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ラプラスの水槽

9.

 しんと静まり返る本丸の廊下を堀川国広は一人歩いていた。
「嫌だなぁ」
 時折声に出して呟きながら歩く。心の中に溜め込むよりも声に出した方がいくらか気分が紛れたのだ。はぁと溜息を吐いて空を見上げる。せめて月明りがあればマシだったのにと思う。別に暗闇は嫌いというわけではない。ただ、今夜は皆が面白がって怪談話などをするから。
「嫌だなぁ」
 付喪神が人の想いから作られる神様だというなら、人々が残す怖い話ももしかしたら実在してしまうのではないか。堀川は前の主の元で付喪神の意識を得た時からそう考えていた。
 もしかしたら暗闇に人を攫って食べる何かが潜んでいるかもしれない。
 井戸の中からこちらを引きずり込もうとする手が出てくるかもしれない。
 鏡の向こう側には違う世界があるのかもしれない。
「ひっ」
 ちょうどそんなことを考えていたらがたんっと大きい音がなった。こんなにも大きい音が鳴ったのに人っ子一人起きては来ない。こんな怖い思いをするのであれば恥を忍んで兄弟についてきてと言えば良かったと後悔する。けれど、すやすやと穏やかに眠る山姥切と山伏の兄弟の寝顔を思い出すと己の我がままであの天使のような可愛い二人を起こすことなどできなかった。和泉守や加州、大和守であればもう少し気楽に頼めたかもしれない。いや、後々笑い話にされることを考えたら頼まないのが正解かもしれない。
 震える身体を両手で握りしめて足音をさせないようにそろりそろりと歩く。
 目的の厨につくとはぁと息を吐いた。見慣れたいつもの厨だ。戸棚から一つコップを取り出すと蛇口を捻って水を出す。こぽぽぽぽと小さい水音を出しながら溜まるのを待つ。
 喉が渇いて仕方がなかった。外に出るのを考えると億劫で何度も寝返りを打って、寝ようとしたが目は覚める一方で、こうなったら潔く水を飲みに行こうと覚悟を決めたのだ。厨にたどり着くまでは怖くて震えてばかりであったが、厨についてしまえば怖さは薄れた。行きに何もなかったのだから、帰りだって何もないに決まっている。
 水が溜まったのを見計らって蛇口を回す。きゅっと音が鳴り、水滴が落ちないのを確認してから堀川はコップの水をのぞき込んだ。
 薄暗い中、水面がゆらゆらと揺らぎながら堀川を映す。水面の中の堀川は不安そうにこちらを見つめていた。その顔を見て苦笑いをする。やはり和泉守達に頼まなくて正解だった。
 さっさと水を飲んで部屋に戻ろう。そう思ってぐいっと一気に水を呷った。喉を冷たい水が通っていく。ごくりと喉を鳴らしてから、違和感に気づく。
「あれ?なに、この水……」
 胃から競りあがる気持ち悪い感触にその場に蹲り、げほげほと口の中に詰まるそれを吐き出す。黒いものが口から床にびちゃびちゃと落ちていく。喉が焼けるような痛みを覚えるけれど、一度吐き出し始めてしまったら止まらなくなってしまった。目から涙がこぼれて、鼻から水が滴ったけれど、まだ吐き足りない。げぇげぇと嗚咽のような声を吐いて、鉄の匂いが周りに漂う。黒の中に赤が混じったのを最後に意識が遠くなった。

 潮の匂いがする。ゆらゆらと身体が揺れている。この感覚には覚えがある。そうだ、前の主と船に乗った時の事だ。ぱちりと目を開けると揺れと潮の匂いが消える。辺りを見回すが、和泉守兼定の姿はなく、隣の部屋で誰かが言い争いをしている声が聞こえた。やれ、攻めるべきだとか籠城戦をすべきだとか、その中に一つ知った声が静かに割って入る。隣の部屋から出てきたのは前の主で、堀川と和泉守兼定ではない打刀を持つと外へと出て行った。
 いこう、と誰かが堀川に向かってささやく。どこへ?なにを?堀川の問いには答えず、その声はただいこう、いこうと堀川の手を足を引っ張った。引っ張られるがままに外に出ると暗雲漂う戦場に一瞬で変わる。函館だ。官軍の鉛弾が雨のように降り注ぐ。
 斬れ。斬れ。斬れ。
 無数の声が堀川に脇差を握らせる。前の主の命を奪おうとするその鉛弾を斬れと叩き落せと囁く。
 だめだ。それはやってはいけない。
 堀川はその声に抗おうとした。だがにゅっとどこからか伸びてきた白い手が、勝手にその手を動かす。
 主ガ死ンデ寂シイネェ。主ハキット苦シイダロウネェ。一人取リ残サレテ寂シイネェ。時間遡行軍ガ羨マシイネェ。主ガ死ナカッタ未来ガ欲シイネェ。
 声が堀川の身体にしっかりと絡みつく。いやだいやだと首を横に振る。思いとは反して身体は勝手に動かされる。鉛弾の前で、その身体を盾のように刀を上に振り被り……。

「国広!」
 頬を強く叩かれて驚いて目を開ける。瞬間、目の前にあったはずの和泉守の顔が吹き飛び、顔があった場所には山姥切の腕がある。
「たとえ和泉守であろうと兄弟を傷つける者は許さない」
「きょう……だ……い?」
 掠れている声で必死に言葉を紡ぐが山姥切には聞こえなかったようだ。しかし頭の上で影が動く。薬研が堀川の顔を覗き込んでいた。
「よぉ、旦那。お目覚めかい?
 応急処置はしたが、喉はまだ痛むだろう。喋らない方がいいぜ」
 にかりと笑う薬研に頷いてわかったと意思を示す。薬研の言葉でようやく山姥切が振り向いた。
「兄弟!大丈夫か!?目が覚めたら隣の布団にいないし、見つけたと思ったら厨で倒れていて……」
「山姥切の旦那、あまりそう慌てなさんな。今はゆっくり休ませるのが先だ」
 焦った表情で山姥切が堀川の肩を掴み、早口で捲し立てる。堀川が口を開けるよりも先に薬研が山姥切の肩を押し返し、堀川を見た。喋るな、とその顔は言っている。
 ここは薬研の意見に従うべきだろう。ただ心配そうに見つめる兄弟に大丈夫だよと声には出さず笑って見せると、目に溜まっていた涙を拭うことなく薬研ともども抱き着かれた。
「っ!心配した……!!」
「おうおう、随分と熱烈な抱擁だな」
 薬研がそう茶化しながら山姥切の腕を叩くと、一瞬力が緩まる。その間に薬研は山姥切の腕の中からするりと抜け、正しく山姥切の抱擁を受け止めることになった堀川は大人しく山姥切の背をとんとんと叩いた。堀川の胸でぐすりと山姥切が鼻をすする音が聞こえた。
「ったく、心配かけんなよ」
 和泉守が腹をさすりながらのろのろと歩いてくると堀川の横に座る。そして堀川の顔をじぃっと見つめると一つ頷き、その頭をくしゃりと撫でた。
「その様子じゃあ、意図して飲んだわけじゃなさそうだな」
 和泉守が言った意味がわからず、首を傾げるとほっと安心したように和泉守が笑い、次いで薬研を見る。優し気な表情とは打って変わって、厳しい顔だ。
「ってぇことはなんだ。うちの本丸の中に不届き者がいるってことか」
「さぁな。共に戦ってる仲間を疑いたくはない。
 それに水道の老朽化、腐敗したものによっては強力な毒ができることだってある。まずはそっちの線を洗うべきだろ」
「だが、毒だぞ?食事の時に混ぜられたらどうする?
 之定や燭台切が一番危ないだろ」
 毒という言葉に堀川は飲んだ水がおかしかったことを思い出す。和泉守が先ほど堀川をじぃっと見つめてきたのは、自らの意思で服毒したのではないかと怪しんでいたのだ。堀川は和泉守と薬研の二人の話を聞きながら、未だ抱き着いたままである山姥切の背を撫で続けた。
「しばらくはここの水は使わない。大将からの命令だ。
 政府から定期的に物資を送ってもらうようにしたから畑の作物もしばらくは手につけるな、だと。金はかかるが安全には変えられないからな。明日の朝、他の皆にもそう伝達する予定だ。
 あとは調査だが、水道の老朽化とか何か原因がわかれば政府には言わない。原因がわからない場合は政府に連絡する。期限は三日」
「随分短いな」
「毒殺が失敗した時点で次の手段に出るだろ。そんな時間はかけらないし、政府に連絡するにしても遅すぎちゃあ逆にこっちが疑われる」
「そりゃそうか……」
「で、だ。堀川の旦那は被害者だからな。水を飲むことになった経緯から気になることをひとまずこの紙に書いてくれ」
 ぺらぺらと薬研は手に持った紙を振る。和泉守がいい加減離れてやれと山姥切の身体を引っ張って剥がす。山姥切はやや不満げそうな表情であったが、和泉守と薬研との会話をしっかり聞いていたのだろう。再び引っ付くことなく、だが和泉守と堀川の間に割り込んで座った。
「おめぇはよぉ……」
「俺は和泉守が兄弟の頬を叩いたことを忘れていないぞ」
「いや、あれは気付けのためにだなぁ」
 兄弟と相棒が賑やかに話すのを横に堀川は薬研から紙を受け取ると、思い出しながらその日のことを書いていく。
 今日の夜に怪談話をしたこと、怖くていつもの部屋ではなく兄弟の部屋で寝たこと、喉が渇いて目が覚めたこと、厨に来て蛇口から水を注いで飲んだら味がおかしかったこと。書いてる途中から薬研から質問が飛ぶと、それについても理由を書く。
 ひとしきり書いて、そういえば厨に来る途中に大きい何かが落ちる音がしたことを思い出して、それも付け足すと薬研が眉を寄せた。
「大きい音?」
 結構大きかったのに誰も目を覚まさなかったよ。と書き足すと薬研はどこでその音が聞こえたか教えて欲しいと言った。頷いて四人で部屋を出る。まだ夜は明けきっていないようで、ほうほうと鳴くフクロウの声を聞きながらあの大きい音がした場所へと歩いて行く。
 厨がある建物と皆の寝る部屋がある建物を繋ぐ渡り廊下。確か音がしたのはそのあたりだ。堀川が立ち止まると皆も立ち止まった。ちょろちょろと渡り廊下の下を小さな川が流れていく。和泉守が持っていた手燭を掲げると川の中できらりと何かが光った。
 堀川が川の中を覗き込むように欄干から身を乗り出すと、水の中で何かがちゃぷりと跳ねた。黒い川が鏡のように堀川の姿を映した。山姥切も怪訝そうな表情で堀川と同じように身を乗り出そうとして、和泉守の腕に邪魔される。堀川も首根っこを掴まれて和泉守の欄干から引きはがされる。
 いきなり何するの、兼さんと不満を表すように和泉守の顔を見上げる。だが、和泉守は堀川を抱えると山姥切と薬研をずるずると引っ張って渡り廊下の先を歩いて行く。和泉守がずんずんと歩く中、山姥切と薬研がどうしたんだと小さな声を上げる。まだ皆寝静まっている配慮からかその声は小さい。
 和泉守が向かう暗闇の中に赤い灯がゆらゆらと揺れる。じぃっと目をこらしてよく見てみると山伏が立っている。
「和泉守殿、どうした」
「川だ。川がある」
「川だと?」
 和泉守の声に山姥切が返す。薬研もどういうことだと言う。二人の不思議そうな声にようやく堀川も気づく。渡り廊下の下に川など存在しない。
 山伏は和泉守の言葉にふむと頷くと自室に招く。山姥切と堀川の二人はそこにいるようにと告げて、山伏は和泉守と薬研を連れて渡り廊下の方へと歩いて行く。恐らくあの川を見に行くのだろう。
「兄弟、寝よう」
 ちらりちらりと皆が行った方が気になって見ていると山姥切がそう言って布団を軽く叩いた。眠たくはなかったが、山姥切の心配そうな表情を見ると頷くしかなかった。用意されていた布団にくるまると山姥切が中に入ってくる。また勝手にどこかに行ったら堪らないと言うようにその腕を堀川の背に回す。自分ではない兄弟の温かさに目を閉じると眠気がすぐにやってきた。
 あともうちょっとだったのに。
 眠りに落ちる少し前、そんな声が聞こえたような気がした。

 目を開けると、布団の周りに和泉守、山伏、薬研が寝ていた。堀川にくっつくようにして寝ていた山姥切も眠りにつく前に見た体制のままである。
 薬研と和泉守は山伏か山姥切の布団に入って寝ており、山伏は壁に背を付けて座ったまま寝ているようだった。堀川が山姥切の腕を起こさぬように退けて布団から這い出ようとすると山伏と目があった。
「目が覚めたか」
 それに応えようとして、口を開けようとすると痛みが走る。こくりと頷くと山伏は「少し前に拙僧もな」と笑った。
 堀川は山姥切に布団をかけ直し、次いで和泉守、薬研と布団を直してから山伏の隣に座った。穏やかな朝の陽が襖の間から漏れている。散々嫌だ嫌だと言っていた夜は跡形もない。山伏をじっと見上げる。
「ふむ。語らねば兄弟も納得せぬだろう」
 山伏は昨夜の顛末を堀川に静かに語った。
 昨夜、和泉守と薬研と一緒に山伏は渡り廊下へと向かった。川だ、と和泉守が指した渡り廊下の下には確かにちょろちょろと細く流れる水があった。三人でその水の出所を調べるとその水が湧き出ている箇所に何かが落ちている。鏡だ。鏡の隙間から水が流れていた。
 奇妙な光景に山伏も薬研も不思議に思った。ただ、一人和泉守を除いて。
 和泉守はその鏡を見て睨むと持ってきていた己の本体で真っ二つに割った。割れる直前、どうして、と声が聞こえた。その声は脇差の兄弟に似ていた。その声に和泉守はさらに顔を険しくしたが、何も言わず土を蹴った。鏡を壊すと水は既に消えていた。
 不思議な現象に薬研はどういうことだ?これと冗談交じりに言っていたが、誰も彼もその答えを知っていなかったため答えることはできなかった。三人は黙って部屋に戻ると山姥切と堀川が仲良く一つの布団で寝ていた。穏やかに眠る相棒の姿を見て和泉守は安心したのだろう。少なくとも山伏にはそう見えた。二人とも疲れているだろうと山伏は空いている布団を二人に使うよう言って、自分は一人壁を背に寝た。
「夢でな、兄弟を見た」
 昨夜の出来事が終わり、それで話が終わりかと堀川が思っていると山伏は何故か夢の話をし始めた。むしろこちらが本題かと言うように。
「穏やかに楽しそうに笑う兄弟を見た。もうすぐマレビトとなって主が戻ってくると喜んでいた。かえるのだと言う。主と一緒に海に還って、戻ってくるのだと。兄弟の言う主は今のこの本丸の主ではないのだろう。兄弟は、いやあれは楽しそうに嬉しそうに言っておった。
 そして眠る兄弟達の腕を引っ張っていこうとしていた」
 兄弟達、という言葉に山姥切を見る。が、すぐに違うと否定される。
「言い方が悪かったな。演練で違う本丸の自分の姿を見る事があるだろう。
 あの者達のことだ。あれは兄弟達の身体を持って行こうとしていた。拙僧は兄弟を連れて行かせまいと刀でそのつながりを斬った。しかし、数が多すぎる。救えたのはほんのわずかよ」
 悔しそうに山伏は口をきゅっと結んだ。夢と笑うことはできなかった。いつも朗らかに頼もしい姿の兄が今はその背が少し小さく見える。堀川は山伏の肩を掴むとその頭を撫でた。えらいえらいと和泉守にするように、安心させるように。
 山伏は堀川の突然の行為に目を見張っていたが、すぐに微笑むとその頭を堀川に委ねてくれた。
「兄弟はかえりたいか?」
 首を横に振ると、山伏はそうかと今度こそ安心したように目を閉じた。しばらく経ってからすぅすぅと小さな寝息が聞こえてくる。悪夢を見てそう寝れていなかったのだろう。
 まだ皆が起きるまで少しだけ時間がある。微睡むように堀川は障子を見る。朝の白い陽に誰かの影が落ちている。見慣れた影だ。何度も、何度も、見たことがあるそれに、堀川はかすれた声で言った。
「僕は、そっちへはいけないよ」
 大切なものがここにあるから。
 影はゆらゆらと揺れてすぅっと消えていったのを見届けてから堀川も目を瞑った。

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