見て一言注意してから授業を始める。
窓の外をちらりと覗いてみたが、すでに二人の姿はなく晴天だと言われていたはずの空に暗雲が立ち込めていた。
曇り空はあっという間に雨雲になり、昼前には大雨になっていた。5限目の体育の授業は体育館でバスケだとクラスメイトが伝えるとざわざわと教室内は騒がしくなった。
ご飯を食べ終わった後の体育はだるい、とかシューズ部室に置いたまんまだわとか、大体は愚痴である。
「バスケで勝負だ!権八朗!」
「いいぞ、伊之助」
鼻息荒く勝負を挑んできた伊之助に炭治郎は笑顔で答える。身体を動かすことは好きだ。一生懸命に身体を動かしているとそれだけに集中できる。伊之助は強いし、炭治郎が考え付かないような戦法もあって驚きがあって楽しい。勝敗に関しては伊之助が大体勝っているが、毎回炭治郎を誘うのは付き合いがいいからなのか、炭治郎のことを力を高め合う同士だと認めているのか。
勢いよく制服を脱ぎ捨てて、体操服に着替えた伊之助はぐいぐいと炭治郎の腕を掴み体育館へと引っ張って行こうとする。だが、さすがに机に脱ぎ捨てられた服をそのままにしてはおけないと伊之助の制服も綺麗に畳んでから教室を出た。
俺たちの後に体操服に着替えたクラスメイトが数人続く。みんな運動が大好きな人たちばかりで、伊之助の騒動に巻き込まれる人ともいえる。
「ドリブルは得意なんだけどシュートがなぁ」
「今回は俺の方が背が高いから有利だな」
「ダンクシュート決めてやらぁ!」
やる気満々な友人たちと階段を降り、体育館へ向かう途中でその中の一人が陰鬱なため息を漏らす。みんなそちらに視線をやると気まずそうな顔で気にするなと言うが、隣にいる友人に突かれて正直に話し出した。
「実はさ、年下の幼馴染が最近遊んでくれって毎週休みにやってくるんだ」
「へぇ、幼馴染って女子?男子?」
「女子。だけどさぁ、俺たちは高校生だけど、小学生の子連れて遊ぶのって難しいじゃん?しかも女の子だし。遊びに連れてってもつまらなさそうな顔してるし、正直疲れるんだよな」
ズキリ、と心に針が刺さったかのような痛みがする。
周りの友人は女子、という言葉に羨ましそうな視線を一瞬向けたが、続けられた言葉に心当たりがあるのか同意するようにうんうんと頷いていた。唯一わからなさそうにしているのは伊之助だけだ。
「女子との付き合いは難しいよな」
「わかる。話してても全然わからん」
善逸がいれば羨ましいとかハンカチを噛みながら奇声をあげてたかもしれないが、お昼ご飯を食べ終わった後に美術教師に首根っこ掴まれてどこかへ行ってしまったからだ。
「けど、遊んで欲しいってことは多分お前のことが好きだからなんじゃないか?」
「そうかなー。まぁ、昔は仲良かったけど」
その幼馴染みの子を援護するように言えば友人も昔を懐かしむような表情をする。
「今はもうあの頃と同じってわけにはいかないし」
バイトもあるし、塾もあるから、と理由をつけてへらりと笑う。一緒に遊ぶというよりお世話をしてるようでなんか嫌なのだという友人にみんなお疲れ様と声をかける。
「俺は弟や妹と遊ぶの好きだけど」
「そりゃお袋はな」
「お袋は俺らと違うから」
ささやかな抵抗はあっさりとお袋だからという壁を作られて終わってしまった。お袋、といつの間にかつけられたあだ名は嫌いではないが、こういう時はなんか嫌だなと思う。
わけのわかってない伊之助だけが、お前のとこのチビと遊ぶのは好きだぞと言ってくれるのに癒されてありがとうと笑顔で返した。
しかし、幼馴染みというのは友人より近い距離かと思っていたがどうやらそれも違うらしい。考えてみれば年上の幼馴染みに対して友人のように気安く接することはできないなと納得してしまった。
やはり、知り合いぐらいだろうか。顔を合わせれば挨拶をするくらいがいいのかもしれない。今まで話す時だって俺の方からがほとんどで幼馴染みはそれを聞いてるばかりだった。
疲れさせていたなら申し訳ないなぁ。
そんなことを考えていると体育館にはあっという間についてしまった。倉庫からボールを出している幼馴染みを見つけると、手伝いますと声をかけて駆け寄った。
幼馴染は俺を見て一瞬だけ動きが固まるが、すぐに頼むと短く言った。
やはり告白した男が近くにいるのは嫌だろうか。心の中ですみません、今度からはあまり近づかないようにしますのでと謝りながら伊之助と一緒に得点板を出す。だが、体育の授業が始まれば幼馴染は普段通りで、体育館にいるのはただの教師と生徒だった。
距離感を大体把握した後はその距離を忘れないように程々に過ごした。幼馴染は先生だから授業などでは関わるがそれ以外になると殆ど関わらなかった。あるとすれば月に1回ある服装チェックで追いかけられるくらいだろうか。でも、それも追いかけっこするぐらいでそれ以上の何かがあるわけでもない。
半年も経てば告白したことさえ夢だったのではと思えるくらいに普通の日常が送れている。
さよならした恋心はもうどこにもないが、新たな恋心が生まれることもなく、ただただ友人たちと遊んで勉強して他愛のない話をする日々が続いていた。
そんな何気ない日常に一枚のプリントが配られた。
心の相談、と書かれたプリントは夏休みの時期になると未成年の自殺率が高くなるからだと担任の先生が説明していた。心を病む前に誰かに相談するようにとの言葉にその通りだなと思って頷いて鞄に仕舞い込んだ。
そのプリントが配られた数日後に夏休みが始まった。
高校2年の夏休みともなると進学を見据えて塾に通う子もいたから1年の時よりも一緒に遊ぶメンバーが減った。けれど伊之助や善逸といった仲の良い友達とは時間があれば集まって遊んだり、宿題をした。
その日は実家のパン屋の手伝いを終えて、図書館で一人勉強をしていた時のことだった。
家では弟妹がいるから静かに勉強できないだろうからと母親に宿題をするときは図書館でしなさいと言われていたのだ。伊之助と善逸と一緒に勉強する時はどちらかと言えば彼らに勉強を教える方が多く、自分の宿題は進まないのだ。だから、一人の時間帯に少しずつ計画的に進めていた。
ちらりと図書館の窓際の席を見る。そこには一人の少女が腕を枕にして寝ていた。腕には切り傷や火傷の跡がある。最初に彼女を見た時、思わずその怪我大丈夫?と声を掛けてしまった。
彼女は俺を見るなりすごく嫌そうな顔をして、大丈夫だから話しかけるなと言った。
嫌われている!初対面なのに!
けれど怪我のことがどうしても気になってコンビニで買ってきた絆創膏や消毒液を手にもう一度話しかけると、嫌そうな顔はしながらも大人しく怪我した箇所に絆創膏を貼らせてくれた。それに気をよくした俺は図書館で彼女に会うといつも声をかけるようにした。
彼女は図書館に来るといつも同じ場所で寝ている。
最近は俺が話しかけても嫌そうな顔はしなくなった。俺が勉強を終えると同時に彼女が顔を上げる。
「おはよう」
「……おはよう」
話しかければ、言葉を返すようにもなってくれた。まるで警戒心の強い猫を手懐けたようでほわほわと心が温かい気持ちになった。天気のいい日は店のパンを持ってきて、図書館から出て近くの公園で一緒にパンを食べるのが日常になった。
「今日はいい天気だ」
「暑くて嫌になるけど」
「日陰に入れば少し涼しいな」
「……うん」
彼女は言葉は少ないけれど、俺の言葉に反応してちゃんと返してくれた。
怪我は誰かに?と聞いたけれど首を横に振られた。別に親に殴られたりとかそういうのはないらしいが、今日も新しい怪我が腕にできている。綺麗な肌なのに、その傷のせいで痛々しいと思ってしまう。
「新しくできてるのも自分でやったの?」
「そう」
「自分の身体は大切にしないといけないんだぞ」
「わかってる」
少女は淡々と答えているが、それが守られたことは一度もない。増える傷跡に俺は毎度ため息をしながらその怪我に絆創膏を貼っていく。本当なら病院に連れて行くべきなのかもしれないが、少女がとても嫌がるからやめた。
「……炭治郎は、どうしてそんなに優しいの?」
絆創膏を付け終わって、片づけをしていると少女がぽつりと言った。どうしてと問われて頬を掻く。優しい、とは思ってもみなかった。
放っておけないと思ったからそうしただけ。と言うと少女はふぅんと黒い目を瞬かせた。
そんな俺と彼女の関係は夏休みの間ずっと続き、それは夏休みを開けても変わらなかった。週末に図書館に行くとやはり彼女はいて、夏休みの時のよりも会える回数が減ったせいか怪我の数は増えていた。
近くのコンビニに入ると毎回絆創膏を買うのが定番になっていた。
その日は今にも雨が降りそうな曇り空の日だった。彼女は珍しく図書館で寝ておらず、頬杖をついて窓の外を見ていた。俺が来るとちらりと視線をくれた。
俺は何も言わず彼女の前の席に座ると彼女の腕を確かめる。新しいひっかき傷ができている。いつものように絆創膏を取り出す俺の手を彼女が止める。
「ねぇ、炭治郎」
お願いがあるの、と言う少女の真剣な眼差しに俺は頷いた。この怪我をする理由を彼女がいつか教えてくれるだろうと思っていた。いざとなったら両親に相談して大人に協力してもらおう、そういうことも考えていた。
けれど、それは全部意味がなかった。
図書館の裏の誰も来ないような場所に来ると、彼女はいきなり俺を押し倒すとその首に手を掛けた。ぎりぎりと力が籠もる細い腕に一体どこにそんな力があったんだと思いつつもその腕を掴んで振り払った。さすがに身体を突き飛ばすことはできず、押し倒されたままの体勢で息を整える。少女は手を再度炭治郎の首に置いたが、締めることはなかった。
「……炭治郎、力が強いね」
「一体……どうしてこんなこと」
ごほっとせき込みながら彼女を見る。光のない目。ぽつりぽつりと雨が降るのにも関わらず、彼女は俺に乗っかったままそこから動かなかった。
「……死にたい」
小さくぽつりとつぶやいた少女の顔がとてもとても弱弱しく見えて、俺はどうすることもできずにいた。真っ黒な目は俺を見ているようで見ていない。雨がしとしとと彼女の髪を濡らして、その雫が顔を伝うのでまるで泣いているようにも見えた。地面がぬかるんで背中が気持ち悪い。
一体何分そのままでいたのかわからないが、雨が本降りになるとようやく少女はのろのろと立ち上がった。
「またね」
そう言って去る少女に俺は何も言えなかった。またねという事はまた会うつもりがあるのだろうか。彼女は大丈夫なのだろうか。俺はどうすればいいのだろうか。
悩んだけれど、答えは出ないままだった。
びしょ濡れの恰好で家に帰ると、家族にとても心配された。その日は高熱を出して三日間学校を休んだ。首元に赤い手跡があるような気がしたけれど、鏡で確認してもその跡は見当たらなかった。
雨の中に長時間押し倒されていたのと、恐らく考えすぎてしまったせいで風邪と知恵熱を拗らせてしまったのだろうと俺は熱に浮かされる中でそんなことを考えていた。
その熱の中で随分と悲しい夢を見た。妹を残して家族全員が死に、その仇討ちのために何人もの命が犠牲になる夢。その夢で見た顔が学校の人たちのものがほとんどで、熱が下がった時には申し訳なさがたった。夢とはいえ、その人が死ぬ姿を見たのだ。恐ろしいまでに現実かと間違うほどに。
だから目が覚めて家族がいたことにほっとしたし、幼馴染が五体満足なのを見て良かったと思ったし、友人たちが楽しそうに過ごしていることにも安心した。
「おふくろ、熱大丈夫だったのか?」
「うん、大丈夫。もう下がったから!」
むんっと腕をまくるといつものおふくろだーとほっと安心するような顔をする友人たちに心配してくれてありがとうと伝える。
「熱出すなんてよわっちぃな!」
「病気は弱いとかそういうもんじゃないでしょ。
炭治郎も体調悪い時は無茶しないようにね」
善逸は休みの間のノートを用意してくれたし、伊之助はおまもりと言ってドングリをくれた。いや、ドングリってなんだよってみんなにツッコミを入れられていたけれど、そのドングリはとてもつやつやしてふっくらしているから伊之助のお気に入りの一つだったんだろう。
ありがとうって言うと二人は照れくさそうにしながらどういたしましてと言ってくれた。
友人たちに囲まれているとふとじぃっとどこからか自分を見ているような視線に辺りを見回す。教室の扉の外で幼馴染が立っている。クラスの女の子と喋りながら時々こちらを見ているようだった。
その視線に何かやったかなと考えるが、熱を出して三日も休んだのだから心配はしたのだろう。担任の先生も朝の出席の時に大丈夫か、と一声かけてきたくらいだし。
とはいえ、幼馴染に大丈夫ですよと直接言いに行くタイミングはないのでその代わりに体育の授業でしっかりと動いて大丈夫のアピールをしておいた。それが伝わったのか視線はいつの間にかなくなっていた。
週末になるとまた図書館へと向かった。
少女はまたねと最後に言っていた通り、図書館にいた。俺を見ると泣きそうな顔をして、目を逸らした。俺はすたすたといつものように彼女の前に座る。
「……また来るとか馬鹿なの」
「またねって言ったじゃないか」
「あんた、この前なにされたか覚えてないの?」
罪悪感はあったのだろう。少女は俺を睨んでいた。苦しい。辛い。そんな匂いが彼女からしてくる。俺は彼女の腕にまた新たな傷を見つける。
いつものように絆創膏を取り出すのを見て、少女はがたんっとその場を立ち上がる。
「ふざけないでっ!!」
ヒステリックに叫ぶとその場から逃げ去る少女を追いかけるために俺も席を立った。
彼女はこの前と同じ図書館の裏に来ていた。誰もいない静かな場所で彼女は泣きながら地面に座り込んでいた。
「怪我、手当しないと」
「……煩い」
力なく呟く彼女の腕を取る。また切り傷が何個もできている。俺が少女の前に座り絆創膏を貼り終わると、彼女は泣きながら話した。
自傷癖がある。何が原因なのかはわからない。ただ時折すごく寂しくなることがあって、自分を傷つけたくなる。血を見ていると安心する。こんなこと自分だってしたくない。親にだって最初は心配されていたけれど最近は呆れられている。頭がおかしい子だって思われてる。苦しい。辛い。
吐き出された少女の言葉に俺は考える。自傷はダメだよって言ったけれど、そんなことは本人がよくわかっているのだ。でも止められないのだ。
彼女のぼろぼろの腕を見て、俺は自分の腕を見た。
「じゃあ、俺の手を傷つけてみる?」
「……は?」
「いや、物は試しに」
なんとなくの提案だった。彼女は何言ってんだこいつという目で俺を見ていたけれど、俺の腕を見ると爪で一本のひっかき傷を作った。鋭い痛みが腕に走るが、気にせず笑顔を浮かべた。
「どう?」
「……ごめんなさい」
俺の腕を傷つけたことに少女は罪悪感を抱いたらしい。素直に謝る少女に小さな弟妹の姿を重ねてしまう。
「怪我させたら嫌だと思わない?」
「……思う」
彼女の言葉に俺は頷く。自分を傷つけたくなったらこの傷を思い出してと言うと彼女はおとなしく頷いた。ごめんね、と謝る彼女に俺はいいよと笑った。
この日から俺の腕に少しずつ怪我が増えていった。
最初は彼女が自分を傷つけることがないようにという提案で始めたものだった。
これは割と効果があってその次の週は彼女の新しい傷跡はなかった。けれど俺の怪我が治って見えなくなると彼女はまた自分の身体を傷つけるようになった。だから俺の怪我が治る前に新しい怪我を作ってと繰り返していたらいつの間にか絆創膏をいつも貼っているような形になってしまったのだ。
毎週毎週怪我を一つ増やしてくる俺に家族のみんなは心配していたけれど、そう大した怪我じゃないからと言ってやり過ごした。学校に行くと友人たちも気にするようにしていたけれど、大丈夫と笑ってごまかした。
嘘ではない。実際怪我はそんな大したことない。ひっかき傷のようなものだから。
ただ、一人どうしても見逃さないようにじっと睨んでくる目があった。幼馴染の目だ。
久しぶりに朝の身だしなみチェックでピアスの件で鬼ごっこの末に捕まった俺は授業が終わると生徒指導室へと呼び出された。身だしなみにひっかかったのは伊之助もだが、もうすでに解放された跡らしく、指導室の箱の中には伊之助の書いたらしい反省文が収まっていた。
反省文の紙はその日中に書いて指導室にいる教師に提出すればいいので生徒指導室まで呼ばれることはほとんどないのだ。けれど、呼び出されたということは話があるという事だろう。
「あのぅ、冨岡先生?」
生徒指導室に入り、席に座れと言われて五分。前に座る幼馴染は能面のように何を考えているかわからない顔を張り付けて俺を見ていた。さすがにこのまま10分も20分も拘束されるのはたまらないと思わず声を掛けた。
それにようやく幼馴染はゆっくりと口を開けた。
「……最近怪我が多いな」
「そう大した怪我じゃないですよ」
「怪我の大小が問題じゃない。するな」
「それは……難しいですね」
そもそも怪我をするななどと言われてしないようにするのは難しい話なのではと思う。実家の手伝いで火傷や包丁で怪我をすることだってたまにあるし。細心の注意を払っていてもするときはするのだ。俺の返答に満足しなかった幼馴染は眉を寄せた。
「何故自分の身体を傷つけるようなことをするんだ」
「えっと、なんででしょうね?」
いつか少女にしたようなやり取りを何故幼馴染としているのだろうと考える。別に怪我をしようとしているわけではないのだ。ただ、あの痛ましい腕を見たくなくて、代わりになるならと。
ただそれだけだ。
「何か困ってることがあるなら相談に乗る」
真剣な眼差しでそう幼馴染に言われてわかりましたと元気よく返事をする。相談に乗ると言われたところで困ってることも何もないのだが。とりあえず俺が元気よく返事したことで幾分か幼馴染の機嫌は持ち直したらしい。
反省文の紙を渡されて、その紙に記入するとピアスを返して貰えた。
「……炭治郎」
「はい?」
生徒指導室から出ようとすると幼馴染に名前を呼ばれた。珍しく下の名前で呼ばれたので驚いて目を丸くしてしまった。幼馴染は俺を見て何か言いたそうにしていたが、口をぎゅっと噤むと何でもないと言った。
その先生らしくない行動をする幼馴染の姿に少し笑ってしまう。
「じゃあ、冨岡先生。さようなら」
「ああ、さようなら」
ぱたりと扉を閉める。
何もない。正しく先生と生徒の距離だった。恋心はすでになくなったとは思っていたけれど、こうして二人で話していても何ともないことにほっと安堵した。
俺は晴れ晴れとした顔で家に帰った。雪がちらつき始めた季節だった。
冬休みになるとまた図書館に通い始めた。彼女の様子は最初会った時よりも大分良くなっていた。腕の怪我も大分減り、絆創膏の数も減った。
俺の腕と絆創膏の数がお揃いぐらいになるのもそう遠くなさそうだ。
「……なんだか不思議」
「何が?」
「炭治郎と一緒にいると安心する」
彼女がそう笑うのに俺も笑って見せた。最近は明るくなった彼女を見ると俺も嬉しくなった。このままいつか自傷することをやめられるといい。きっとそうなる。
そうなることを信じていた。
図書館で彼女といつものように小さく話をしていると、後ろから声を掛けられた。
「炭治郎君、勉強ですか?」
参考書を手に持って立っていたのは去年卒業した胡蝶しのぶ先輩だ。医療を学ぶと言って都心の大学に出て行ったので会うのは大分久しぶりだ。
懐かしくも変わらない先輩の姿に俺も喜びをそのままに顔を出して「お久しぶりです!元気にしてましたか?」と彼女をその場に置いて駆け寄った。
「元気ですよ。カナヲから時々炭治郎君の話は聞いてましたのですが、そちらも元気そうでなによりです。妹さん達はどうですか?」
「はい!禰豆子達も元気にしてますよ。胡蝶先輩がいなくて少し寂しがっていますが……」
「あらあら。それは嬉しいですね。また今度パン屋さんの方にも顔を見せに行きますね」
「ありがとうございます!みんな喜びます!」
年末年始の休みは地元でゆっくりする予定だという先輩にどこかに遊びに行きましょうと楽しく話していると後ろからじぃっと見つめる視線があった。彼女の方を振り向くとぷいっと視線を逸らされてしまった。
慌てて彼女を先輩に紹介しようとすると、彼女は立ち上がる。
「あれ、どこに行くんだ」
「もう帰る。またね」
冷たい視線が一瞬しのぶ先輩の方へ向くが、すぐにその場を立ち去る彼女に俺はすみませんと先輩に謝った。
「大丈夫ですよ。炭治郎君が悪いわけじゃないですから」
「いや、でも多分不機嫌になったの俺のせいだと思うので……」
「そういうわけではないと思いますが……。
もしかして彼女、炭治郎君の恋人だったりします?」
しのぶ先輩がひそりと声を小さくして訊くのに俺はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
恋人とか!そんな風に間違われるのは彼女も嫌だろう。
「いえ、違います!」
「そうですか。良かったです」
否定する俺に安心するようにしのぶ先輩が笑った。けれど良かったとは一体どういうことだろう。
首を傾げる俺の腕を見て、しのぶ先輩があらと新しく貼られた絆創膏を見る。
「怪我をしたんですか」
「ええ、でも大したことないので!」
「たいした事ないと思っていてもそうじゃないことがあるんですよ。
炭治郎君は専門家じゃないでしょう?
自分の大丈夫を過信しすぎるのはよくないですよ」
怪我を見せてくださいと言われて、図書館の外でそっと腕を差し出した。治りかけの切り傷がいくつかとまだ治り切っていない傷が二、三個と新しいひっかき傷が一つ。
しのぶ先輩はその傷を見て目を二回瞬かせた。
「炭治郎君、君危ないことしてないですか?」
「してないです!」
しのぶ先輩の綺麗な顔がじっと俺の顔を見つめるのに顔を赤くさせながら否定する。危ないこととはなんだ。この怪我だって彼女の怪我を増やさないためにしてるだけで危なくはない。
そもそもかすり傷のようなものだから命の危険なんてない。
しのぶ先輩は炭治郎の腕の怪我に持っていたバッグから消毒液と包帯などを取り出すとテキパキと治療をする。さすが将来医者を目指しているだけあって無駄のない鮮やかな手さばきだった。
「これで大丈夫ですよ」
「さすがです!胡蝶先輩!」
「ふふふ、炭治郎君は昔から怪我が多かったですからね。この傷、あの朴念仁がそのままにしているのは不思議ですけど」
「朴念仁?」
「いえ、こっちの話です。
それより炭治郎君、さっきの彼女のことですが……」
「あ、彼女のことなら任せてください!俺がどうにかするので!」
彼女が不機嫌になったのは俺のせいなのでと言うとしのぶ先輩は眉を寄せた。戸惑っている表情にも近い。
ふぅとため息を吐いて仕方ないですねと言った。
「何かあればすぐに連絡をしてください。夜でも構いませんし、繋がらなければ冨岡さんに電話をしてください」
「何かあればですか?」
「ええ、怪我をした時は必ず連絡を」
真剣な面持ちのしのぶ先輩の圧に押されて、こくこくと頷く。そんなに心配をかけるような怪我だろうかと包帯で巻かれた腕を見る。絆創膏ではなく包帯を巻かれるとそれなりに重症を負っているような気分になる。
改めてありがとうございますと言うと、しのぶ先輩はようやくいつものように微笑んだ。
さすがはミス学園祭。周りの男性達がほうっと見惚れる中でしのぶは男たちの視線を気にすることなくそれではと立ち上がって去っていった。
立つ鳥後を濁さず。
その場には綺麗な女性を見たとほわほわする男性だけが残っていた。
しのぶ先輩と会った翌日に図書館に行くとやはりいつもの席に彼女は座っていた。
受験シーズンの追い込み時期だから周りには人が多かったけれども彼女の周りには人がいつもいなかった。いつものように彼女の前の席に座る。
「おはよう」
「……おはよう」
ちらりと彼女は館内を見回してから、俺を見た。
「今日はあの人いないんだね」
「胡蝶先輩のこと?」
こくりと頷く彼女に俺は胡蝶先輩が自分の通う学校の卒業生だということを伝えた。普段は都心の学校に通っているから地元で顔を合わせることがほとんどないこと、久しぶりに会ったことを伝えるとそっかと彼女は頷いた。
昨日のような不機嫌さがないことに安心する。
「ねぇ、炭治郎。外に行こう」
「外に?」
珍しい。彼女は大体図書館にいるか、俺が誘ってようやく近くの公園までしか行かないのに。彼女がダメ?と聞くのに俺は二つ返事で頷いた。二人そろって立ち上がると図書館を出るとぶらりと目的もなく歩く。
外はしんしんと雪が降っていて、吐く息が白く染まる。傘を持っていれば良かったのだけれど持ってくるのを忘れて二人して雪を髪につけながら歩いた。
「真っ白だね」
「うん。寒くない?」
「大丈夫」
怪我だらけの腕はダッフルコートで見えない。機嫌がよさそうに鼻歌を歌いながら少女は炭治郎の横を歩いていた。
「炭治郎は神様とか天使とか、そういうの信じる?」
「うーん……信じるかな」
「意外。信じないっていうかと思ってた」
「いたらいいなって思うよ」
「そっか。私もいたらいいなって思う」
橋の下を流れる川を見る。橋の欄干に背を預けて、取り留めのない話をする。
冬が好き、と彼女は笑った。
息を吸った時に冷たい空気が入ってくるとちょっと痛いけどすがすがしい気持ちになれる。
真っ白な雪がどこまでも続く景色が好き。
しんっといつもより静かな空気が好き。
ふわふわとした彼女の言葉は雪のように舞って、意味もなく溶けていく。ただ好きなのだという。でも好きってそんなものだよな、となくなってしまったいつかの大事だった事を思い出す。
顔が好き。声が好き。優しく撫でる手が好き。深い青色をした目が好き。
何故好きなのかはうまく言葉にできないが好きなのだ。多分、ずっと好き。それは恋心を失ってもそのままだった。
「天使になれたらどこまでも飛んでいけるのに」
「そこは鳥じゃないのか?」
「鳥になると空飛んでる間は手が使えないじゃん」
自分の姿のまま、翼だけが欲しいと少女は口を尖らせる。まぁ、言われてみれば確かに。手がないと不便そうだと納得する。
くしゅん、と彼女が小さなくしゃみをしたのに戻ろうかと聞いたが今日はここでお別れだよと言われた。
「またね」
彼女は手を振って帰っていく。そういえば、彼女と知り合って大分経つがまだ彼女の名前を知らないことに気づく。また今度聞けばいいかと考えて家路を辿った。
その背を目で追う。声をかけることはしない。
この恋心にさよならをすることに決めたからだ。
幼馴染への恋心に気づいたのは何年前だったのかはもう覚えていない。気が付いたらいつも目で追っていたし、その顔も声も、優しく頭を撫でてくれる手も全部全部好きだった。
恋心は年を重ねる毎に大きくなり、一昨日にとうとう割れてしまった。
幼馴染ではあったが、同時に教師と生徒の関係でもあった俺たちはその日たまたま放課後の教室に二人きりになることがあって、膨らみ大きくなりすぎた恋心に押されて告白をした。言うなら今のタイミングしかないと思った。
「冨岡先生のことが好きです」
「……すまない」
しんと静まり返る教室の中で自分の心臓の音だけがうるさかった。目をそらした幼馴染の言葉に心がぎゅっと掴まれたように痛かったけれど、同時にやっぱりなと思った。両想いになれるとは思ってもみなかった。受け入れられる姿が想像できなかった。
「大丈夫です。俺が言いたくて言ったことなので」
幼馴染がバツの悪そうな顔をしたのに、にこりと俺は笑う。
好きだと思う心は積もりすぎてて若干キャパオーバーなところがあったので、ここで一掃できてよかった。聞いてもらえただけでも十分だったのに答えてもらったのだから悔いはない。
その後はとりとめもない普通の話をした。あまりにも俺が普通過ぎたのか幼馴染はああ、とかうんとかいつもよりも口下手がしか言わなかったけれど、別れる頃には普通に戻っていた。
「じゃあ、先生。また明日」
そう言って手を振って別れた。我ながら潔い身の引き方だったと思う。ちゃんと告白してフラれた。あとは忘れるだけ。この恋にさよならをするだけ。
窓の外の幼馴染が去っていくその背から目を逸らす。
いつまでも未練たらしくいるのは男らしくないぞと頬を叩き、今日も店の扉を開けたのだった。
朝の登校からピアスの件でいつものように風紀委員の先生である幼馴染と追いかけっこをしてから教室に滑り込む。良かった。今日はなんとかホームルーム前に教室に入れた。
「炭治郎、今日も元気だねぇ」
「そういう善逸は元気がなさそうだな。どうしたんだ?朝食でも食べ忘れたのか?」
ご飯は毎日三食食べないとダメだぞと言うと、善逸は違いますぅと語尾を伸ばして否定する。じっくりと善逸を観察すると目元に隈ができている。ということは夜遅くまで夜更かしをしていたのだろう。
「夜更かしはよくないぞ」
「どうしても見たいテレビがあってさぁ。気が付いたら朝の3時くらいだった」
眠たそうに欠伸をする善逸はすごく眠たそうだった。勉強は大事だが身体を壊しては意味がない。保健室に行くか?と炭治郎が聞くと善逸は首を横に振る。曰く、休憩中はずっと寝ることにするらしい。授業中に寝る羽目になりそうだなとも思いながらも、体調が悪くなったら保健室に行くんだぞと言っておく。
そう話しているうちにホームルームが始まる。担任の悲鳴嶼先生が出席を取り、その後早速1時間目の授業が始まる。科学の授業だ。科学の先生である胡蝶先生は優しいからもし善逸が寝てしまったとしてもそのままにしてくれるだろう。
案の定、授業が始まって数分でうつらうつらし始めた善逸を横目に見ながら、窓の外を見た。
用務員の鱗滝さんと冨岡先生が二人で何かを話してる。あの二人も昔馴染みという話は冨岡先生の親友である錆兎から聞いていた。いいなぁと少しだけ二人を羨ましく思う。
幼馴染という関係はすごくあやふやだ。親友と言うには遠すぎて、友人と呼ぶには少し距離が近いかもしれないが、いつでも傍に居られる存在ではない。過去に数年一緒に育った記憶があるだけの存在だ。未来が約束されているものではない。
近所のお兄さんだったけれど、家族ではなかったし、困ったときは相談してくれとも言われたが気軽に相談できる相手でもない。近いようでそう近くない。この距離についてどうしようかとまだ考えあぐねている。
学生のうちはまだ先生と生徒の距離感ではいられるけど、それが終わったらこの距離感はどうすればいいのだろう。目下の悩みはそれだった。
学校を卒業すれば今よりも会う頻度は減るかもしれないが、近所に住んでいるから会う可能性は十分にある。地元から離れればきっと会うことはなくなるのだろうけれど、亡くした父親に代わり家族を守りたい思いはあるので遠くにいこうとも思わなかった。
幼馴染の適切な距離感とは何なのだろう。
窓の外を見て考え事をしている間に黒板には様々な文字が書かれていた。慌ててノートに書き写す。意味も内容も理解はできなかったけれど、記憶すること自体は得意だ。
胡蝶先生が黒板のチョークを消そうとするが、すやすやと眠る善逸を見て困ったような笑みを浮かべる。優しい先生はちらりと俺の方を見て後でノートを見せてあげてね、と言うと白い文字を綺麗に消した。
二限目の悲鳴嶼先生の授業では授業開始直後に悲鳴嶼先生がパァンっと手を打ち鳴らすと善逸が飛び起きた。一時間まるまると寝れたせいか眠気は大分収まったらしい善逸を見て一言注意してから授業を始める。
窓の外をちらりと覗いてみたが、すでに二人の姿はなく晴天だと言われていたはずの空に暗雲が立ち込めていた。
曇り空はあっという間に雨雲になり、昼前には大雨になっていた。5限目の体育の授業は体育館でバスケだとクラスメイトが伝えるとざわざわと教室内は騒がしくなった。
ご飯を食べ終わった後の体育はだるい、とかシューズ部室に置いたまんまだわとか、大体は愚痴である。
「バスケで勝負だ!権八朗!」
「いいぞ、伊之助」
鼻息荒く勝負を挑んできた伊之助に炭治郎は笑顔で答える。身体を動かすことは好きだ。一生懸命に身体を動かしているとそれだけに集中できる。伊之助は強いし、炭治郎が考え付かないような戦法もあって驚きがあって楽しい。勝敗に関しては伊之助が大体勝っているが、毎回炭治郎を誘うのは付き合いがいいからなのか、炭治郎のことを力を高め合う同士だと認めているのか。
勢いよく制服を脱ぎ捨てて、体操服に着替えた伊之助はぐいぐいと炭治郎の腕を掴み体育館へと引っ張って行こうとする。だが、さすがに机に脱ぎ捨てられた服をそのままにしてはおけないと伊之助の制服も綺麗に畳んでから教室を出た。
俺たちの後に体操服に着替えたクラスメイトが数人続く。みんな運動が大好きな人たちばかりで、伊之助の騒動に巻き込まれる人ともいえる。
「ドリブルは得意なんだけどシュートがなぁ」
「今回は俺の方が背が高いから有利だな」
「ダンクシュート決めてやらぁ!」
やる気満々な友人たちと階段を降り、体育館へ向かう途中でその中の一人が陰鬱なため息を漏らす。みんなそちらに視線をやると気まずそうな顔で気にするなと言うが、隣にいる友人に突かれて正直に話し出した。
「実はさ、年下の幼馴染が最近遊んでくれって毎週休みにやってくるんだ」
「へぇ、幼馴染って女子?男子?」
「女子。だけどさぁ、俺たちは高校生だけど、小学生の子連れて遊ぶのって難しいじゃん?しかも女の子だし。遊びに連れてってもつまらなさそうな顔してるし、正直疲れるんだよな」
ズキリ、と心に針が刺さったかのような痛みがする。
周りの友人は女子、という言葉に羨ましそうな視線を一瞬向けたが、続けられた言葉に心当たりがあるのか同意するようにうんうんと頷いていた。唯一わからなさそうにしているのは伊之助だけだ。
「女子との付き合いは難しいよな」
「わかる。話してても全然わからん」
善逸がいれば羨ましいとかハンカチを噛みながら奇声をあげてたかもしれないが、お昼ご飯を食べ終わった後に美術教師に首根っこ掴まれてどこかへ行ってしまったからだ。
「けど、遊んで欲しいってことは多分お前のことが好きだからなんじゃないか?」
「そうかなー。まぁ、昔は仲良かったけど」
その幼馴染みの子を援護するように言えば友人も昔を懐かしむような表情をする。
「今はもうあの頃と同じってわけにはいかないし」
バイトもあるし、塾もあるから、と理由をつけてへらりと笑う。一緒に遊ぶというよりお世話をしてるようでなんか嫌なのだという友人にみんなお疲れ様と声をかける。
「俺は弟や妹と遊ぶの好きだけど」
「そりゃお袋はな」
「お袋は俺らと違うから」
ささやかな抵抗はあっさりとお袋だからという壁を作られて終わってしまった。お袋、といつの間にかつけられたあだ名は嫌いではないが、こういう時はなんか嫌だなと思う。
わけのわかってない伊之助だけが、お前のとこのチビと遊ぶのは好きだぞと言ってくれるのに癒されてありがとうと笑顔で返した。
しかし、幼馴染みというのは友人より近い距離かと思っていたがどうやらそれも違うらしい。考えてみれば年上の幼馴染みに対して友人のように気安く接することはできないなと納得してしまった。
やはり、知り合いぐらいだろうか。顔を合わせれば挨拶をするくらいがいいのかもしれない。今まで話す時だって俺の方からがほとんどで幼馴染みはそれを聞いてるばかりだった。
疲れさせていたなら申し訳ないなぁ。
そんなことを考えていると体育館にはあっという間についてしまった。倉庫からボールを出している幼馴染みを見つけると、手伝いますと声をかけて駆け寄った。
幼馴染は俺を見て一瞬だけ動きが固まるが、すぐに頼むと短く言った。
やはり告白した男が近くにいるのは嫌だろうか。心の中ですみません、今度からはあまり近づかないようにしますのでと謝りながら伊之助と一緒に得点板を出す。だが、体育の授業が始まれば幼馴染は普段通りで、体育館にいるのはただの教師と生徒だった。
距離感を大体把握した後はその距離を忘れないように程々に過ごした。幼馴染は先生だから授業などでは関わるがそれ以外になると殆ど関わらなかった。あるとすれば月に1回ある服装チェックで追いかけられるくらいだろうか。でも、それも追いかけっこするぐらいでそれ以上の何かがあるわけでもない。
半年も経てば告白したことさえ夢だったのではと思えるくらいに普通の日常が送れている。
さよならした恋心はもうどこにもないが、新たな恋心が生まれることもなく、ただただ友人たちと遊んで勉強して他愛のない話をする日々が続いていた。
そんな何気ない日常に一枚のプリントが配られた。
心の相談、と書かれたプリントは夏休みの時期になると未成年の自殺率が高くなるからだと担任の先生が説明していた。心を病む前に誰かに相談するようにとの言葉にその通りだなと思って頷いて鞄に仕舞い込んだ。
そのプリントが配られた数日後に夏休みが始まった。
高校2年の夏休みともなると進学を見据えて塾に通う子もいたから1年の時よりも一緒に遊ぶメンバーが減った。けれど伊之助や善逸といった仲の良い友達とは時間があれば集まって遊んだり、宿題をした。
その日は実家のパン屋の手伝いを終えて、図書館で一人勉強をしていた時のことだった。
家では弟妹がいるから静かに勉強できないだろうからと母親に宿題をするときは図書館でしなさいと言われていたのだ。伊之助と善逸と一緒に勉強する時はどちらかと言えば彼らに勉強を教える方が多く、自分の宿題は進まないのだ。だから、一人の時間帯に少しずつ計画的に進めていた。
ちらりと図書館の窓際の席を見る。そこには一人の少女が腕を枕にして寝ていた。腕には切り傷や火傷の跡がある。最初に彼女を見た時、思わずその怪我大丈夫?と声を掛けてしまった。
彼女は俺を見るなりすごく嫌そうな顔をして、大丈夫だから話しかけるなと言った。
嫌われている!初対面なのに!
けれど怪我のことがどうしても気になってコンビニで買ってきた絆創膏や消毒液を手にもう一度話しかけると、嫌そうな顔はしながらも大人しく怪我した箇所に絆創膏を貼らせてくれた。それに気をよくした俺は図書館で彼女に会うといつも声をかけるようにした。
彼女は図書館に来るといつも同じ場所で寝ている。
最近は俺が話しかけても嫌そうな顔はしなくなった。俺が勉強を終えると同時に彼女が顔を上げる。
「おはよう」
「……おはよう」
話しかければ、言葉を返すようにもなってくれた。まるで警戒心の強い猫を手懐けたようでほわほわと心が温かい気持ちになった。天気のいい日は店のパンを持ってきて、図書館から出て近くの公園で一緒にパンを食べるのが日常になった。
「今日はいい天気だ」
「暑くて嫌になるけど」
「日陰に入れば少し涼しいな」
「……うん」
彼女は言葉は少ないけれど、俺の言葉に反応してちゃんと返してくれた。
怪我は誰かに?と聞いたけれど首を横に振られた。別に親に殴られたりとかそういうのはないらしいが、今日も新しい怪我が腕にできている。綺麗な肌なのに、その傷のせいで痛々しいと思ってしまう。
「新しくできてるのも自分でやったの?」
「そう」
「自分の身体は大切にしないといけないんだぞ」
「わかってる」
少女は淡々と答えているが、それが守られたことは一度もない。増える傷跡に俺は毎度ため息をしながらその怪我に絆創膏を貼っていく。本当なら病院に連れて行くべきなのかもしれないが、少女がとても嫌がるからやめた。
「……炭治郎は、どうしてそんなに優しいの?」
絆創膏を付け終わって、片づけをしていると少女がぽつりと言った。どうしてと問われて頬を掻く。優しい、とは思ってもみなかった。
放っておけないと思ったからそうしただけ。と言うと少女はふぅんと黒い目を瞬かせた。
そんな俺と彼女の関係は夏休みの間ずっと続き、それは夏休みを開けても変わらなかった。週末に図書館に行くとやはり彼女はいて、夏休みの時のよりも会える回数が減ったせいか怪我の数は増えていた。
近くのコンビニに入ると毎回絆創膏を買うのが定番になっていた。
その日は今にも雨が降りそうな曇り空の日だった。彼女は珍しく図書館で寝ておらず、頬杖をついて窓の外を見ていた。俺が来るとちらりと視線をくれた。
俺は何も言わず彼女の前の席に座ると彼女の腕を確かめる。新しいひっかき傷ができている。いつものように絆創膏を取り出す俺の手を彼女が止める。
「ねぇ、炭治郎」
お願いがあるの、と言う少女の真剣な眼差しに俺は頷いた。この怪我をする理由を彼女がいつか教えてくれるだろうと思っていた。いざとなったら両親に相談して大人に協力してもらおう、そういうことも考えていた。
けれど、それは全部意味がなかった。
図書館の裏の誰も来ないような場所に来ると、彼女はいきなり俺を押し倒すとその首に手を掛けた。ぎりぎりと力が籠もる細い腕に一体どこにそんな力があったんだと思いつつもその腕を掴んで振り払った。さすがに身体を突き飛ばすことはできず、押し倒されたままの体勢で息を整える。少女は手を再度炭治郎の首に置いたが、締めることはなかった。
「……炭治郎、力が強いね」
「一体……どうしてこんなこと」
ごほっとせき込みながら彼女を見る。光のない目。ぽつりぽつりと雨が降るのにも関わらず、彼女は俺に乗っかったままそこから動かなかった。
「……死にたい」
小さくぽつりとつぶやいた少女の顔がとてもとても弱弱しく見えて、俺はどうすることもできずにいた。真っ黒な目は俺を見ているようで見ていない。雨がしとしとと彼女の髪を濡らして、その雫が顔を伝うのでまるで泣いているようにも見えた。地面がぬかるんで背中が気持ち悪い。
一体何分そのままでいたのかわからないが、雨が本降りになるとようやく少女はのろのろと立ち上がった。
「またね」
そう言って去る少女に俺は何も言えなかった。またねという事はまた会うつもりがあるのだろうか。彼女は大丈夫なのだろうか。俺はどうすればいいのだろうか。
悩んだけれど、答えは出ないままだった。
びしょ濡れの恰好で家に帰ると、家族にとても心配された。その日は高熱を出して三日間学校を休んだ。首元に赤い手跡があるような気がしたけれど、鏡で確認してもその跡は見当たらなかった。
雨の中に長時間押し倒されていたのと、恐らく考えすぎてしまったせいで風邪と知恵熱を拗らせてしまったのだろうと俺は熱に浮かされる中でそんなことを考えていた。
その熱の中で随分と悲しい夢を見た。妹を残して家族全員が死に、その仇討ちのために何人もの命が犠牲になる夢。その夢で見た顔が学校の人たちのものがほとんどで、熱が下がった時には申し訳なさがたった。夢とはいえ、その人が死ぬ姿を見たのだ。恐ろしいまでに現実かと間違うほどに。
だから目が覚めて家族がいたことにほっとしたし、幼馴染が五体満足なのを見て良かったと思ったし、友人たちが楽しそうに過ごしていることにも安心した。
「おふくろ、熱大丈夫だったのか?」
「うん、大丈夫。もう下がったから!」
むんっと腕をまくるといつものおふくろだーとほっと安心するような顔をする友人たちに心配してくれてありがとうと伝える。
「熱出すなんてよわっちぃな!」
「病気は弱いとかそういうもんじゃないでしょ。
炭治郎も体調悪い時は無茶しないようにね」
善逸は休みの間のノートを用意してくれたし、伊之助はおまもりと言ってドングリをくれた。いや、ドングリってなんだよってみんなにツッコミを入れられていたけれど、そのドングリはとてもつやつやしてふっくらしているから伊之助のお気に入りの一つだったんだろう。
ありがとうって言うと二人は照れくさそうにしながらどういたしましてと言ってくれた。
友人たちに囲まれているとふとじぃっとどこからか自分を見ているような視線に辺りを見回す。教室の扉の外で幼馴染が立っている。クラスの女の子と喋りながら時々こちらを見ているようだった。
その視線に何かやったかなと考えるが、熱を出して三日も休んだのだから心配はしたのだろう。担任の先生も朝の出席の時に大丈夫か、と一声かけてきたくらいだし。
とはいえ、幼馴染に大丈夫ですよと直接言いに行くタイミングはないのでその代わりに体育の授業でしっかりと動いて大丈夫のアピールをしておいた。それが伝わったのか視線はいつの間にかなくなっていた。
週末になるとまた図書館へと向かった。
少女はまたねと最後に言っていた通り、図書館にいた。俺を見ると泣きそうな顔をして、目を逸らした。俺はすたすたといつものように彼女の前に座る。
「……また来るとか馬鹿なの」
「またねって言ったじゃないか」
「あんた、この前なにされたか覚えてないの?」
罪悪感はあったのだろう。少女は俺を睨んでいた。苦しい。辛い。そんな匂いが彼女からしてくる。俺は彼女の腕にまた新たな傷を見つける。
いつものように絆創膏を取り出すのを見て、少女はがたんっとその場を立ち上がる。
「ふざけないでっ!!」
ヒステリックに叫ぶとその場から逃げ去る少女を追いかけるために俺も席を立った。
彼女はこの前と同じ図書館の裏に来ていた。誰もいない静かな場所で彼女は泣きながら地面に座り込んでいた。
「怪我、手当しないと」
「……煩い」
力なく呟く彼女の腕を取る。また切り傷が何個もできている。俺が少女の前に座り絆創膏を貼り終わると、彼女は泣きながら話した。
自傷癖がある。何が原因なのかはわからない。ただ時折すごく寂しくなることがあって、自分を傷つけたくなる。血を見ていると安心する。こんなこと自分だってしたくない。親にだって最初は心配されていたけれど最近は呆れられている。頭がおかしい子だって思われてる。苦しい。辛い。
吐き出された少女の言葉に俺は考える。自傷はダメだよって言ったけれど、そんなことは本人がよくわかっているのだ。でも止められないのだ。
彼女のぼろぼろの腕を見て、俺は自分の腕を見た。
「じゃあ、俺の手を傷つけてみる?」
「……は?」
「いや、物は試しに」
なんとなくの提案だった。彼女は何言ってんだこいつという目で俺を見ていたけれど、俺の腕を見ると爪で一本のひっかき傷を作った。鋭い痛みが腕に走るが、気にせず笑顔を浮かべた。
「どう?」
「……ごめんなさい」
俺の腕を傷つけたことに少女は罪悪感を抱いたらしい。素直に謝る少女に小さな弟妹の姿を重ねてしまう。
「怪我させたら嫌だと思わない?」
「……思う」
彼女の言葉に俺は頷く。自分を傷つけたくなったらこの傷を思い出してと言うと彼女はおとなしく頷いた。ごめんね、と謝る彼女に俺はいいよと笑った。
この日から俺の腕に少しずつ怪我が増えていった。
最初は彼女が自分を傷つけることがないようにという提案で始めたものだった。
これは割と効果があってその次の週は彼女の新しい傷跡はなかった。けれど俺の怪我が治って見えなくなると彼女はまた自分の身体を傷つけるようになった。だから俺の怪我が治る前に新しい怪我を作ってと繰り返していたらいつの間にか絆創膏をいつも貼っているような形になってしまったのだ。
毎週毎週怪我を一つ増やしてくる俺に家族のみんなは心配していたけれど、そう大した怪我じゃないからと言ってやり過ごした。学校に行くと友人たちも気にするようにしていたけれど、大丈夫と笑ってごまかした。
嘘ではない。実際怪我はそんな大したことない。ひっかき傷のようなものだから。
ただ、一人どうしても見逃さないようにじっと睨んでくる目があった。幼馴染の目だ。
久しぶりに朝の身だしなみチェックでピアスの件で鬼ごっこの末に捕まった俺は授業が終わると生徒指導室へと呼び出された。身だしなみにひっかかったのは伊之助もだが、もうすでに解放された跡らしく、指導室の箱の中には伊之助の書いたらしい反省文が収まっていた。
反省文の紙はその日中に書いて指導室にいる教師に提出すればいいので生徒指導室まで呼ばれることはほとんどないのだ。けれど、呼び出されたということは話があるという事だろう。
「あのぅ、冨岡先生?」
生徒指導室に入り、席に座れと言われて五分。前に座る幼馴染は能面のように何を考えているかわからない顔を張り付けて俺を見ていた。さすがにこのまま10分も20分も拘束されるのはたまらないと思わず声を掛けた。
それにようやく幼馴染はゆっくりと口を開けた。
「……最近怪我が多いな」
「そう大した怪我じゃないですよ」
「怪我の大小が問題じゃない。するな」
「それは……難しいですね」
そもそも怪我をするななどと言われてしないようにするのは難しい話なのではと思う。実家の手伝いで火傷や包丁で怪我をすることだってたまにあるし。細心の注意を払っていてもするときはするのだ。俺の返答に満足しなかった幼馴染は眉を寄せた。
「何故自分の身体を傷つけるようなことをするんだ」
「えっと、なんででしょうね?」
いつか少女にしたようなやり取りを何故幼馴染としているのだろうと考える。別に怪我をしようとしているわけではないのだ。ただ、あの痛ましい腕を見たくなくて、代わりになるならと。
ただそれだけだ。
「何か困ってることがあるなら相談に乗る」
真剣な眼差しでそう幼馴染に言われてわかりましたと元気よく返事をする。相談に乗ると言われたところで困ってることも何もないのだが。とりあえず俺が元気よく返事したことで幾分か幼馴染の機嫌は持ち直したらしい。
反省文の紙を渡されて、その紙に記入するとピアスを返して貰えた。
「……炭治郎」
「はい?」
生徒指導室から出ようとすると幼馴染に名前を呼ばれた。珍しく下の名前で呼ばれたので驚いて目を丸くしてしまった。幼馴染は俺を見て何か言いたそうにしていたが、口をぎゅっと噤むと何でもないと言った。
その先生らしくない行動をする幼馴染の姿に少し笑ってしまう。
「じゃあ、冨岡先生。さようなら」
「ああ、さようなら」
ぱたりと扉を閉める。
何もない。正しく先生と生徒の距離だった。恋心はすでになくなったとは思っていたけれど、こうして二人で話していても何ともないことにほっと安堵した。
俺は晴れ晴れとした顔で家に帰った。雪がちらつき始めた季節だった。
冬休みになるとまた図書館に通い始めた。彼女の様子は最初会った時よりも大分良くなっていた。腕の怪我も大分減り、絆創膏の数も減った。
俺の腕と絆創膏の数がお揃いぐらいになるのもそう遠くなさそうだ。
「……なんだか不思議」
「何が?」
「炭治郎と一緒にいると安心する」
彼女がそう笑うのに俺も笑って見せた。最近は明るくなった彼女を見ると俺も嬉しくなった。このままいつか自傷することをやめられるといい。きっとそうなる。
そうなることを信じていた。
図書館で彼女といつものように小さく話をしていると、後ろから声を掛けられた。
「炭治郎君、勉強ですか?」
参考書を手に持って立っていたのは去年卒業した胡蝶しのぶ先輩だ。医療を学ぶと言って都心の大学に出て行ったので会うのは大分久しぶりだ。
懐かしくも変わらない先輩の姿に俺も喜びをそのままに顔を出して「お久しぶりです!元気にしてましたか?」と彼女をその場に置いて駆け寄った。
「元気ですよ。カナヲから時々炭治郎君の話は聞いてましたのですが、そちらも元気そうでなによりです。妹さん達はどうですか?」
「はい!禰豆子達も元気にしてますよ。胡蝶先輩がいなくて少し寂しがっていますが……」
「あらあら。それは嬉しいですね。また今度パン屋さんの方にも顔を見せに行きますね」
「ありがとうございます!みんな喜びます!」
年末年始の休みは地元でゆっくりする予定だという先輩にどこかに遊びに行きましょうと楽しく話していると後ろからじぃっと見つめる視線があった。彼女の方を振り向くとぷいっと視線を逸らされてしまった。
慌てて彼女を先輩に紹介しようとすると、彼女は立ち上がる。
「あれ、どこに行くんだ」
「もう帰る。またね」
冷たい視線が一瞬しのぶ先輩の方へ向くが、すぐにその場を立ち去る彼女に俺はすみませんと先輩に謝った。
「大丈夫ですよ。炭治郎君が悪いわけじゃないですから」
「いや、でも多分不機嫌になったの俺のせいだと思うので……」
「そういうわけではないと思いますが……。
もしかして彼女、炭治郎君の恋人だったりします?」
しのぶ先輩がひそりと声を小さくして訊くのに俺はぶんぶんと勢いよく首を横に振った。
恋人とか!そんな風に間違われるのは彼女も嫌だろう。
「いえ、違います!」
「そうですか。良かったです」
否定する俺に安心するようにしのぶ先輩が笑った。けれど良かったとは一体どういうことだろう。
首を傾げる俺の腕を見て、しのぶ先輩があらと新しく貼られた絆創膏を見る。
「怪我をしたんですか」
「ええ、でも大したことないので!」
「たいした事ないと思っていてもそうじゃないことがあるんですよ。
炭治郎君は専門家じゃないでしょう?
自分の大丈夫を過信しすぎるのはよくないですよ」
怪我を見せてくださいと言われて、図書館の外でそっと腕を差し出した。治りかけの切り傷がいくつかとまだ治り切っていない傷が二、三個と新しいひっかき傷が一つ。
しのぶ先輩はその傷を見て目を二回瞬かせた。
「炭治郎君、君危ないことしてないですか?」
「してないです!」
しのぶ先輩の綺麗な顔がじっと俺の顔を見つめるのに顔を赤くさせながら否定する。危ないこととはなんだ。この怪我だって彼女の怪我を増やさないためにしてるだけで危なくはない。
そもそもかすり傷のようなものだから命の危険なんてない。
しのぶ先輩は炭治郎の腕の怪我に持っていたバッグから消毒液と包帯などを取り出すとテキパキと治療をする。さすが将来医者を目指しているだけあって無駄のない鮮やかな手さばきだった。
「これで大丈夫ですよ」
「さすがです!胡蝶先輩!」
「ふふふ、炭治郎君は昔から怪我が多かったですからね。この傷、あの朴念仁がそのままにしているのは不思議ですけど」
「朴念仁?」
「いえ、こっちの話です。
それより炭治郎君、さっきの彼女のことですが……」
「あ、彼女のことなら任せてください!俺がどうにかするので!」
彼女が不機嫌になったのは俺のせいなのでと言うとしのぶ先輩は眉を寄せた。戸惑っている表情にも近い。
ふぅとため息を吐いて仕方ないですねと言った。
「何かあればすぐに連絡をしてください。夜でも構いませんし、繋がらなければ冨岡さんに電話をしてください」
「何かあればですか?」
「ええ、怪我をした時は必ず連絡を」
真剣な面持ちのしのぶ先輩の圧に押されて、こくこくと頷く。そんなに心配をかけるような怪我だろうかと包帯で巻かれた腕を見る。絆創膏ではなく包帯を巻かれるとそれなりに重症を負っているような気分になる。
改めてありがとうございますと言うと、しのぶ先輩はようやくいつものように微笑んだ。
さすがはミス学園祭。周りの男性達がほうっと見惚れる中でしのぶは男たちの視線を気にすることなくそれではと立ち上がって去っていった。
立つ鳥後を濁さず。
その場には綺麗な女性を見たとほわほわする男性だけが残っていた。
しのぶ先輩と会った翌日に図書館に行くとやはりいつもの席に彼女は座っていた。
受験シーズンの追い込み時期だから周りには人が多かったけれども彼女の周りには人がいつもいなかった。いつものように彼女の前の席に座る。
「おはよう」
「……おはよう」
ちらりと彼女は館内を見回してから、俺を見た。
「今日はあの人いないんだね」
「胡蝶先輩のこと?」
こくりと頷く彼女に俺は胡蝶先輩が自分の通う学校の卒業生だということを伝えた。普段は都心の学校に通っているから地元で顔を合わせることがほとんどないこと、久しぶりに会ったことを伝えるとそっかと彼女は頷いた。
昨日のような不機嫌さがないことに安心する。
「ねぇ、炭治郎。外に行こう」
「外に?」
珍しい。彼女は大体図書館にいるか、俺が誘ってようやく近くの公園までしか行かないのに。彼女がダメ?と聞くのに俺は二つ返事で頷いた。二人そろって立ち上がると図書館を出るとぶらりと目的もなく歩く。
外はしんしんと雪が降っていて、吐く息が白く染まる。傘を持っていれば良かったのだけれど持ってくるのを忘れて二人して雪を髪につけながら歩いた。
「真っ白だね」
「うん。寒くない?」
「大丈夫」
怪我だらけの腕はダッフルコートで見えない。機嫌がよさそうに鼻歌を歌いながら少女は炭治郎の横を歩いていた。
「炭治郎は神様とか天使とか、そういうの信じる?」
「うーん……信じるかな」
「意外。信じないっていうかと思ってた」
「いたらいいなって思うよ」
「そっか。私もいたらいいなって思う」
橋の下を流れる川を見る。橋の欄干に背を預けて、取り留めのない話をする。
冬が好き、と彼女は笑った。
息を吸った時に冷たい空気が入ってくるとちょっと痛いけどすがすがしい気持ちになれる。
真っ白な雪がどこまでも続く景色が好き。
しんっといつもより静かな空気が好き。
ふわふわとした彼女の言葉は雪のように舞って、意味もなく溶けていく。ただ好きなのだという。でも好きってそんなものだよな、となくなってしまったいつかの大事だった事を思い出す。
顔が好き。声が好き。優しく撫でる手が好き。深い青色をした目が好き。
何故好きなのかはうまく言葉にできないが好きなのだ。多分、ずっと好き。それは恋心を失ってもそのままだった。
「天使になれたらどこまでも飛んでいけるのに」
「そこは鳥じゃないのか?」
「鳥になると空飛んでる間は手が使えないじゃん」
自分の姿のまま、翼だけが欲しいと少女は口を尖らせる。まぁ、言われてみれば確かに。手がないと不便そうだと納得する。
くしゅん、と彼女が小さなくしゃみをしたのに戻ろうかと聞いたが今日はここでお別れだよと言われた。
「またね」
彼女は手を振って帰っていく。そういえば、彼女と知り合って大分経つがまだ彼女の名前を知らないことに気づく。また今度聞けばいいかと考えて家路を辿った。
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