堀川国広が存在する本丸の話
一番古い記憶だ。
和泉守兼定は打たれてしばらく経った後に主を紹介された。髪結いも一張羅も完璧ではあったが、主が己を気に入ってくれるか少し不安ではあった。けれどその不安は子どものように笑う主の顔を見れば一瞬で吹き飛んだ。
主はかっこよかった。鬼の副長と恐れられていたが、迷うことなく己を振るう姿は強くてかっこいい憧れであった。彼の強さが欲しかった。彼に似合うかっこいい出で立ちでいつもいたかった。そんな和泉守兼定の気持ちを汲んでくれたのは誰だったか。少し小さい背ではあったもののいつもぴしりと服装を正し、揺らぐことのない水面を映したかのような目をした人。
あれは一体誰であっただろうか。
一体何時から始まったのかわからぬ頭痛に額を押さえながら体を起こす。昔はこんなことはなかったと思いつつ、部屋にある手ぬぐいを持って、廊下に出る。珍しく早起きだったらしく、厨から朝餉を準備する煙は出ていたものの、本丸はまだ皆眠っているらしく静かだった。
蛇口をひねり、冷たい水に手を付ける。ぱしゃりと跳ねた水が衣服を汚したが気にせずに手で水を救うとそれで顔を洗う。寒い冬が過ぎてようやく温かいお湯でなくても顔を洗えるようになったのに楽になったと頭の片隅で考える。冬の間は冷たい水に顔を洗うのも億劫であったし、お湯を貰いに厨に行くのも億劫であった。加州についでにお湯を持ってきてもらう事もあったが、俺はあんたの親じゃないんですけど、と愚痴られた。それでも律儀に持ってきてくれるのには感謝をしている。
和泉守は手ぬぐいで顔を拭きながら考える。最近、痛む頭に悩まされながらも気づいたことが一つあった。
無意識的に誰かを探している。
それを自覚したとき、和泉守は強く頭痛を覚えた。それと同時に頭がいたいのはこれのせいなのだとわかった。四六時中頭が痛いのは、恐らくそれは和泉守にとって大分重要な人物であったという証拠だ。
和泉守はある時から怪訝そうな目でこちらを見てくるようになった太郎太刀にカマをかけるようにその話を打ち明けた。すると彼は驚いたように目を細めて、覚えているのですかと言った。
やはりと今まで朧気であったそれは太郎太刀の言葉によってしっかりと輪郭を持った。
和泉守兼定には相棒がいた。
太郎太刀は和泉守がしっかりと覚えていなかったことに気づくと気まずそうな顔になる。それにいいから教えろと軽い乱闘騒ぎになって叱られた記憶はまだ新しい。
あれ以来太郎太刀は徹底的に和泉守を避けている。他の刀達も和泉守を太郎太刀に会わせないようにしようとしているらしく、なかなか彼に詳しい話を聞けない状況だった。
顔はさっぱりしたが、気持ちは晴れない。ため息をついて稽古場へと向かう。こんな時は体を動かすに限る。和泉守が稽古場に着くとそこにはすでに先客がいた。その名の通り山伏姿の太刀、山伏国広だ。座禅を組み、そこだけまるで時が止まっているかのように静かにそこにいる。
「兼さん殿」
和泉守が木刀を手に取ると、山伏の朗々とした声が聞こえた。振り向くと山伏が座禅を組むのをやめて立っていた。
「稽古をするのであれば、拙僧と一ついかがであろうか?」
先ほどの静の姿とは思えぬほどのやる気に満ち溢れたその目に和泉守は断る理由もなく、頷いた。相手に不足はないと山伏に木刀の片方を投げると、互いに構える。合図はなくとも両者とも同じタイミングで足を踏み込み、そのまま一撃二撃と木刀を打ち鳴らす。
勝負がつかぬまま何度も打ち合っているととっくに皆は起き出し、朝餉を食べ終わったらしい大和守と鯰尾が稽古場に入ってきて打ち合う和泉守と山伏に目を丸くした。
「和泉守ー山伏もーさっさと朝餉食べに行かないと歌仙が起こるよー」
「だし巻き卵、美味しかったですよー」
大和守と鯰尾のその声に山伏が木刀を下ろし、和泉守は舌打ちをしながら大和守の方を振りかえった。
「良いところだったのによぉ、邪魔すんなよ」
「はいはい。文句言ってないでさっさと朝食食べに行っておいでよ。食器が片付けられないって怒ってたからね」
怒る歌仙の姿を思い浮かべると和泉守もそれ以上言えず渋々木刀を元にあった場所に戻す。入れ替わるように大和守と鯰尾が木刀を手に取ったので、今日の内番の稽古はどうやらこの二振りらしい。
山伏と共に稽古場を出るとそのまま朝餉を食べに向かう。今日は出陣はなく、遠征も一組だけ。内番のある刀は忙しそうに動いているが、それ以外の刀はゆっくりと非番を楽しんでいるようだ。
その横を通りすぎて歌仙の待つ茶の間に着くと、ドンッと荒々しく朝餉のお盆を二つ置かれる。
なにも言わずに去る歌仙の背を見ると黙って食えというオーラが出ているような気がした。冷飯を流し込むように口の中にかっ込み、白出汁の味噌汁で無理やりに喉奥へと押し込む。漬物とだし巻き卵を頬張り二、三回咀嚼して飲み込もうとすると目の前に茶が置かれた。
「もう少し落ち着いて食え」
山姥切国広だ。白い布の間から珍しく和泉守の方を見て言っている。
わりぃ、と言おうとするが口の中に食べ物が一杯だ。山姥切がくれた茶をぐいっと飲んで一息つく。
「わりぃな。茶を用意してもらって」
「別に。兄弟のついでだ」
よく見れば山伏の方にも茶が置かれている。山伏はゆっくり味わうように朝餉を食べている。そう言えば山姥切も山伏もご飯を食べる時の所作が綺麗である。勿論、和泉守だって落ち着いて食べれば歌仙のようにとは言わずとも、それなりに綺麗に食べることはできるが、今は虫の居所が悪い。昔の主の癖のように飯を早くかっ込んでは誰かに叱られたような覚えにまた頭痛が酷くなる。
「大丈夫か?」
山姥切が眉を寄せる和泉守を心配そうに言うのに手を振って大丈夫だと答える。痛みが和らぐのをじっと待っている間に山伏は朝餉を食べ終わったようでご馳走さまと手を合わせると、和泉守の分のお盆も持って厨へと食器を返してくると席を立った。
ようやく痛みが引いた頃、戻ってきた山伏に感謝を伝えようと和泉守は顔をあげた。そこで山伏が何か言いたそうな表情をしていることに気付く。言うか、言わまいか。それは和泉守が頭痛に悩まされているせいかそれとも。
「兄弟」
沈黙に一石を投じたのは意外にも山姥切であった。その声に山伏は山姥切の隣の席に座る。和泉守の真っ正面に向かって座る山姥切は普段と少し違って真剣な眼差しで和泉守を見ていた。
何を言われるのか。和泉守が無言で睨み返すようにしても山姥切はその目を逸らさなかった。
「あんたは俺の兄弟を覚えているか?」
ずっと静かだった水に小波が立ったような気がした。
◇ ◇ ◇
口下手な山姥切に代わり、事のあらましは山伏が語った。ある秋祭りに行った帰りのこと、山姥切と山伏は大切な誰かを失ったような気持ちになったという。それは日常生活を送る上で段々と薄くなっていったと。
けれど、次の年どうしてもその気持ちが忘れられず何か手掛かりがないか秋祭り兄弟揃って出かける事にしたらしい。
神社のつくのは決まって夕方頃。
山伏も山姥切も最新の注意を払って秋祭りを散策した。その次の年も、その次の次の年も秋祭りに出掛けた。
執念に近い自分達の身体を動かす何かが合ったのだと山伏は笑った。
そしてつい最近ようやくその手掛かりを見つけたのだと言って山姥切に目配せをすると、彼は赤青緑の3色の風車を机に出した。
「秋祭りに行くと必ず会う子に貰ったのだ」
大切な宝物だというようにそれを山伏は見る。
「人の成長というのは早い。特に子供となれば一年も見ておらねば別人かと見間違うほどに早い。彼も見た目は子供だ。短刀ほどではないが、打刀のような成熟した姿形ではない」
しかし彼は出会った当初から何も変わらぬ姿で毎年秋祭りで会うのだ。狐の面を深く被り、顔は見えないが会うとたまらなく愛おしさと懐かしさを感じる。
山伏のいう少年には和泉守も覚えがあった。毎度行く気はないのについ足を運んでしまう秋祭りで和泉守もその少年に毎回会っている。
一回目は水風船で。二回目は的屋で。三回目はリンゴ飴の屋台で。リンゴ飴を両手に持って気まずそうにしていた姿は確か去年だ。両手が塞がってたら危ないとその一つを手に持って歩けば、御礼にとそのリンゴ飴を貰ったのだ。外のカリッとした飴の甘さとリンゴの爽やな味わいに驚くと少年が笑ったのを覚えている。
「あれは、俺達の兄弟だ」
山姥切が行き場のない感情を露わにするように机を叩く。ことのほか大きく響いた音に厨から歌仙が顔を出したが山伏が問題ないと言うと、ちらちらとこちらの方を見ながらも厨の方へと帰っていく。
山姥切の両手は固く握られている。爪が深く手のひらに食い込むのを見て山伏がその手をゆっくりと開く。和泉守はその唐突な山姥切の声と気迫に驚いて声が出せなかった。その和泉守を山姥切は睨みつける。
「あれは間違いなく俺達の兄弟だ。名前も思い出せない。顔も思い出せない。思い出そうとするとひどく頭痛がする!そしてあんただ!あんたを見ると俺は兄弟のことを思い出す!」
なぜなんだ、教えてくれと山姥切は震える声で言う。山伏がその背を優しくなでると、山姥切は頭が痛むのか額を押さえた。
和泉守は何も言えなかった。兄弟を思い出すと言われてもそんなのは知らない。勘違いだろう。そんな言葉が一瞬脳裏に浮かんだ。しかしそれを口に出すことはできなかった。
なぜなら和泉守にもその自覚はあったのだ。
自分の相棒だ。消えてしまった、名前もわからない相棒。
それがもしこの二人の兄弟であるなら、和泉守を見る度に思い出すというのも納得がいく。
「兼さん殿」
山伏が和泉守の名前を呼ぶ。それはどうしてそのような呼び方になったのか。この本丸で兼さんと和泉守を呼ぶ者はいない。だがその呼び名に不快感を持つこともなければ、至極すんなりとそれは自分を呼ぶ名だと認識している自分がいる。
和泉守の相棒はこの二人の兄弟だ。
「待ってくれ……俺も朝からずっと頭がいてぇんだ。ちょっと収まるまでまってくれねぇか」
山伏は頷く。ふぅと長く息を吐いてじんじんと痛むそれがおさまるのを待つ。よく見ると山伏の表情もどこか険しげだ。彼も頭痛がしているのだろうか。それはそうか。山姥切が兄弟を思い出そうとすると痛いと言っていたのだから彼もそうなのだろう。
皆黙って痛みが治まるのを待つ。それは痛みは完全には消えなかったが、それでも少しマシになると和泉守は話し出した。
自分には相棒がいること。それは自分が刀として生まれて間もなかった頃からずっといた存在であったこと。ふとした瞬間にそれを探してしまうこと。
「山姥切くにひ……」
「どうした?」
「ああ、いや、なんでもねぇよ」
彼の名を呼ぼうとした時にずきりと強く頭が痛むが、その痛みは一瞬ですぐに引いた。気にすることなく、話を続ける。
「とにかく、お前らの兄弟がもしかしたら俺の相棒だったかもしんねぇ。どうやら青江や鯰尾からしてみるとどうも俺の立ち振る舞いは脇差あってのものだって前に言われたからな」
以前稽古場で脇差と打刀で組んで勝負をしたところ、脇差から和泉守と一緒だと何故だか戦いやすいと言われた覚えがある。それを不思議に思っていたが相棒が脇差であったなら当然の事だ。
「なるほど、兄弟は脇差であったか」
「確かに、あの人ごみにいても迷いなく進めるあの身のこなしからしても脇差であるのは違いないな」
山伏も山姥切も和泉守の話に頷く。輪郭を持ち始めた相棒は話をするうちに少しずつ形を成していく。秋祭りで出会った様子から、どんな時に探してしまうのかと話していくうちに、それは少々お節介焼きの優しい脇差の姿が浮かび上がってくる。間違いない。
「しっかしなんで国広の事を思い出せねぇんだろうな」
ぽつりと呟いた言葉にばっと山伏と山姥切が目を見開いて和泉守を見る。それに和泉守は今何か言ったかと自分の言葉を思い出す。言った。国広と。
「国広」
もう一度口に出す。そうだ。名前。和泉守は彼のことを国広と呼んでいた。山伏国広、山姥切国広、普段から彼らの名を山伏、山姥切と呼んでいたのは国広と呼ぶ相棒がいたからだ。
「……今度は思い出したようですね」
その言葉に振りかえると戸の傍に太郎太刀が立っていた。彼はそろそろと和泉守の傍にやってくると隣に座る。歌仙が気まずそうに厨から顔を出した。どうやら和泉守と合わないように朝餉の時間をわざわざずらしていたようだ。太郎太刀は歌仙に朝餉はいらないと告げると、和泉守にそっと一冊の帳面を渡す。
「堀川国広がいた本丸の記録です」
堀川国広、とやはり太郎太刀は覚えていたらしい。その帳面を和泉守は受け取ると、山姥切や山伏に見えるように開く。
帳面には簡単にその本丸が解体される経緯が書かれている。その本丸は少ない資材でどうにかやりくりをしていたが、とうとう政府に期待するような働きを維持できないと、解体当時に残った四振りを一時政府で預かったのち、然るべき本丸へ移動させられることが記載されていた。刀の名はすべて墨で黒く塗りつぶされているが、四振りのうち一振りが堀川国広だったのだろう。
解体する前に六振りがある呪術を使ったと言う。それは身を失った後も本丸に残る刀を守る術だったそうだ。六振りがそれを呪術だと知ってやったのかは知らない。だが確かに政府に残された記録にはとても資材の少ない中、たった四振りだけで出陣し成果をあげたとは思えない記録が少なからず残っている。
何より、堀川国広が消えた理由がそれならば頭の痛い理由がわかる。呪術の代償としてそれは身だけではなく、名前もその存在も奪われるのだという。だが忘れたくない和泉守や山姥切、山伏は頭痛という痛みによって少なからずその存在を忘れることはなかった。
名前がわからなくても。姿がわからなくても。その存在を忘れることはなかった。
「堀川国広のことを私が覚えているのはただの偶然でしょう」
どうやら堀川国広の存在を知っていた太郎太刀は頭痛も何もしないと言う。
「何でお前は国広のことを知ってたのに教えなかったんだよ」
太郎太刀の胸倉を和泉守が掴むと慌てて山伏がそれを押さえる。しかし、怒りはもっともだと太郎太刀は山伏の手を止めて和泉守を見つめ返した。
「私は堀川国広をこの本丸で何度か見かけています。ええ、彼は今なおこの本丸で皆さんの手伝いをしています。私は彼がもし望んでそうなったのであればあなた方には言うべきではないと思ったのです」
審神者も私と同じ意見だと太郎太刀が言う。和泉守はまだ怒りが収まらなかったがそれでも、太郎太刀の胸倉をつかむ手を離した。
「俺達には関係ねぇよ」
「えぇ、そうでしょう。あの刀がこの本丸にいたのはほんの少しの間でしたがとても皆と仲良く過ごしていました。しかしどこか陰があることに貴方は気づいていたようでした。けれど、何もそれを彼に訊く事はありませんでした。だから、今を甘んじて受け入れたのかと」
「受け入れてねぇよ」
受け入れるものかと和泉守は太郎太刀に言う。忘れてしまったけれども、結局忘れられず何年も痛みを抱えて過ごしていたのだ。こちとら未練たらたらで過ごしてんだよと言うとそうですかと返される。
「秋祭りのやっている神社へ、行って見てください」
乱れた胸元を直しながら太郎太刀は言う。何故とは聞かない。そこに行けば何かあるのだろう。何しろ、国広に会うのは毎回秋祭りのやっている神社だ。
「悪かったな」
山姥切、山伏を連れて部屋から出て行く時にそう謝れば「いいえ」と返される。
「私には彼を救う事ができませんから」
戸を閉めようとする時にそう呟く声が聞こえたが、聞こえなかったフリをして戸を閉めた。
◇ ◇ ◇
秋祭りがやっている時は整備されている道はそれ以外の季節では特に何もされていないらしい。伸びきった雑草に、落ち葉の溜まった石階段を一番上まで登り切る。頂上にたどり着くと少し大きなお堂があった。けれどそれは秋祭りが終わった頃から手入れされていないらしく、少々薄汚れていた。
和泉守達がそのお堂に近付くと見慣れた管狐によく似たものがお堂の戸を器用に鼻先で開けて出てきた。そして和泉守達に気が付くととことことやってくる。
「おやおや、こんな季節にお客様とは珍しい!」
山姥切と和泉守は顔を見合わせた。本丸にいる管狐はもう少し事務的で、このように感情豊かには話さない。山伏はその管狐に合わせるように地面に膝をついてしゃがむ。
「お主、堀川国広について何か知っておらぬか」
「堀川国広殿ですか」
管狐はううむと唸る。その様子はどこか懐かしむような表情をしながらもどこか苦し気であった。しかし和泉守、山伏、山姥切の三人を見て堀川国広に縁のある刀剣だと気づけば、立ち話もなんですしとお堂の中へと三人を誘った。
お堂の中は予想していた通りのぼろさで、歩けばきしきしと床が鳴ったが、管狐が少しは掃除しているのかホコリは隅に追いやられていたので歩く場所は問題なさそうだった。お堂の中の何もない一室に三人を案内すると、管狐は押し入れから座布団を引っ張り出すとどうぞと三人に言う。山伏がためらわずその座布団の上に座るのを見てから山姥切も和泉守も座る。
「堀川国広殿ですね。えぇ、私の前にいた本丸の堀川国広殿のことでしたらよく存じております」
この管狐はよく喋る狐であった。まるで鳴狐の肩に乗って彼の意思を語る狐のように雄弁であった。
「堀川国広は戦場でぽつりと立っているところを私が保護して本丸に連れて行ったのです。ええ、ええ、その頃は本丸には二十を超える刀がいました。あの頃はとても賑やかで楽しかったですなぁ。
ああ、いえ堀川国広殿の話ですね。彼は良い刀ですよ。本当に自分が堀川国広の作であるかはわからないとは言っておりましたが、その強さはまさしくあの鬼の副長の脇差!和泉守兼定殿がこの本丸にいないことに少し気落ちはしておりましたが、戦線でよく活躍しておりました!
我が本丸は資材の集まりが悪く、皆怪我を良くしておりましたが、堀川国広殿はその中でもあまり怪我を負うことなく長く戦線に立っておりましたので当然と言えば当然……おや皆さま表情が悪いですよ。どうなさいましたか?いいからと話を続けろと?ええ、わかりました。それでは話を続けますね。
資材の少なさに我が本丸では段々と不満を言う刀がいて、その刀は審神者様が刀解をしておりました。本丸に居た刀の数振りはそれに気づいていたようですが、堀川国広殿は気づいていないようでした。まぁ、彼らは一生懸命にあの本丸を守ってくれていましたから。
実はですね、ここだけの話、堀川国広が生まれたのはこの本丸なのです。……なんですか皆さんすごい怖い顔をして。話を続けろと?ええ、いいでしょう。いいでしょう。
あの審神者には大した力はなかったのです。鍛刀をしても付喪神は現れないので、だからよその本丸に行き、彷徨っている刀剣男子を我が本丸に招いたのです。一度演練に行った時は大変でした。刀達が気づいてしまったのです。自分達はここの本丸ではなく違う本丸の刀であったと。審神者は驚き、混乱しておりました。仕方がなかったのです。本丸を維持するためにはそれしか道がありませんでした。
審神者はもともと病気がちでしたが、その一件以来さらに体調を悪くして、私は短刀を攫ってきた後には一日中寝込むようになってしまいました。罪悪感をその時私は覚えました。
ええ、すべての始まりは私だったのです。こんなことになるとは思ってもみなかった。審神者が寝込んでからは悪路の一途です。本丸に良くしてくれている刀達に悪いと思えばこそ審神者は彼らの前に現れることはできませんでした。よそから攫った刀がもう限界だと言えば審神者は泣く泣くそれを刀解し、元の本丸へと誰にも気づかれぬように送り返しました。審神者は亡くなり、どうすれば良いかわからなくなった私はひたすら政府の命令を貰っては刀達に出陣命令を繰り返しました。政府に審神者がとうに死んでいることは伝えませんでした。私の役目は審神者に代わり本丸を守ることでした。結果は、皆様ご存じでしょう?」
目の前で話す管狐が件の本丸の狐なのだとすでに皆気づいていた。皆表情が硬い。怒ればいいのか、悲しめばいいのか、どうすればいいのかいろんな感情が頭の中でごちゃごちゃとしていた。
別本丸からやってきた堀川国広は実はこの本丸で顕現したものだった。
そしてそれはこの管狐のせいで本来あるべき姿を歪められてしまった。何度その話を聞いている間に管狐の口を閉じさせようと握りこぶしを作ったことか。その度に山伏から強く睨まれた。手を出すな、とそれは言っていた。だから和泉守と同じように山姥切も握り拳を作りながらもそれを必死に抑えていた。
「兄弟は……兄弟はもうどうすることもできないのか」
絞るように山姥切が言った。救えないと太郎太刀は言っていたがこの管狐の話を聞くうちにどうしても山姥切は兄弟を救いたくなったのだろう。それは和泉守も同じだ。このままでいいはずがない。こんな結果で相棒を失うなんて望んではいない。
管狐はきょとんとした顔で山姥切を見る。
「何を不思議なことをおっしゃる。堀川国広殿はまだ死んでおらぬでしょう」
その言葉にかっとなって山姥切が立ち上がる。殴りかけようとするその手を山伏が止める。
「それは、どういう意味か教えてもらえるか?」
その言葉には有無を言わせない気迫があった。怒っているのは山伏も同じだ。
「……ははぁなるほど。皆さまどうやら何か勘違いをなさっているようですな。いいでしょういいでしょう。刀がしたまじないについて私が教えましょう。あれが効果を発するのは刀達が折れた時だけです。堀川国広殿はまだ折れていない。不完全なのでしょう。だから、あなた方は覚えておられる。私がなぜ知っているかと?あの本を教えたのが私だからですよ。ええ、後悔はしております。申し訳ないとも」
管狐のその小さな体を掴む。今度は山伏は止めなかった。管狐を殴るつもりはない。ただ聞きたい事があるだけだ。
「じゃあ、国広は折れてないならどこにいる?」
「この山のどこかに埋めたのではないでしょうか」
自分の命とも言える刀を。管狐から手を離すとするりとそれは床に着地する。和泉守は何も言わず外に出た。ああ、そうだ。いつも会うのはこの神社でだ。なら、この山のどこかにあるのだろう。山伏も山姥切も和泉守が何をする気なのかわかっていたのだろう。
「ならば拙僧は北側を」
「俺は西を見る」
それに頷く。堀川国広が消えたのは三年前だ。刀がダメになってしまえば堀川国広は本当に存在が消えてしまう。けれど、まだ間に合うなら。手入れ部屋に入れられる状態であるのなら。三人はそれぞれ走り出した。
審神者には事情を話すとしばらく遠征や出陣から三人を外してくれた。彼らを心配して歌仙や加州、大和守もたまに手伝ってくれた。長曽祢も、蜂須賀や乱や前田など手が空いた刀達は何も言わずに手伝ってくれた。
彼らは探し続けた。堀川国広の刀を。
和泉守が髪の毛をあちらこちらに引っ掛けながら落ち葉を踏み荒らす。手入れのされてない山を探すのは途方もない事に思えた。何しろ埋められたのは三年前なのだ。その痕跡が残っているはずはない。ただただ直感で探す。
泥まみれになって朝から晩まで山を駆けずり回った。心配した歌仙に腕を引かれて無理やり本丸に戻らされる日々が続いた。夜の山は危ないからと監視付きで見張られて、朝日が昇るとすぐに山へ向かった。
そんな日々が一か月ほど続いた。季節は春になっていた。梅の花が咲いている。和泉守は泥で汚れているにも関わらずその手で顔を覆った。どこを探しても見つからない。けれど諦めるつもりはなかった。ここにいるのだから。
「置いていくなって言っただろ……」
そう小さく呟いた時、かさりと後ろで音がした。後ろを振り向くと秋祭りでいつも会う少年がそこに立っていた。
彼が堀川国広だということはもうすでに知っている。
「国広」
「思い出しちゃったんだね」
そう言って彼は狐面を取る。困ったような表情に浅黄色の目が和泉守を映す。国広と名前をもう一度呼んだ。彼は逃げることなくそこに立っている。
「ごめんね兼さん」
おいていくつもりはなかったと言う。こんな思いをさせるはずではなかったというのに和泉守は馬鹿野郎と怒鳴る。静かな山にその声は大きく響いたようでびくりと堀川は肩を揺らした。
「勝手にいなくなるなよ……」
その肩に手を置こうとして、通り抜けるのに泣きそうになる和泉守に堀川はまた謝った。
「でも、兼さんの周りにはたくさん兼さんを支えてくれる人がいるから」
「でもお前の代わりはいねぇ」
「昔は土方さんの愛刀として本差脇差としていたけれど、でも今の本丸ではそんなことは関係ないでしょ?」
相棒であったのは昔の話だから忘れろという。それを忘れるわけないだろと首を横に振る。たとえ今の審神者の元では揃いの二刀として活躍できなくとも、和泉守の相棒はたった一人堀川国広だけであった。
それを震える声で伝える。堀川は何も言わない。和泉守はそのまま彼の立つその場に崩れるようにして座る。そして、彼の立つその足元の地面に目をやる。そこだけ雑草が何も生えていない。他は草木が生い茂っているのに。
和泉守は爪が割れるのも気にせずそこを手で掘り返す。
「兼さん」
堀川が和泉守を制止するように言う。けれど、止めなかった。手から血が出るのも変わらずに地を掘り続けると固い何かが手に当たる。土の色の中に見慣れた赤が目に入る。
山姥切と山伏が和泉守の名前を呼ぶのが聞こえる。和泉守はそれに応えようとしたが、声が詰まって出て来なかった。
堀川国広は無事に土から掘り起こすことができた。無茶をして掘り返した和泉守はその手を軽く消毒していつかの日のように手入れ部屋の前に陣取って座っていた。その隣には山伏も山姥切もいる。
審神者は土から掘り起こされた刀を見て錆びれているが、これならばまだ間に合うだろうと言った。かくして手入れ部屋に堀川国広の刀が入れられてからというものその三振りは彼が出てくるのを待った。一晩中手入れ部屋の前で待つ三振りに他の刀は何も言わなかった。
堀川国広の存在は元通りになったようで加州、大和守など馴染の刀もそうでない刀も彼が起きるのを待って手入れ部屋をちらちらと気にしていた。そして丸一日が経った頃、ようやく手入れ部屋が開く。
中から人が出てくることはない。しかし手入れ部屋が開いたということはそれが終わったということだ。和泉守はそうっとその戸を引いて中に入る。手入れ部屋の真ん中で、堀川国広が小さな寝息をたてて眠っている。その額に手を乗せる。今度は透けずにちゃんと手が乗っかる。
「帰ってきたなぁ国広」
◇ ◇ ◇
戻ってきた堀川国広は五振りの刀のことを忘れていた。和泉守が昔いた本丸について聞けば概ねあの管狐が言っていた通り、攫われていたことも、刀解していたことも審神者がとっくに病死していたことも知らない様子であった。
知らぬならその方が良いとあの時の話を聞いた山姥切も山伏も和泉守の言葉に頷いた。ただでさえ辛い思いをしてきているのだ。これ以上の業を背負う必要はあるまい。
消えてしまった記憶を思い出さないように和泉守も山姥切も山伏は注意を払いつつも、ゆっくりとそれぞれの本来あるべき相棒と兄弟の姿へとその形は収まっていた。
今日は堀川と乱がまた審神者のレシピ本を手に洋菓子を作っている。歌仙もそれを手伝い、加州や清光も厨で手を出さないものの色々と口を出している。
その賑やかな声を聞きながら山伏も山姥切も楽しそうにそれが出来上がるのを待つ。洋菓子独特の匂いを漂わせ、彼がやってくるのを。
「お待たせ、兼さん、兄弟」
和泉守兼定は打たれてしばらく経った後に主を紹介された。髪結いも一張羅も完璧ではあったが、主が己を気に入ってくれるか少し不安ではあった。けれどその不安は子どものように笑う主の顔を見れば一瞬で吹き飛んだ。
主はかっこよかった。鬼の副長と恐れられていたが、迷うことなく己を振るう姿は強くてかっこいい憧れであった。彼の強さが欲しかった。彼に似合うかっこいい出で立ちでいつもいたかった。そんな和泉守兼定の気持ちを汲んでくれたのは誰だったか。少し小さい背ではあったもののいつもぴしりと服装を正し、揺らぐことのない水面を映したかのような目をした人。
あれは一体誰であっただろうか。
一体何時から始まったのかわからぬ頭痛に額を押さえながら体を起こす。昔はこんなことはなかったと思いつつ、部屋にある手ぬぐいを持って、廊下に出る。珍しく早起きだったらしく、厨から朝餉を準備する煙は出ていたものの、本丸はまだ皆眠っているらしく静かだった。
蛇口をひねり、冷たい水に手を付ける。ぱしゃりと跳ねた水が衣服を汚したが気にせずに手で水を救うとそれで顔を洗う。寒い冬が過ぎてようやく温かいお湯でなくても顔を洗えるようになったのに楽になったと頭の片隅で考える。冬の間は冷たい水に顔を洗うのも億劫であったし、お湯を貰いに厨に行くのも億劫であった。加州についでにお湯を持ってきてもらう事もあったが、俺はあんたの親じゃないんですけど、と愚痴られた。それでも律儀に持ってきてくれるのには感謝をしている。
和泉守は手ぬぐいで顔を拭きながら考える。最近、痛む頭に悩まされながらも気づいたことが一つあった。
無意識的に誰かを探している。
それを自覚したとき、和泉守は強く頭痛を覚えた。それと同時に頭がいたいのはこれのせいなのだとわかった。四六時中頭が痛いのは、恐らくそれは和泉守にとって大分重要な人物であったという証拠だ。
和泉守はある時から怪訝そうな目でこちらを見てくるようになった太郎太刀にカマをかけるようにその話を打ち明けた。すると彼は驚いたように目を細めて、覚えているのですかと言った。
やはりと今まで朧気であったそれは太郎太刀の言葉によってしっかりと輪郭を持った。
和泉守兼定には相棒がいた。
太郎太刀は和泉守がしっかりと覚えていなかったことに気づくと気まずそうな顔になる。それにいいから教えろと軽い乱闘騒ぎになって叱られた記憶はまだ新しい。
あれ以来太郎太刀は徹底的に和泉守を避けている。他の刀達も和泉守を太郎太刀に会わせないようにしようとしているらしく、なかなか彼に詳しい話を聞けない状況だった。
顔はさっぱりしたが、気持ちは晴れない。ため息をついて稽古場へと向かう。こんな時は体を動かすに限る。和泉守が稽古場に着くとそこにはすでに先客がいた。その名の通り山伏姿の太刀、山伏国広だ。座禅を組み、そこだけまるで時が止まっているかのように静かにそこにいる。
「兼さん殿」
和泉守が木刀を手に取ると、山伏の朗々とした声が聞こえた。振り向くと山伏が座禅を組むのをやめて立っていた。
「稽古をするのであれば、拙僧と一ついかがであろうか?」
先ほどの静の姿とは思えぬほどのやる気に満ち溢れたその目に和泉守は断る理由もなく、頷いた。相手に不足はないと山伏に木刀の片方を投げると、互いに構える。合図はなくとも両者とも同じタイミングで足を踏み込み、そのまま一撃二撃と木刀を打ち鳴らす。
勝負がつかぬまま何度も打ち合っているととっくに皆は起き出し、朝餉を食べ終わったらしい大和守と鯰尾が稽古場に入ってきて打ち合う和泉守と山伏に目を丸くした。
「和泉守ー山伏もーさっさと朝餉食べに行かないと歌仙が起こるよー」
「だし巻き卵、美味しかったですよー」
大和守と鯰尾のその声に山伏が木刀を下ろし、和泉守は舌打ちをしながら大和守の方を振りかえった。
「良いところだったのによぉ、邪魔すんなよ」
「はいはい。文句言ってないでさっさと朝食食べに行っておいでよ。食器が片付けられないって怒ってたからね」
怒る歌仙の姿を思い浮かべると和泉守もそれ以上言えず渋々木刀を元にあった場所に戻す。入れ替わるように大和守と鯰尾が木刀を手に取ったので、今日の内番の稽古はどうやらこの二振りらしい。
山伏と共に稽古場を出るとそのまま朝餉を食べに向かう。今日は出陣はなく、遠征も一組だけ。内番のある刀は忙しそうに動いているが、それ以外の刀はゆっくりと非番を楽しんでいるようだ。
その横を通りすぎて歌仙の待つ茶の間に着くと、ドンッと荒々しく朝餉のお盆を二つ置かれる。
なにも言わずに去る歌仙の背を見ると黙って食えというオーラが出ているような気がした。冷飯を流し込むように口の中にかっ込み、白出汁の味噌汁で無理やりに喉奥へと押し込む。漬物とだし巻き卵を頬張り二、三回咀嚼して飲み込もうとすると目の前に茶が置かれた。
「もう少し落ち着いて食え」
山姥切国広だ。白い布の間から珍しく和泉守の方を見て言っている。
わりぃ、と言おうとするが口の中に食べ物が一杯だ。山姥切がくれた茶をぐいっと飲んで一息つく。
「わりぃな。茶を用意してもらって」
「別に。兄弟のついでだ」
よく見れば山伏の方にも茶が置かれている。山伏はゆっくり味わうように朝餉を食べている。そう言えば山姥切も山伏もご飯を食べる時の所作が綺麗である。勿論、和泉守だって落ち着いて食べれば歌仙のようにとは言わずとも、それなりに綺麗に食べることはできるが、今は虫の居所が悪い。昔の主の癖のように飯を早くかっ込んでは誰かに叱られたような覚えにまた頭痛が酷くなる。
「大丈夫か?」
山姥切が眉を寄せる和泉守を心配そうに言うのに手を振って大丈夫だと答える。痛みが和らぐのをじっと待っている間に山伏は朝餉を食べ終わったようでご馳走さまと手を合わせると、和泉守の分のお盆も持って厨へと食器を返してくると席を立った。
ようやく痛みが引いた頃、戻ってきた山伏に感謝を伝えようと和泉守は顔をあげた。そこで山伏が何か言いたそうな表情をしていることに気付く。言うか、言わまいか。それは和泉守が頭痛に悩まされているせいかそれとも。
「兄弟」
沈黙に一石を投じたのは意外にも山姥切であった。その声に山伏は山姥切の隣の席に座る。和泉守の真っ正面に向かって座る山姥切は普段と少し違って真剣な眼差しで和泉守を見ていた。
何を言われるのか。和泉守が無言で睨み返すようにしても山姥切はその目を逸らさなかった。
「あんたは俺の兄弟を覚えているか?」
ずっと静かだった水に小波が立ったような気がした。
◇ ◇ ◇
口下手な山姥切に代わり、事のあらましは山伏が語った。ある秋祭りに行った帰りのこと、山姥切と山伏は大切な誰かを失ったような気持ちになったという。それは日常生活を送る上で段々と薄くなっていったと。
けれど、次の年どうしてもその気持ちが忘れられず何か手掛かりがないか秋祭り兄弟揃って出かける事にしたらしい。
神社のつくのは決まって夕方頃。
山伏も山姥切も最新の注意を払って秋祭りを散策した。その次の年も、その次の次の年も秋祭りに出掛けた。
執念に近い自分達の身体を動かす何かが合ったのだと山伏は笑った。
そしてつい最近ようやくその手掛かりを見つけたのだと言って山姥切に目配せをすると、彼は赤青緑の3色の風車を机に出した。
「秋祭りに行くと必ず会う子に貰ったのだ」
大切な宝物だというようにそれを山伏は見る。
「人の成長というのは早い。特に子供となれば一年も見ておらねば別人かと見間違うほどに早い。彼も見た目は子供だ。短刀ほどではないが、打刀のような成熟した姿形ではない」
しかし彼は出会った当初から何も変わらぬ姿で毎年秋祭りで会うのだ。狐の面を深く被り、顔は見えないが会うとたまらなく愛おしさと懐かしさを感じる。
山伏のいう少年には和泉守も覚えがあった。毎度行く気はないのについ足を運んでしまう秋祭りで和泉守もその少年に毎回会っている。
一回目は水風船で。二回目は的屋で。三回目はリンゴ飴の屋台で。リンゴ飴を両手に持って気まずそうにしていた姿は確か去年だ。両手が塞がってたら危ないとその一つを手に持って歩けば、御礼にとそのリンゴ飴を貰ったのだ。外のカリッとした飴の甘さとリンゴの爽やな味わいに驚くと少年が笑ったのを覚えている。
「あれは、俺達の兄弟だ」
山姥切が行き場のない感情を露わにするように机を叩く。ことのほか大きく響いた音に厨から歌仙が顔を出したが山伏が問題ないと言うと、ちらちらとこちらの方を見ながらも厨の方へと帰っていく。
山姥切の両手は固く握られている。爪が深く手のひらに食い込むのを見て山伏がその手をゆっくりと開く。和泉守はその唐突な山姥切の声と気迫に驚いて声が出せなかった。その和泉守を山姥切は睨みつける。
「あれは間違いなく俺達の兄弟だ。名前も思い出せない。顔も思い出せない。思い出そうとするとひどく頭痛がする!そしてあんただ!あんたを見ると俺は兄弟のことを思い出す!」
なぜなんだ、教えてくれと山姥切は震える声で言う。山伏がその背を優しくなでると、山姥切は頭が痛むのか額を押さえた。
和泉守は何も言えなかった。兄弟を思い出すと言われてもそんなのは知らない。勘違いだろう。そんな言葉が一瞬脳裏に浮かんだ。しかしそれを口に出すことはできなかった。
なぜなら和泉守にもその自覚はあったのだ。
自分の相棒だ。消えてしまった、名前もわからない相棒。
それがもしこの二人の兄弟であるなら、和泉守を見る度に思い出すというのも納得がいく。
「兼さん殿」
山伏が和泉守の名前を呼ぶ。それはどうしてそのような呼び方になったのか。この本丸で兼さんと和泉守を呼ぶ者はいない。だがその呼び名に不快感を持つこともなければ、至極すんなりとそれは自分を呼ぶ名だと認識している自分がいる。
和泉守の相棒はこの二人の兄弟だ。
「待ってくれ……俺も朝からずっと頭がいてぇんだ。ちょっと収まるまでまってくれねぇか」
山伏は頷く。ふぅと長く息を吐いてじんじんと痛むそれがおさまるのを待つ。よく見ると山伏の表情もどこか険しげだ。彼も頭痛がしているのだろうか。それはそうか。山姥切が兄弟を思い出そうとすると痛いと言っていたのだから彼もそうなのだろう。
皆黙って痛みが治まるのを待つ。それは痛みは完全には消えなかったが、それでも少しマシになると和泉守は話し出した。
自分には相棒がいること。それは自分が刀として生まれて間もなかった頃からずっといた存在であったこと。ふとした瞬間にそれを探してしまうこと。
「山姥切くにひ……」
「どうした?」
「ああ、いや、なんでもねぇよ」
彼の名を呼ぼうとした時にずきりと強く頭が痛むが、その痛みは一瞬ですぐに引いた。気にすることなく、話を続ける。
「とにかく、お前らの兄弟がもしかしたら俺の相棒だったかもしんねぇ。どうやら青江や鯰尾からしてみるとどうも俺の立ち振る舞いは脇差あってのものだって前に言われたからな」
以前稽古場で脇差と打刀で組んで勝負をしたところ、脇差から和泉守と一緒だと何故だか戦いやすいと言われた覚えがある。それを不思議に思っていたが相棒が脇差であったなら当然の事だ。
「なるほど、兄弟は脇差であったか」
「確かに、あの人ごみにいても迷いなく進めるあの身のこなしからしても脇差であるのは違いないな」
山伏も山姥切も和泉守の話に頷く。輪郭を持ち始めた相棒は話をするうちに少しずつ形を成していく。秋祭りで出会った様子から、どんな時に探してしまうのかと話していくうちに、それは少々お節介焼きの優しい脇差の姿が浮かび上がってくる。間違いない。
「しっかしなんで国広の事を思い出せねぇんだろうな」
ぽつりと呟いた言葉にばっと山伏と山姥切が目を見開いて和泉守を見る。それに和泉守は今何か言ったかと自分の言葉を思い出す。言った。国広と。
「国広」
もう一度口に出す。そうだ。名前。和泉守は彼のことを国広と呼んでいた。山伏国広、山姥切国広、普段から彼らの名を山伏、山姥切と呼んでいたのは国広と呼ぶ相棒がいたからだ。
「……今度は思い出したようですね」
その言葉に振りかえると戸の傍に太郎太刀が立っていた。彼はそろそろと和泉守の傍にやってくると隣に座る。歌仙が気まずそうに厨から顔を出した。どうやら和泉守と合わないように朝餉の時間をわざわざずらしていたようだ。太郎太刀は歌仙に朝餉はいらないと告げると、和泉守にそっと一冊の帳面を渡す。
「堀川国広がいた本丸の記録です」
堀川国広、とやはり太郎太刀は覚えていたらしい。その帳面を和泉守は受け取ると、山姥切や山伏に見えるように開く。
帳面には簡単にその本丸が解体される経緯が書かれている。その本丸は少ない資材でどうにかやりくりをしていたが、とうとう政府に期待するような働きを維持できないと、解体当時に残った四振りを一時政府で預かったのち、然るべき本丸へ移動させられることが記載されていた。刀の名はすべて墨で黒く塗りつぶされているが、四振りのうち一振りが堀川国広だったのだろう。
解体する前に六振りがある呪術を使ったと言う。それは身を失った後も本丸に残る刀を守る術だったそうだ。六振りがそれを呪術だと知ってやったのかは知らない。だが確かに政府に残された記録にはとても資材の少ない中、たった四振りだけで出陣し成果をあげたとは思えない記録が少なからず残っている。
何より、堀川国広が消えた理由がそれならば頭の痛い理由がわかる。呪術の代償としてそれは身だけではなく、名前もその存在も奪われるのだという。だが忘れたくない和泉守や山姥切、山伏は頭痛という痛みによって少なからずその存在を忘れることはなかった。
名前がわからなくても。姿がわからなくても。その存在を忘れることはなかった。
「堀川国広のことを私が覚えているのはただの偶然でしょう」
どうやら堀川国広の存在を知っていた太郎太刀は頭痛も何もしないと言う。
「何でお前は国広のことを知ってたのに教えなかったんだよ」
太郎太刀の胸倉を和泉守が掴むと慌てて山伏がそれを押さえる。しかし、怒りはもっともだと太郎太刀は山伏の手を止めて和泉守を見つめ返した。
「私は堀川国広をこの本丸で何度か見かけています。ええ、彼は今なおこの本丸で皆さんの手伝いをしています。私は彼がもし望んでそうなったのであればあなた方には言うべきではないと思ったのです」
審神者も私と同じ意見だと太郎太刀が言う。和泉守はまだ怒りが収まらなかったがそれでも、太郎太刀の胸倉をつかむ手を離した。
「俺達には関係ねぇよ」
「えぇ、そうでしょう。あの刀がこの本丸にいたのはほんの少しの間でしたがとても皆と仲良く過ごしていました。しかしどこか陰があることに貴方は気づいていたようでした。けれど、何もそれを彼に訊く事はありませんでした。だから、今を甘んじて受け入れたのかと」
「受け入れてねぇよ」
受け入れるものかと和泉守は太郎太刀に言う。忘れてしまったけれども、結局忘れられず何年も痛みを抱えて過ごしていたのだ。こちとら未練たらたらで過ごしてんだよと言うとそうですかと返される。
「秋祭りのやっている神社へ、行って見てください」
乱れた胸元を直しながら太郎太刀は言う。何故とは聞かない。そこに行けば何かあるのだろう。何しろ、国広に会うのは毎回秋祭りのやっている神社だ。
「悪かったな」
山姥切、山伏を連れて部屋から出て行く時にそう謝れば「いいえ」と返される。
「私には彼を救う事ができませんから」
戸を閉めようとする時にそう呟く声が聞こえたが、聞こえなかったフリをして戸を閉めた。
◇ ◇ ◇
秋祭りがやっている時は整備されている道はそれ以外の季節では特に何もされていないらしい。伸びきった雑草に、落ち葉の溜まった石階段を一番上まで登り切る。頂上にたどり着くと少し大きなお堂があった。けれどそれは秋祭りが終わった頃から手入れされていないらしく、少々薄汚れていた。
和泉守達がそのお堂に近付くと見慣れた管狐によく似たものがお堂の戸を器用に鼻先で開けて出てきた。そして和泉守達に気が付くととことことやってくる。
「おやおや、こんな季節にお客様とは珍しい!」
山姥切と和泉守は顔を見合わせた。本丸にいる管狐はもう少し事務的で、このように感情豊かには話さない。山伏はその管狐に合わせるように地面に膝をついてしゃがむ。
「お主、堀川国広について何か知っておらぬか」
「堀川国広殿ですか」
管狐はううむと唸る。その様子はどこか懐かしむような表情をしながらもどこか苦し気であった。しかし和泉守、山伏、山姥切の三人を見て堀川国広に縁のある刀剣だと気づけば、立ち話もなんですしとお堂の中へと三人を誘った。
お堂の中は予想していた通りのぼろさで、歩けばきしきしと床が鳴ったが、管狐が少しは掃除しているのかホコリは隅に追いやられていたので歩く場所は問題なさそうだった。お堂の中の何もない一室に三人を案内すると、管狐は押し入れから座布団を引っ張り出すとどうぞと三人に言う。山伏がためらわずその座布団の上に座るのを見てから山姥切も和泉守も座る。
「堀川国広殿ですね。えぇ、私の前にいた本丸の堀川国広殿のことでしたらよく存じております」
この管狐はよく喋る狐であった。まるで鳴狐の肩に乗って彼の意思を語る狐のように雄弁であった。
「堀川国広は戦場でぽつりと立っているところを私が保護して本丸に連れて行ったのです。ええ、ええ、その頃は本丸には二十を超える刀がいました。あの頃はとても賑やかで楽しかったですなぁ。
ああ、いえ堀川国広殿の話ですね。彼は良い刀ですよ。本当に自分が堀川国広の作であるかはわからないとは言っておりましたが、その強さはまさしくあの鬼の副長の脇差!和泉守兼定殿がこの本丸にいないことに少し気落ちはしておりましたが、戦線でよく活躍しておりました!
我が本丸は資材の集まりが悪く、皆怪我を良くしておりましたが、堀川国広殿はその中でもあまり怪我を負うことなく長く戦線に立っておりましたので当然と言えば当然……おや皆さま表情が悪いですよ。どうなさいましたか?いいからと話を続けろと?ええ、わかりました。それでは話を続けますね。
資材の少なさに我が本丸では段々と不満を言う刀がいて、その刀は審神者様が刀解をしておりました。本丸に居た刀の数振りはそれに気づいていたようですが、堀川国広殿は気づいていないようでした。まぁ、彼らは一生懸命にあの本丸を守ってくれていましたから。
実はですね、ここだけの話、堀川国広が生まれたのはこの本丸なのです。……なんですか皆さんすごい怖い顔をして。話を続けろと?ええ、いいでしょう。いいでしょう。
あの審神者には大した力はなかったのです。鍛刀をしても付喪神は現れないので、だからよその本丸に行き、彷徨っている刀剣男子を我が本丸に招いたのです。一度演練に行った時は大変でした。刀達が気づいてしまったのです。自分達はここの本丸ではなく違う本丸の刀であったと。審神者は驚き、混乱しておりました。仕方がなかったのです。本丸を維持するためにはそれしか道がありませんでした。
審神者はもともと病気がちでしたが、その一件以来さらに体調を悪くして、私は短刀を攫ってきた後には一日中寝込むようになってしまいました。罪悪感をその時私は覚えました。
ええ、すべての始まりは私だったのです。こんなことになるとは思ってもみなかった。審神者が寝込んでからは悪路の一途です。本丸に良くしてくれている刀達に悪いと思えばこそ審神者は彼らの前に現れることはできませんでした。よそから攫った刀がもう限界だと言えば審神者は泣く泣くそれを刀解し、元の本丸へと誰にも気づかれぬように送り返しました。審神者は亡くなり、どうすれば良いかわからなくなった私はひたすら政府の命令を貰っては刀達に出陣命令を繰り返しました。政府に審神者がとうに死んでいることは伝えませんでした。私の役目は審神者に代わり本丸を守ることでした。結果は、皆様ご存じでしょう?」
目の前で話す管狐が件の本丸の狐なのだとすでに皆気づいていた。皆表情が硬い。怒ればいいのか、悲しめばいいのか、どうすればいいのかいろんな感情が頭の中でごちゃごちゃとしていた。
別本丸からやってきた堀川国広は実はこの本丸で顕現したものだった。
そしてそれはこの管狐のせいで本来あるべき姿を歪められてしまった。何度その話を聞いている間に管狐の口を閉じさせようと握りこぶしを作ったことか。その度に山伏から強く睨まれた。手を出すな、とそれは言っていた。だから和泉守と同じように山姥切も握り拳を作りながらもそれを必死に抑えていた。
「兄弟は……兄弟はもうどうすることもできないのか」
絞るように山姥切が言った。救えないと太郎太刀は言っていたがこの管狐の話を聞くうちにどうしても山姥切は兄弟を救いたくなったのだろう。それは和泉守も同じだ。このままでいいはずがない。こんな結果で相棒を失うなんて望んではいない。
管狐はきょとんとした顔で山姥切を見る。
「何を不思議なことをおっしゃる。堀川国広殿はまだ死んでおらぬでしょう」
その言葉にかっとなって山姥切が立ち上がる。殴りかけようとするその手を山伏が止める。
「それは、どういう意味か教えてもらえるか?」
その言葉には有無を言わせない気迫があった。怒っているのは山伏も同じだ。
「……ははぁなるほど。皆さまどうやら何か勘違いをなさっているようですな。いいでしょういいでしょう。刀がしたまじないについて私が教えましょう。あれが効果を発するのは刀達が折れた時だけです。堀川国広殿はまだ折れていない。不完全なのでしょう。だから、あなた方は覚えておられる。私がなぜ知っているかと?あの本を教えたのが私だからですよ。ええ、後悔はしております。申し訳ないとも」
管狐のその小さな体を掴む。今度は山伏は止めなかった。管狐を殴るつもりはない。ただ聞きたい事があるだけだ。
「じゃあ、国広は折れてないならどこにいる?」
「この山のどこかに埋めたのではないでしょうか」
自分の命とも言える刀を。管狐から手を離すとするりとそれは床に着地する。和泉守は何も言わず外に出た。ああ、そうだ。いつも会うのはこの神社でだ。なら、この山のどこかにあるのだろう。山伏も山姥切も和泉守が何をする気なのかわかっていたのだろう。
「ならば拙僧は北側を」
「俺は西を見る」
それに頷く。堀川国広が消えたのは三年前だ。刀がダメになってしまえば堀川国広は本当に存在が消えてしまう。けれど、まだ間に合うなら。手入れ部屋に入れられる状態であるのなら。三人はそれぞれ走り出した。
審神者には事情を話すとしばらく遠征や出陣から三人を外してくれた。彼らを心配して歌仙や加州、大和守もたまに手伝ってくれた。長曽祢も、蜂須賀や乱や前田など手が空いた刀達は何も言わずに手伝ってくれた。
彼らは探し続けた。堀川国広の刀を。
和泉守が髪の毛をあちらこちらに引っ掛けながら落ち葉を踏み荒らす。手入れのされてない山を探すのは途方もない事に思えた。何しろ埋められたのは三年前なのだ。その痕跡が残っているはずはない。ただただ直感で探す。
泥まみれになって朝から晩まで山を駆けずり回った。心配した歌仙に腕を引かれて無理やり本丸に戻らされる日々が続いた。夜の山は危ないからと監視付きで見張られて、朝日が昇るとすぐに山へ向かった。
そんな日々が一か月ほど続いた。季節は春になっていた。梅の花が咲いている。和泉守は泥で汚れているにも関わらずその手で顔を覆った。どこを探しても見つからない。けれど諦めるつもりはなかった。ここにいるのだから。
「置いていくなって言っただろ……」
そう小さく呟いた時、かさりと後ろで音がした。後ろを振り向くと秋祭りでいつも会う少年がそこに立っていた。
彼が堀川国広だということはもうすでに知っている。
「国広」
「思い出しちゃったんだね」
そう言って彼は狐面を取る。困ったような表情に浅黄色の目が和泉守を映す。国広と名前をもう一度呼んだ。彼は逃げることなくそこに立っている。
「ごめんね兼さん」
おいていくつもりはなかったと言う。こんな思いをさせるはずではなかったというのに和泉守は馬鹿野郎と怒鳴る。静かな山にその声は大きく響いたようでびくりと堀川は肩を揺らした。
「勝手にいなくなるなよ……」
その肩に手を置こうとして、通り抜けるのに泣きそうになる和泉守に堀川はまた謝った。
「でも、兼さんの周りにはたくさん兼さんを支えてくれる人がいるから」
「でもお前の代わりはいねぇ」
「昔は土方さんの愛刀として本差脇差としていたけれど、でも今の本丸ではそんなことは関係ないでしょ?」
相棒であったのは昔の話だから忘れろという。それを忘れるわけないだろと首を横に振る。たとえ今の審神者の元では揃いの二刀として活躍できなくとも、和泉守の相棒はたった一人堀川国広だけであった。
それを震える声で伝える。堀川は何も言わない。和泉守はそのまま彼の立つその場に崩れるようにして座る。そして、彼の立つその足元の地面に目をやる。そこだけ雑草が何も生えていない。他は草木が生い茂っているのに。
和泉守は爪が割れるのも気にせずそこを手で掘り返す。
「兼さん」
堀川が和泉守を制止するように言う。けれど、止めなかった。手から血が出るのも変わらずに地を掘り続けると固い何かが手に当たる。土の色の中に見慣れた赤が目に入る。
山姥切と山伏が和泉守の名前を呼ぶのが聞こえる。和泉守はそれに応えようとしたが、声が詰まって出て来なかった。
堀川国広は無事に土から掘り起こすことができた。無茶をして掘り返した和泉守はその手を軽く消毒していつかの日のように手入れ部屋の前に陣取って座っていた。その隣には山伏も山姥切もいる。
審神者は土から掘り起こされた刀を見て錆びれているが、これならばまだ間に合うだろうと言った。かくして手入れ部屋に堀川国広の刀が入れられてからというものその三振りは彼が出てくるのを待った。一晩中手入れ部屋の前で待つ三振りに他の刀は何も言わなかった。
堀川国広の存在は元通りになったようで加州、大和守など馴染の刀もそうでない刀も彼が起きるのを待って手入れ部屋をちらちらと気にしていた。そして丸一日が経った頃、ようやく手入れ部屋が開く。
中から人が出てくることはない。しかし手入れ部屋が開いたということはそれが終わったということだ。和泉守はそうっとその戸を引いて中に入る。手入れ部屋の真ん中で、堀川国広が小さな寝息をたてて眠っている。その額に手を乗せる。今度は透けずにちゃんと手が乗っかる。
「帰ってきたなぁ国広」
◇ ◇ ◇
戻ってきた堀川国広は五振りの刀のことを忘れていた。和泉守が昔いた本丸について聞けば概ねあの管狐が言っていた通り、攫われていたことも、刀解していたことも審神者がとっくに病死していたことも知らない様子であった。
知らぬならその方が良いとあの時の話を聞いた山姥切も山伏も和泉守の言葉に頷いた。ただでさえ辛い思いをしてきているのだ。これ以上の業を背負う必要はあるまい。
消えてしまった記憶を思い出さないように和泉守も山姥切も山伏は注意を払いつつも、ゆっくりとそれぞれの本来あるべき相棒と兄弟の姿へとその形は収まっていた。
今日は堀川と乱がまた審神者のレシピ本を手に洋菓子を作っている。歌仙もそれを手伝い、加州や清光も厨で手を出さないものの色々と口を出している。
その賑やかな声を聞きながら山伏も山姥切も楽しそうにそれが出来上がるのを待つ。洋菓子独特の匂いを漂わせ、彼がやってくるのを。
「お待たせ、兼さん、兄弟」
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