ラプラスの水槽
今日は遠征だ。用意を整えて門へ向かう途中で名前を呼ばれた。
「山姥切くん、ちょっといい?」
脇差の兄が呼ばれるままそちらを向くとちょいちょいっと被っていた白い布を直される。真贋の分からぬ脇差は打たれた時代も不明だ。ただ、何となくその面倒見の良さから山姥切は兄としてその脇差を見ていた。太刀の兄弟とは違うが、小さくても頼りになる強い兄だ。
「今から遠征だよね。頑張って」
「ああ」
ぶっきらぼうに返す。本当はもっと気の利いた言葉をかけれればいいのだが、どう話せばいいのかわからず、せっかく直してもらったばかりなのに布を引っ張って表情を隠した。そんな山姥切に脇差の兄弟は少し笑ってじゃあねと走り去って行った。あ、と頼りない声と伸ばした手に彼は気づかずに行ってしまった。
この本丸にはまだ彼の相棒は来ていなかったから、前の主の繋がりで一緒にいる加州と大和守の元に行ったのだろう。もし相棒が来たら、こうして山姥切に構う事はなくなるのだろうか。
伸ばした手を握ると後ろから長谷部に名前を呼ばれた。今日は彼が遠征部隊の隊長だ。心に暗雲を浮かべながらのろのろと遠征に向かった。
今回は資材集めの遠征で少し遠い場所に行く事になっていた。本丸の近くでは夏祭りを昼からやっていて山姥切は遠征の関係で昼の間に此度の遠征の面子と回っていた。
「あーあ、本当は夜に祭に行きたかったんだけどなぁ」
山姥切の横を歩く蛍丸は大げさにそう不満げに言うと、こちらに意味ありげな視線を送った。
「君もそうじゃない?」
「……まぁ」
山姥切は正直に頷いた。脇差の兄と太刀の兄と共に巡りたかったというのが本音だ。しかし一緒に巡ってくれたのは太刀の兄だけだ。脇差の兄は忙しそうに色々な場所の手伝いを申し出ていたし、馴染の打刀と夜に行くのだと話していたのを聞いてしまった。
「でも、来年もあるからね」
来年、という言葉に山姥切は目をぱちりと瞬かせた。言われてみればそうだ。今回は駄目でも来年が。来年がダメでもその次がある。少し希望が見えたような気がして山姥切は蛍丸にそうだなと力強く頷いた。
まずは手始めの布石にと山姥切が出陣や遠征をすると必ず門で出迎えてくれる兄にただいまとこちらから言おうと心に決める。
「今日はここで資材を探すぞ」
声を張り上げる長谷部に山姥切は頷くとやけにやる気だなと感心された。一生懸命に資材を探し、掘れば時間が過ぎるのもあっという間で一晩を明かして本丸に戻るとしんとなぜか本丸は静まり返っていた。いつも出迎えてくれる兄も門にはいなかった。
いたのは太刀の兄弟と近侍の一期だけだ。きょろきょろと辺りを見渡すと、一期が長谷部に何やら呟いているのが聞こえた。険しくなる長谷部の顔と一期の声からほりかわ、という声が聞こえて山姥切は太刀の兄の元へと向かった。
「兄弟は?」
山姥切の言葉に兄はすまなさそうに首を横に振った。
山姥切は誰かが名を呼ぶのも聞かずに本丸の外へと駆けだした。兄が消えた。
当時一緒にいた加州と大和守に謝られながら事の顛末を聞かされた。本丸に残っていた刀達はすでに捜索に方々散らばっていているらしい。が、状況は変わらずだ。
山姥切も祭の会場へ行く。
夏祭りの会場はもう撤収作業も終わっており、閑散としている。一人、石段の前に立っていた獅子王が山姥切を見るともう帰ってきてたのかと苦々しい表情をした。その表情を見ればわかる。兄はまだ見つかっていないのだ。
「やめろ、もうすぐ陽がくれる」
石段を駆け上ろうとする山姥切を獅子王が止めた。その手を押しのけ、山姥切は石段を駆け上った。兄がどこにいるのかなんてわからなかったが、じっとしていることなどできなかった。
名前を呼び、陽が沈んで真っ暗になっても山姥切は山の中を走り回った。何かに躓いて転んで、その痛みに目が潤んだ。兄弟、兄弟と枯れた声で呼ぶ。心に浮かぶのは後悔ばかりだ。もっと兄弟と話がしたかった。前の主の馴染だからといつも一緒にいるあの打刀たちが羨ましかった。真贋などどうでもいいから堀川と称される三振りでもっと一緒に居たかった。
ぐずっと鼻を鳴らしながら、立ち上がる。そういえば、先ほど自分は一体何に躓いたのだろうと振り返ると地面から白い腕が伸びていた。それはずず、ずずっと動いている。
なんだこれは。
山姥切はそれに強烈な不快感を抱いた。いや怒りだろうか。この腕が話に聞いた兄を連れ去った腕だろうか。深く考えず、山姥切は怒りに任せて刀を思いっきり振り下ろした。何度も何度も。
血は吹き出なかった。それは生きていないのだから当然のことかもしれない。ただ、山姥切が刀を振り下ろすたびにそれは少しずつ細くなっていった。山姥切は息も絶え絶えになりながら振り下ろし続けた。
もう何度刀を振り下ろしただろうか。ぷつん、と音が鳴り白い腕がようやく消えた。それと同時にどさりと近くで何かが落ちる音が聞こえた。その音に山姥切はようやく我に返り、音のした方を向く。
脇差の兄が地面に倒れていた。その足に腕に何かに捕まれたような赤い跡がいくつも残っている。近寄って兄弟、兄弟とその肩を揺する。うっすらと目が開くと焦点の合わぬ目で山姥切を捉えたのか、おかえりと場にそぐわぬ言葉をつぶやいて笑った。そしてそのまま気を失ったようにことり頭を落とした。
やがて兄弟と呼ぶ山姥切の声に獅子王が他の刀を連れてやってくると堀川を背負って本丸へと戻って行った。こうしてこの本丸で起きた小さな騒動は幕を閉じた。
結局堀川を掴んだ白い手の正体はわからず仕舞いではあったが、この事を切っ掛けに山姥切は脇差の兄弟と太刀の兄弟三人で仲良く過ごすようになった。
災い転じて福となす、だなと笑う太刀の兄弟に山姥切も堀川も笑った。
「山姥切くん、ちょっといい?」
脇差の兄が呼ばれるままそちらを向くとちょいちょいっと被っていた白い布を直される。真贋の分からぬ脇差は打たれた時代も不明だ。ただ、何となくその面倒見の良さから山姥切は兄としてその脇差を見ていた。太刀の兄弟とは違うが、小さくても頼りになる強い兄だ。
「今から遠征だよね。頑張って」
「ああ」
ぶっきらぼうに返す。本当はもっと気の利いた言葉をかけれればいいのだが、どう話せばいいのかわからず、せっかく直してもらったばかりなのに布を引っ張って表情を隠した。そんな山姥切に脇差の兄弟は少し笑ってじゃあねと走り去って行った。あ、と頼りない声と伸ばした手に彼は気づかずに行ってしまった。
この本丸にはまだ彼の相棒は来ていなかったから、前の主の繋がりで一緒にいる加州と大和守の元に行ったのだろう。もし相棒が来たら、こうして山姥切に構う事はなくなるのだろうか。
伸ばした手を握ると後ろから長谷部に名前を呼ばれた。今日は彼が遠征部隊の隊長だ。心に暗雲を浮かべながらのろのろと遠征に向かった。
今回は資材集めの遠征で少し遠い場所に行く事になっていた。本丸の近くでは夏祭りを昼からやっていて山姥切は遠征の関係で昼の間に此度の遠征の面子と回っていた。
「あーあ、本当は夜に祭に行きたかったんだけどなぁ」
山姥切の横を歩く蛍丸は大げさにそう不満げに言うと、こちらに意味ありげな視線を送った。
「君もそうじゃない?」
「……まぁ」
山姥切は正直に頷いた。脇差の兄と太刀の兄と共に巡りたかったというのが本音だ。しかし一緒に巡ってくれたのは太刀の兄だけだ。脇差の兄は忙しそうに色々な場所の手伝いを申し出ていたし、馴染の打刀と夜に行くのだと話していたのを聞いてしまった。
「でも、来年もあるからね」
来年、という言葉に山姥切は目をぱちりと瞬かせた。言われてみればそうだ。今回は駄目でも来年が。来年がダメでもその次がある。少し希望が見えたような気がして山姥切は蛍丸にそうだなと力強く頷いた。
まずは手始めの布石にと山姥切が出陣や遠征をすると必ず門で出迎えてくれる兄にただいまとこちらから言おうと心に決める。
「今日はここで資材を探すぞ」
声を張り上げる長谷部に山姥切は頷くとやけにやる気だなと感心された。一生懸命に資材を探し、掘れば時間が過ぎるのもあっという間で一晩を明かして本丸に戻るとしんとなぜか本丸は静まり返っていた。いつも出迎えてくれる兄も門にはいなかった。
いたのは太刀の兄弟と近侍の一期だけだ。きょろきょろと辺りを見渡すと、一期が長谷部に何やら呟いているのが聞こえた。険しくなる長谷部の顔と一期の声からほりかわ、という声が聞こえて山姥切は太刀の兄の元へと向かった。
「兄弟は?」
山姥切の言葉に兄はすまなさそうに首を横に振った。
山姥切は誰かが名を呼ぶのも聞かずに本丸の外へと駆けだした。兄が消えた。
当時一緒にいた加州と大和守に謝られながら事の顛末を聞かされた。本丸に残っていた刀達はすでに捜索に方々散らばっていているらしい。が、状況は変わらずだ。
山姥切も祭の会場へ行く。
夏祭りの会場はもう撤収作業も終わっており、閑散としている。一人、石段の前に立っていた獅子王が山姥切を見るともう帰ってきてたのかと苦々しい表情をした。その表情を見ればわかる。兄はまだ見つかっていないのだ。
「やめろ、もうすぐ陽がくれる」
石段を駆け上ろうとする山姥切を獅子王が止めた。その手を押しのけ、山姥切は石段を駆け上った。兄がどこにいるのかなんてわからなかったが、じっとしていることなどできなかった。
名前を呼び、陽が沈んで真っ暗になっても山姥切は山の中を走り回った。何かに躓いて転んで、その痛みに目が潤んだ。兄弟、兄弟と枯れた声で呼ぶ。心に浮かぶのは後悔ばかりだ。もっと兄弟と話がしたかった。前の主の馴染だからといつも一緒にいるあの打刀たちが羨ましかった。真贋などどうでもいいから堀川と称される三振りでもっと一緒に居たかった。
ぐずっと鼻を鳴らしながら、立ち上がる。そういえば、先ほど自分は一体何に躓いたのだろうと振り返ると地面から白い腕が伸びていた。それはずず、ずずっと動いている。
なんだこれは。
山姥切はそれに強烈な不快感を抱いた。いや怒りだろうか。この腕が話に聞いた兄を連れ去った腕だろうか。深く考えず、山姥切は怒りに任せて刀を思いっきり振り下ろした。何度も何度も。
血は吹き出なかった。それは生きていないのだから当然のことかもしれない。ただ、山姥切が刀を振り下ろすたびにそれは少しずつ細くなっていった。山姥切は息も絶え絶えになりながら振り下ろし続けた。
もう何度刀を振り下ろしただろうか。ぷつん、と音が鳴り白い腕がようやく消えた。それと同時にどさりと近くで何かが落ちる音が聞こえた。その音に山姥切はようやく我に返り、音のした方を向く。
脇差の兄が地面に倒れていた。その足に腕に何かに捕まれたような赤い跡がいくつも残っている。近寄って兄弟、兄弟とその肩を揺する。うっすらと目が開くと焦点の合わぬ目で山姥切を捉えたのか、おかえりと場にそぐわぬ言葉をつぶやいて笑った。そしてそのまま気を失ったようにことり頭を落とした。
やがて兄弟と呼ぶ山姥切の声に獅子王が他の刀を連れてやってくると堀川を背負って本丸へと戻って行った。こうしてこの本丸で起きた小さな騒動は幕を閉じた。
結局堀川を掴んだ白い手の正体はわからず仕舞いではあったが、この事を切っ掛けに山姥切は脇差の兄弟と太刀の兄弟三人で仲良く過ごすようになった。
災い転じて福となす、だなと笑う太刀の兄弟に山姥切も堀川も笑った。