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ラプラスの水槽

 お帰りなさい、山伏兄さんと山伏を出迎えたのは一振りの脇差であった。
 山伏が見た事もない脇差であったが彼は堀川国広と名乗ると、山伏が修行の最中に迷い込んでしまった本丸を嬉々として案内した。その本丸は寂れており、屋根の至るところで穴が開いていたり、雑草も伸びきって山伏の腰ほどあった。似ているようで、どこか違う本丸を堀川は楽しそうに山伏の手を取って話す。
「みんな、山伏兄さんが帰ってきたよ」
 そう言って堀川は誰もいない、埃と蜘蛛の巣の張られた部屋を一つ一つ開けて挨拶していく。時折、誰かと楽しそうに喋っているらしくけらけらと一人話す声だけが寂れた本丸に響いた。
 きぃきぃと鳴る木の床板を二人で踏み鳴らす。ところどころ腐って穴ができているところを器用に避ける堀川に山伏はどうしたものかと考える。
 どう考えてもこの本丸はとっくの昔に棄てられたもので、堀川が何の因果でここに残っているのかよくわからなかったが恐らく良くはないことなのだろう。とはいえ、山伏には堀川を斬ることもできなければ放っておくこともできなかった。何しろこの堀川はただ楽しそうに誰もいない本丸でただ一人過ごしているだけなのだから。何の罪もない、ましてや山伏を兄と慕っている脇差なのだ。
「あのね、山伏兄さん」
 堀川は障子が破れてしまって真っ暗な部屋の前で真剣な表情をして振り返った。その表情に山伏も真剣な表情で堀川を見た。
「主さん、体調が良くないんだ。病気でずっと伏せっていてね……だから残念だけどここから先には行っちゃだめだよ。体調がいい時に主さんに帰ってきたことを伝えよう」
「そうであるか。ならば今はそっとしておこう」
「うん!あ、そうだ。
 兄弟が帰ってきたんだし折角だから今日は僕がご飯を作るよ!」
 堀川はそう言って先ほど説明した他の部屋よりも少しマシな部屋に山伏を一人残すと厨へとふんふん鼻歌交じりに向かっていった。その背を優しい眼差しで見送りながら山伏は堀川が行っては駄目だといった部屋を見た。生暖かい空気がそこから流れているような気がする。
 さて、どうしたものか。
 山伏は腕を組んで悩んだ。破れた障子のせいで筒抜けになっている扉の先では堀川が誰かと楽しそうに調理をしていた。時折呼ぶ名には山伏の本丸にもいる刀の名前もあり、嬉しそうに山伏が帰ってきたことを話していた。
 まだ出会って間もないこの脇差に山伏は不思議なことに兄弟の情を抱いていた。
 目を閉じて瞑想している間に料理は出来上がったらしい。一体どんな料理が出来上がるのが少し恐ろしくはあったが、机の上に並べられた料理はどれも美味しそうに見えた。
「燭台切さんにちょっと手伝ってもらったんだけど……多分美味しくできてると思うよ」
「うむ。では一つ頂こうか」
 綺麗に握られた三角のおにぎりを手に取り、頬張った。普通に美味い。口に出して美味いと言えば堀川は良かったと安堵して自身もおにぎりを食べ始めた。大根おろしのかかった卵焼きにキノコの入った味噌汁と大根の漬物。どれも美味であった。堀川は食事の最中にも誰かと話していた。
 山伏はそれを黙って聞き、時折堀川に話を振られて適当に話を合わせて相槌を打つと花がほころぶように彼は笑った。ご飯を食べ終わると堀川は食器と机を片付けると固い布団を一つ出した。
 それはところどころ破れてほつれていたが、当て布がしてあったりして誰かがちゃんと使えるように修復していたのがわかった。一つしかない布団を堀川は山伏に使ってと言ったが、山伏は断った。
 押し付け合うように布団を互いに掛け合っていると眠気に勝てなかった堀川がやがてうとうととその大きな目を隠すように瞼を下ろす。寝入ってしまった堀川に布団をかけると、山伏はそろりと音を立てないように立ち上がった。
 向かう先は主の部屋。
 どれだけ慎重に歩いても腐りかけた木の板の廊下は山伏が歩くときぃきぃと大きく音が鳴った。それでも、脇差が起きぬようにと祈りながらゆっくりと主の部屋に行く。夜だというのに生暖かい空気がやはりそこから流れてくる。障子が破れて戸の意味をなしていないそれを外すようにして持ち上げて、中に入る。
 真っ暗な闇の中でもぞりと何かが動いた。それは寂しいと言っているような気がした。寂しい寂しい。置いていかないで。どこにも行かないで。ここにいて。
 まるで子供の我儘のように聞こえる言葉に山伏はすまぬと一度謝罪してから、一閃。太刀で部屋の真ん中を斬った。
 斬り応えはなかったが、ぶわりと風が舞った。生暖かい風が消えて、涼やかな冷たい空気が山伏の横を通り抜けていく。
 山伏は元の廊下を戻ってぼろぼろの部屋へと向かった。部屋を出る時には確かにあった脇差の姿は布団の中になかった。山伏は少しだけ残念に思いながら布団を持ち上げるところりと布団から一振りの刀が転がった。赤い拵えの脇差だ。
 山伏はそれを手に取ると夜も暗いのにも関わらず急いで自分の本丸へと戻った。
 朝焼けの中、本丸に戻って主の部屋へと直行するとその脇差を差し出した。早朝にも関わらず主は何も言わず山伏が差し出したその脇差を受け取ると、自分の霊力をためらわず注いだ。霊力を注ぎ切ると桜が舞う。その中にあの時見た少年が浮かぶと山伏を見てにこりと笑った。

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