この本丸には堀川国広は存在しない
堀川国広が来てから数日後、主は遠征に慣れたメンバーと共に堀川国広を己の住処としている離れの広間に呼ぶと開口一番に遠征をおこなうと告げた。
「遠征って、どこに行くの?」
「そうだな、このメンバーならばここらへんだろうか」
遠征メンバーに選ばれた大和守安定が尋ねると、審神者は地図を取り出し、今回の遠征の行先を指さした。その指先にある土地名を見ようと皆で囲むと、へし切長谷部が「そこなら日帰りで行けそうだな」と一言漏らす。短期の遠征になりそうだと各々が考える中で審神者がそれを制するように言う。
「ああ、だが今回は新参の堀川もいる。安全を考慮して二日三日分の身支度をしてから行くように。
それにここらで検非違使を見かけたという噂もあるしな」
「噂か……そういえば主は聞いたことがあるか?」
その言葉に皆の視線が主の指先から鶴丸に集まる。こういう時に言い出す鶴丸の話は禄でもない……この本丸でそこそこ暮らしていた者達の共通認識だ。「話半分に聞いておいた方がいいよ」と大和守が堀川に耳打ちすると、心外だというように鶴丸が言う。
「今回の話は本当の話だぞ!噂だけどな」
「結局噂なんじゃないか」
「まぁまぁ長谷部さん、鶴丸さんの話をひとまず聞きましょう」
「そうだよ、一応話くらいは聞いておいてあげないとね」
長谷部のツッコミに短刀の前田と乱が鶴丸を庇うように言う。長谷部は不満ではあったものの、鶴丸の話を無視すれば彼が駄々をこねて後々までこの話を引きずるのは目に見えてわかっていたため仕方がないと姿勢を正す。話を聞いてもらえるとわかった鶴丸は嬉々としてその噂話を語りだした。
「これは万屋へ行く道すがらで出会った修行僧からの話だ」
◇ ◇ ◇
その日の空はとても青く晴れていて、遠征も内番の予定もなかった鶴丸はこれ幸いと主から貰っている小遣いを手に万屋へ向かった。
特に何か入り用のものなどはなく、ただ万屋がたまに行うせーるなる一部の商品が値下げになる催しに掘り出し物がないかと思い出掛けたのだ。
意気揚々と本丸から歩いて十五分、万屋まであと半分といったところで川沿いに座り込む僧に出会ったのだ。
具合が悪くなって座り込んだのではないかと鶴丸は最初遠巻きの僧を見ていた。だが、見た目怪我はしていなさそうではあったため、鶴丸はそのまま彼を放って万屋へ行こうとした。だが目の端に映る僧が妙に気になってしかたがない。
「旦那、どうしたんだい?」
結局、鶴丸はその僧に話しかけた。すると、ぼけっとしていた僧は鶴丸に話しかけられたとたんにビクッと肩を揺らしてからあたりを見回した。
「ここは……」
「おいおい、座りながら夢でも見てたのかい?
とはいえ、ここは石がごつごつとしていて座るのには適さないな」
そう言ってまだ呆然としている僧に手を差し出すと、その場に立たせてやる。見ると僧の足は赤い痕がいくつか浮き上がっており、長時間ここで座っていたということがわかった。
「どなたかは知りませんが、助かりました。ありがとうございます。
お詫びといってはなんですが、これをどうぞ」
「いやいや、そんな大したことはしてねぇが……ま、貰っておくよ」
差し出した鶴丸の手にしゃりんと音がなって軽いものが落ちてくる。鈴だ。根付につけるような小さな鈴に赤い紐が繋がっている。
「……そういえば君、ここには目に見えない獣がいると聞いたことはあるかい?」
「見えない獣?いや、聞いたことないが……君は一体誰からそんな話を聞いたんだい?」
鶴丸の言葉に僧は一瞬表情を曇らせ、「近くの村の子から聞いた」と呟くように言った。
近くの村となると万屋のある村を鶴丸はすぐに頭に浮かべた。確かにあそこの村には何人か子どもがいる。万屋に行くついでに村の子とは何度か遊んだことはあるが、そんな話は聞いたことがない。しかし、僧が嘘をついているようにも鶴丸には思えなかった。
「……ちょうど黄昏時だ。その子が言うにはその時間帯が一番獣の匂いがすると言う。雨が降っていれば、獣の匂いと共に雨が跳ねる音とは違う、ぴちゃぴちゃと獣がまるで走っているかのような音が聞こえるんだそうだ」
「へぇ……」
鶴丸は適当に相槌を打って僧の話の続きを促した。どうでもいい話のようにも思えたが、どこかでこの話はちゃんと聞いておいた方がいいと不思議とそう思ったから、ただただ辛抱強く僧がすべてを語るのを待った。
「その子が言うには獣の匂いは日を追うごとに強くなっているそうなんだ。雨の時にする音も今では何匹もの獣が走っているようにも聞こえると。だから最近では怖くて日が暮れ始めたら絶対に外には出ずに、家の中でじっと夜が明けるのを待っていると。
……その話を聞いた私は恐らく怖い夢を見たかなんかだろうと思っていた。しかし、村では近くの森で何匹か獣が無残にも食い荒らされた姿が見つかると言う。毎日、少しずつその数は増えて、とうとう死人まで出た。そいつは至る所に噛み跡がついていたそうな。
目に見えない獣など、人ではどうしようもあるまいて。私はどうすることもできずその村から離れたんだ。そうしたら、森の中でその子が言う通り強い獣臭がしてな……ただ無我夢中で森の中を走り回った。そして気が付いたらここに座り込んでいたというわけさ」
そう情けなく笑う僧の足をもう一度見てみると、その赤い跡はまるで獣に噛みつかれた痕のようにも見えた。
◇ ◇ ◇
「ちょっと、鶴丸さんいきなり怖い話とかやめてくれる?」
そう話し終えた鶴丸に乱がちっとも怖がっているような姿を見せず文句を言う。
「ははは、身を引き締めるにはちょうどいい話だろう。なぁに怖くても大丈夫だ。その僧からもらったこの鈴は魔よけの鈴らしいからな」
しゃらんと鈴が鶴丸の手の中で鳴る。長谷部も大和守も鶴丸の話を本当だとは信じていなさそうでただただ話が長かったとだけ感想を漏らす。前田もどちらかといえばそちら側で苦笑して、ふと一人ぎょっとした顔で鶴丸を見ている堀川国広に気づくと安心させるように声をかける。
「堀川さん、大丈夫ですよ。
見えない獣がたとえいたとしても、僕や他のみんなもいますから」
「え、えぇ……そうですね。心強いです」
「そろそろ準備に取り掛かった方がいいんじゃないか。
出るのが遅くなると帰ってくる時間も遅くなる」
「主の言うとおりだ。遠征と言えど気を抜かず、しっかりと準備をして四刻後に表門に集合だ。
遅刻したり、変なものを持っていこうとするなよ、鶴丸」
「そこまで心配なら荷造りを手伝わせてやってもいいぞ」
「あ、おい、首根っこ掴むな。着物が汚れると歌仙に叱られるんだ……」
主の言葉を皮切りに、それぞれが遠征の準備の為にと席を立つ。鶴丸の首根っこを掴んで去っていくへし切を皆で見送ると「あれ?」と鶴丸が座っていた場所に落ちている鈴が目に入り、堀川がそれを拾う。
「魔よけの鈴だって言ってたのに落としてたら意味がないじゃん」
「後で僕から渡しておきますよ」
乱が眉を寄せるのに堀川が苦笑いをしながら答える。そして乱と前田が揃って部屋を出ていくのを見届けてから、大和守と堀川も審神者に向かって一度挨拶をしてから部屋を出て行こうとして「待って」と声を掛けられる。
審神者は部屋の箪笥から何かを引っ張りだしてくるとそれを今回、遠征隊長を務める大和守に渡す。
「お守りだ。誰が持つかは君が決めて欲しい」
「主、遠征ですよ?そんな危険があるとは思えないんですけど……」
「念のためだ。別に備えはいくらあってもいいだろう。
大和守、堀川、遠征くれぐれも気を付けていってきてくれ。武運を祈る」
「はい!任せてください!」
「二人とも、大げさだなぁ……。
まぁ、お守りはありがたく受け取っておくね。じゃ、ちょちょいのちょいで遠征なんて済ましてくるから」
そう言って大和守と堀川は審神者が見送る中、部屋を後にする。
若干いつもと少し違った雰囲気を見せる審神者に大和守は違和感を覚えたが、まぁ、今回は新参者である堀川がいるからだろうと思う事にした。
「ねぇ、堀川」
「なんですか?」
主が同じ新選組であったという事から大和守と堀川は和泉守と同じようにとは言えないが、他の刀剣に比べればいくらか仲良くなるのが早かった。故に鶴丸の話を聞いて神妙な顔をしている堀川が大和守は気になったのだ。あんな話いくら生真面目な堀川であろうと嘘だと思うだろうと大和守はそう思っていたのだ。
「鶴丸の話が気になるの?」
「……少しだけ」
眉を下げて申し訳なさそうに堀川が言う。
「それはどうして?怖いってわけじゃなさそうだけど」
「いえ、以前僕がいた本丸でも同じような話を聞いたことがあった気がして……」
「堀川の本丸で?」
驚いたように聞き返すと堀川が小さくうなずいた。
堀川がこの本丸に来てまだ数日。色々とこの本丸に馴染めるように話をしてきたが、堀川の元いた本丸の話を何度か聞く機会があったものの、その度に話が微妙にずらされて結局今の今まで彼の本丸について詳しい話を聞く事は出来なかったのだ。恐らく何か事情があるのだろうと相棒の加州清光とも話をしていたのだが、まさかこんな時に聞くチャンスがやってくるだなんて。
「その話、もっと詳しく聞きたいな」
「えぇっと、そうですね……」
堀川が少しだけ時間を気にするようなそぶりを見せる。荷造りまで四刻と確か長谷部は言っていた。確かに悠長に話している暇などないだろう。けれど、どうしても気になってと堀川の腕を掴むと、歩きながら堀川はその話を始めたのだった。
◇ ◇ ◇
堀川の本丸にはある打ち刀は先ほどの鶴丸と同じような話をある夕駒の席にて皆に披露したそうだ。その話を聞いた者の反応は大和守と同じように嘘だと思うのがほとんどであった。
堀川も嘘だと思っていたし、話をしていた打ち刀もそのように思っていたはずであった。
しかし、ある日万屋に使いを頼まれていたその打ち刀は日が暮れても帰って来なかった。それを不審に思った刀達はみな夜も遅いのに打ち刀を探すために夜通し万屋と本丸の間を捜索した。
しかし打ち刀は見つからず、本丸で次はどこを捜索しようかと話し合いをしている時に、ちょうど遠征から帰ってきた者達が顔を真っ青にしながら本丸へと帰ってきた。
体中に噛み跡がついた打ち刀を背負いながら。
◇ ◇ ◇
「その打ち刀っていうのは……」
「この本丸には同じ銘の人はいないよ」
「そうなんだ」
もしかして知ってる刀だったらどうしようかなと思ったが、堀川が否定したのに大和守はほっと安心する。しかし、堀川の話を聞くとその打ち刀というのがこの本丸では鶴丸に当てはまることに気が付いて顔を顰める。
「同じようなことが起きるとは限らないけど……少し心配で」
「わかるよ。僕もその話を聞いたらちょっと心配になってきたから。
でも、この話は短刀たちには言わない方がいいかもね。余計な心配をさせちゃうかもしれないから」
「そうだね。えっと、大和守、ありがとう」
「え?なんで?」
いきなり言われた感謝の言葉に驚いて堀川の方を振り向くと、彼は照れたように頬をかく。
「なんでって……僕の話を聞いてくれたでしょう?
少し不安だったんだ。もしかしたらって思って……でも、大和守に話したらちょっとほっとした」
確かに堀川一人の胸に留めておくには不安すぎる話だった。けれど話をしようと思っても新参者だからと話をしてもいいものかと悩んでいたようだ。
確かに新選組の刀の中でも一番気遣いができていたのは堀川だった気がする。和泉守の相棒として当然のようにいつも彼を補助してきていたが、大和守と加州の喧嘩を仲裁するのも彼が多かったような気もするし、長曽祢が仕事で相談する相手も堀川が多かったような気がする。
「堀川は……いや何でもない」
「?」
大和守は前の本丸でも堀川はそうやって他の刀剣を気遣っていたのか?と聞こうとしてやめる。彼の性格上、聞かなくても世話を焼くのは目に見えて分かっていた。ただそこで一つ疑問が浮かびあがる。なぜ堀川はこの本丸に来ることになったのか。諸事情でと審神者は説明していたが、一体どんなことがあれば本丸を解散することになるのだろうか。
しかし、それを聞く前に堀川が今使用している客間にたどり着いてしまった。
「それじゃあ、後で表門でね」
堀川はそう言って客間の中へと消えていく。そういえば堀川の部屋もまだ決まっていなかった。和泉守はもちろんのこと、同じ刀派の二人も同室になっても良いと言っていたし、脇差組で部屋分けしてもいいんじゃないと鯰尾藤四郎が言っていたのも覚えている。
けれど、堀川はまだどの部屋に行くかは決めていない様子だった。それにも少し違和感を覚えながら、大和守は遠征の準備をするために加州と長曽祢がいる自分の部屋へと戻るのだった。
2.
審神者に言われたように2、3日分の遠征準備をすると同室の加州に「そんなに持ってどこへ行く気なの?」と笑われたが、事情を話すと納得した顔になる。
「しかし、堀川の話は気になるな」
黙っていた話を聞いていた長曽祢がそう言うと加州もそれに同意する。
「そうだよね。俺もそう思った。
基本的に堀川って嘘つくことないじゃん。そう考えると鶴丸が話してた噂話も案外本当のことだったりして」
「でも、見えない獣だよ?どうやって対処すればいいんだよ」
大和守が愚痴るようにそういえば、加州も長曽祢も唸ったまま黙り込んでしまう。刀として生きている者、目に見えているものを切ることはあったが、目に見えないものを切ったことはなかった。それこそ相談するならにっかり青江や太郎太刀などに聞いた方が良かったかもしれない。けれどその二振はちょうど運悪く演練に出かけて帰ってきていない。彼らを待つよりも遠征に出発する時間がやってくるだろう。
約束した時刻まであと一刻ほどになった時、「少しいいか?」と襖を挟んだ先から声がかけられた。それに長曽祢が答えると部屋に和泉守とそれにつられるように山姥切と山伏が入ってくる。
予想にしてなかった組み合わせに加州と大和守が驚いていると、長曽祢が三人分の座布団を押し入れから引っ張り出すとそれを受け取って三人が座る。
「それでなんでこの二人と和泉守が一緒に?」
「兄弟が心配で少しな」
どうやら山姥切と山伏は堀川が初めての遠征ということもあって今回の遠征の隊長を務めている大和守に気にかけて欲しいとお願いをしにきたようだ。だが、堀川の相棒でありこの本丸では誰よりも一番一緒にいる時間が長いであろう和泉守は浮かない顔だ。
「和泉守、何か不安なことでもあるのか」
長曽祢もそれに気づいたのか、和泉守にそう直球で聞くと「なんだかなぁ」と和泉守は自分でもはっきりとわかんねーんだがと前置きしてぽつりと話し出した。
「堀川のやつ、なんか少し様子がおかしいんだよな」
「それはどういう意味だ?」
「あいつが国広なのは間違いねぇんだけどよぉ、ふとした時にらしくねぇんだよな。話してる時は普通なんだ。ただ、会話にちょっと間ができる時があるだろ?そういう時にふと堀川の顔を見るとさ」
無表情なんだ。
その言葉にみんなどうしていいかわからず黙ってしまう。しんと静まり返る部屋の中で和泉守は後ろ髪をかきながら「だからどうしたってわけじゃねぇんだけどよ。気になるだろ?」と続けた。
「まぁね……。俺はそんな堀川見た事ないから何とも言えないけど」
「別に国広は国広だ。それはこの俺が言うんだから間違いねぇ。
でも、なんであいつがあんな顔になるのかわかんねぇんだよな」
「それなら和泉守から直接聞けばいいじゃん」
「聞けるならとっくに聞いてるよ」
加州の助言に和泉守はそう返してお手上げだと手を挙げる。そもそもこの話をした理由も和泉守は何も考えずにただ胸に広がる漠然とした不安を誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。
山姥切も山伏も和泉守の話を訝しんでいたものの何を言っていいのかわからず、ずっと黙っている。
大和守は時計の針を見て、もうそろそろ行かなきゃと言うと荷物を背負った。戸に手をかけて出て行こうとしたまさにその瞬間、「あ」とおもむろに加州が声を上げる。そしてそのままいい事を考えたと言うのである。
「なに?」
「大和守は遠征もう行かなきゃなんでしょ。さっさと行ってきなよ」
にまにまと笑いながら加州は大和守を追い出すように手を振る。邪険に扱うかのようなその仕草に文句を言ってやろうかと思ったが、加州に指摘された通り時間がなかったためそのまま部屋を出たのであった。
大和守が表門に着くとすでに他の刀達は揃っており、見送りに来ていたらしい一期が乱に声をかけていた。
「ちゃんと手ぬぐいは持ちましたか?おやつや小遣いは……」
「一兄ってばそんなに心配しなくても大丈夫だよ。
大和守さんも来たことだし、そろそろ行ってくるね」
乱がそうきっぱりと一期に告げると大和守の方へ駆け寄ってきて「さぁ、行こ!」と声をかけてくるがまだ出発はできないと首を横に振る。
「その前にちゃんと準備出来てるか確認しないとね」
「それなら長谷部がしっかり荷物を確認してたから問題ないぜ」
「ああ、無駄なものはすべて捨てておいた」
鶴丸の言葉に長谷部が仏頂面になりながら頷く。確かに長谷部の立っている少し後ろを見るといくつか地面に袋が落ちている。鶴丸がまた変なものを持っていこうとしたのだろう。
長谷部にお疲れさまと肩を叩き、最後に前田と荷物を確認しあっている堀川の方を見る。
「問題なさそうですね」
「本当?確認してくれてありがとう。助かったよ」
「いいえ、どういたしまして」
こちらも問題なさそうだ。大和守も荷物を簡単に確認してふと主に渡されたお守りの存在に気づく。誰に渡そうかと悩んだが……そのまま拳を握って帯の中に突っ込むと荷物を背負う。
「みんな荷物問題なさそうだね。それじゃあ行こうか」
「おー!行こ行こー!」
「あっこら待て!勝手に突っ走るな!」
乱と鶴丸が遠足のようにはしゃぎながら荷物を持って駆け足で表門を出ていくのを長谷部が追いかけていく。その背を見ながら前田が「僕たちも行きましょう」と堀川に声をかけてさらにその後を追う。
「あわただしいなぁ」
「大和守殿、弟達をよろしく頼みます」
「わかった。
あと、悪いけどそのゴミ後で出して置いてくれる?」
「ええ、わかりました。
ご武運を」
「行ってきます」
一期の声を後ろに大和守も走り出す。走り出した乱と鶴丸は無事長谷部が捕まえたようで、2人はさっそく怒られているようだ。前田と堀川がその様子を苦笑しながら見ている。
普段の遠征と何ら変わりない風景だと思いながら、表門を過ぎたところでどぉんと音を立てて門が閉じるのに駆け出した足を一瞬止めそうになる。だが振り返らずにそのまま彼らの元へと走り切る。
「大和守さん、どうかしました?」
「え?」
「なんか少し……いえ、なんでもありません」
前田が大和守を見て何かを言いかけようとするがそれを止める。首を傾げて続きを促してみたが、前田は曖昧に笑うだけでその続きを言おうとしない。
「えぇっとそうだ。大和守、目的地にはどの道で行くの?」
その微妙な空気感を感じとったのか堀川が二人の間に入って話を変える。
それに大和守は地図を取り出すと主があらかじめ書いてくれた目的の道を他の人にも見えるように見せる。
「そうだね。地図によると山を登るのと森を抜けていく道があるけれど……」
「山を登るのは疲れるからやだ」
「じゃあ、森の方だな」
乱がすかさず山登りは嫌だと反対したため、残る道の方を選択する。目的地までの道を決める最終決定権は隊長にある。大和守は地図を見ながら森を抜ける道がある方向に目を向けると欝蒼とした森の上に暗雲が漂っていた。
「おいおい、ありゃぁ雨が降りそうだなぁ」
「雨具の用意をしておいた方がよさそうだな」
目の上に手をかざして言った鶴丸の言葉に長谷部は顔を顰めた。雨が降ると視界が悪くなるし、足元が滑りやすくなる。今回の遠征は少し時間がかかるかもしれない。
「十分注意していこう」
大和守の声にみな頷き、暗雲立ち込める森の方へ向かって歩き出したのだった。
濃い雨の匂いがするものの、雨はまだ降らずにいた。だが湿度が高いせいで暑苦しく、髪の毛が額に張り付いて剥がれない。
最初は元気が良かった乱と鶴丸も歩き始めて1時間も経つと言葉が少なくなっていった。長谷部はそんな二人を最初から飛ばし過ぎだと言いながら疲れた様子は一切見せていない。
ちらりと後ろを歩く堀川の方を見やるとこちらも疲れてはおらず、横を歩く前田を気遣った様子で歩いている。元の本丸でも仕事をしていたとは聞いていたが、一応そこそこの体力はあるようだなと考えて大和守は足を止めた。
「ようやく休憩の時間~?」
「はぁ……長谷部、おんぶしてくれ……。無理ならお姫様抱っこでもいいぞ」
「誰がするか」
大和守が立ち止まったため、休憩だと思ったのか乱が近くの倒木に腰かける。鶴丸は長谷部の背にもたれかかろうとして長谷部に手で追い払われている。
前田はふぅと息を吐いて薄暗い空を見上げた。
「天気が悪いせいか、調子がいつもより良くない気がしますね」
「そうだね。でも、目的地まではあと半分だ」
手に持っていた地図に目を落とし、あいた右手で額に張り付く髪の毛を引きはがす。休憩するつもりはなかったが、一度ここらで休むべきかもしれない。前田や他の刀達も疲労とは違う調子の悪さをどこか感じているであった。
「はい、手ぬぐい」
「ああ、ありがとう。堀川」
額から落ちる汗を袖で拭おうとしたその時、頃合いを見計らったかのように真白な手ぬぐいを手渡される。大和守はそれを受け取ると顔を勢いよく拭く。手ぬぐいは程よく水にぬれていて、汗と一緒に気持ち悪さも拭えたような気がした。
「ねぇ、鶴丸さん」
「なんだ?」
長谷部に追い払われた鶴丸を自分の隣に座るように促した乱がふと何かを思い出したかのように彼に聞く。
「あの話ってさ、黄昏時に獣の匂いがするんだよね」
「そうだ。黄昏時が一番濃くなるってあの僧は言ってたな」
「ふぅん……そっか。じゃあ、黄昏前に帰れるといいなぁ」
「不安になったのか?なら魔よけの鈴をお前に……ってあれ?」
「あ、鈴なら僕が持ってます」
鶴丸が乱に鈴を渡そうと袖を探り、鈴がないことに気づいたのと同時に堀川が魔よけの鈴を取り出す。
「話をした時にそのままその場所に置き忘れてましたよ」
「おお!そうだったか!いや、悪いな、ありがとう」
鶴丸が堀川から鈴を受け取るとちりんと小さく鳴った。鶴丸が手のひらに鈴を乗せたままの姿勢でまたちりんと鳴り、そこで彼の動きが止まる。
ちりん、ちりん、ちりん。
「おい、鶴丸。五月蠅いぞ」
その鈴の音を煩わしく感じた長谷部が声を上げる。しかし、鶴丸は首だけを長谷部の方に向けてただ一言「違う」と告げる。
ちりん、ちりん、ちりん。
その間にも鈴の音はなり続ける。鶴丸も誰も動かない中、その鈴の音だけが鳴り続ける異常さにようやく長谷部も察したのかすぐさま皆で輪になって互いの背を守りあう形になる。
前田がすんと鼻を鳴らして暗い森の中を見つめる。
「……獣の匂いがします」
そういわれると湿った水のような匂いに混じって違う何かがするような気がした。まさか、と鶴丸の方を見る。鶴丸は顔を青白くさせて首を横に振る。
「森の中、ましてや相手が見えないとなるとこちらが不利です」
「まさかあの与太話を信じるのか?」
「じゃあ、今の状況をどう説明するのさ」
長谷部が前田の言葉に反論しようとするとすぐに乱が声を上げる。彼も前田と同じ視線の先をじっと見つめている。突然の出来事に皆動揺を隠せないようだった。しかし、今この隊の隊長は大和守だ。大和守は地図を広げる。確かもう少し先に無人の誰も使用していない木こり小屋があったはずだ。まずはそこへ行こう。
そう提案すれば誰も異論をすることなくすぐさま大和守を先頭に走り出す。
ちりんちりん、と今度は走るせいで鈴の音が鳴り響いたが皆はただ一心不乱に小屋めがけて走り抜けるのだった。
森の中にある小さな小屋を見つけると急いで小屋の中に駆け込み、すぐに扉の錠をかった。
小屋を目掛けて走っているうちにどんどんと獣の匂いは強くなっており、匂いだけでなく何匹もの獣の息遣いが聞こえていたのだ。
小屋に錠をかけてふぅと安堵をするのもつかの間どんっと扉が一度大きく叩かれる。「ひっ」と乱が悲鳴を上げそうになるが前田がその口を手でふさぐ。
カリカリカリ、と扉が引っかかれる音が数秒続いて鳴りやむ。
そのまま何分が経っただろうか。どさっと鶴丸がその場に座り込み「はぁ~驚かされたなぁ」と呟く声と同時にようやく皆の張り詰めた気が緩む。
「それはこっちの台詞だよ、鶴丸さん」
「検非違使に遭遇したときと同じくらい緊張しましたね」
主に2、3日用の準備をするように言われていて良かったと手際よく下ろした荷物から蝋燭と火打石を取り出すと明かりをつける。
無人の木こりの小屋は小さいながらも釜戸や薪など生活が一通りできる物が揃っていた。その疑問を大和守が口にすると長谷部が山にある無人の小屋は迷子になった人が誰でも使用できるようにある程度の設備が整えられていることがあり、恐らくこの小屋もそうなのではないかという事だった。
「それにしても、まさかあの話が本当だったとはなぁ」
「鶴丸さんは信じていなかったんですか?」
「小指の先ほどもな。本当なら面白いなとは思ってはいたが……」
毛布にくるまった鶴丸が堀川の言葉に苦笑いをしながら返す。さきほどから雨が降り出し、急に気温が下がったので蝋燭を中心にそれぞれ毛布にくるまる。
雨が地面を叩きつける音に混じって足音も聞こえるような気がしたが、みな口にはしなかった。口にせずとも表情でそれがわかるからだ。
「それでどうするんだ?」
「どうするって言われてもなぁ……」
「このまま小屋にいてもどうもならないぞ。主に託された命もロクにできず、こんな場所で足止めなど……」
「でも、それじゃああの見えない獣にどうやって立ち向かうの?
長谷部にはあれ倒せるの?」
乱にそう言われ、長谷部が唸って言葉に詰まる。
「まぁまぁ、まずはしっかりと今の状況を整理しよう。
苛立ってもしかたないからね」
「……そうだな。悪い。さっきのは八つ当たりだった」
「ううん。僕もちょっと苛ついてたかも」
「仕方ないですよ。こんなこと滅多にないですから」
乱と長谷部が互いに謝り、前田が皆の動揺を当然だと言うとそうだなと二人とも落ち着きを取り戻す。確かに今回は異例の出来事だ。いくら経験を積んだ名のある刀剣であったとしても一人でもしこのような事が起きたら冷静でいられただろうか。
「大和守の言う通り今は状況を整理した方が良さそうだな」
「さんせーい」
「それじゃあみんな各々気になったことを話していくとするか。6人いるんだから、話してたらなんか良い案も浮かぶだろう」
「そうですね。では時系列にそって確認していきましょう」
雨が戸を叩く音を背に遠征で集められた時から順に気になったことを話していく。鶴丸が話した時にまで振り返り、気になったことを話していく。堀川が元の本丸であったことについて話すと皆少し驚き眉を寄せる。
「堀川、その打刀についてた噛み跡はどんな感じだったんだ?」
「ごめん、僕はその噛み跡は見てないんだ。
僕が本丸に戻った時にはもう手入れ部屋に入ってて……噛み跡があったっていうのも他の人から聞いたんだ。でも、みんなから聞いた時には確か犬みたいだとか……」
「確かに犬っぽい感じするよね」
「乱、なんでそう思うの?」
「え?なんでって……なんでだろ?」
大和守の疑問に乱自身も何故そう思ったのかわからず首をひねる。しばらく眉がくっつきそうになるくらい皺を寄せていたが「うーん……やっぱり無理何にも思い出せない」と肩を下げて言う。
「まぁ、獣というくらいだから犬や狼、熊や猪などだろうな……。
いや噛み跡といえば実際に見たやつが1人いるか」
長谷部の視線が鋭く真横に行く。睨まれるような視線を受け、鶴丸がまいったまいったというように両手を上げる。別に黙っているつもりはなく、ただ口を挟むタイミングを逃したんだとそう言い訳のような前置きをしてから言う。
「ああ、確かに見たさ。僧の足についてた噛み跡をな。
大きさはそうだなちょうど俺の拳くらいで、跡はちょっとギザギザしてるような感じだったな」
「熊や猪であれば力が強いので、噛まれたら人の身など引き千切られるはずです。
力の強い動物ではないんじゃないでしょうか」
「確かに。前田の言う通り、熊であれば爪で襲う可能性だってあるし、猪であれば牙もある。噛み跡以外の傷がつかないのは不自然だと思う」
「目に見えない獣って時点で十分不自然だがな」
ふんと長谷部は自嘲するように薄笑う。普段であれば夢のようなことをと口にしていただろうが実際にこう現実に起きてしまえば否定ができない。
溶かされた蝋燭の蝋が水溜まりを作るのを見ながら、その長さが小指の爪ほどの長さになるまでさらに各々で気になることを言い、大分夜も深まってきたため交代で見張り番をしながら休むこととなった。
新たな蝋燭に火を付けると最初に見張りをすることになった大和守と堀川は隣同士に座る。お互い相棒と二人っきりでいることには慣れていたが、相棒がいない状態で二人だけという機会はほとんどなかった。まだ皆が寝静まってからそう時間も経ってない事もあり、2人はしばらく無言でいた。ただ雨が降る音だけが耳を打つ。
そうして何十分かが経過した頃にようやく堀川が口を開いた。
「なんかはじめての遠征なのに大変なことになっちゃったね」
蝋燭の光で赤く照らされた堀川の表情は情けないような困ったような笑みを浮かべていた。それに大和守も同意するように頷いた。
「だねー。加州とかなら最悪なんだけどってぐちぐち文句言ってるはずだよ。
俺も今の状況最悪ってのには同意だけど」
「他の人たちにも心配かけちゃってるかな」
「多分ね。何もなければ今日の夕方には帰れてたはずの遠征だし、もしかしたら明日くらいに捜索隊とか出されちゃうかも?」
少し冗談めかして大和守が言うと堀川がうわぁと呻くように呟いて抱えた膝に頭をつけた。
「遠征を失敗した上に帰還も出来ないとか恥ずかしい……。主さんに呆れられたらどうしよう……」
「大丈夫だよ。主はそんなことじゃ怒ったりしないし、そもそも今日の出来事だって予想外の事故みたいなものだから」
まだ少し表情が暗い堀川であったが、それ以上の不安や心配を口にすることはなかった。大和守もそれ以上何か良い言葉が出て来ず腕を組もうとし、主に渡されていたものを思い出す。
「堀川、これ持ってて」
「え?」
主から渡されたお守りを戸惑う堀川の手に握らせる。強い守護の力をまとったこのお守りは人だけでなく検非違使との戦いで何度も刀剣たちを救った実績のあるものだ。今この状況で役に立つかは不明だが、不安を和らげるぐらいの効果はあるだろう。
「ありがとう」
堀川も大和守の意図を組んだのか、そう言って手の平のお守りを見つめる。もし、この場に相棒である和泉守や加州がいれば何か良い気休めの言葉をかけれたかもしれないが、そんな頼りになる相棒は今いない。今頃、本丸で相棒はどう過ごしているだろうかと大和守は考える。なかなか帰らない自分達を心配しているだろうか。そういえばにんまり顔でいい考えがあると出かけようとした時に話していたことを思い出す。あれは一体なんだっただろうか。
「……ねぇ」
堀川に着物の袖を引っ張られ、ふと我に返る。どうしたの?と尋ねようとしたその口を手で塞がれ、険しい表情のまま山小屋にある唯一の扉の方へと視線を促される。
ずる……ずる……。
刀達の微かな寝息に混じって何かが這いずるような物音が扉の向こう側から聞こえてくる。それは集中して聞かないとかき消されてしまうほど小さな音であったが、確かにする。
堀川とじっと息を殺してその音のする方を睨む。
それは小屋をぐるりぐるりと回っているようだった。堀川に視線で他の刀達を起こすように指示して、大和守はそっと壁に近づくと耳を押し当てる。
音は少しずつ大きくなってきており、ずるずると引きずる音に合わせて何かぴちゃぴちゃと跳ねる水音が聞こえた。
そういえば、雨が降っていたはずなのにその音が聞こえない。いつの間にかやんだのだろうか。後ろを振り返ると長谷部が立っている。大和守と同じように外に耳を澄まし、音の確認をしているようだ。
蝋燭を置いた小屋の中心を見ると他の者達も起きて既に刀を手にしている。長谷部と共に小屋の真ん中へ戻ると「どう思う?」と単刀直入に聞く。
「犬の足音とは思えないな」
「だよね。じゃあ、あれは一体なに?」
「音だけで判断できるか。外に出ないとわからないだろう」
「まぁ、待て。確かめるなら別に朝日が昇った後でもいいだろう」
こう薄暗くては本領が発揮できないし、そもそも二日三日のいざという時の準備はしたが夜戦の準備はできていないと鶴丸が言う。その言葉に長谷部も納得し再び皆で蝋燭を囲むことになった。
「ねぇ、今何時くらいかな?」
前田の腕をつついて乱がそう聞くと蝋燭の残り本数を数え、少し前田の表情が固まるが答える。
「……丑三つ時くらいでしょうか」
「嫌な時間だなぁ」
鶴丸が冗談めかして薄く笑いながら言うが、それに誰も笑わない。重い空気に耐えかねたのか鶴丸はさらに何か言おうと口を開け、床にあった鈴を蹴飛ばしてしまう。
ちりん、と鈴がなるのと同時にとんとんと音が鳴った。
扉が叩かれたのだ。
皆目を見開いて扉の方を向く。刀をすぐに抜刀できるような体制で、誰もただ口を開かずに扉を見る。
とんとん。
再度、扉を叩かれる。
「安定、いるんでしょ?」
「乱、前田、迎えにきましたよ」
聞きなれた相棒の声と一期の声が聞こえる。それに安定と乱は安堵から刀から手を放す。やはり心配になって捜索隊が組まれたのだろう。長谷部と鶴丸を見ると二人は刀から手を放していないがそれでも安堵の表情を浮かべている。
「ねぇ、扉開けてよー」
「みんな待ってますよ」
その声に今、開けるからと扉に向かって歩きだした大和守の手を前田が掴む。その表情は相変わらず険しく、首を横に振る。怪訝そうに乱が前田を見る。
どうしたらいいのかわからず、戸惑っているととんとんと再び戸が叩かれる。それと同時に床に置いてある鈴がまたちりんとなり、扉の方からいくつもの視線がこちらを向いたような気がした。
「開けてよ」
「中にいるんでしょう」
「開けて」
「どうしたんですか」
「ねぇ」
「わかってますよ」
「いるんでしょう」
「開けてください」
とんとんと何度も戸が叩かれ、その音に声が重なる。戸が叩く音は次第に二人以上の何かが叩いているような音に変わり、2人の声も崩れて違う声音へと変化していた。同時に獣の匂いが辺りに立ち込める。小屋の外からするぴちゃぴちゃと跳ねる音がして、戸を叩く音は何かどんどんっと叩きつけられる音に変わっていた。
どんっとひと際大きく叩きつけられる音がした瞬間、前田が走って扉を抑えに行く。それにはじかれたように堀川も一緒になって扉を押さえたが、どんどんと叩きつけられる何かに扉が何度も揺れる。
大和守も他の刀達も慌てて倣うように扉を押さえる。どんっと音が鳴って扉のどこかに穴が開いたようで獣臭さがさらに強くなる。
「ひぃっ!」
乱が扉に開いた穴の先を見たのか何か怯えて後ろに下がったのに舌打ちをして長谷部が刀をその隙間から突き刺す。しかし、柔らかい何かを突き刺した感触はあるが何も音がしない。二度三度、続けて刺すが、扉の先にいる何かは変わらず扉に向かって体当たりを続けていた。
「あけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけて」
「あけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろ」
激しくなる体当たりとは対称に無機質な抑揚で同じ言葉がずっと続けられていた。それはすでに言葉ではなくただの文字の羅列を読んでいるかのようで異質さしか感じられなかった。
「なんなの、これ……」
「乱!」
乱が両腕を抱えてしゃがみ込んだのを見て前田が名前を呼ぶ。彼が震えてるのが見えるが、扉を押さえている限り彼の傍には行けない。大丈夫だ、何とかするからと彼を励ます言葉を前田が何度も投げかけるが、乱にはそれが聞こえていないようだ。
「おいおい、さすがにやばいな」
扉がみしりと音がなり、亀裂が入ったのを見て鶴丸が驚愕する。もう押さえきれない。そう思った時に堀川が扉から手を放す。そして何を思ったのか何かを投げるように扉に空いた穴に腕を突っ込む。
ちりんと扉の外で鈴が鳴る。
その音を最後に扉を叩く音が鳴りやみ、こちらを見ていたいくつもの視線が消える。
数十秒の間誰も動かずにいたが、ずるりと扉にもたれかかりながら鶴丸が腰を下ろすと大きく息を吐く。
「はぁ……助かった」
その声にようやく皆、扉から手を離す。前田はすぐさま乱に駆け寄ると、乱は前田に抱き着いて怖かったよぉとわんわん泣き始め、長谷部は刀に何か黒い液体がついてるのに顔を顰める。
「うわぁ、なにそれ」
「わからん」
大和守は長谷部が持つ刀に近づくとその黒い液体を鼻先を近づける。どろりと粘り気を帯びた黒い液体は腐ったような酸っぱい匂いがしていた。刀の手入れのために長谷部がその場を去るその背を見届けて「なぁ、腕大丈夫か?」ぽつりと鶴丸の言葉にはっと未だに穴に腕を突っ込んだまま動かない堀川の方を見る。
堀川は隣に座る鶴丸に苦笑いしながら、そろりと腕を穴から抜き出そうとして動きが止まる。ぼそぼそと扉の向こうから声が聞こえた。その声に堀川が扉の先を覗こうとし
「見るな」
鶴丸が制止し、堀川の腕を掴む。その顔が苦痛に歪むがそのまま腕を穴から抜き出す。鶴丸の白い腕には歯型が二、三つほど痕がついて血が滲んでおり、堀川の手首には赤い手形がついていた。
「……陽が昇るまでは外に出ない方が良さそうだなぁ」
乾いた笑いを浮かべながら鶴丸は噛み跡のついた腕をそっと撫でた。
軽く二人の手当をした後、大和守達は見張りを交代しながら一夜をすごした。陽が昇るまでその後は何も起こらず、扉の隙間や空いた穴から差した陽の光に合わせて荷物を整える。
「刀は大丈夫でしたか?」
「本丸に戻ったらもう一度手入れをする」
まだ匂いが残っているような気がすると長谷部はそう前田に答えて扉を開ける。
「……なんだ、これは」
扉を開けた長谷部はそのまま立ち止まる。大和守も長谷部の背と扉の隙間から外を覗き見る。小屋の外には小さい足跡で埋め尽くされていた。恐る恐る小屋の外に出て、危険がないことを確認するがそれでもその異様さに皆息を呑む。
小屋をぐるりと囲むように大小さまざまな足跡が囲んでいる。そして小屋の壁には何かが叩きつけられた痕やひっかき傷が残っている。それは不思議なことに自分達より背の高い位置までその痕が残っていた。
「ねぇ、あれ……」
乱が恐る恐る指さす。その指先の向こうには鈴が転がっているようだった。だが、鈴が転がっている場所は黒く汚れており、その黒く汚れた場所はまるで人が倒れているような……。
「行くぞ」
思考を遮るように長谷部が告げて歩き出す。乱の手を取り、前田もその後に続く。鶴丸も堀川も一度だけ鈴の方を見てすぐにその背を追いかけた。
皆が去ったのを見て大和守もその後を追う前に一度鈴が落ちてる場所を見返す。見れば見るほど人の形に見えてくる。鈴が落ちているのはちょうど心臓があるあたりだろうか。そうなるとあの人のような形は……。
「大和守、行くぞ!」
痺れを切らしたかのような長谷部の声に我に返る。気が付くとその黒く汚れた場所に近づき、あと一歩でそれに手が触れるところだった。
今度こそ大和守は鈴に背を向けると歩き出した。振り返ることなくその場を離れて仲間たちが待つその場所へ向かうと揃って本丸へと帰還することにした。
4
本丸に着くと遠征の結果と今回あったことを審神者に報告するためにすぐに離れへと向かった。出迎えてくれた一期の声に一瞬乱と前田がびくっと肩を揺らしたが、それには気づかなかったようで鶴丸の腕の包帯を見て手入れ部屋の準備をしておくと言ってすぐに去っていった。その後は誰にも会わず、審神者が待つ広間へと来ることができた。
審神者はまず皆にご苦労様と声をかけると座るようにと告げる。
「それで、遠征の結果は?」
「すいません。遠征は失敗しました」
審神者は驚くことなく無言で大和守に話の続きを促した。大和守は森であったことを淡々と審神者に報告する。要点だけ話していれば陳腐な怪談話をしているように思えて仕方がなかったが、それでもすべてを報告し終えて証拠に鶴丸の腕の噛み跡と堀川の手首の手痕を審神者に見せる。
審神者は大和守が報告を終えた後もしばらく無言で何かを考えているようだったが、「大変だったようだね」とため息交じりにそう告げた。
「……正直言うと、私も今回の遠征を命じた時に妙な胸騒ぎがしてね。だから君にお守りを渡したんだ」
その言葉に堀川がお守りを取り出し、審神者がそれを渡すようにと告げる。
手渡されたお守りを審神者は紐解くとその中身をひっくり返す。どろりと黒い液体がお守りの中から垂れて畳に広がる様子に皆目を見張る中、審神者だけは「畳を新しく買い換えないといけないな」と呑気に言う。
「このお守りは悪い霊からも君たちを助けてくれたようだ。皆、しばらくの間はお守りを持ち歩くように。お守りが汚れたり失くしたりしたらすぐに報告する事。いいね?」
その言葉に皆無言でうなずき、審神者から手渡されるお守りを握りしめる。そして報告はこれで終わりだと解散する流れとなった。
「あ、長谷部と堀川、鶴丸はちょっと簡単なお祓いをするからここに残って。他はもう行っていいよ。加州達が遠征組には内緒で歓迎会を開くとかって厨房の方で騒いでるはずだから」
「主さん、それ言っちゃダメだったんじゃない?」
乱の言葉に審神者は笑って誤魔化し、広間を出るように促す。前田と乱と一緒に大和守は広間を出て厨房へと向かう。確かに厨房の方角から賑やかな声が聞こえてくる。
きしきしと軋む廊下を三人で無言で歩いているとぽつりと乱が呟くように言った。
「ねぇ、昨日の夜小屋の周りにいたのなんだったんだろうね」
「見えない犬じゃないの?」
「違うよ。だって扉の向こうにいたのは……」
乱の言葉と共にちりんと鈴の音が鳴ったような気がした。三人は無言で立ち止まり、顔を見合わせた。虫の音や厨房から聞こえる賑やかな声が一気に遠く感じる。
「……気のせいかな」
「そうだね」
乱の手を取り前田が、歩き始める。その背を見ながら、大和守はまだ歩けずにいた。記憶の中の堀川の手首の赤い手形、鶴丸の腕についた歯形の痕、そして先ほどの……。
四つん這いの子どもがたくさんこっちを見ていた―――
一瞬浮かべてしまったものを打ち消すかのように頭を左右に振り、前を歩く前田と乱の背を追った。
◇ ◇ ◇
三人を軽くお祓いした後、審神者は書斎へと向かう。本棚にぎっちりと詰め込まれた冊子の中から一つを取り出すとそれをぱらぱらと捲る。昔のスクラップ記事がびっしりと貼られた頁の一枚で指が止まる。
××村。飢饉による口減らしか。
見出しにそう大きく書かれたその記事には飢饉で捨てられた子どものことについて書かれている。その子供たちは野犬のように育ち、食べ物をめぐって争いを起こし、やがてお互いを食うようになったと。やがてその生き残った一人は、同じような子を襲うために人里に下りては人を食らっていたという。その姿は子どもとは言えない風貌で、飢えた獣にしか見えなかったという。
審神者はその記事を読み終わると冊子をそっと本棚に戻すと広間に戻る。
畳に垂れた黒い染みは獲物に襲い掛かるかのように構えている人の姿のように見え……。
「早く変えないとな」
そう審神者は誰もいない広間で呟いた。
「遠征って、どこに行くの?」
「そうだな、このメンバーならばここらへんだろうか」
遠征メンバーに選ばれた大和守安定が尋ねると、審神者は地図を取り出し、今回の遠征の行先を指さした。その指先にある土地名を見ようと皆で囲むと、へし切長谷部が「そこなら日帰りで行けそうだな」と一言漏らす。短期の遠征になりそうだと各々が考える中で審神者がそれを制するように言う。
「ああ、だが今回は新参の堀川もいる。安全を考慮して二日三日分の身支度をしてから行くように。
それにここらで検非違使を見かけたという噂もあるしな」
「噂か……そういえば主は聞いたことがあるか?」
その言葉に皆の視線が主の指先から鶴丸に集まる。こういう時に言い出す鶴丸の話は禄でもない……この本丸でそこそこ暮らしていた者達の共通認識だ。「話半分に聞いておいた方がいいよ」と大和守が堀川に耳打ちすると、心外だというように鶴丸が言う。
「今回の話は本当の話だぞ!噂だけどな」
「結局噂なんじゃないか」
「まぁまぁ長谷部さん、鶴丸さんの話をひとまず聞きましょう」
「そうだよ、一応話くらいは聞いておいてあげないとね」
長谷部のツッコミに短刀の前田と乱が鶴丸を庇うように言う。長谷部は不満ではあったものの、鶴丸の話を無視すれば彼が駄々をこねて後々までこの話を引きずるのは目に見えてわかっていたため仕方がないと姿勢を正す。話を聞いてもらえるとわかった鶴丸は嬉々としてその噂話を語りだした。
「これは万屋へ行く道すがらで出会った修行僧からの話だ」
◇ ◇ ◇
その日の空はとても青く晴れていて、遠征も内番の予定もなかった鶴丸はこれ幸いと主から貰っている小遣いを手に万屋へ向かった。
特に何か入り用のものなどはなく、ただ万屋がたまに行うせーるなる一部の商品が値下げになる催しに掘り出し物がないかと思い出掛けたのだ。
意気揚々と本丸から歩いて十五分、万屋まであと半分といったところで川沿いに座り込む僧に出会ったのだ。
具合が悪くなって座り込んだのではないかと鶴丸は最初遠巻きの僧を見ていた。だが、見た目怪我はしていなさそうではあったため、鶴丸はそのまま彼を放って万屋へ行こうとした。だが目の端に映る僧が妙に気になってしかたがない。
「旦那、どうしたんだい?」
結局、鶴丸はその僧に話しかけた。すると、ぼけっとしていた僧は鶴丸に話しかけられたとたんにビクッと肩を揺らしてからあたりを見回した。
「ここは……」
「おいおい、座りながら夢でも見てたのかい?
とはいえ、ここは石がごつごつとしていて座るのには適さないな」
そう言ってまだ呆然としている僧に手を差し出すと、その場に立たせてやる。見ると僧の足は赤い痕がいくつか浮き上がっており、長時間ここで座っていたということがわかった。
「どなたかは知りませんが、助かりました。ありがとうございます。
お詫びといってはなんですが、これをどうぞ」
「いやいや、そんな大したことはしてねぇが……ま、貰っておくよ」
差し出した鶴丸の手にしゃりんと音がなって軽いものが落ちてくる。鈴だ。根付につけるような小さな鈴に赤い紐が繋がっている。
「……そういえば君、ここには目に見えない獣がいると聞いたことはあるかい?」
「見えない獣?いや、聞いたことないが……君は一体誰からそんな話を聞いたんだい?」
鶴丸の言葉に僧は一瞬表情を曇らせ、「近くの村の子から聞いた」と呟くように言った。
近くの村となると万屋のある村を鶴丸はすぐに頭に浮かべた。確かにあそこの村には何人か子どもがいる。万屋に行くついでに村の子とは何度か遊んだことはあるが、そんな話は聞いたことがない。しかし、僧が嘘をついているようにも鶴丸には思えなかった。
「……ちょうど黄昏時だ。その子が言うにはその時間帯が一番獣の匂いがすると言う。雨が降っていれば、獣の匂いと共に雨が跳ねる音とは違う、ぴちゃぴちゃと獣がまるで走っているかのような音が聞こえるんだそうだ」
「へぇ……」
鶴丸は適当に相槌を打って僧の話の続きを促した。どうでもいい話のようにも思えたが、どこかでこの話はちゃんと聞いておいた方がいいと不思議とそう思ったから、ただただ辛抱強く僧がすべてを語るのを待った。
「その子が言うには獣の匂いは日を追うごとに強くなっているそうなんだ。雨の時にする音も今では何匹もの獣が走っているようにも聞こえると。だから最近では怖くて日が暮れ始めたら絶対に外には出ずに、家の中でじっと夜が明けるのを待っていると。
……その話を聞いた私は恐らく怖い夢を見たかなんかだろうと思っていた。しかし、村では近くの森で何匹か獣が無残にも食い荒らされた姿が見つかると言う。毎日、少しずつその数は増えて、とうとう死人まで出た。そいつは至る所に噛み跡がついていたそうな。
目に見えない獣など、人ではどうしようもあるまいて。私はどうすることもできずその村から離れたんだ。そうしたら、森の中でその子が言う通り強い獣臭がしてな……ただ無我夢中で森の中を走り回った。そして気が付いたらここに座り込んでいたというわけさ」
そう情けなく笑う僧の足をもう一度見てみると、その赤い跡はまるで獣に噛みつかれた痕のようにも見えた。
◇ ◇ ◇
「ちょっと、鶴丸さんいきなり怖い話とかやめてくれる?」
そう話し終えた鶴丸に乱がちっとも怖がっているような姿を見せず文句を言う。
「ははは、身を引き締めるにはちょうどいい話だろう。なぁに怖くても大丈夫だ。その僧からもらったこの鈴は魔よけの鈴らしいからな」
しゃらんと鈴が鶴丸の手の中で鳴る。長谷部も大和守も鶴丸の話を本当だとは信じていなさそうでただただ話が長かったとだけ感想を漏らす。前田もどちらかといえばそちら側で苦笑して、ふと一人ぎょっとした顔で鶴丸を見ている堀川国広に気づくと安心させるように声をかける。
「堀川さん、大丈夫ですよ。
見えない獣がたとえいたとしても、僕や他のみんなもいますから」
「え、えぇ……そうですね。心強いです」
「そろそろ準備に取り掛かった方がいいんじゃないか。
出るのが遅くなると帰ってくる時間も遅くなる」
「主の言うとおりだ。遠征と言えど気を抜かず、しっかりと準備をして四刻後に表門に集合だ。
遅刻したり、変なものを持っていこうとするなよ、鶴丸」
「そこまで心配なら荷造りを手伝わせてやってもいいぞ」
「あ、おい、首根っこ掴むな。着物が汚れると歌仙に叱られるんだ……」
主の言葉を皮切りに、それぞれが遠征の準備の為にと席を立つ。鶴丸の首根っこを掴んで去っていくへし切を皆で見送ると「あれ?」と鶴丸が座っていた場所に落ちている鈴が目に入り、堀川がそれを拾う。
「魔よけの鈴だって言ってたのに落としてたら意味がないじゃん」
「後で僕から渡しておきますよ」
乱が眉を寄せるのに堀川が苦笑いをしながら答える。そして乱と前田が揃って部屋を出ていくのを見届けてから、大和守と堀川も審神者に向かって一度挨拶をしてから部屋を出て行こうとして「待って」と声を掛けられる。
審神者は部屋の箪笥から何かを引っ張りだしてくるとそれを今回、遠征隊長を務める大和守に渡す。
「お守りだ。誰が持つかは君が決めて欲しい」
「主、遠征ですよ?そんな危険があるとは思えないんですけど……」
「念のためだ。別に備えはいくらあってもいいだろう。
大和守、堀川、遠征くれぐれも気を付けていってきてくれ。武運を祈る」
「はい!任せてください!」
「二人とも、大げさだなぁ……。
まぁ、お守りはありがたく受け取っておくね。じゃ、ちょちょいのちょいで遠征なんて済ましてくるから」
そう言って大和守と堀川は審神者が見送る中、部屋を後にする。
若干いつもと少し違った雰囲気を見せる審神者に大和守は違和感を覚えたが、まぁ、今回は新参者である堀川がいるからだろうと思う事にした。
「ねぇ、堀川」
「なんですか?」
主が同じ新選組であったという事から大和守と堀川は和泉守と同じようにとは言えないが、他の刀剣に比べればいくらか仲良くなるのが早かった。故に鶴丸の話を聞いて神妙な顔をしている堀川が大和守は気になったのだ。あんな話いくら生真面目な堀川であろうと嘘だと思うだろうと大和守はそう思っていたのだ。
「鶴丸の話が気になるの?」
「……少しだけ」
眉を下げて申し訳なさそうに堀川が言う。
「それはどうして?怖いってわけじゃなさそうだけど」
「いえ、以前僕がいた本丸でも同じような話を聞いたことがあった気がして……」
「堀川の本丸で?」
驚いたように聞き返すと堀川が小さくうなずいた。
堀川がこの本丸に来てまだ数日。色々とこの本丸に馴染めるように話をしてきたが、堀川の元いた本丸の話を何度か聞く機会があったものの、その度に話が微妙にずらされて結局今の今まで彼の本丸について詳しい話を聞く事は出来なかったのだ。恐らく何か事情があるのだろうと相棒の加州清光とも話をしていたのだが、まさかこんな時に聞くチャンスがやってくるだなんて。
「その話、もっと詳しく聞きたいな」
「えぇっと、そうですね……」
堀川が少しだけ時間を気にするようなそぶりを見せる。荷造りまで四刻と確か長谷部は言っていた。確かに悠長に話している暇などないだろう。けれど、どうしても気になってと堀川の腕を掴むと、歩きながら堀川はその話を始めたのだった。
◇ ◇ ◇
堀川の本丸にはある打ち刀は先ほどの鶴丸と同じような話をある夕駒の席にて皆に披露したそうだ。その話を聞いた者の反応は大和守と同じように嘘だと思うのがほとんどであった。
堀川も嘘だと思っていたし、話をしていた打ち刀もそのように思っていたはずであった。
しかし、ある日万屋に使いを頼まれていたその打ち刀は日が暮れても帰って来なかった。それを不審に思った刀達はみな夜も遅いのに打ち刀を探すために夜通し万屋と本丸の間を捜索した。
しかし打ち刀は見つからず、本丸で次はどこを捜索しようかと話し合いをしている時に、ちょうど遠征から帰ってきた者達が顔を真っ青にしながら本丸へと帰ってきた。
体中に噛み跡がついた打ち刀を背負いながら。
◇ ◇ ◇
「その打ち刀っていうのは……」
「この本丸には同じ銘の人はいないよ」
「そうなんだ」
もしかして知ってる刀だったらどうしようかなと思ったが、堀川が否定したのに大和守はほっと安心する。しかし、堀川の話を聞くとその打ち刀というのがこの本丸では鶴丸に当てはまることに気が付いて顔を顰める。
「同じようなことが起きるとは限らないけど……少し心配で」
「わかるよ。僕もその話を聞いたらちょっと心配になってきたから。
でも、この話は短刀たちには言わない方がいいかもね。余計な心配をさせちゃうかもしれないから」
「そうだね。えっと、大和守、ありがとう」
「え?なんで?」
いきなり言われた感謝の言葉に驚いて堀川の方を振り向くと、彼は照れたように頬をかく。
「なんでって……僕の話を聞いてくれたでしょう?
少し不安だったんだ。もしかしたらって思って……でも、大和守に話したらちょっとほっとした」
確かに堀川一人の胸に留めておくには不安すぎる話だった。けれど話をしようと思っても新参者だからと話をしてもいいものかと悩んでいたようだ。
確かに新選組の刀の中でも一番気遣いができていたのは堀川だった気がする。和泉守の相棒として当然のようにいつも彼を補助してきていたが、大和守と加州の喧嘩を仲裁するのも彼が多かったような気もするし、長曽祢が仕事で相談する相手も堀川が多かったような気がする。
「堀川は……いや何でもない」
「?」
大和守は前の本丸でも堀川はそうやって他の刀剣を気遣っていたのか?と聞こうとしてやめる。彼の性格上、聞かなくても世話を焼くのは目に見えて分かっていた。ただそこで一つ疑問が浮かびあがる。なぜ堀川はこの本丸に来ることになったのか。諸事情でと審神者は説明していたが、一体どんなことがあれば本丸を解散することになるのだろうか。
しかし、それを聞く前に堀川が今使用している客間にたどり着いてしまった。
「それじゃあ、後で表門でね」
堀川はそう言って客間の中へと消えていく。そういえば堀川の部屋もまだ決まっていなかった。和泉守はもちろんのこと、同じ刀派の二人も同室になっても良いと言っていたし、脇差組で部屋分けしてもいいんじゃないと鯰尾藤四郎が言っていたのも覚えている。
けれど、堀川はまだどの部屋に行くかは決めていない様子だった。それにも少し違和感を覚えながら、大和守は遠征の準備をするために加州と長曽祢がいる自分の部屋へと戻るのだった。
2.
審神者に言われたように2、3日分の遠征準備をすると同室の加州に「そんなに持ってどこへ行く気なの?」と笑われたが、事情を話すと納得した顔になる。
「しかし、堀川の話は気になるな」
黙っていた話を聞いていた長曽祢がそう言うと加州もそれに同意する。
「そうだよね。俺もそう思った。
基本的に堀川って嘘つくことないじゃん。そう考えると鶴丸が話してた噂話も案外本当のことだったりして」
「でも、見えない獣だよ?どうやって対処すればいいんだよ」
大和守が愚痴るようにそういえば、加州も長曽祢も唸ったまま黙り込んでしまう。刀として生きている者、目に見えているものを切ることはあったが、目に見えないものを切ったことはなかった。それこそ相談するならにっかり青江や太郎太刀などに聞いた方が良かったかもしれない。けれどその二振はちょうど運悪く演練に出かけて帰ってきていない。彼らを待つよりも遠征に出発する時間がやってくるだろう。
約束した時刻まであと一刻ほどになった時、「少しいいか?」と襖を挟んだ先から声がかけられた。それに長曽祢が答えると部屋に和泉守とそれにつられるように山姥切と山伏が入ってくる。
予想にしてなかった組み合わせに加州と大和守が驚いていると、長曽祢が三人分の座布団を押し入れから引っ張り出すとそれを受け取って三人が座る。
「それでなんでこの二人と和泉守が一緒に?」
「兄弟が心配で少しな」
どうやら山姥切と山伏は堀川が初めての遠征ということもあって今回の遠征の隊長を務めている大和守に気にかけて欲しいとお願いをしにきたようだ。だが、堀川の相棒でありこの本丸では誰よりも一番一緒にいる時間が長いであろう和泉守は浮かない顔だ。
「和泉守、何か不安なことでもあるのか」
長曽祢もそれに気づいたのか、和泉守にそう直球で聞くと「なんだかなぁ」と和泉守は自分でもはっきりとわかんねーんだがと前置きしてぽつりと話し出した。
「堀川のやつ、なんか少し様子がおかしいんだよな」
「それはどういう意味だ?」
「あいつが国広なのは間違いねぇんだけどよぉ、ふとした時にらしくねぇんだよな。話してる時は普通なんだ。ただ、会話にちょっと間ができる時があるだろ?そういう時にふと堀川の顔を見るとさ」
無表情なんだ。
その言葉にみんなどうしていいかわからず黙ってしまう。しんと静まり返る部屋の中で和泉守は後ろ髪をかきながら「だからどうしたってわけじゃねぇんだけどよ。気になるだろ?」と続けた。
「まぁね……。俺はそんな堀川見た事ないから何とも言えないけど」
「別に国広は国広だ。それはこの俺が言うんだから間違いねぇ。
でも、なんであいつがあんな顔になるのかわかんねぇんだよな」
「それなら和泉守から直接聞けばいいじゃん」
「聞けるならとっくに聞いてるよ」
加州の助言に和泉守はそう返してお手上げだと手を挙げる。そもそもこの話をした理由も和泉守は何も考えずにただ胸に広がる漠然とした不安を誰かに聞いてほしかっただけなのかもしれない。
山姥切も山伏も和泉守の話を訝しんでいたものの何を言っていいのかわからず、ずっと黙っている。
大和守は時計の針を見て、もうそろそろ行かなきゃと言うと荷物を背負った。戸に手をかけて出て行こうとしたまさにその瞬間、「あ」とおもむろに加州が声を上げる。そしてそのままいい事を考えたと言うのである。
「なに?」
「大和守は遠征もう行かなきゃなんでしょ。さっさと行ってきなよ」
にまにまと笑いながら加州は大和守を追い出すように手を振る。邪険に扱うかのようなその仕草に文句を言ってやろうかと思ったが、加州に指摘された通り時間がなかったためそのまま部屋を出たのであった。
大和守が表門に着くとすでに他の刀達は揃っており、見送りに来ていたらしい一期が乱に声をかけていた。
「ちゃんと手ぬぐいは持ちましたか?おやつや小遣いは……」
「一兄ってばそんなに心配しなくても大丈夫だよ。
大和守さんも来たことだし、そろそろ行ってくるね」
乱がそうきっぱりと一期に告げると大和守の方へ駆け寄ってきて「さぁ、行こ!」と声をかけてくるがまだ出発はできないと首を横に振る。
「その前にちゃんと準備出来てるか確認しないとね」
「それなら長谷部がしっかり荷物を確認してたから問題ないぜ」
「ああ、無駄なものはすべて捨てておいた」
鶴丸の言葉に長谷部が仏頂面になりながら頷く。確かに長谷部の立っている少し後ろを見るといくつか地面に袋が落ちている。鶴丸がまた変なものを持っていこうとしたのだろう。
長谷部にお疲れさまと肩を叩き、最後に前田と荷物を確認しあっている堀川の方を見る。
「問題なさそうですね」
「本当?確認してくれてありがとう。助かったよ」
「いいえ、どういたしまして」
こちらも問題なさそうだ。大和守も荷物を簡単に確認してふと主に渡されたお守りの存在に気づく。誰に渡そうかと悩んだが……そのまま拳を握って帯の中に突っ込むと荷物を背負う。
「みんな荷物問題なさそうだね。それじゃあ行こうか」
「おー!行こ行こー!」
「あっこら待て!勝手に突っ走るな!」
乱と鶴丸が遠足のようにはしゃぎながら荷物を持って駆け足で表門を出ていくのを長谷部が追いかけていく。その背を見ながら前田が「僕たちも行きましょう」と堀川に声をかけてさらにその後を追う。
「あわただしいなぁ」
「大和守殿、弟達をよろしく頼みます」
「わかった。
あと、悪いけどそのゴミ後で出して置いてくれる?」
「ええ、わかりました。
ご武運を」
「行ってきます」
一期の声を後ろに大和守も走り出す。走り出した乱と鶴丸は無事長谷部が捕まえたようで、2人はさっそく怒られているようだ。前田と堀川がその様子を苦笑しながら見ている。
普段の遠征と何ら変わりない風景だと思いながら、表門を過ぎたところでどぉんと音を立てて門が閉じるのに駆け出した足を一瞬止めそうになる。だが振り返らずにそのまま彼らの元へと走り切る。
「大和守さん、どうかしました?」
「え?」
「なんか少し……いえ、なんでもありません」
前田が大和守を見て何かを言いかけようとするがそれを止める。首を傾げて続きを促してみたが、前田は曖昧に笑うだけでその続きを言おうとしない。
「えぇっとそうだ。大和守、目的地にはどの道で行くの?」
その微妙な空気感を感じとったのか堀川が二人の間に入って話を変える。
それに大和守は地図を取り出すと主があらかじめ書いてくれた目的の道を他の人にも見えるように見せる。
「そうだね。地図によると山を登るのと森を抜けていく道があるけれど……」
「山を登るのは疲れるからやだ」
「じゃあ、森の方だな」
乱がすかさず山登りは嫌だと反対したため、残る道の方を選択する。目的地までの道を決める最終決定権は隊長にある。大和守は地図を見ながら森を抜ける道がある方向に目を向けると欝蒼とした森の上に暗雲が漂っていた。
「おいおい、ありゃぁ雨が降りそうだなぁ」
「雨具の用意をしておいた方がよさそうだな」
目の上に手をかざして言った鶴丸の言葉に長谷部は顔を顰めた。雨が降ると視界が悪くなるし、足元が滑りやすくなる。今回の遠征は少し時間がかかるかもしれない。
「十分注意していこう」
大和守の声にみな頷き、暗雲立ち込める森の方へ向かって歩き出したのだった。
濃い雨の匂いがするものの、雨はまだ降らずにいた。だが湿度が高いせいで暑苦しく、髪の毛が額に張り付いて剥がれない。
最初は元気が良かった乱と鶴丸も歩き始めて1時間も経つと言葉が少なくなっていった。長谷部はそんな二人を最初から飛ばし過ぎだと言いながら疲れた様子は一切見せていない。
ちらりと後ろを歩く堀川の方を見やるとこちらも疲れてはおらず、横を歩く前田を気遣った様子で歩いている。元の本丸でも仕事をしていたとは聞いていたが、一応そこそこの体力はあるようだなと考えて大和守は足を止めた。
「ようやく休憩の時間~?」
「はぁ……長谷部、おんぶしてくれ……。無理ならお姫様抱っこでもいいぞ」
「誰がするか」
大和守が立ち止まったため、休憩だと思ったのか乱が近くの倒木に腰かける。鶴丸は長谷部の背にもたれかかろうとして長谷部に手で追い払われている。
前田はふぅと息を吐いて薄暗い空を見上げた。
「天気が悪いせいか、調子がいつもより良くない気がしますね」
「そうだね。でも、目的地まではあと半分だ」
手に持っていた地図に目を落とし、あいた右手で額に張り付く髪の毛を引きはがす。休憩するつもりはなかったが、一度ここらで休むべきかもしれない。前田や他の刀達も疲労とは違う調子の悪さをどこか感じているであった。
「はい、手ぬぐい」
「ああ、ありがとう。堀川」
額から落ちる汗を袖で拭おうとしたその時、頃合いを見計らったかのように真白な手ぬぐいを手渡される。大和守はそれを受け取ると顔を勢いよく拭く。手ぬぐいは程よく水にぬれていて、汗と一緒に気持ち悪さも拭えたような気がした。
「ねぇ、鶴丸さん」
「なんだ?」
長谷部に追い払われた鶴丸を自分の隣に座るように促した乱がふと何かを思い出したかのように彼に聞く。
「あの話ってさ、黄昏時に獣の匂いがするんだよね」
「そうだ。黄昏時が一番濃くなるってあの僧は言ってたな」
「ふぅん……そっか。じゃあ、黄昏前に帰れるといいなぁ」
「不安になったのか?なら魔よけの鈴をお前に……ってあれ?」
「あ、鈴なら僕が持ってます」
鶴丸が乱に鈴を渡そうと袖を探り、鈴がないことに気づいたのと同時に堀川が魔よけの鈴を取り出す。
「話をした時にそのままその場所に置き忘れてましたよ」
「おお!そうだったか!いや、悪いな、ありがとう」
鶴丸が堀川から鈴を受け取るとちりんと小さく鳴った。鶴丸が手のひらに鈴を乗せたままの姿勢でまたちりんと鳴り、そこで彼の動きが止まる。
ちりん、ちりん、ちりん。
「おい、鶴丸。五月蠅いぞ」
その鈴の音を煩わしく感じた長谷部が声を上げる。しかし、鶴丸は首だけを長谷部の方に向けてただ一言「違う」と告げる。
ちりん、ちりん、ちりん。
その間にも鈴の音はなり続ける。鶴丸も誰も動かない中、その鈴の音だけが鳴り続ける異常さにようやく長谷部も察したのかすぐさま皆で輪になって互いの背を守りあう形になる。
前田がすんと鼻を鳴らして暗い森の中を見つめる。
「……獣の匂いがします」
そういわれると湿った水のような匂いに混じって違う何かがするような気がした。まさか、と鶴丸の方を見る。鶴丸は顔を青白くさせて首を横に振る。
「森の中、ましてや相手が見えないとなるとこちらが不利です」
「まさかあの与太話を信じるのか?」
「じゃあ、今の状況をどう説明するのさ」
長谷部が前田の言葉に反論しようとするとすぐに乱が声を上げる。彼も前田と同じ視線の先をじっと見つめている。突然の出来事に皆動揺を隠せないようだった。しかし、今この隊の隊長は大和守だ。大和守は地図を広げる。確かもう少し先に無人の誰も使用していない木こり小屋があったはずだ。まずはそこへ行こう。
そう提案すれば誰も異論をすることなくすぐさま大和守を先頭に走り出す。
ちりんちりん、と今度は走るせいで鈴の音が鳴り響いたが皆はただ一心不乱に小屋めがけて走り抜けるのだった。
森の中にある小さな小屋を見つけると急いで小屋の中に駆け込み、すぐに扉の錠をかった。
小屋を目掛けて走っているうちにどんどんと獣の匂いは強くなっており、匂いだけでなく何匹もの獣の息遣いが聞こえていたのだ。
小屋に錠をかけてふぅと安堵をするのもつかの間どんっと扉が一度大きく叩かれる。「ひっ」と乱が悲鳴を上げそうになるが前田がその口を手でふさぐ。
カリカリカリ、と扉が引っかかれる音が数秒続いて鳴りやむ。
そのまま何分が経っただろうか。どさっと鶴丸がその場に座り込み「はぁ~驚かされたなぁ」と呟く声と同時にようやく皆の張り詰めた気が緩む。
「それはこっちの台詞だよ、鶴丸さん」
「検非違使に遭遇したときと同じくらい緊張しましたね」
主に2、3日用の準備をするように言われていて良かったと手際よく下ろした荷物から蝋燭と火打石を取り出すと明かりをつける。
無人の木こりの小屋は小さいながらも釜戸や薪など生活が一通りできる物が揃っていた。その疑問を大和守が口にすると長谷部が山にある無人の小屋は迷子になった人が誰でも使用できるようにある程度の設備が整えられていることがあり、恐らくこの小屋もそうなのではないかという事だった。
「それにしても、まさかあの話が本当だったとはなぁ」
「鶴丸さんは信じていなかったんですか?」
「小指の先ほどもな。本当なら面白いなとは思ってはいたが……」
毛布にくるまった鶴丸が堀川の言葉に苦笑いをしながら返す。さきほどから雨が降り出し、急に気温が下がったので蝋燭を中心にそれぞれ毛布にくるまる。
雨が地面を叩きつける音に混じって足音も聞こえるような気がしたが、みな口にはしなかった。口にせずとも表情でそれがわかるからだ。
「それでどうするんだ?」
「どうするって言われてもなぁ……」
「このまま小屋にいてもどうもならないぞ。主に託された命もロクにできず、こんな場所で足止めなど……」
「でも、それじゃああの見えない獣にどうやって立ち向かうの?
長谷部にはあれ倒せるの?」
乱にそう言われ、長谷部が唸って言葉に詰まる。
「まぁまぁ、まずはしっかりと今の状況を整理しよう。
苛立ってもしかたないからね」
「……そうだな。悪い。さっきのは八つ当たりだった」
「ううん。僕もちょっと苛ついてたかも」
「仕方ないですよ。こんなこと滅多にないですから」
乱と長谷部が互いに謝り、前田が皆の動揺を当然だと言うとそうだなと二人とも落ち着きを取り戻す。確かに今回は異例の出来事だ。いくら経験を積んだ名のある刀剣であったとしても一人でもしこのような事が起きたら冷静でいられただろうか。
「大和守の言う通り今は状況を整理した方が良さそうだな」
「さんせーい」
「それじゃあみんな各々気になったことを話していくとするか。6人いるんだから、話してたらなんか良い案も浮かぶだろう」
「そうですね。では時系列にそって確認していきましょう」
雨が戸を叩く音を背に遠征で集められた時から順に気になったことを話していく。鶴丸が話した時にまで振り返り、気になったことを話していく。堀川が元の本丸であったことについて話すと皆少し驚き眉を寄せる。
「堀川、その打刀についてた噛み跡はどんな感じだったんだ?」
「ごめん、僕はその噛み跡は見てないんだ。
僕が本丸に戻った時にはもう手入れ部屋に入ってて……噛み跡があったっていうのも他の人から聞いたんだ。でも、みんなから聞いた時には確か犬みたいだとか……」
「確かに犬っぽい感じするよね」
「乱、なんでそう思うの?」
「え?なんでって……なんでだろ?」
大和守の疑問に乱自身も何故そう思ったのかわからず首をひねる。しばらく眉がくっつきそうになるくらい皺を寄せていたが「うーん……やっぱり無理何にも思い出せない」と肩を下げて言う。
「まぁ、獣というくらいだから犬や狼、熊や猪などだろうな……。
いや噛み跡といえば実際に見たやつが1人いるか」
長谷部の視線が鋭く真横に行く。睨まれるような視線を受け、鶴丸がまいったまいったというように両手を上げる。別に黙っているつもりはなく、ただ口を挟むタイミングを逃したんだとそう言い訳のような前置きをしてから言う。
「ああ、確かに見たさ。僧の足についてた噛み跡をな。
大きさはそうだなちょうど俺の拳くらいで、跡はちょっとギザギザしてるような感じだったな」
「熊や猪であれば力が強いので、噛まれたら人の身など引き千切られるはずです。
力の強い動物ではないんじゃないでしょうか」
「確かに。前田の言う通り、熊であれば爪で襲う可能性だってあるし、猪であれば牙もある。噛み跡以外の傷がつかないのは不自然だと思う」
「目に見えない獣って時点で十分不自然だがな」
ふんと長谷部は自嘲するように薄笑う。普段であれば夢のようなことをと口にしていただろうが実際にこう現実に起きてしまえば否定ができない。
溶かされた蝋燭の蝋が水溜まりを作るのを見ながら、その長さが小指の爪ほどの長さになるまでさらに各々で気になることを言い、大分夜も深まってきたため交代で見張り番をしながら休むこととなった。
新たな蝋燭に火を付けると最初に見張りをすることになった大和守と堀川は隣同士に座る。お互い相棒と二人っきりでいることには慣れていたが、相棒がいない状態で二人だけという機会はほとんどなかった。まだ皆が寝静まってからそう時間も経ってない事もあり、2人はしばらく無言でいた。ただ雨が降る音だけが耳を打つ。
そうして何十分かが経過した頃にようやく堀川が口を開いた。
「なんかはじめての遠征なのに大変なことになっちゃったね」
蝋燭の光で赤く照らされた堀川の表情は情けないような困ったような笑みを浮かべていた。それに大和守も同意するように頷いた。
「だねー。加州とかなら最悪なんだけどってぐちぐち文句言ってるはずだよ。
俺も今の状況最悪ってのには同意だけど」
「他の人たちにも心配かけちゃってるかな」
「多分ね。何もなければ今日の夕方には帰れてたはずの遠征だし、もしかしたら明日くらいに捜索隊とか出されちゃうかも?」
少し冗談めかして大和守が言うと堀川がうわぁと呻くように呟いて抱えた膝に頭をつけた。
「遠征を失敗した上に帰還も出来ないとか恥ずかしい……。主さんに呆れられたらどうしよう……」
「大丈夫だよ。主はそんなことじゃ怒ったりしないし、そもそも今日の出来事だって予想外の事故みたいなものだから」
まだ少し表情が暗い堀川であったが、それ以上の不安や心配を口にすることはなかった。大和守もそれ以上何か良い言葉が出て来ず腕を組もうとし、主に渡されていたものを思い出す。
「堀川、これ持ってて」
「え?」
主から渡されたお守りを戸惑う堀川の手に握らせる。強い守護の力をまとったこのお守りは人だけでなく検非違使との戦いで何度も刀剣たちを救った実績のあるものだ。今この状況で役に立つかは不明だが、不安を和らげるぐらいの効果はあるだろう。
「ありがとう」
堀川も大和守の意図を組んだのか、そう言って手の平のお守りを見つめる。もし、この場に相棒である和泉守や加州がいれば何か良い気休めの言葉をかけれたかもしれないが、そんな頼りになる相棒は今いない。今頃、本丸で相棒はどう過ごしているだろうかと大和守は考える。なかなか帰らない自分達を心配しているだろうか。そういえばにんまり顔でいい考えがあると出かけようとした時に話していたことを思い出す。あれは一体なんだっただろうか。
「……ねぇ」
堀川に着物の袖を引っ張られ、ふと我に返る。どうしたの?と尋ねようとしたその口を手で塞がれ、険しい表情のまま山小屋にある唯一の扉の方へと視線を促される。
ずる……ずる……。
刀達の微かな寝息に混じって何かが這いずるような物音が扉の向こう側から聞こえてくる。それは集中して聞かないとかき消されてしまうほど小さな音であったが、確かにする。
堀川とじっと息を殺してその音のする方を睨む。
それは小屋をぐるりぐるりと回っているようだった。堀川に視線で他の刀達を起こすように指示して、大和守はそっと壁に近づくと耳を押し当てる。
音は少しずつ大きくなってきており、ずるずると引きずる音に合わせて何かぴちゃぴちゃと跳ねる水音が聞こえた。
そういえば、雨が降っていたはずなのにその音が聞こえない。いつの間にかやんだのだろうか。後ろを振り返ると長谷部が立っている。大和守と同じように外に耳を澄まし、音の確認をしているようだ。
蝋燭を置いた小屋の中心を見ると他の者達も起きて既に刀を手にしている。長谷部と共に小屋の真ん中へ戻ると「どう思う?」と単刀直入に聞く。
「犬の足音とは思えないな」
「だよね。じゃあ、あれは一体なに?」
「音だけで判断できるか。外に出ないとわからないだろう」
「まぁ、待て。確かめるなら別に朝日が昇った後でもいいだろう」
こう薄暗くては本領が発揮できないし、そもそも二日三日のいざという時の準備はしたが夜戦の準備はできていないと鶴丸が言う。その言葉に長谷部も納得し再び皆で蝋燭を囲むことになった。
「ねぇ、今何時くらいかな?」
前田の腕をつついて乱がそう聞くと蝋燭の残り本数を数え、少し前田の表情が固まるが答える。
「……丑三つ時くらいでしょうか」
「嫌な時間だなぁ」
鶴丸が冗談めかして薄く笑いながら言うが、それに誰も笑わない。重い空気に耐えかねたのか鶴丸はさらに何か言おうと口を開け、床にあった鈴を蹴飛ばしてしまう。
ちりん、と鈴がなるのと同時にとんとんと音が鳴った。
扉が叩かれたのだ。
皆目を見開いて扉の方を向く。刀をすぐに抜刀できるような体制で、誰もただ口を開かずに扉を見る。
とんとん。
再度、扉を叩かれる。
「安定、いるんでしょ?」
「乱、前田、迎えにきましたよ」
聞きなれた相棒の声と一期の声が聞こえる。それに安定と乱は安堵から刀から手を放す。やはり心配になって捜索隊が組まれたのだろう。長谷部と鶴丸を見ると二人は刀から手を放していないがそれでも安堵の表情を浮かべている。
「ねぇ、扉開けてよー」
「みんな待ってますよ」
その声に今、開けるからと扉に向かって歩きだした大和守の手を前田が掴む。その表情は相変わらず険しく、首を横に振る。怪訝そうに乱が前田を見る。
どうしたらいいのかわからず、戸惑っているととんとんと再び戸が叩かれる。それと同時に床に置いてある鈴がまたちりんとなり、扉の方からいくつもの視線がこちらを向いたような気がした。
「開けてよ」
「中にいるんでしょう」
「開けて」
「どうしたんですか」
「ねぇ」
「わかってますよ」
「いるんでしょう」
「開けてください」
とんとんと何度も戸が叩かれ、その音に声が重なる。戸が叩く音は次第に二人以上の何かが叩いているような音に変わり、2人の声も崩れて違う声音へと変化していた。同時に獣の匂いが辺りに立ち込める。小屋の外からするぴちゃぴちゃと跳ねる音がして、戸を叩く音は何かどんどんっと叩きつけられる音に変わっていた。
どんっとひと際大きく叩きつけられる音がした瞬間、前田が走って扉を抑えに行く。それにはじかれたように堀川も一緒になって扉を押さえたが、どんどんと叩きつけられる何かに扉が何度も揺れる。
大和守も他の刀達も慌てて倣うように扉を押さえる。どんっと音が鳴って扉のどこかに穴が開いたようで獣臭さがさらに強くなる。
「ひぃっ!」
乱が扉に開いた穴の先を見たのか何か怯えて後ろに下がったのに舌打ちをして長谷部が刀をその隙間から突き刺す。しかし、柔らかい何かを突き刺した感触はあるが何も音がしない。二度三度、続けて刺すが、扉の先にいる何かは変わらず扉に向かって体当たりを続けていた。
「あけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけてあけて」
「あけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろあけろ」
激しくなる体当たりとは対称に無機質な抑揚で同じ言葉がずっと続けられていた。それはすでに言葉ではなくただの文字の羅列を読んでいるかのようで異質さしか感じられなかった。
「なんなの、これ……」
「乱!」
乱が両腕を抱えてしゃがみ込んだのを見て前田が名前を呼ぶ。彼が震えてるのが見えるが、扉を押さえている限り彼の傍には行けない。大丈夫だ、何とかするからと彼を励ます言葉を前田が何度も投げかけるが、乱にはそれが聞こえていないようだ。
「おいおい、さすがにやばいな」
扉がみしりと音がなり、亀裂が入ったのを見て鶴丸が驚愕する。もう押さえきれない。そう思った時に堀川が扉から手を放す。そして何を思ったのか何かを投げるように扉に空いた穴に腕を突っ込む。
ちりんと扉の外で鈴が鳴る。
その音を最後に扉を叩く音が鳴りやみ、こちらを見ていたいくつもの視線が消える。
数十秒の間誰も動かずにいたが、ずるりと扉にもたれかかりながら鶴丸が腰を下ろすと大きく息を吐く。
「はぁ……助かった」
その声にようやく皆、扉から手を離す。前田はすぐさま乱に駆け寄ると、乱は前田に抱き着いて怖かったよぉとわんわん泣き始め、長谷部は刀に何か黒い液体がついてるのに顔を顰める。
「うわぁ、なにそれ」
「わからん」
大和守は長谷部が持つ刀に近づくとその黒い液体を鼻先を近づける。どろりと粘り気を帯びた黒い液体は腐ったような酸っぱい匂いがしていた。刀の手入れのために長谷部がその場を去るその背を見届けて「なぁ、腕大丈夫か?」ぽつりと鶴丸の言葉にはっと未だに穴に腕を突っ込んだまま動かない堀川の方を見る。
堀川は隣に座る鶴丸に苦笑いしながら、そろりと腕を穴から抜き出そうとして動きが止まる。ぼそぼそと扉の向こうから声が聞こえた。その声に堀川が扉の先を覗こうとし
「見るな」
鶴丸が制止し、堀川の腕を掴む。その顔が苦痛に歪むがそのまま腕を穴から抜き出す。鶴丸の白い腕には歯型が二、三つほど痕がついて血が滲んでおり、堀川の手首には赤い手形がついていた。
「……陽が昇るまでは外に出ない方が良さそうだなぁ」
乾いた笑いを浮かべながら鶴丸は噛み跡のついた腕をそっと撫でた。
軽く二人の手当をした後、大和守達は見張りを交代しながら一夜をすごした。陽が昇るまでその後は何も起こらず、扉の隙間や空いた穴から差した陽の光に合わせて荷物を整える。
「刀は大丈夫でしたか?」
「本丸に戻ったらもう一度手入れをする」
まだ匂いが残っているような気がすると長谷部はそう前田に答えて扉を開ける。
「……なんだ、これは」
扉を開けた長谷部はそのまま立ち止まる。大和守も長谷部の背と扉の隙間から外を覗き見る。小屋の外には小さい足跡で埋め尽くされていた。恐る恐る小屋の外に出て、危険がないことを確認するがそれでもその異様さに皆息を呑む。
小屋をぐるりと囲むように大小さまざまな足跡が囲んでいる。そして小屋の壁には何かが叩きつけられた痕やひっかき傷が残っている。それは不思議なことに自分達より背の高い位置までその痕が残っていた。
「ねぇ、あれ……」
乱が恐る恐る指さす。その指先の向こうには鈴が転がっているようだった。だが、鈴が転がっている場所は黒く汚れており、その黒く汚れた場所はまるで人が倒れているような……。
「行くぞ」
思考を遮るように長谷部が告げて歩き出す。乱の手を取り、前田もその後に続く。鶴丸も堀川も一度だけ鈴の方を見てすぐにその背を追いかけた。
皆が去ったのを見て大和守もその後を追う前に一度鈴が落ちてる場所を見返す。見れば見るほど人の形に見えてくる。鈴が落ちているのはちょうど心臓があるあたりだろうか。そうなるとあの人のような形は……。
「大和守、行くぞ!」
痺れを切らしたかのような長谷部の声に我に返る。気が付くとその黒く汚れた場所に近づき、あと一歩でそれに手が触れるところだった。
今度こそ大和守は鈴に背を向けると歩き出した。振り返ることなくその場を離れて仲間たちが待つその場所へ向かうと揃って本丸へと帰還することにした。
4
本丸に着くと遠征の結果と今回あったことを審神者に報告するためにすぐに離れへと向かった。出迎えてくれた一期の声に一瞬乱と前田がびくっと肩を揺らしたが、それには気づかなかったようで鶴丸の腕の包帯を見て手入れ部屋の準備をしておくと言ってすぐに去っていった。その後は誰にも会わず、審神者が待つ広間へと来ることができた。
審神者はまず皆にご苦労様と声をかけると座るようにと告げる。
「それで、遠征の結果は?」
「すいません。遠征は失敗しました」
審神者は驚くことなく無言で大和守に話の続きを促した。大和守は森であったことを淡々と審神者に報告する。要点だけ話していれば陳腐な怪談話をしているように思えて仕方がなかったが、それでもすべてを報告し終えて証拠に鶴丸の腕の噛み跡と堀川の手首の手痕を審神者に見せる。
審神者は大和守が報告を終えた後もしばらく無言で何かを考えているようだったが、「大変だったようだね」とため息交じりにそう告げた。
「……正直言うと、私も今回の遠征を命じた時に妙な胸騒ぎがしてね。だから君にお守りを渡したんだ」
その言葉に堀川がお守りを取り出し、審神者がそれを渡すようにと告げる。
手渡されたお守りを審神者は紐解くとその中身をひっくり返す。どろりと黒い液体がお守りの中から垂れて畳に広がる様子に皆目を見張る中、審神者だけは「畳を新しく買い換えないといけないな」と呑気に言う。
「このお守りは悪い霊からも君たちを助けてくれたようだ。皆、しばらくの間はお守りを持ち歩くように。お守りが汚れたり失くしたりしたらすぐに報告する事。いいね?」
その言葉に皆無言でうなずき、審神者から手渡されるお守りを握りしめる。そして報告はこれで終わりだと解散する流れとなった。
「あ、長谷部と堀川、鶴丸はちょっと簡単なお祓いをするからここに残って。他はもう行っていいよ。加州達が遠征組には内緒で歓迎会を開くとかって厨房の方で騒いでるはずだから」
「主さん、それ言っちゃダメだったんじゃない?」
乱の言葉に審神者は笑って誤魔化し、広間を出るように促す。前田と乱と一緒に大和守は広間を出て厨房へと向かう。確かに厨房の方角から賑やかな声が聞こえてくる。
きしきしと軋む廊下を三人で無言で歩いているとぽつりと乱が呟くように言った。
「ねぇ、昨日の夜小屋の周りにいたのなんだったんだろうね」
「見えない犬じゃないの?」
「違うよ。だって扉の向こうにいたのは……」
乱の言葉と共にちりんと鈴の音が鳴ったような気がした。三人は無言で立ち止まり、顔を見合わせた。虫の音や厨房から聞こえる賑やかな声が一気に遠く感じる。
「……気のせいかな」
「そうだね」
乱の手を取り前田が、歩き始める。その背を見ながら、大和守はまだ歩けずにいた。記憶の中の堀川の手首の赤い手形、鶴丸の腕についた歯形の痕、そして先ほどの……。
四つん這いの子どもがたくさんこっちを見ていた―――
一瞬浮かべてしまったものを打ち消すかのように頭を左右に振り、前を歩く前田と乱の背を追った。
◇ ◇ ◇
三人を軽くお祓いした後、審神者は書斎へと向かう。本棚にぎっちりと詰め込まれた冊子の中から一つを取り出すとそれをぱらぱらと捲る。昔のスクラップ記事がびっしりと貼られた頁の一枚で指が止まる。
××村。飢饉による口減らしか。
見出しにそう大きく書かれたその記事には飢饉で捨てられた子どものことについて書かれている。その子供たちは野犬のように育ち、食べ物をめぐって争いを起こし、やがてお互いを食うようになったと。やがてその生き残った一人は、同じような子を襲うために人里に下りては人を食らっていたという。その姿は子どもとは言えない風貌で、飢えた獣にしか見えなかったという。
審神者はその記事を読み終わると冊子をそっと本棚に戻すと広間に戻る。
畳に垂れた黒い染みは獲物に襲い掛かるかのように構えている人の姿のように見え……。
「早く変えないとな」
そう審神者は誰もいない広間で呟いた。